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やっと帰ってきたところで、大袈裟に騒ぎ立てたら、セキゼキさん(仮名)はまた外に飛び出していってしまうかもしれない。
そう考えた私は、できるだけ何気ない風を装って、
「おかえりなさい。どこに行ってたの?」
と尋ねました。
セキゼキさんは短く、
「山」
と答えました。
山か……山ね……なんで山なんかに行ったんだろう、だいたいドコの山なんだろう。
「そうかー、山かあ。お昼はどうしたの? 何か食べた?」
「しいたけ」
再び、単語だけの短い返答。
「そうかー、しいたけかあ。山だからしいたけくらい生えてそうだもんなあ。なるほどねえ……」
その時、私の頭の中に浮かんだのは、セキゼキさんが山の中を歩きながら、手近に生えていたキノコをとってそのまま口に放り込んでいる姿でした。
って、ええええええええ!?
「ちょっと、セキゼキさん、そのしいたけって、どこにあったやつ!?」
「まさか、生で食べたんじゃないでしょうね、そのしいたけ?」
「てゆーか、それはホントにしいたけですか? 全然別のキノコの可能性はありませんか? どんな色と形のキノコだったか、ちょっと教えて!」
何気なく、という指針を忘れ、私は思わずセキゼキさんを質問責めにしてしまったのですが、セキゼキさんはぼんやりとした顔でどすん、と腰を下ろし、それきり口を開きません。
しいたけが自生している山なんてこのへんにあるのか? しいたけそっくりの毒キノコなんてあるのかなあ。セキゼキさん、なんかすごく調子が悪そうだけど、メンタルヘルスとは全然関係なく、毒キノコのせいだったりするのかなあ……
私がそんなことを考えて頭を悩ませていると、突然私の携帯が鳴り始めました。
ディスプレイを見ると、「着信中 セキゼキ自宅」の文字。
たぶんキラコさん(仮名)からの連絡だ。どうしよう、今電話に出たら、私がセキゼキさんの口止めを無視して、家族に連絡したことがバレるっ!
携帯電話の電子音が十秒ほど流れたところで、セキゼキさんが口を開きました。
「シロイ……なんで電話にでないの?」
ものすごく気まずくて後ろめたい空気。とうとう私は観念して携帯を取り出し、通話ボタンを押しました。
「お世話になっておりますシロイです」
「あ、ケイキさん? 実は今、警察に連絡したら、捜索をかけるのに写真が必要だって言われたのよ。それで、息子の最近の写真、もしかしてあなたがもっていないかと思って」
「そのことなんですが……セキゼキさん、帰ってきました。たった今」
「あらよかった! ほんとに心配掛けてごめんなさいね。今ちょっと息子と話せるかしら?」
「少々お待ち下さい」
私は携帯電話をセキゼキさんのほうに差し出しました。
「えっとねセキゼキさん、お母さんから電話が入っているんだけど、すごく心配かけちゃったからね……その……電話代わって?」
セキゼキさんの目がぐっと細められました。ゆらゆらっと、目の奥で不安そうな光が揺れます。
「家族には秘密って言ったのに、喋ったなシロイ!」
「ううう、ほんとにごめんなさい。でもやっぱりこういう事態をご家族に連絡しないわけにはいかないと思って」
セキゼキさんは私の返答の途中で素早く立ち上がり、そしてそう、またしても出て行ってしまいました。
私のアパートは1Kしかない狭小な作りですので、入ってくるのも出て行くのあっという間、こういうとき、本当に便利というか不便というか、せめて居間から玄関まで15メートルくらいある家屋でしたら、セキゼキさんもそうは簡単に出ていけなかった筈なのですが。
「あの、すみません、セキゼキさん出て行っちゃいました」
私は仕方なく、キラコさんにそう言いました。
「えっ……出て行ったって……それはどういう……」
「実は昨日、自分の調子が悪いことは親に秘密にして欲しいって、頼まれていたんです私。それなのにそのことを喋っちゃったから、それでどうもショックを与えてしまったようで……まことに申し訳ありません!」
「そんな……どうして……家族と話をしたくないなんて」
理由はどうあれ、息子が自分と話をすることを拒絶して、逃げ出してしまったのです。キラコさんは明らかに多大なショックを受けていました。
