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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

一人目。クルハス・ヤミ(仮名)さんのおはなし その3

クルハス・ヤミさんのお話の続きです。
その1はコチラ、その2はコチラでございます。



クルハスの異常な友情

それからというもの、ライメイ(仮名)と私が大学内で一緒にいるとき、突然クルハスが現れて話しかけてくることが増えました。
「ライメイ!」
クルハスは私の方には見向きもせず、いつもにこにこしながらライメイに向かって話しかけます。
「いつもありがとうねライメイ。すごく助かってる。じゃあ今夜も電話するから。絶対だよ、絶対待ってて!」


クルハスから私に電話がかかってくることは、おかげで急速に減っていました。
珍しく久しぶりにかかってきたときは
「もしもしシロイ。ねーやっぱりライメイっていい子だね! シロイの言った通りだったわありがとう。私が悪かったね、ごめんね。ああそう、今夜もこれからライメイに電話なの、だからもう切るね。じゃあねーおやすみー」
と早口でまくし立ててあっという間に切れてしまい、とってもありがたくも助かるかんじなのでした。


(うーん、とはいえこれ、私の負担がまるっとライメイにスライドしたかんじなのかしらもしかして。だとしたら悪いなあ)
私はそう考え、ライメイに尋ねました。
「ライメイ、最近毎晩クルハスから電話来てたりする? 大丈夫、大変だったりしない?」
あのときライメイが浮かべた表情の奇妙さといったら。
「え、電話? ……ああ、うーん、別に。毎晩てわけじゃないし」
目を泳がせながら、歯切れの悪い口調でそう言うライメイ。
「それならいいけどね。ほら、クルハスの電話わりと長かったりしない?」
「長い? 電話が? そう……かな。そうでもないよ。それよりさ」
ライメイは明らかにクルハスの話題を嫌がっており、そうなると私もそれ以上食い下がることはできませんでした。


冬がやってきました。
その日は、ライメイの誕生会ということで、皆で集まって「キムチ鍋をしこたま食べる会」を開くことになっていました。
主役のライメイはふわふわの白いセーターを着て現れ、とても美しく可愛らしかった、ということを覚えています。
「ライメイのそのセーター素敵。似合ってるよ」
「ありがとう。これお姉ちゃんからの誕生プレゼントでさ。だから今日着てみた」
ライメイは7つ上のお姉ちゃんに溺愛されていまして、彼女自身もかなりのお姉ちゃん子でした。


和気藹々と皆でキムチ鍋をつつき合っている最中、電話が鳴りました。
「はい、もしもし」
鍋パーティ会場として部屋を提供してくれた家主の女性が電話に出ます。
「あ、クルハスどうした?」
その瞬間、ライメイの顔がこわばったように見えたのは、気のせいだったのでしょうか。
「今ほら、ライメイの誕生会中で。あー、いいんじゃない、別に。ちょっと待って」
家主の女性が振り向きました。
「クルハスが途中参加オーケーですかって。いいよね別に」
ソレハヨクナイヨー。
と私の喉まで出かかりましたが、それよりも早く他の参加者たちは、
「いいよー、おいでよー」
と口々に答えており、家主女性はすぐに電話口に戻ってオーケーを出しました。


と、それからわずか数分で、クルハスが部屋に現れました。
はえー。クルハスどっからきたんだよー」
「ライメイの誕生会ってきいたら、居ても立ってもいられなくて。この部屋のすぐ近くの友達の部屋で内線借りてー。そこから電話したの!」
相変わらずすっごいことするなクルハスは……友達も面食らったんじゃないのかな。
などと私が考えていると、クルハスがくるっとこちらを向きました。
「じゃあシロイ。力持ちなところで、買い出しに行ってくれない? 食材がこれじゃ足りなそう」
言われてみれば、買い込んできた鍋の材料は、あらかた既に食べ終わってしまっています。
「あ、じゃあおれも買い出し行くわ。車出す」
「おれも行く。酒欲しい」


そして私たちが買い出しから戻り鍋が再開されてからしばらくすると、ライメイが弱々しい声で言いました。
「ごめんなさい、あたし、調子に乗って飲み過ぎたみたいです。体調悪いんで、帰ります。本当にごめんなさい」
深々と頭を下げるライメイ。確かに顔色もよくないし、何より左手をずっと隠しています。
「帰るなよー。ちょっと休んでれば復活するって」
引き止める男性陣。
「でも体調が悪いなら無理しないほうがいいものね。急いで帰りなさいなライメイ」
クルハスがそう言うと、ライメイの顔色はますます白くなり、財布の中から今日の参加費をすばやく出してコートとバッグを抱え、もう一度頭を下げてから、早足で部屋を出ていきました。
(なんじゃ今の。ライメイ、こんなに寒いのにコートを着ないで、脇に抱えて出ていったぞ……)


ドアが閉まるとすぐに、クルハスがおっとりとした口調で言いました。
「けど困っちゃうね。せっかく自分のために開いてもらった会なのに、主役がさっさと帰っちゃうなんて。どうしたのかしら、ちょっと非常識よね。ライメイって普段はとってもいい子なのにねえ」
「きっとそれだけ体調が悪かったんだよ。クルハスの言うとおり、ライメイはとってもいい子だからね。それなのに我慢できなかったなんて、よっぽどだよ」
私が口を挟むと、クルハスがぎろりとこちらをにらみつけましたが、それも一瞬のこと。すぐに表情を作り直し、心配そうな顔をしました。
「言われてみればそうねえ……大丈夫かしらねライメイ」
「うん、だから、私も帰る。参加費ここに置くから。じゃあね、みんな。おやすみ」


