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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

八潮久道「生命活動として極めて正常」

「生命活動として極めて正常」は全7編のSF短編集です。
全編を通して感じるのは皮肉っぽいユーモア。ありえないはずなのにありえそうな奇妙なリアリティを伴った、ついくすっとしてしまうのだけれどもなんとなく笑ってはいけないものを笑ってしまっているという感覚を突きつけてくる、そういう短編集でした。
インターネットで見かけるあれやこれやをうまい具合にSFとしてまとめたお話が勢揃いですので、インターネット大好き人間(私もそうです)には、おすすめです。
この中の「老ホの姫」が面白すぎたので、その感想を記録しようと思います。

「老ホの姫」は、入居者33名中32名が男性という老人ホームの、姫(男性)と騎士たち(男性)のお話です。
何を言ってる? え、どういうこと? などとお感じになる方もいらっしゃると思いますが、私も最初はそうでした。というかたぶん読者はみんな面食らうんじゃないでしょうか。

オタサーの姫、という概念がありますよね。
男性ばっかりのサークルやグループに女性メンバーが一人入ると、多少容姿や人格に難があっても女性であるというだけでちやほや姫扱いされたりすることってあるよね、というあれですね。あの概念。大体ネットで2010年代頃から使われるようになったやつ。
ちなみにオタサーの姫をちやほやする男性メンバーのことは、騎士と呼ばれます。
あの「オタサーの姫」という概念を極限まで突き詰めた先に生まれた新たなる姫が、老人ホームの姫(男性)となったわけです。

このお話は全く先が読めませんでした。
何を言い出したんだこの作者は、という動揺が引いてだんだん世界観を受け入れ始めてからも、その結果一体どうなるんだというのが読んでいて本気で予想できませんでした。
そしてまた、めっぽう面白い話でもありました。

何と言うかこの本ぜんぶのお話がそうなんですが、笑ってしまうユーモアがあって、でもそのユーモアはとても皮肉っぽくて、どこか悲しいものです。
滑稽な悲しさ、と言いましょうか。
愉快なクラウンではなくて、笑いと悲しさが同居するピエロの味わい。

年を取ったら穏やかな老後を過ごしたいと、そう願う人は多いと思うのです。
縁側で日向ぼっこをして、茶飲み友達とお茶を啜って、孫をかわいがって。とかまあ、そういうふんわりとしたイメージをなんとなく抱いている方は多いんじゃないかと。
だけど本当に老後が穏やかになるかどうかなんて当たり前だけどわからない。
だって周りを見てみれば穏やかじゃない老後を過ごしているお年寄りは、大勢いるのですから。
私は穏やかじゃないお年寄りを見ると、胸のどこかが苦しくなったりします。
この年になるまでいろんなことがあって、時にはサボったりもしたかもしれないけど、それでもその時その時を懸命に生きてきた筈で、そういう積み重ねの末にたどり着いたのが到底穏やかには過ごせない老後というのは辛いな、とそんなふうに感じてしまって。
当たり前だけど人生はハッピーエンドとは限らない。
むしろハッピーエンドは珍しいものなのかもしれないと、そんなことを思い知らされて、ひやりとするわけです。

「老ホの姫」の舞台となっている老人ホーム「サテーンカーリ崎宿 参番館」は有料の、それもなかなか高級な老人ホームであるらしいことが描写されます。
入居者たちは基本的に裕福で、多かれ少なかれ成功を収めたであろう人たちで。
いかにも豊かな老後を過ごせそうな、そう思わせる男性たち。
ここにまず、最初の悲しみがあります。成功者であっても人生の最終盤にたどり着くのは老人ホームなのだなあ、という物悲しさ。

