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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

花を見ていた少年

 中学生の時、大幅に遅刻して先生に遅刻の理由を尋ねられ
「花を見ていました」
 と答えた同級生がいました。
 彼のこの返答に教室はざわめき、それまで怒りを浮かべていた先生も
「なにおまえその……風流なの……?」
 と一瞬毒気を抜かれたようになったのが印象に残っています。
 彼の名前はドウシくん(仮名)。ドウシくんには他にも楽しいエピソードがあります。
 やはり中学の時のこと。理科の時間、先生がNHKのドキュメンタリー番組を見せたことがありました。
「驚異の小宇宙・人体 『生命誕生』」
 というその番組は、精子卵子の出会いや胎児の成長を克明に追ったドラマチックなものでした。
 中学生たちはみなけっこう真剣に感動しながらその番組をみていました。特に三億という膨大な数の精子卵子を求めながらもそのうちの99%までは死滅していくというくだりは、なかなか衝撃的なものでした。
 番組が終了し教室に少しずつざわめきが戻り始めたそのとき、ドウシくんが自分の胸のあたりをおさえながら
「三億分の一でたどり着いたのか……よくがんばったな、おれ」
 とつぶやいたのが聞こえました。
 そのしみじみとした実感のこもった口調が妙におかしくて、みなが笑いました。
 私はこの二つのエピソードが好きで、よく人に話しました。どちらもなかなかウケがよく、そこそこ笑いのとれる鉄板エピソードとなったのでした。

 ドウシくんと私は幼馴染みです。
 幼稚園から始まって中学を卒業するまで、ずっと同じクラスでした。
 それはドウシくんだけではなくて、私たちの故郷はど田舎だったためにずっと一つのクラスで同じメンツと顔を合わせて育ちましたので、クラスメート全員が幼馴染なわけですけど。

 幼稚園の頃、私は落ちこぼれでした。
 不器用で工作やお絵かきは下手くそ。
 かわいらしいお洋服を着ていたり、素敵な髪型だったりもしない。
 足は遅いし、よく転ぶ。
 なんの取り柄のないこども。それが私でした。
 別にだからといって悩んだり苦しんだりしていたってほどでもなかったんですが、やっぱり少しは悲しかったんですよね。
 小学校に入学した私はほどなくして、どうやら自分は勉強はそれなりにできるらしいということに気づきました。
 これはとても嬉しかった。自分にも何かひとつぐらいできることがあるのだと、その時初めて感じたのです。
 そして小学校一年のある日、私たちは生まれて初めて作文を書くことになりました。
 私は本を読むのが好きな子供でした。ですから何かを書くという体験が興味深く感じられ、わくわくしていました。
 宿題の作文を夢中になって書き上げ、得意になって母親に見せに行くと、彼女は赤鉛筆を手にとりました。
「これはこのままでいい? それともよくする?」
 母は尋ねました。
「この作文をこのまま持っていっても、先生が怒ったりすることはないし、何の問題もないと思う。だけどもし、ケイキがもっと良い作文を書きたいと思うなら、お母さんが少し手伝ってあげる。どうする?」
 私はそれまで知らなかったのですが、独身時代の母はフリーの編集者兼ライターだったそうなのです。
「てつだって」
 と私は頼みました。
「よくなるなら、よくしたいよ作文。そのほうがたのしいもん」
 すると母は赤鉛筆でどんどんと修正を入れ始めました。
「ここ、ただなんとなく改行しているでしょう。そうじゃないの。ほんとはぜんぶ意味があるの」
「この文章は本当に要るかな? さっきと同じことを書いているだけじゃない?」
「こっちは逆にもっと説明しないと読む人はわからないんじゃない?」
 私は驚きました。
 自分の文章がなんだかうまくまとまっていないことには、薄々気づいていたのです。どうすればいいかわからなかっただけで。
 母の手が入ると、みるみるうちに言葉はきちんと並び、生き生きと情景を物語るようになりました。
 なんて面白いんだろう。
 私は母の言葉に従って作文を直し、それをまた彼女に見せ、更に修正を重ねました。
 やっと赤鉛筆が入らない作文を書き上げた時は、確かな達成感がありました。
 その作文を提出して数日後、私は職員室に呼ばれました。
「ケイキちゃんの作文とても良かった。がんばったね」
 先生はまず褒めました。
 私は嬉しくてニコニコしていたのですが、先生がちっとも笑っていないことに気づいて、自分も笑うのをやめました。
「だからこそ先生は、最初にケイキちゃんにお話をしなければいけないと思いました」
 と彼女は言いました。
「この間みんなに出してもらった作文は、その中から一本だけ、一番いいのを選んでコンクールに出すことになっています。ケイキちゃんの作文は本当によく書けていた。でもケイキちゃんの作文は、コンクールには出しません。ドウシくんの作文をコンクールに出します」
 いつも笑っている先生が、その時は苦しげな表情を浮かべていました。
「二人とも本当にとても良い作文だったから、先生はすごく悩みました。どちらを選べばいいのか、ずっと考えていました。先生は今回ドウシくんの作文を選んだけれど、ケイキちゃんの作文もすばらしかった。先生がそう思っていることを、伝えておかなくてはいけないと思ったんです」