私は部屋を飛び出し、走りました。
「ライメイ、ちょっと待ってー、一緒に帰ろうよ」
振り向いたライメイの目は真っ赤でました。
「シロイ……鍋はいいの?」
「主役がいないのにだらだら長居してもねえ。それより左手どうしたの?」
私が尋ねると、ライメイは観念したようにさっきまで必死に隠していた左手を出しました。
「…っ! なんじゃい、こりゃあ……」


ライメイのお姉さんからの誕生日プレゼントの、真っ白なセーターの袖口が。
キムチ鍋の真っ赤な色に染まっており、手首は火傷で腫れ上がっていました。
「な、なんでこんなことに……」
「あたしが悪かったんだよね。鍋なのに、白いセーターとか着たから」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょこれ。何があったの?」
「えーと、それがね……」


先ほど、私が他のメンバーと買い出しに出かけたあと。
「そうだ、今のうちに私、お皿をちょっと洗ってきちゃうね。二人は食べてていいよ」
家主女性はそう言って汚れた食器をまとめ、宿舎内の共同炊事場に行ってしまいました。
部屋の中に残ったのは、ライメイとクルハス二人きり。
クルハスはそこで、ライメイのからっぽの器を指さしました。
「ライメイ、よそってあげる。お皿出して」
「ありがとう」
ライメイが素直に皿を差し出しました。この時、ライメイはクルハスが皿を受け取り、そこに鍋をよそってくれるのだと、思っていました。そりゃあそうですよね。誰だってそう思います。


ですがクルハスは、ライメイの差し出した皿を受け取らず、熱いキムチ鍋をおたまでいっぱいにすくうと、ライメイの手首にどばどばと掛けました。
「あつっ!」
「やだあライメイ、けっこうドジねえ。ちゃんと受け止めてよう」
けらけらと笑うクルハス。
ライメイはハンカチを出し、とにかく必死にセーターの汚れを拭き取ろうとしました。
「んんー、あらあ、なかなか美味しいじゃないこの鍋……大丈夫よライメイ」
「な、何が?」
「どうせそのセーターもプレゼントなんでしょー男の。だったらさ、また新しいの買ってもらいなさいよー媚売って。だからあ。大丈夫なのよ、だーいじょーぶ!」
そう言ってクルハスは鍋の中に乱暴におたまを投げ込み、飛び散ったキムチ汁が、ライメイの顔にかかりました。


「ひでえ……席外さなきゃよかったな私。ほんっと、ごめん」
「うーん、それは難しいんじゃないかなあ。だってクルハス、シロイが買い出しに行くように、誘導してたじゃない。最初に声かけて」
「そ、そういえばそうだったね」
(つーか、全部計算通りなのかもしかして)
(『力持ちは買い出し行って』と私が言われた時点で、男子二人も同行するのが自然な流れだし)
(綺麗好きでテキパキ動く家主の性格も、クルハスは把握してるしな……だからかなり高い確率で二人きりになれるってわかってたんだ……)


「ごめんねシロイ」
ライメイがぽつりと呟きました。
「シロイはクルハスと仲が良いから、こんなの聞きたくないよね、悪口みたいで」
「な、何いってんのー、こんなの別に悪口じゃなくて、ただの事実の羅列だし、というかだね! 私はライメイが、無闇に無根拠な悪口言うような人間じゃないって、知ってます! だから、言いたいことは言って欲しい。いや違う、私が悪かった、ライメイが話をしづらい状況にしてた私が本当に、悪かった」
そこまで言ったところで、不意に私の頭の中に思い出されたことがありました。
「そういえばライメイ……最近クルハスから電話よくかかってきてたんだよね? なんか言われたりしたの?」


するとライメイは、困ったような顔をしました。
「それが……実はライメイから電話がかかってきたことって、ないんだよね……」
「えっ」
「電話、待ってても来なくて、眠くなっちゃったから最初の時は10時半くらいには寝ちゃってさ。そしたら次の日、大学で一人でいるときにクルハスが来て……」


「昨日は電話できなくてごめんね」
「ああいいよ、別に。気にしないで」
「ねえライメイ、ちゃんと私の電話、待っててくれた?」
「うん、待ってたよ」
「嘘。うそウソ。嘘つき」
私は既に慣れていますが、クルハスががらりと口調を変える場面に初めて遭遇したライメイは、さぞ戸惑ったことでしょう。
「ずっと待っててってお願いしたのに、寝ちゃったじゃないライメイ。10時半すぎにはもう、寝てたよね? シロイと遊ぶときには夜更かし平気なくせに」


それから。
クルハスが学内で「電話するね」と言ってきた日は、ライメイは必死に起きてそれを待つようになりましたが、電話がかかってくることはなく。
一度電気をつけたまま寝てしまったときは
「もしかして昨日徹夜で待っててくれたの? ごめんねえ……なーんて。言うと思った? どうせ電気つけっぱなしで寝たわけでしょ。それでごまかせると思うなんてちょっと小賢しいよねー」
などと言われたらしく。


