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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その2〜

その1はこちら。

本文

あの晩、私たちはぐるぐると当てもなく三時間ほど歩きまわりました。
セキゼキさん(仮名)は落ち着いたのか、それとも疲れたのか、「もうダメだ、早く終わりたい」と繰り返すのをやめ、黙々と歩くようになっていました。
気がつくと、いつの間にか私たちは駅の近くまで戻ってきていました。
「セキゼキさん、とりあえず今日は私の家に帰ろう。お腹も空いてるだろうから何か食べようね?」
セキゼキさんはこっくりと頷き、私はテイクアウトのカレーを買いました。


食事を終えたセキゼキさんは、
「さっきは走って逃げて悪かった。シロイが会社の人と手を組んでると考えるなんて、今思えば自分でも本当におかしかったと思う」
と謝りました。
私はセキゼキさんが自分の異常さに気づけたことが嬉しくてたまりませんでした。この人はストレスで一時的に錯乱していただけで、やっぱり本当におかしくなっているわけじゃなかったんだ。食事をして、今夜一晩しっかり眠って、何日か仕事を休んでゆっくり過ごせば、もっとずっとよくなるに違いない。そう思って、私はにこにこ笑いました。
セキゼキさんが、大きく欠伸をしました。時計を見ると、既に午前零時を回っています。
「もう寝るといいよ。私はちょっとこのへん片付けるから」
私が声をかけると、セキゼキさんは素直に頷きました。
「なんか急に眠くなってごめんね、まだ寝るような時間じゃないのに……」
セキゼキさんはもごもごと呟きながら布団にもぐりこみ、私は彼の言葉に違和感を覚えました。
「セキゼキさん、今何時頃だと思っているの?」
「…………午後五時頃じゃないの? それとも六時?」
「そ、そんなわけないでしょ。私たちが駅で会ったのが六時過ぎだよ? それから何時間歩きまわったと思ってるの。今日何があったか思い出してごらんよ」
「今日は……電車に乗れなくて、それからずっと公園にいて……最後に時計をみたのが午後二時で…………よくわからない、いつの間にかシロイがいて? おれが走って? 思い出せない。時間は、時間は……午後二時に時計を見て……それから? どうして外がもう暗いんだ?」


セキゼキさんは完全に時間の感覚を失っているということに、私は気がつきました。記憶がぼんやりと曖昧になっているということにも。
「思い出せない、おれはどうなっちゃってるんだ……時間がわからない……今日何があったかよくわからない……やっぱりもうダメだ、終わりたい、早く終わりたい……壊れちゃったんだ……もうダメだ、もうダメだ……」
「セキゼキさん、ごめん、私が変なこときいた。時間なんてどうでもいいから! 今日何があったかなんて、大した問題じゃないから! 寝不足で疲れているんだよ、だから頭がぼーっとするだけで、全然何も問題じゃないよ、ね?」
私は明るい声でそう言いました。
「明日はさ! 二人で会社さぼって、どこか行こうよ。お弁当持ってさ。ね? 明日休んだら、もう土日だし。なんにも気にすることないよ。ゆっくりすればいいんだよ」
「ごめんシロイ」
セキゼキさんがぽつりと呟きました。
「シロイがさっきまで、おれがまともになったと思って、喜んでいたのを知ってるんだ……おれも自分がまともに戻れた気がしたんだ……だけどおれ、知っているんだ、シロイがどんなに喜んでくれても、おれ、すぐおかしくなっちゃうみたいなんだ……おれが元通りになったように見えても、それって、もう嘘なんだ……目が覚めたらおれ、たぶんまた、おかしく……なる、と…おも…う……」
セキゼキさんは話の途中で、気絶するように眠りにつきました。


