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あの頃の私が生活の中で、一番楽しみにしていたのは、「午後出張」でした。
帰社せずに直帰できるのが純粋に嬉しかったというのもありますが、何よりも電車の中で眠れるのがありがたかったのです。
普段通勤で使っていた電車は、どんな時間帯に乗っても混んでいて絶対に座れなかったので、電車で眠るというのは、無理でした。
ですが、午後出張の帰りに使うコースですと、乗り換えの際に「当駅始発」の電車を狙うことができました。
当駅始発ならば、前もってホームに並んでいれば、かなりの確率で座れる。
そして、座りさえすれば、最寄り駅まで40分以上の道のりを、まるまる眠れる!
「病院に行くか行かないか」という延々と続く口論で睡眠時間ががしがし削れていた当時の私にとっては、安心して眠れる40分間は非常な魅力だったのです。
……まあ、あまりにも安心して眠りすぎたせいで体が前後に派手に揺れ、電車の中の縦の手すりに頭を勢い良く打ち付けたり、帽子が脱げて床に転がったりとか、その手の間抜けな出来事もとても多かったわけなんですけど。
あの頃の私、周りからさぞ生ぬるい目で見られていたんだろうなあ。うううう。
「だけどそんな睡眠不足の日々も今日でおしまーい。病院で薬を貰えば、安心快適睡眠ライフ〜。はっやく来ないかな、セキゼキさーん」
その日の会社帰り、私は浮き立つ気持ちでセキゼキさん(仮名)を待っていました。
ところが。
待ち合わせ場所に現れたセキゼキさんは、いつにもまして蒼白な顔色でした。顔にはタテ線、背中にはカケアミを背負っている、マンガだったらそんな風に表現するとしっくりする雰囲気です。
思えば、会社に行けなくなったセキゼキさんはその後、私以外の「人類全体」がまるっきりダメになってしまっていたのでした。
「錯覚だとはわかっているけど、人の目が怖くてたまらない。非難の目で見られている気がする」
「人の話し声や笑い声が怖い。話している人や笑っている人はみんなちゃんとした立派な人たちで、それに比べて今の自分はなんなんだろうと思ってしまう」
そんな風に訴えて苦しみ続けたセキゼキさんはその結果、私のアパートから出られなくなっていました。
病院は駅の近くにあり、駅の近くには大勢の人がいました。
苦手な人混みをかきわけなければならない羽目に陥ったセキゼキさんは、病院に到着するはるか前から、既に半死半生の状態になってしまったのでした。
先程までの浮き立つ気持ちは消し飛び、私は一気に不安でいっぱいになりました。
あれだけ嫌がっていたんだから当たり前だけど、そもそもセキゼキさんは病院に全然行きたくないんだ、ということに改めて気付かされたのです。
(もしかしてこの人、お医者さんに嘘を吐いて、「ぼくは正常です」とか言い張って、これ以上の通院を回避しようとするんじゃないだろうか……)
待合室まで辿り着いても私の不安は抜けず、ぐるぐると考えこんでいると、意外にもセキゼキさんからこんなことを言い出しました。
「申し訳ないけど、診察室にはシロイも一緒に来て欲しい」
セキゼキさんは診察室の扉をちらちらと見ながら、途切れ途切れに話し始めました。
「あの中に入った後、なにをどうすればいいか、自分がどうなるか、全然わからないんだ。
何を話せばいいかもわからないし、もしかしたらまたおかしくなっちゃうかもしれないとも思うし……だからシロイ、一緒に来て、おれの代わりに判断してよ。おれがおかしくなったら、シロイが外に連れ出してよ。話が出来なくなったら、シロイが話してよ。
助けてよ、シロイ。たすけて」
すがるような口調でセキゼキさんはそう言い、私は「わかった」と頷きました。
それからセキゼキさんは完全に黙り込みました。
お医者さんは白髪頭の温和で優しい男性でした。
診察室に通された後、もともと青い顔をしていたセキゼキさんの顔から更に血の気が引き、まぶたと唇が強ばってぴくぴくと震えました。
結局セキゼキさんはここまで来るのに力尽きて、話をするどころではないのかも、私がそう思い始めた時、セキゼキさんがやっと口を開きました。
時折口ごもりつつも、セキゼキさんは私の予想を裏切り、自分の現在の症状を、包み隠さず、率直に話しました。
私が彼の話を補った部分もありましたが、それでも必要なことの大半を、セキゼキさんはきちんと自分の口で話しました。
それが当時のセキゼキさんにとって、非常に困難で骨の折れる、たいへんな作業であったことは明らかです。
弱りきって逃げ出したい気分だったろうに、それでも勇気を持って難事に挑んだ彼を、私は誇りに思います。
実際には、病院に行って薬が効けば何かもよくなる、というほど、事は簡単ではありませんでした。
精神科の薬の効き目は個人差が大きく、ある人にとっては非常によく効く薬が、他の人には全然効かない、ということも珍しくありません。
セキゼキさんの場合も、合う薬が見つかるまで、しばらく時間はかかりました。
おかげで、セキゼキさんが「やっぱり精神科はアテにならない」と言い出したり、薬を飲みたがらないセキゼキさんの前に私が仁王立ちになって、
「いいからとにかく薬を飲みなさいよ!」
と鬼のような形相で詰め寄ったり、そういうことも起こりました。
それでも幸運なことに、セキゼキさんに合う薬は、最後にはちゃんと見つかりました。