「だから、最近は午前2時くらいに目覚まし掛けて一旦起きて、それから電気消して寝直してるんだ。それだと何も言われないし」
「えええ、ちょっと待ってライメイ。なんかすごくおかしなことになってるよ。だってそれじゃまるでクルハス、ストーカーじゃない。ライメイの」
「やっぱり信じられないよねー。あたしが考え過ぎなだけだとは思うんだ。たぶん、最初の夜とつけっぱなしで寝た日だけ、たまたまクルハスが通りかかってあたしの部屋を見たってゆー、ただそれだけなんだと思うんだけどさ」
「あ、いや、信じられないってことはないです。つかむしろ……信じてるな、うん」
だってそう考えると、最近クルハスが私に電話をしてこなかった理由がわかるものなあ。

「あー、シロイが信じてくれてよかった! クルハスには『どうせシロイも私の味方なんだからね』とか言われてさー。それを信じたってわけじゃないんだけど、シロイとクルハスが仲いいのは事実だから、言えなくってさー。でもこんなのきっと、シロイの他には信じてくれる人いないでしょ。クルハスがそういうことをする、理由がわからないもんね。だからもしあたしが、『こういうことがあったんです』なんて話をしても、嘘つき扱いされるに決まってる」
ライメイの話を聞いているうちに、私にもわかったことがありました。


(クルハスに恨まれないよう、嫌われないよう、ひたすら合わせるってのは無駄なんだ!)
クルハスの考えや行動というのは、いくら考えても私ごときでは予想できないのです。
必死に合わせようが何しようが、恨まれるときはどうせ恨まれる。


「ライメイ、もうクルハスの電話を待つの、やめなよ」
「そうねー。なんかどっちみち嫌われてることに変わりないみたいだしね」
「私もちょっと、クルハスへの対応、考えるわ。うん。とりあえず私の部屋で、ちっとお茶でも飲んで気分入れ替えようぜー」
「ありがとー。行く行く」
ちょっとすっきりした気持ちでそんな会話を交わしたライメイと私だったのですが。


部屋の扉を開けて、まっさきに目に入ったのは、ピカピカ光る電話機でして。
「クルハスだけど。ねえ、もういいわシロイ、あんたってほんと、使えない。だからさ、とりあえず、アレを返してよ。ね?」
クルハスのふんわりとした口調、甘ったるい声が、またしてもがらりと変化しました。
「さっさと返しさないよおおおおお、アレをさあああああ」
私たちはしばし呆然と立ちすくみました。


「ね、ねえ……アレって……何?」
ごくり、とつばをのんでライメイが尋ねました。
「わ、わかんない、なんだろ……」
「ちょっ、心当たりナイわけ?」
「ええええ、ちょっと待って考えるからああ! ……あ。あーっ、あ、もしかして」
私は棚の上にあった缶を掴みました。
「これかも! なんかクルハスにだいぶ前、クッキーもらったんだ。けっこういいやつ」
「なるほどそれかあ……って、空なんだけど!」
「だ、だって、クッキーだよ、食べちゃうよそんなん! ライメイも一緒に食べたじゃないかそういえば。美味しいって言ってたじゃないかあっ」
「そういえば食べた気がする。うん、食べたわ。美味しかったね確かに……た、食べなきゃよかった、こうなると知ってたら」
「どどどど、どうしよう。もう空の缶しかないんだけど。それでいいから返すべき?」
「ダメでしょそれじゃあ。買って返さないと」
「無理むり、なんかこれ、クルハスの地元の有名店が数量限定で売ってるクッキーとか言ってたもん。そのお店がどこにあるかも私知らないし……」


その後私は、ライメイと一緒に近隣の百貨店や菓子屋をめぐってなるべく美味なクッキーを探して購入し、人づてにクルハスに渡しました。
(その頃は既にクルハスの顔を見るのも嫌な心境だったので、直接会うのは避けたのです)


輝くクルハス天より墜ち

二年生になる頃、大半の一年生は宿舎を出て、アパートなどに引越します。
引越し当日。
荷物を運ぶためにクルジ先輩が車を出してくれることになっており、ライメイも手伝いに来てくれたのですが。
そこにもう一人。


(な、なんでマロジ先輩がきてるんだろう?)
ほとんど交流もなく、会ったことは数回のみ。
(いや、もちろんありがたい、男手が増えるのは純粋にありがたいはず、なんだけど……)
ダンボールの角と角がぶつかった瞬間、マロジ先輩がじろっとこちらを睨みました。
「わっ、すみません」
「あーうぜー、トロい女だな、ほんとによ」
吐き捨てるような口調。


マロジ先輩は、顔を合わせた時から、ずっとこんな調子なのでした。
絶対に目を合わせないのに、気がつくとじっとこちらを睨んでいる。話しかけても無視されるのに、なにかと嫌味を投げつけてくる。
(あああああ、なんなんだよさっきから、そんなに嫌なら別に手伝ってくれなくてもいいっつーの!)