そして老人という存在にはつい歳月を重ねてきたがゆえの叡智を期待してしまいがちですが、「老ホの姫」は別に年をとってもひとは賢くなれないよ、という身も蓋もなさを突きつけてきます。
オタサーの姫」という概念を口にする時、人はそこに登場する姫や騎士を賢者としては見ていないわけです。
肥大した自己承認欲求とか、性に振り回されてしまう悲しさとか、そういう人間の愚かな側面を揶揄する概念ですからね、「オタサーの姫」は。
年をとって性に振り回されることがなくなり、成功者として穏やかな老後を送っていてもいい筈の男性たちが、実際には騎士として姫(男)をちやほやしてますよ、というのが「老ホの姫」という話なわけです。
しかもまあ、出てくる老人たち、なんというか今現在は老人ではないインターネット大好き人間たちの老後として、なんかすげーそれっぽく絶妙なリアリティをもって描かれています。
インターネットのあちこちで見るあんな人こんな人を彷彿とさせる老人たち。
あ、これ今この本を読んでいる私たちの未来なんだ。
インターネットでしょうもない悪ふざけを繰り返している私たちは、どんなに成功したとしてもこういう、穏やかじゃないし叡智持つ老人にもなれない老後を過ごすんだ。
と思わせてくるわけです。

これだけ言うと、「なんだか救いのない物語なのだなあ」という感じになりますよね。
だけどそれが、違うのです。

物語の中で、高齢男性である姫が覚悟を持ってその役割に向かい合っている様子が描かれます。
例えばアイドルソングをしっかりと振り付けを覚えて歌い踊るためには、トレーニングが必要なわけです。
それはもう、お年寄りには過酷なほどのトレーニングが。それを姫は、決して欠かさない。
そしてものすごくきめ細かに、入居者たちとの人間関係を築いていきます。一人ひとりを執拗なほどに観察し、時にはその経歴までも調査してパーソナリティを掴み、その上で距離を詰め、そうやって新たな騎士を生み出していく。恐ろしく丁寧に慎重に、騎士へと変えられていく入居者たち。
若くもなく女性でもない彼が、それでも姫ポジションで居続けるためには、凄まじい努力が必要であるわけです。
その覚悟と努力がきっちりと描かれているからこそ、老人ホームで老人たちが男性の姫をちやほやするという、当初はあり得ないとしか思えなかった光景にしっかりとリアリティが宿ります。
そしてこのリアリティを伴った姫の姿が、この滑稽で悲しい物語に救いを宿らせるのです。

オタサーの姫、という言葉には多かれ少なかれどこか軽侮が潜んでいたりします。
オタサーの姫は、そしてオタサーの姫の信奉者である騎士たちは、何となくバカにされる人たちだったりします。
ですが老人ホームの姫は、その圧倒的な努力と覚悟によって侮りを吹き飛ばします。
老人で男性なのに姫という、わけがわからない矛盾した状況が逆に「オタサーの姫」というという言葉にまとわりつく生臭さを脱臭してしまうのです。
その時私は、男性だろうが老人だろうが関係ない、この人は魂が姫なのだ、という気持ちになりました。
魂がこれほどまでに姫なのだから、もうこの人は誰よりも姫だろう、という気持ちに。
そうなるとこの姫をちやほやして楽しんでいる騎士たちは、ものすごく幸せなんじゃないかと思えてきます。
穏やかでも賢くもない老後であるはずの「サテーンカーリ崎宿 参番館」の生活が、いきいきと楽しいものに見えてくるのです。
滑稽で悲しいと、そう思わせていたはずの構図が裏返る瞬間が訪れます。
穏やかな老後とはつまり、刺激がなくて退屈な時間なのだという見方もあるよな、と思い直すわけです。
だからこそ老人ホームで姫と騎士たちがキャッキャウフフしているのはとても楽しそうでこういうのも悪くないな、というかこういうのがいいな、と思えてきます。

そしてそう思うようになったあたりで、物語はまた激しく動きます。
ネタバレになるのでもう詳細は書けないのですが、物語のオープニングよりも更に力強いわけのわからなさで物語は怒涛のように荒れ狂っていく。
滑稽で悲しかったお話が、奇妙な熱狂と救いを持った物語になります。
物語が変化したというよりは、「滑稽な悲しさ」と「熱狂と救い」が両立するのです。
全然予想できなかったのに、終わってみるとこうなるしかなかったな、と思わせる結末でした。


他にも「命はダイヤより重い」と「追放されるつもりでパーティーに入ったのに班長は全然追放してくれない」もお気に入りです。


今回、この「生命活動として極めて正常」は、株式会社KADOKAWAから献本を受けたものです。
楽しく読ませていただきました。ありがとうございました。