翌朝。
前の晩、とうとう会社に連絡を入れることができなかった私のことを、心配していたのでしょう。会社の人から私の携帯に電話がかかってきました。
「お疲れ様ですシロイです」
「あ、シロイさん、大丈夫? 昨日セキゼキさんが走って逃げたとか言ってたけど、その後どうなった?」
「あの後追いかけて、捕まえました。時間はかかりましたけど」
「あのまま行方不明になったわけじゃないのか、安心したよー。今セキゼキさん、どこにいるの?」
「あのまま連れ帰って、昨日はうちに泊めましたから。今はそのままうちにいますよ」
その瞬間、眠っていたはずのセキゼキさんが、がばっと飛び起きると、私のほうを向きました。
「シロイの嘘つき! 会社の人におれを引渡したりしないって言ったのに!!」
それからセキゼキさんはあっという間に家を飛び出していきました。
「もしもし、シロイさん? なんか今音がしたけど?」
「す、すみません、あの、なんかセキゼキ、ほんとちょっと様子がおかしくて……私が彼の居場所を喋ったから、会社に無理やり連れ戻されると思っているみたいで」
「えええっ? まさかそんな風に思い込んでるとは……絶対そんなことしないって、伝えてよシロイさん」
「いえ、それが、伝えたいのは山々なんですけど、また走って逃げてしまったんです今。昨日は追いかけたんですけど、今朝は私まだパジャマだったので、追いかけられなくって……」
「うわあああああ。それはまずいね。シロイさん、申し訳ないけど、とにかくセキゼキさんを捕まえて。で、おれはとりあえずセキゼキさんを休職扱いにする手続きを、今日から進めます。んで、シロイさんは今日有給扱いにしとくわ。おれから連絡を入れると、どうもよくないみたいだから、進展あったらシロイさんから連絡ちょうだい。事情はわかっているから、無理に連絡入れなくてもいいからね。大丈夫そうなときを見計らって、連絡くれればいいから」


電話を切った私は、着替えを済ませてからアパートの周りを探し回りましたが、セキゼキさんはどこにもいません。
こういう時、一体どうすればいいんだろう。
パニック状態になった私は、とにかく何らかの指針が見つかることを期待してPCを立ち上げました。
「失踪 手続き」
「失踪 捜索」
など思いつくままに単語を打ち込んで、Google先生にお伺いを立てます。
「失踪宣告の手続きとか、今回全然関係NEEEEEE!」
その頃には私も、自分がパニック状態に陥っており、頭の働きがかなり鈍くなっていることに、気づき始めていました。
MSNメッセンジャーをたちあげると、オカチさん(仮名)がオンラインです。
オカチさんは私の大学の先輩で、心理学を専攻していらっしゃいました。オカチさんならとにかく自分より冷静で、頭がクリアだろうし、こういう問題にも詳しそうだ。そう考えた私は、すがるような思いで、オカチさんに話しかけました。

そういうときは、まず都道府県の心の相談室に掛けてみるといいんじゃないか?

さらっと返ってきた一文に、私は猛烈に感動しました。そうか、世の中にはそんな素敵な相談室があるのか。しかもフリーダイヤルだなんて。


私は県の心の相談室の電話番号を調べ、かけました。
話し中。
十分経っても話し中。
二十分経っても話し中。

心の電話相談室に、電話が全然つながりません! フリーダイヤルなのに!! もうダメだ!!!

あっという間に弱音を吐く私。しかも混乱しているせいで弱音の内容もなんだかおかしい。

常駐しているカウンセラーの数にも限界があるんだよきっと。少しくらい待つのは当たり前だよ。むしろフリーダイヤルだからこそ掛けてくる人が多くて、話し中なんじゃないか?

落ち着いた答えを返してくれるオカチさん。結局電話が繋がるまでの一時間以上、オカチさんはパニックに陥った私に、忍耐強く付き合い続けてくれました。
オカチさん、あの時は本当にありがとうございました。助かりました。私一人ではどうしていいか、わかりませんでした。心から感謝しています。


トゥルルル、ガチャ。
「はい、○○県心の電話相談室です」
ついに電話が繋がり、穏やかな女性の声が聞こえました。
それから私は一気に、昨夜からの出来事を話しました。頭がまともに働かない状態だったため、話は何度も前後し、言葉はしょっちゅう途切れましたが、女性は辛抱強く、相槌を打ちながら話を聞いてくれました。
やがて私の話が終わると、女の人は優しくこう言いました。
「あなたは今日、起きてから食事をしましたか?」
「いいえ」
「そうでしょうね、ごはんを食べるなんて思いつかないくらい、大変だったんでしょうね。お辛いでしょうね」
優しい声でそう労われた瞬間、私は携帯電話を握りしめたまま、ぼろぼろと涙をこぼし始めていました。
「でもね、あなたまで調子を崩してしまったらもっと大変になるんですよ。ですから、この電話が終わったら、まずは何かあたたかいものをお腹に入れましょうね。食べるのが億劫なら、ホットミルクなんかでもいいですからね」
「あ、ありがとうございます。ありがとうございます」
洟をすすりながら、私は何度も頷きました。