「マロジ、お前ちょっと態度悪いぞ」
クルジ先輩が見かねた様子で声をかけました。
「うるせーなー、なんでおれがシロイなんぞのためにかんじよく接しなきゃいけないんだよ?」
「お前さあシロイの引越し手伝う話をしたら、自分からまぜてくれって言ったよな? それでその口の利き方はマジで酷いぞ」
引越しの場にはぴりぴりとした空気が漂っていました。


「最近なんかマロジ先輩、荒れててさ」
小声でライメイが囁きかけてきました。
「やっぱそうなんだ。前に会ったときはむしろおとなしくて穏やかな人って、印象だったし、おかしいと思ったよ。なんかあったわけ?」
「あー……実は……マロジ先輩、最近セクハラ疑惑かけられてんのね、サークル内で。それでちょっと、ね」
「セクハラあ? え、なんでそんなことに?」
「しーっ! 声が大きい」


それからライメイは、手短に説明をしてくれました。
夏休み中、サークルのみんなで遊びに行った時、マロジ先輩がクルハスにプールに突き落とされたということ。
そしてクルハスがしばらく前突然、
「実は私、ずっと前からマロジさんにセクハラされてました。プールで突き落としたのも、セクハラから逃げようとしたんです」
と言い出したのだ、というのですね。


「ひー、クルハス、なんて大胆な嘘を」
「あ、嘘なんだやっぱり」
「そりゃそうでしょ。え、もしかしてみんなクルハスの言葉を信じてるの?」
「いやー信じてるわけじゃないんだけど……マロジ先輩がさ『セクハラなんかしてない。そもそもあの頃おれたちはつきあってんだ』と反論したんだけど、誰もそんな話きいたことなかったからさー。あまりに突飛な言い訳だ、とみんな思ってるみたい」
「気の毒だな……なんとかしてあげられないかな」
「うーん、マロジ先輩は『みんなが疑うなら、付き合ってた証拠を出す』とか息巻いてたけど。でもそんな証拠ってないじゃない? 結婚なら戸籍調べればいいけど、そういうわけじゃないしね」
(クルハス、マロジ先輩がサークルに顔出すの気に入らない、追い出したいって言ってたもんなあ。ついに具体的に動いたか)


「引越し先二階かよ……くそ重いダンボールを他人に階段のぼって運ばせるって、どういう神経なんだ?」
「シロイの荷物、多すぎねえ? つかこんなに本あって、お前ほんとに全部読んでるのかよ? 読みもしねえ本を集めて知識人気取りですかあ? おめーがそんなだから、クルハスもいい迷惑なんだよ」
マロジ先輩の嫌味が、ぽんぽんと飛び交う中、私たちは荷物を運び続けました。


「ね、ねえライメイ、クルハスとマロジ先輩、仲悪いんじゃないの今?」
ひそひそと囁くと、ライメイもささやき声を返してきました。
「それが最近、よくわからないんだ……なんかクルハス、急にマロジ先輩に優しく接するようになってて。
その頃からマロジ先輩が、シロイの悪口を言い始めたんだよね。たぶん、クルハスが何か言ったんじゃないかなあ。マロジ先輩、あたしに対する態度も、すげー冷たくなったしね」
「なるほど」
(なんかまた、クルハスがお得意の他者操作に精を出してんだなあ。てことはこの嫌味の出処もたどればクルハスに行き着くのか。はー。頭いたいわあ)


とにかく一刻もはやくこの気まずい空気を終わらせたい。という思いがあったためでしょうか。
私たちは予定以上に素早く荷物を運び終えました。
ダンボールをすべて、引越し先の部屋に入り、あとは冷蔵庫や電子レンジを所定の場所におさめればいいだけ、というくらいに荷物が片付いたところに。
「おいシロイ。ちょっと来い」
険しい顔をしたマロジ先輩が、駐輪場の影から、私を手招きしました。
(うーわーあ。行きたくないなあ……マジでこの人なにしにきたんだよ)
それでも、そこで彼の存在を無視してしまえるほど、私の心臓は強くありません。
しぶしぶそちらに向かった私の前に。
クルハスが現れました。


「なななな、クルハス、なんでここに!?」
「ごめんねえ、忙しい中来ちゃって」
クルハスはにこにこしていますが、彼女の表面上の上機嫌が何のアテにもならないことを、既に私は知っています。
「ねえシロイ、今日こそアレを返して欲しいんだけど」
「え、あのクッキーじゃダメだったやっぱり?」
「ふざけんなよテメー」
マロジ先輩がどすの利いた声を出しました。
「しらばっくれてクルハス困らせんのも、いいかげんにしろよこのブス」
そんな風に罵られても、私はただただ途方に暮れるばかり。
「ほんとシロイ、鈍いふりするのもそろそろやめたほうがいいよ? トロいのはわかってるけど、いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないでしょ?」
「お前さあ、何のつもりなの? もしかしてクルハスを脅してるつもりなわけ?」
「やだあ、マロジ先輩、シロイは友達なんですよ? いくらなんでもそんなことしないよね? ……それとも違うのかなあ?」
「おら、黙ってねえで答えろよ、ブサイク。寸胴女。貧乳」
(ひっでえ……なんなんだよ、さっきから暴言の大安売りだなオイ)
鼻の奥が急になんだかつんとしてきて、私は思わず、視線を横に逸らしました。