「とにかく私、すぐにセキゼキさんを追いかけます。今も走りながら通話している状態ですので、前方にセキゼキさんが見えています。だから、その、大丈夫です。しばらくお待ちいただければ、セキゼキさんを、無事、連れ戻して、ご連絡いたしますので!」
息を切らしながらそこまで言ってから私は、通話を切りました。
それにしても、携帯電話で通話中の私の傍からセキゼキさんが逃げ出すのは、昨日から数えて何回目になるんだろう、携帯が鳴ると走り出すってセキゼキ、きさまパブロフの犬なのか、大体こういうひっきりなしの追跡ってのは、ジャッキー・チェンとかああいうアクションスターの役目だろ、一般人には体力的にキツいっつーの。
そんなことを考えながら走り続けましたが、アクションスターの体力を持たないのはセキゼキさんも同じこと。特に彼の場合は睡眠や食事のリズムがぐちゃぐちゃの状態で山歩きまでしていたわけですから、限界が来るのも早かったのでしょう。
今回の追跡行は比較的すぐに終わりました。セキゼキさんが近所の小さな公園に駆け込み、よろよろとベンチに腰を下ろすのが見えました。
「セキゼキさん、帰ろうよ」
私はセキゼキさんの隣に座りました。
「嫌だ。シロイだけ先に帰ればいい」
「私だけ先に帰っても意味ないよ」
「帰らない。嘘だから」
「え、何が嘘なの? 嘘だから帰らないって、どういうこと?」
「嘘なんだよ。ぜんぶ」
「だからその全部嘘っていうのが何なのか、よくわからないんだけど」
そこから先、セキゼキさんとの会話は、すさまじく困難なものになりました。
これは前日、セキゼキさんが夜の街をぐるぐる歩きまわった時から始まったことだったのですが、とにかく話す内容が混乱しきっているのです。細切れの単語が、バラバラに絶え間なく吐き出されて、四方八方に飛び散っていくような、そんな状態。
広範囲にばらまかれたバラバラの単語を拾い集めて、とにかく私なりに解釈しながら繋ぎあわせていくと、もしかしてセキゼキさんが言いたいのはこういうことなんじゃないのかな、というのがぼんやりと見えてきました。
セキゼキという人間は、生き物として完全にダメな状態になってしまった。でもそのことを会社や家族に知られたらどんなことになるかわからなくて怖い。だから隠して正常なフリをしていたのに、とうとうそれもできなくなってしまった。
なんとか正常なフリを続けなくてはならない。だがもうそれを一人で行うことはでない。だからシロイという人間に助けを求めた。なのにシロイは会社や家族に勝手に連絡を入れて、自分が正常な人間ではないことを暴露してしまった。その結果、会社、家族、シロイが結託して自分の居場所を探し回り、会社に連れ戻そうとしている。
シロイは味方してくれると思ったのに、嘘だった。会社も家族も味方のフリをして、嘘をついている。ぜんぶ嘘ばっかりだ。
(私の解釈が正しいとすると……セキゼキさんのこの状態は、非常にまずいのではないだろうか。ちょっと妄想が出てしまっている気がするんだが)
(正常なフリってなんなんだよう。そもそも電車に乗れなくなってしまった人間がこれまで通りの生活を続けられるわけないだろうに。判断力もだいぶ低下しているんだなあ)
(セキゼキさんが何をどう思い込んでいるにせよ、とにかく目を離してはまずい。それにもし毒キノコを食べてしまっているとすれば、この後症状が出るかもしれないから、そのときは素早く救急車を呼ばなくては)
私はそんなことを考えながら、セキゼキさんの言葉に相槌を打ち続け、「とにかく帰ろう」と繰り返しました。
そうこうするうちに、空気はどんどん冷たくなっていき、ついに小雨まで降り始める始末。
寒さで歯がカチカチ鳴り始めた私が、立ち上がってその場で足踏みを始めると、セキゼキさんはまたしても
「シロイは帰りなよ」
と言いました。
「いくら待ってても無駄なんだよシロイ。だってそのうち、トイレに行きたくなるから。おれは男だからそのへんで済ませることができるかもしれないけど、シロイはそうはいかないだろう? そしたらシロイがトイレに行っている間に、おれは逃げるんだから」
「そのときはそのときだし、私まだトイレに行きたくないし。膀胱の限界に挑戦するのも一興だしねこの際」
そんな風に返しながらも、内心私は不安でいっぱいでした。この寒さでは、トイレに行きたくなるのもそれほど遠い未来ではないはずだし……