それから電話相談室の女性は、このような場合の手続について、いろいろと説明をしてくれました。
公的機関の助けを借りたいのであれば、最寄の保健所と警察署に連絡を入れればよい。
ただし、その際届けを出すのは家族でなければならない。だからまず私がすべきなのは、セキゼキさんのご両親に連絡を入れることである。
女性が教えてくれた警察署と保健所の該当窓口の番号をメモしながら、私は尋ねました。
「あの……実は彼が昨夜、自分がこんなふうになってしまったことは、絶対家族には教えないでくれ、と言っていたのですが」
「このようなご病気の場合、本人が家族に隠したがるのはよくあることです。だけど、家族でなければできないことがたくさんあって、あなただけで彼を支えるのは無理ですよ。彼の気持ちはわかりますし、彼を裏切りたくないあなたの気持ちもわかりますけど、あなたは今、彼の判断力が正常ではないと考えているのでしょう? でしたら、その彼の判断を基に行動するのは、危険だとは思いませんか? まず最初に何か食べて。それから彼の家族に連絡することを、私はおすすめします」
落ち着いた優しい声と話すうちに、私は少しずつ気力を取り戻し始めていました。
確かにそうだ、この人の言う通りだ。だいたい息子がこんな状態になってしまったことを家族が知らないなんて、それはとても悲しいことだ。
私は優しい声の女性に何度もお礼を言いながら電話を切りました。
「よし。じゃあまず私は、ラーメンを食べに行くぞ!」
気合を入れるために大きな声を出してから私は、自転車にまたがって近所のラーメン屋を目指しました。


あのとき、電話窓口で対応してくださった方。
ありがとうございました。あなたが優しい言葉をかけてくださったおかげで緊張が解け、気持ちがするりと楽になりました。
あの後、とても辛い時になっても、あなたが「たいへんでしたね」とかけてくれた言葉を思い出すと、がんばろうと思えました。
名前すら知らないあなたの優しい声と言葉のことを、私は生涯忘れないと思います。
本当にありがとうございました。助かりました。


自転車のペダルを漕ぎながらラーメン屋に向かううちに、私はだんだん楽観的な気持ちになり始めました。
お腹が空いて寒い状態だと、人間はロクなことを考えない。セキゼキさんはそれに加えて寝起きだったから暴走してしまっただけさ。
そうだ、そろそろお昼時なんだから、セキゼキさんもごはんを食べるかもしれない、あったかいモノをお腹に入れれば、落ち着いて帰ってくるかもしれない。
私はセキゼキさんにメールを送ることにしました。

朝も食べてないからおなかすいたでしょうセキゼキさん。
何かあったかいもの食べた方がいいよ。
私はこれから▲▲の味噌ラーメン食べます。うらやましいでしょう。
セキゼキさんも好きだもんね、ここの味噌ラーメン


食後、私はセキゼキさんの自宅に電話を入れました。
誰もいないかもしれない、と思っていたのですが、休日が不定期なため、たまたまその日お休みだったセキゼキさんのお母さんのキラコさん(仮名)が、電話に出ました。
「お世話になっています。シロイです」
「あらー、どうしたの、こんな時間に?」
訝しげな声を出すキラコさんに、私は事情を説明しました。
セキゼキ・キラコさんというのは、私が知る人々の中で、トップクラスに冷静で、落ち着いていて、頭の回転の早い女性です。
当初は面食らった様子だったキラコさんでしたが、すぐに事態を理解しました。
「連絡ありがとうケイキさん。とにかく様子を見ながら、こちらでも動いてみるわ。あなたは疲れているだろうから、とにかくお家に帰って休みなさい。息子が帰るとしたら、きっとあなたの所だと思うの。何かあったら、連絡をくださいね」
しっかりと落ち着いた、頼り甲斐のあるキラコさんの声を聞きながら、私はやはりご家族に連絡したのは正解だったのだと、そう思いました。


帰宅した私は、セキゼキさんにメールを送りながら、彼の帰りをじっと待ちました。

味噌ラーメンおいしかったよ。
寒い日はラーメンが美味しいね。
夜は二人でまたラーメン食べてもいいと思うな

セキゼキさん、ちゃんとお昼食べましたか?
今日は空気が冷たいから、何も食べないと体がどんどん冷えて
よくないと思うんだ。
まだ食べていないようだったら、とにかく早くあったかい
もの食べるといいよ

セキゼキさん、雲が重くて、なんだか雨も降りそうだよ。
くれぐれも体を冷やさないでね

セキゼキさん、いまどこにいますか?
気が向いたらでいいから、連絡ください。
まってます


返信はありません。
キラコさんは家で待っているようにとおっしゃっていたけど、やっぱり不安だ。
もう一度自転車で近所をまわってこよう。
私がそう考えて家を出ようとした午後三時過ぎ。


セキゼキさんは帰ってきました。


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