アパートの空室の暗いガラスに、私の顔が映っています。
あのとき初めて。私は自分という人間の顔を、他人のもののように客観的な視点で見ることができたのだと思います。


(これかー、暴言投げつけても大丈夫って、相手に見くびられる顔は)
(人がよさそうに見えるからなあ。なつっこさもあって、基本的には明るい)
(善人でありたい、と思っている人間の顔だな……そしてたぶん「自分は善人だ」と思うことに酔いしれる人間の顔でもある。「あなたっていい人!」と言われたがるんだよなこの手は)
(悪意に対して鈍感。それはもとからの気性でもあるけど、本人がそうなるよう努めたからでもある)
(やりかえさないし、やりかえせない。ゆえに周りは安心できる……言い換えれば、なめられる)
(鈍さと明るさだけで生きようとしているからそうなる。許されることを期待して、自分から先に周りを許す。それ以外にやりようを知らない卑屈さ)
(つまり「カモの顔」だ)
(微笑む詐欺師に自分からクレジットカードを渡す人間の顔)
(いいひと、頼りにしてる、と言われれば、その言葉におだられて断崖絶壁にすすむ顔)
(人畜無害の、まぬけづら……)
自己嫌悪がすさまじい勢いで押し寄せ、私は思わず、歯を食いしばりました。
「おいシロイ? なに黙ってんだテメー」
「シロイ? ちょっと、どうして無視するわけ? 失礼じゃない?」
二人の声が、どこか遠くで聞こえるような気がしました。


(けどなあ。そんなこと自覚したからって、自分をいきなり変えられるわけじゃないんだよなあ)
(もともと鈍い人間だからこそ、こうなったんだもの。そういう人間でも生き延びるために、選んだ道だっだわけで)
(ここで小器用に、他の生き方を模索するのか? 他人の悪意に敏感に、うまく世間を渡っていくのか?)
(……無理だ。それができるなら、とっくにそうしてる)
(とろくて鈍くて間抜けで、そういう人間にできることなんて、そもそもたかが知れてるんだよちくしょう)


ぶつん、と頭の中で何かが切れました。
「わかった。ちょっと待ってて」
私はそう言いすてて、駈け出しました。


「うおおおおおりゃあああああ」
駆け込んできた私が、狂ったような勢いでダンボールを開き始めたのを見て、クルジ先輩とライメイは、ぎょっとした顔しました。
「どうしたのシロイ?」
「おい、何やってんだ」
口々に声をかけられますが、返事をせず、私はひたすら箱の中身をひっくり返します。
「これと! これと! これもかチクショー!」
(どうせ間抜けには、他人の望みを自ずと察するとかできねえんだよおおお)
だったらもう、いっそ。
一度でもクルハスの手を経由したものが自分の持ち物の中にあるならば、それをぜーんぶクルハスに渡してしまえ、と私は思ったのです。
(そんで大量すぎる荷物を持ち帰るのに苦労すればいいんだクルハス! そしたらもう、完全に縁切りしたるわ!!)


クルハスに貸して返ってきた本(もしかしたら面白かったからアレをちょうだい、って意味かもしれないし)。
クルハスが置き忘れていったヘアピンとヘアゴムがあったような気がするので、とにかくヘアピンを20本くらい、適当なヘアゴムでくくってまとめます。
クッキーの空き缶。
クルハスが面白そうだから今度貸して、と言っていた漫画も。
とにかくもう、ぜんぶぜんぶ。


「なにしてんだよてめー、いきなりワケわかんねえ。頭おかしいんじゃねえの」
どうやら、私のあとを追いかけて部屋に入ってきたらしきマロジ先輩が、後ろから声を掛けてきました。
「やかましいっ! なんなんだテメーこそ、さっきからグチグチグチグチグチグチと、昼ドラの姑かあっ」
どうせ私のような間抜けには、婉曲的で遠まわしな嫌味をやんわりと言い返すのは無理だよね、という思いが、ずいぶんと吹っ切れた台詞を私に口走らせてしまいました。
ぎょっとした顔で、立ちすくむマロジ先輩。
(やっぱりねー、どうせ言い返されないと思っていたから好き放題言ってたわけですよねセンパイ。まあその読みはそれほど間違っちゃいなかったわけですがー)
箱の中から取り出したブツを、マロジ先輩の足元に更にいくつか叩きつけます。
更に本、漫画、クルハスが欲しいと言っていたマニキュア、写真の束。
そこで私はアパートのドアを開け、外に向かって呼びかけました。
「クルハス用意できたよー、早く持ち帰って」


「え、クルハス?」
「なんでここにクルハス?」
ライメイとクルジ先輩が混乱した口調で言い、マロジ先輩は黙ったまましゃがみこんで足元に落ちた何かを拾おうとしていて、
(あー勝手にひとのもの触らないでほしいなあ)
などという考えが一瞬頭をよぎりますが、もう知ったこっちゃありません。


そしてクルハスが、微笑みながらアパートの玄関に姿を現し、唇を少し歪めました。
「ちょっとシロイ、他の人がいるのにやめてよ。誰にも見せてほしくないんだからアレは」
クルハスの視線がちらりと動き、マロジ先輩の姿をとらえたと思うと、クルハスの声が再びいつもの甘ったるい調子に戻りました。
「ねえマロジさあん、マロジさんからも言ってくださいよう。シロイが無神経で、ほんと困っちゃうんですう」