 数ヶ月後、クラス全員の作文が冊子にまとめられ、各家庭に配られました。
 私は父がその冊子を読みながら楽しそうに笑っているのを見ました。
 覗き込むとそこには、ドウシくんの名前がありました。
「お父さん、ドウシくんの作文そんなに面白いの?」
 私はそこで初めて父に、自分の作文が先生には選んでもらえなかったという話をしました。
 すると父は感心したような顔をしました。
「なるほど、先生は正しいなあ。おれもそうすべきだと思う。ケイキの作文は悪くないけど、どちらかを選ぶならやっぱりドウシくんだよ」
 どうして、と私は訊きました。
「テクニックの話だけで言えば、ケイキの方がずっとうまいんだよ」
 と父は言いました。
「うまくまとまった、いい作文だ本当に。だけどドウシくんの作文は、そういうんじゃないんだよ」
 それから父はドウシくんの作文の中の一箇所を指しました。
「ここを見てごらん」
 ドウシくんの作文は友達の誕生会に招かれて、みんなで楽しく遊んだ時のことを書いたものでした。
 父が指差した箇所には、こうありました。

 たくさんのごちそうがならんでいて、とてもおいしそうでした。ぼくはいやしいので、早く食べたくてもじもじしました。

「ケイキはね、うまく書こうとしてるんだよ。上手で良い作文を書こうとしてる。それは別に悪いことじゃない、当たり前のことだ。
 でもね。ドウシくんは良い作文を書こうとか上手に書きたいとか、そういうことは考えていない。
 ただお誕生会がどんなに楽しかったか、そのことをありのままに伝えようとしているだけなんだ。
 ドウシくんは、自分を良く見せようとしない。だから『ぼくはいやしい』と書ける。それがすばらしい。
 チェーホフっていう、外国の偉い人がいるんだけどね。その人は『雨が降ったら雨が降ったとお書きなさい』って言ったんだ。本当にその通りだと思う。だけどそんなふうに書くことは、実はとても難しい。
 それがドウシくんには出来ているんだ。すごいことだよ」
 小学一年生には父の言葉は難しく、すべてをその場で飲み込むことはできませんでしたが、私の頭の中にずっと残り続けました。

 ドウシくんはあしがはやいし、ボールなげもうまいし、できることがいっぱいある。
 それなのに作文でもわたしよりずっとすごいなんて、そんなのずるいじゃないか。
 わたしはドウシくんよりももっと、良い作文を書けるようにならなきゃ。

 そんなふうに考えた私は、それから作文コンクールの入賞作がまとめられた文集を見つけて読みました。難しい漢字が並んだ上級生の作文も、大人に字を教えてもらいながら、懸命に読みました。
 読書感想文コンクールの文集も読みました。過去のコンクールの文集も読みました。休み時間、私は教室の本棚に張り付いて、文集をひたすらに読み続けました。

 その甲斐があったのでしょうか。
 ドウシくんの作文がコンクールに出されたのは、小学校一年生の時ただ一度のことでした。
 翌年、コンクールに出す作品として選ばれたのは私の作文でした。その次の年も、その次の次の年も。私の作文は毎年のように、コンクールに送られるようになりました。
 大体において他の子供たちにとって、作文などというのは手っ取り早く終わらせたい課題に過ぎなかったのです。少しでも良い作文を書こうなどと思っている人間は、私だけでした。
 作文コンクールで私は入賞し、表彰状を貰いました。もっと良い賞が欲しい、と私は渇望しました。
 そうして小学校六年生の時にとうとう、特選をもらうことができました。文集のトップに、私の作文が載ったのです。
 嬉しいはずなのに、私の心の底はずっと冷えたままでした。
 だって私の作文を読んだ父が、ドウシくんの作文を読んだ時のように目を細めながら笑うことはなかったのです。
 あんな風に手放しに褒めてもらえることもなかった。
 その頃には、自分でもだんだんわかってきていました。
 良い作文を書こう、少しでも良い賞を貰おうとする私の努力は、どこかがひどく間違っているのだと。

