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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第7話~前よりマシでも治ってはいない

 本日2月24日に『むしろウツなので結婚かと』の第7話が更新されました。
comic-days.com

 スーパーラッキーで合う薬がスピーディーに見つかったセキゼキさん(仮名)。じゃあコレで何もかもオッケーで心安らかに過ごせるようになったかというとちょっと違ったんだよね、というのが今回の話です。

 薬の力でセキゼキさんの生活は、何とか落ち着きました。
 夜はそれなりに眠れるようになり、昼もそこそこ落ち着いて過ごせるようになりました。
 この頃セキゼキさんが自分の症状について語った言葉を、私は今でも覚えています。
「毎日ずっと苦しい。腹の中で真っ赤に焼けた鉄のイバラがのたうち回っているみたいなんだ。薬はすごい。効き始めると鉄のイバラがすーっと冷えて、静かになる」
 この言葉で印象深いのは、鉄のイバラとやらが消えていないという点です。
 セキゼキさん以外の人たちがどんなふうに感じているのかはわかりませんが、少なくともセキゼキさんにとってはこんな感じだったそうなのです。
 薬は確かに効きますしありがたいものですが、全ての問題を解決してくれるわけではないのです。
 ずっしりと重く鋭い棘を持った鉄のイバラは、冷えて静かになったとはいえ腹の中にあって、消えない。

 この時期、私たちの暮らしは少し前に比べればだいぶ落ち着いてきました。
 平和で穏やかで満ち足りた、と言えないこともない暮らし。
 一方で私たちはこの暮らしが薄氷の上にかろうじて成立しているものであることを、共に理解していました
 眠れるようになった、料理もできるようになった。それはすごい。
 けれど調子が悪くなってほとんど一歩も動けないような日も依然としてあるし、テレビも見られず、本やマンガは読みたくても読めない。
 それはやはり「健康」とか「正常」とか、そういう言葉からは遠い状態なのでした。
 不安定で危なっかしくて、一歩踏み外せばかんたんに冷たい深みに落ち込んでしまうであろう、かりそめの平和。

 私はこの頃、セキゼキさんの回復をただ喜んでいました。
 けれどセキゼキは、回復できていない部分あることに、焦り続けていました。
 そう言うとセキゼキさんが悲観的で私が楽観的な人間のようですが、そう単純でもないのです。
 セキゼキさんは
「早く治りたい」
 とよく言っていました。
 ですが「治る」とは一体、どういうことなんでしょうね?
 治るというのが元通りになるということだとすればそんなことはもうないんじゃないか。と私はこの時点で思っていました。

 私の職場には心を病んで休職する人が、大勢いました。
 その中の何人かは数ヶ月や数年の時を経て、また仕事に戻ってきます。
 休職する人も復職する人も、私は大勢見ました。
 けれどその中に復職してからまた元通り働けるようになった人は、一人もいませんでした。
 戻ってきてもしばらくするとまた調子を崩し、いなくなってしまう人ばかりだったのです。
 なぜそうなってしまうのかは、私にはわかりませんでした。
 単純に労働環境が悪いからかもしれません。別な場所であれば、問題なく働けたのかも。
 それもともこの病気になると、一日八時間の労働というのがそもそも無理になってしまう可能性もあるよな。
 などと考えていることを、私はセキゼキさんの前では口にすることができずにいました。

 セキゼキさんが
「早く治りたい」
 と言う都度私は
「精神科の世界では治るって言わないんだよ。病状が穏やかになることをさす『寛解』という言葉を使うんだよ」
 と言いました。
 そうするとセキゼキさんは納得のいかないような顔をして
「ちょっとした用語の違いなんてどうでもいいよ」
 などと返すのでした。
 けれどこれは単純な用法の違いではない、と私は考えていました。
 病気になってセキゼキさんの人生は変わってしまったのだ。
 この変化は不可逆性のもので、だから「元通り」なんてことはありえない。
 そもそも人生というのはそういうものだ。「卒業」したり、「就職」したり、「成長」したり、一方通行の変化が起こり続けるものなんだ。
 だったらその中には薄氷の上でしか暮らせなくなるような、そんな変化もあるだろう。
 その変化を受け入れて、どうすればうまく薄氷の上で暮らしていけるのかを模索する。
 それが寛解ということなんじゃないか。
 私はそう思っていたのです。それは「諦め」にとても近いものでした。
 多くを望まないほうが、楽だったのです。