マロジ先輩は答えません。こちらに背中を向けたまま、じっとしています。
肩と腕の線だけが動いており、私は彼がその手に写真を持っているのに、気づきました。
(あれはさっき、私がダンボールから引っ張りだした写真だ。そういえばあれ、マロジ先輩が映ってるんだっけ……)


話は夏休み直後にまでさかのぼります。
クルハスはその頃、来る日も来る日も、マロジ先輩(仮名)を罵っていました。
「はーっ、やんなっちゃう。これ、捨てたほうがいいかなあ」
そう言ってぽん、と放り出したのは写真の束です。
「ん? それ何の写真?」
「ゴミクズ野郎マロジとディズニーに行った時の写真よ、持ってるだけで気持ち悪いわあ。消毒したい」
「ゴミクズって言い方はちょっと……あれ、クルハス、いつディズニーなんて行ったの? 中止になったよね?」
「あの後のことなの。私ががっかりしてたら、マロジがディズニー連れてってあげるって言うから、二人で行ったわけ」
(なるほど。「10日ほどの短い交際でした」って手紙では書いてたけど、その間に一応デートとかも行ったわけか)
(えーと確か「罠」とやらに気づいてからは一切接触しなかったわけだから、ディズニーには「罠発覚以前」に行ったわけね。大体罠ってなんだろうねホント)


「あーあ、たくさんパレードの写真撮ったのになあ。パレードは捨てたくないけど、マロジの顔を見るのは虫唾が走るし……どうしよう」
クルハスがぱらぱらと写真をテーブルに落とし、それを見ているうちに私は、自分でも予想外の言葉を口走っていました。
「じゃあさ、私がその写真、預かるよ」
「は?」
ぽかんとした顔でこちらを見るクルハス。私はその顔を見ながら、必死にクルハスが好みそうな言い回しを選びました。
「今はまだクルハスもいろいろ傷ついてるから、写真も手元に置けないんだろうけど、時間が経って傷が癒えれば、あらためていい思い出になるってことも、あると思うの。だからね、それまで私がその写真、預かっておく。それで、もしもクルハスが思い出を取り戻したくなったら、私に言って」
私がそのとき考えていたのは、マロジ先輩のことでした。
よく知らない人だけど、たぶんいい人で、それなのにちょっと付き合った相手にここまで悪し様に言われるなんて、あまりにも気の毒だ。思い出すら消毒したいとか言われるのは、酷すぎる。
私にとってはその写真の束が、マロジ先輩という人の悲しさを象徴した存在のように思えたのです。
「あー……シロイが責任持ってくれるなら、確かにありがたいけど……いいの?」
「いいよ」
「じゃあ、約束ね。絶対その写真、誰にも見せないでね。そんな写真が存在することも、誰にも言わないでね」
「わかった」


その時、ようやく私の鈍い頭の中にも、コトのからくりが飲み込めてきました。
(クルハスがひたすら返して欲しがった『アレ』ってのは、あの写真の束なんじゃあ……?)
セクハラ疑惑をかけられたマロジ先輩は、二人が付き合っていたという証拠を、とにかく欲しがっていたとか。
そして二人がディズニーランドで並んで笑っている写真は、当然その証拠になりえます。
(だからクルハスは、ある時期を境に私に「アレを返せ」連呼になったわけね)
(しかも私がなかなか返さないとみるや、今度はよりによってマロジ先輩をけしかけてくるたあ。危ないと思わないんかね)


「……ったぞ、証拠。あった! ここにあった!」
マロジ先輩が写真を振り回しながら、こちらを見ました。
「クルジ! ライメイ! ここにあったぞ、おれたちが付き合っていた証拠が、ちゃんとあったんだ!」
マロジ先輩が写真の束を持つ指先に、ぐっと力がこもりました。
(おおお、さっそく私の懸念通りの事態が起きてるぞ)
「それは私のっ」
クルハスは短く叫ぶと靴も脱がずに部屋に飛び込み、マロジ先輩に掴みかかって、写真を取り返そうとしました。
もちろん、それは無理。マロジ先輩のほうがクルハスよりもずっと体が大きくて、力だってあるんですから。簡単に弾き返されてしまいます。
けれどなお、クルハスは諦めない。無言のまま手に持ったハンドバッグを振り回し、マロジ先輩の顔に勢い良く叩きつけました。
「いてえっ」
マロジ先輩のメガネが勢いよく吹き飛びました。
反射的にしゃがみこんでメガネを探すマロジ先輩。するとクルハスは横に積んであったハードカバーの本を素早く拾い上げ、大きく振りかぶりました。


「あぶねえっ」
間一髪、クルジ先輩がクルハスの腕を掴みました。
「なにやってんだよクルハス!」
クルハスは答えません。クルジ先輩の声を、完全に無視しています。
歪んだメガネをやっと拾いあげたマロジ先輩は、呆然とした顔でクルハスのほうを見上げていますが、その視線を意に介する様子もない。
「そうなの。これがシロイのやり方なの。普段はあれだけ善人ぶってるくせに、こういうやり方で、私をはめるの」
そう言ったクルハスの声はとても静かで、それは今まで散々聞かされてきた恨み節のときの口調とも違っていて、それが私をかえって不安にさせました。
「クルハス?」
おそるおそる、と言った様子でライメイが声をかけると、クルハスはきっとそちらを睨みました。
「ああそれともライメイの仕業なの? そうよねえ、シロイにそんな頭はないわ。あんたっていつもそうよね。つんと澄まして、お綺麗な顔で、周りの人間をせせら笑って」