公園のベンチにセキゼキさんが腰を下ろしてから、一時間ほど経った頃。
ついにセキゼキさんが立ち上がりました。
「もうわかったよ。降参。シロイの家に戻ろう」
「ほんとに!? よかったー、もう寒くて辛かったんだよ。セキゼキさんも、食事とってないから寒いでしょ」
私は足踏みを止めてぴょんぴょん飛び跳ねながら、喜びました。
「じゃあ、家に帰ったらさっそく、あったまるものを食べよう。ラーメン食べに行ってもいいしね」
「とりあえずまずはコーヒー淹れようか。寒い日のコーヒーは美味しいからねえ!」
私のはしゃいだ言葉はつるつると滑るだけで、どこにも届きません。セキゼキさんの目の奥では相変わらず不安そうな光がゆらゆらと揺れ続けています。
結局、セキゼキさんは、私がアパートの中に入るために背中を向けた間に、またしても逃げました。
私は慌てて外に飛び出しましたが、セキゼキさんの姿は、完全に消えていました。
ぷつっと、頭の中で何かが切れました。
「うっばあああああああああああああああああ」
私は悲鳴をあげながら、あたりをめちゃくちゃに走りまわりました。。
「ぐぐうううううううううううううう」
いない。
「どおゆうことだああああああああああああああああああああ」
どこにもいない。
私は失敗した。最後の最後でやり損なった。キラコさんに、必ず連れ戻しますって言ったのに。
今度こそセキゼキさんは、帰ってこないだろう。
私はとうとう道端にしゃがみこんで、みっともないほどの大声で泣き出しました。
今思えば、あれだけ大きな声を出して、よく通報されずに済んだものだと、しみじみ思います。
「うわあああああああああああああああああああん。セキゼキさんがいっちゃったよおおおおおおおおおおおおおお」
「キノコ食べてどこかにいっちゃったあああああああああああああ」
「セキゼキさんがキノコで死ぬううううううううううううううう」
「セキゼキさんが、死んじゃう、死んじゃう、死んじゃうよおおおおおおおお。都会っ子なのにキノコで死んじゃうううううううう」
「ちょ、ちょっとシロイ、静かにして、悪かった、おれが悪かったから」
気がつくとセキゼキさんがすぐ脇にいました。
おそらく、私の異様な泣き声を聞きつけて、びっくりして戻ってきたのでしょう。
「とにかく、今日は戻るから、シロイと一緒に戻るから」
「うわああああああああん。ごめんねセキゼキさん、ごめんねええええええええええ」
私は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、なんだか一生懸命セキゼキさんに謝りながら、アパートに戻りました。
その後セキゼキさんがキノコの毒にやられて倒れる、ということも特にありませんでした。
それにしても、後から落ち着いて考えると、「キノコ」、「どこかに行っちゃった」、「死ぬ」などという単語を大声で連呼していたあの時の自分も、けっこう判断力が落ちていたんだなあ、と思います。なんかそこだけ聞くと、セキゼキさんがマジックマッシュルームかなんかでトリップしてアイキャンフライとか言いながら、飛び出していったみたいじゃんねえ……
後日、セキゼキさんから受けた説明によりますと。
山では、名物の「焼きしいたけ」が売られており、子どもの頃から焼きしいたけが好物だったセキゼキさんは(子どもの食の嗜好としては妙に渋い気がしますが)、思い出の焼きしいたけを最後の食事として食べたそうで、そのへんに生えているキノコを食べたわけではなかったのです。
だったらさっさとそう説明して欲しかった、と今は思うわけですが、当時の彼はそれどころではなかったのでしょう。
さて、それじゃあセキゼキさんは山に何しに行ったのと言うと、「とにかく誰にも見られない山の奥に入って、そこで全部終わらせようと思った」そうです
しかしながら、名物焼きしいたけが麓で売られてしまっているその山は、案の定名所としてかなり観光地化されてしまっており、危ない場所にはもれなく柵があって進めなくなっているし、柵の周りをうろつくセキゼキさんは大勢の観光客にうろんな目で見られ、「誰にも見られぬままひっそりと山奥に入る」という彼の目論見は潰えてしまい、途方に暮れてウチに帰ってきたんだそうです。
とにかく、そんな風にして、二日間に渡るセキゼキさんと私の繰り返される追跡行は、そこで一度終わったのでした。