 マンガの中にもありますがこの頃の私は、
「もうこのままでいい」
 と思っていました。
 そこそこ平和で穏やかな時間であればもうそれでいい、と。
 もちろんそれはセキゼキさんを満足させる考えではありませんでした。
 だってそれじゃ、結婚は無理だ。子供は絶対に持てないし、生活はカツカツでそれがずっと続いて、上がり目なんてない。
 そんなのいいわけがない。
 おれはどうしたって元のように働けなくちゃいけない。
 それがセキゼキさんの言い分でした。
 その気持ちも、私にはよくわかりました。私だってこれからずっと自分たちは薄氷の上で暮らすしかないのかと思うと、痛みを感じずにいられなかったからです。

 結論から言えば、私たちはふたりとも間違っていました。
 セキゼキさんが期待したように、完全に元通りの自分になる日は来ませんでした。
 けれど私の諦めのように、回復があの時点で止まることもなかったからです。
 そしてまた、完全に元通りではないということも、それはそれで悪いことでもありませんでした。
 自分の希望する通りにいかないことに絶望するのも、そのほうが楽だから簡単に諦めるのも、どちらも違うんですよね。
 変化を認めることは、諦めや絶望とは違うのです。
 希望を抱くためには、変化を拒絶しなければいけないわけでもないのです。

 ところであの頃、日中の孤独が辛い時間の経つのが遅いと訴えるセキゼキさんのために、私は自分の持っているおすすめマンガをピックアップしたのですが、何を考えて山岸凉子の「天人唐草」や「夜叉御前」を勧めてしまったんでしょうか。

天人唐草

 明るく無邪気な響子は、保守的で厳格な父親のもと、抑圧されて育つ。その結果、控えめでおとなしく他者の目を異常なまでに気にする女性になってしまう。
 真面目ではあるが、誰とも打ち解けることはできず、ひたすら内にこもる弱々しい響子。
 自分の人生に向かい合えず、世界から逃げるように生きる彼女を悲劇が襲う。
 すべての拠り所をうしなった彼女は、狂気の世界に解放される……
 平凡な人間が、どこにでもありそうな出来事の連続で容赦なく追い詰められ、狂気に堕ちていく救いの無さ。後味の悪いサイコホラー。

夜叉御前

 引っ越してきた家に鬼が住んでいることに気づく、15歳の少女。鬼に怯えながらも、幼い弟妹や病身の母に負担をかけまいと、気丈に振る舞う。
 密やかな苦しみは続き、鬼はあの手この手で少女を攻撃する。
 クライマックス。これまでオカルトと思わせてきたこの物語は、現実の苦しみに耐えきれなくなった少女が作り出した幻想であったことが暴かれる。
 鬼に襲われながらの暮らしのほうがまだしも救いがある、そう思わせる現実とは一体……!?
 終盤の大ゴマとそれに続く「お前も死ぬのだよ紀子!」以上に怖いシーンがある漫画が、ちょっと思いつかないレベルに怖い。

「ごめん、読めない」
 と言われ、
「あんなにマンガが好きだったセキゼキさんが読めないなんて」
 とショックを受けたのですが、あらためてあらすじを振り返るとそりゃ精神状態の悪い人が読めるマンガじゃないだろ、なんでそういうのばかりよりすぐったの、私はバカなの? としか思えません。
 とりあえず、「鉄子の旅」を買っててよかったです。