もちろん、それは事実ではありません。クルハスをはめるために知恵を振り絞って時間を費やすほど、ライメイは暇人じゃないのです。
(けど、クルハスにはそれがわからない)
(罪悪は自分の側から発生するから。ひとは己という基準から逃れることはできない。自分がやるようなことを、他人もやると考える)
(クルハスはライメイの頭も自分と同じように動くと考えている)
(相手を罠にかけ、見下し、せせら笑う。それは本当は、クルハスがライメイにやりたがっていたことだ)


頭の中でばちばちと何かが弾け、謎がするすると解けていくような感覚がありました。
(そういえばあの写真の日付……私が帰省する前々日だったよな。だから帰省前日にクルハスに会った時、上機嫌だったんだ。彼氏ができて、一緒にディズニー行った直後だったから)
(その上機嫌が破れたのは、私が「クルジ先輩がふられた」と言った後。そしたら、クルハスがライメイの悪口を言おうとして……)
(そうだ、その後もあった。更にクルハスを不機嫌にさせるようなことを、私が何か言ったんだ。なんだっけ……?)


「クルハス、ライメイはね、ほんとにいい子だよ。ディズニーに行く話になったときも、これじゃ人数が合わないってクルハスが気にしていたから、『誰かもう一人男性を誘ってください』って、ライメイがクルジ先輩に頼んでくれたんだよ。だから、マロジ先輩が来てくれて、人数がちゃんと偶数になったのも、ライメイのおかげなんだよ」
これだ。
私が言った、この言葉がクルハスが「罠に気づいたきっかけ」というやつだったんだ。


クルハスはずーっと、ライメイを意識して、嫌っていた。
だからあの日も訊いたんだ「クルジ先輩とライメイ、付き合ってるの?」って。もしも付き合っているのなら、その仲を壊してやりたいと思っていたんだろうな。
クルハスがマロジ先輩と付き合い始めたのは、だからだったのかも。
ひょっとしてクルジ先輩の親友であるマロジ先輩をうまく使えば、クルジ先輩とライメイを引き離すことができると思っていた?


(あの手紙の中で「マロジ先輩よりクルジ先輩のほうがずっとまし」って唐突に出てきたのもそれが理由だ)
クルハスの心の中では人間の序列が厳密に決まっていて、その中ではクルジ先輩のほうがマロジ先輩より上なのでしょう。
そしておそらく、ライメイはクルハスの少し上にいて、けれどクルハスの自意識は、絶対にそれが許せなかったのではないでしょうか。
ライメイはクルハスの下にいなければならない。なのにもし、マロジ先輩よりヒエラルキーが上のクルジ先輩を、ライメイが振ってしまったのならば。
ヒエラルキーが下の男であるマロジ先輩と付き合っている自分を見たら、ライメイがせせら笑うと、クルハスは思い込んだんだ)
だから、マロジ先輩と付き合っていた過去を、クルハスは完全に消去したかったし、そのためにも彼をサークルから追い出さねばならないと、思い込んでしまったのでしょう。


血走った目でライメイを睨みつけていたクルハスの表情が、不意に崩れました。
「なんでえ……?」
ぐすっと鼻をすする音。
「なんでそんな目で、わたしを見るのお……」
なんとクルハスは、顔をくしゃくしゃにして、泣きだしていました。


「ひどいよ、私が何をしたって、言うのよお」
いやいやあんた、いろいろやったやんけ。というツッコミを口に出す人間はさすがにいません。
「ライメイはずるい、ずるい、ずるいよ。なんでも全部、独り占めじゃない、どうしてよお。それなのになんでみんな、ライメイのことは、責めないのよう?」
(結局、そこに戻るのかよ、クルハス……)
私は深く息を吐きました。


クルハスの目に映っているのは、最初からライメイ、ただ一人。
(ライメイに好きな男がいれば、それを奪うんだろうなクルハスは。クルハスはライメイから、いろんなものを奪いたいんだ)
もしかするとクルハスの意識の上では「奪う」のではなく、「取り返す」なのかもしれません。クルハスにとってはそのくらい、自分の行動は「正当な」ものなのでしょう。


「だって、だって、シロイは私の、友だちのはずでしょう? いっぱい電話して、話して、だからもう友だちじゃない。ライメイなんかより私のほうが、ずっとずーっと、友達のはすじゃないのおお」
マスカラが流れ落ち、アイシャドウがよれて、それでもクルハスは泣き続けます。
(クルハスが私に近づいたのも、やっぱりそういう理由か)
シロイ・ケイキという人間は、クルハス・ヤミにとって本当は、何の価値もないのです。
私に価値があるとしたらただ一点。ライメイと友人であったという、ただそれだけ。
「私に味方してよ!」
だん、とクルハスが床を踏みつけました。
「友達でしょシロイ、私の味方、してくれるはずじゃない!」
だん、だん、と地団駄の音が響きます。そしてくるりと向きを変え。
「マロジさんも! 私のこと好きなんでしょう! だったら、だったら。何があっても、味方をしてくれなきゃいけないんだから!」
「いやクルハス、さすがにそれは無理だろう」
クルジ先輩がこらえきれない様子で小声ながらも的確なツッコミを入れていますが、もちろんそこから場の雰囲気が和やかに変わるようなことはありません。
「ずるいー、ずるいよー、ライメイはずるいー」
そのうちクルハスは、ただただそう繰り返して泣くだけになりました。
「ずるいよー、ずるいよー、友達もいて、美人でって、なんなのよー」


そこまでで済めば、まだよかったのですが。
「お、おい、クルハス」
よしゃあいいのに、マロジ先輩が声をかけたことが、引き金になりました。
「やだあああ」
再び激しく泣き崩れるクルハス。
「やっぱりマロジじゃだめええ、役に立たない、ライメイだってマロジなんかのこと、どうでもいいと思ってるしいい」
これまでにもまして酷い台詞を口走ったクルハスは、次の瞬間、傍らのダンボールに手をかけました。


積み上げられたダンボール箱が、すさまじい音を立てて崩れます。
「わーっ、私の荷物があああ」
ぐちゃぐちゃになった顔のまま、クルハスが片っ端からダンボール箱をひっくり返し、こぼれ出た荷物を持ち上げては投げつけました。
がちゃん、という音が響き、私は食器が割れたことを知り、パキンという音でCDケースにヒビが入ったのだと悟りました。
「おおおおおお、やめてくれえええ」
泣きそうになりながら、荷物を拾い集めようとする私。
クルジ先輩が必死の形相で、クルハスの腕を掴み、怒鳴りました。
「おい、お前も手伝えマロジ、クルハスをおさえろ!」
「い、いや」
マロジ先輩がおどおどした様子で答えました
「ク、クルハスは接触恐怖症だから。さ、さわったらかわいそう」
(まだそんなデマ信じてたのかあんたはああああっ)
(いやしくも医学生なんだから、その手の嘘はとっとと見抜けばかあ)


学生注目!」
大混乱の室内に、突然、ライメイの声が響きました。窓のすぐ傍に立っており、手には写真の束があります。
「えー、このたびは。あたくしの不徳のいたすところで、クルハスにたいへん不愉快な思いをさせてしまいました。ごめんなさい。クルハスはちっとも、悪くありません。悪いのはいつも周りで、今回最も悪いのはあたしなんだそうです」
ぺこり、とかわいらしく頭を下げ。
「身に覚えもねえのにどうせワルモノってことになるなら、」
からから、と軽い音を立てて窓が開き。
「いっそアクセル踏もうと思います!」
ライメイは大きく振りかぶって、
「そおおおおおい」
写真の束を、外に放り投げました。


晴れた春の光を浴びてばらばらと散っていく写真。
何が起きたのかとっさに理解できず呆然とする一同を見て、ライメイはにっこり笑いました。
「さー、あとは早いもんがちですよー」
「マロジ先輩が写真を拾えば、無実の罪が晴らせますおめでとう!」
「クルハスが先に拾えばー? ええそうですね、写真を始末して、後は好きにすればいい。マロジ先輩の潔白は、誰にも証明できなくなるから、迫真の演技でセクハラ路線、突っ走ることも可能じゃない?」
先に動いたのは、クルハスでした。
ついさっきまで泣き崩れたんじゃないんかいアンタ、と言いたくなるスピードで、素早く立ち上がり、ハンドバッグを拾いあげて、あっという間に玄関から飛び出して行きました。
マロジ先輩が慌てた様子で、その後を追い。
室内は、あっという間に静かになりました。


私がクルハスの姿を見たのは、それが最後になりました。
「あー、そんじゃ一回蕎麦でも食べに行って、仕切り直そうか」
ライメイの提案にしたがって、残った三人は一緒に蕎麦を食べに行き、私はその場でクルハスとマロジ先輩が付き合っていたことを自分は知っていること、必要ならサークルの他のメンバーにそれを話してもいいと思っていることを、話しました。
結局、クルハスがそれから二度とサークルに顔を出さなくなったため、私が何かを話す必要もなかったのですけれど。


何も知らない他のメンバーは、クルハスが突然姿を見せなくなったことを、しばらく不思議がっていました。
その後、「シロイって意外ときつい。おれは怒鳴りつけられた」とマロジ先輩が言ってくれやがったので
「シロイってけっこうきついらしーねー」
「女ってこえー。シロイはあんまり女ってかんじしねえけど」
「もしかしてクルハスをシロイが追い出したんじゃねーの?」(当たらずとも遠からずなのがなんとも)
などとからかわれ、私はそのたび
(何にも知らない外野は気楽じゃのう! ほんとに怖くてきつい女が誰なのか、知らないまま生きてけよもう)
などと思ったりもしましたが、そんなのは些細なことでした。
ついにクルハスと縁切りできた、ということのほうが、私には大事なことだったのです。
もうこれであの電話攻撃を受けることはないんだ、と思う度に(クルハスに攻撃の意図はなかったようですが)、私の胸の中は、解放感で満たされました。


とはいえ。
その解放感は長くは続かず。それから一ヶ月と経たないうちに、私は別の女性が原因で、またしてもいいように振り回されるはめになるのですが、それはまた別のお話。別の機会に語らせていただきます。
ひとまず、長々と続いて参りましたクルハス・ヤミさんのお話はこれにて終幕。
このたびもお付き合いいただき、まことにありがとうございました。