 そして中学生になり、遅刻したドウシくんが
「花を見ていました」
 と言ったとき私はみんなと一緒に笑いながら、打ちのめされていました。
「なんだよそれ」
「平安貴族かよ」
「言い訳になってねえ」
 みんなそんなことを言っていて、私も同じようなことを言って笑いながらもその裏で、
(あーだからドウシくんはすごいんだ)
 と感じていました。
 遠い昔の父の言葉の意味を、私はやっとその時理解したのです。
 ちょっと気の利いた人間なら遅刻の理由なんて、いくらでも適当にでっち上げるでしょう。
 体調が悪かったとか言って、先生の怒りを回避しようとするでしょう。
 でもドウシくんはそんなことはしません。
 花を見ていたから花を見ていたと、ただありのままに答えるのです。そんなことを言ったらどう思われるだろうとか、よく思ってもらえるようなことを言おうとか、ドウシくんはそんなことを考えないのです。
 言葉で取り繕ったり飾ったり、ドウシくんはしない。しようと考えることすら、ない。
 私は自分が今までやってきたことがいかに愚かしかったかに気づき、恥ずかしくなりました。
 過去の入賞作を読み込んで審査員に受けそうな型を見つけて、それに合わせた作文を書く。私がこれまでしてきた努力というのは、そういうものでした。それはドウシくんの在り方から、なんと遠いのか。
 それから私は、作文コンクールで上位入賞をしようとする努力を一切やめました。
 大人が好きそうな題材、好きそうな言葉、好きそうな書き方を模索するのではなく、ただ自分が面白いと思うものだけを書くと決めたのです。
 それでもやはり、うまく書きたいという気持ちは消えないのですけれど。すべての飾りを捨て去ることも、結局はできないのですけれど。
 だけど考えてみれば、虚飾を嫌う姿勢というのもそれ自体が飾りです。
 ドウシくんはきっと、飾ることが嫌だということすら思わないはずです。
 飾ろうなんて最初から思わない。あるいは
「もちろん自分だって人からよく思われたいよ」
 と正直に認めるのがドウシくんだと思います。
 なんてね。
 所詮、私はドウシくんのような人間には絶対になれないので、本当はちっとも彼のことがわかっていないんでしょうけど。
「花を見ていました」
「よくがんばったなあ、おれ」
「ぼくはいやしいので」
 どの言葉も本当の気持ちがあまりにも素直に表現されたものだからこんなにも鮮烈な印象を残すのだと、私は思いました。
 私はこれらの言葉を忘れない。
 この先何十年か続く人生の最後まで、思い出として持ち続ける。
 私はドウシくんに負けている、勝てない。
 私は飾らない人間にはなれないし、そのくせそんなそんな自分を見透かされたくないと思い続けるだろう。飾りの多い人間だと思われたくないがために、飾り気のない人間を演じたりするかもしれない。
 この敗北は、生涯続く。
 だけど私にもわかることはあって、ドウシくんは正直で誠実で心の柔らかい、いいやつなんだってことはわかる。それがどんなにすごいことかも。そういう人間になりたいと思うし、なれなくても憧れることはやめられない。
 だから、よかった。負けてよかった。自分が負けていることを知っている限り私は、この憧れを抱え続けることが出来る。
 この憧れが胸の中にあるだけで、自分のことがマシに思える。
 だってドウシくんに憧れるってことは、いいやつを目指すってことだもの。これは悪くない。全然悪くないよ。
 ドウシくんは、私にとっての恩人だ。

 中学を卒業して別々の高校に行って、それきり私たちの人生は離れました。
 会うこともほとんどなくなりました。元々親しい友人であったわけでもないですし。
 それでも十二年間も一緒のクラスだったという繋がりは残ります。
 私たち同級生は、全員ドウシくんの結婚式に招待されました。
 素晴らしい式でした。
 新郎新婦は似合いの美男美女で。
 みんながニコニコしていました。
 ドウシくんを祝うために駆けつけた人たちが大勢いました。
 高校の仲間、大学の仲間、職場の仲間。みんながドウシくんははいいやつだ、幸せになってほしいと、笑っていました。
 あたたかくて美しいエネルギーに満ちた、幸せな日でした。

 そこからさらに数年、ドウシくんから電話がありました。
「来年同窓会をやろうと思うんだ、おれが幹事で。ケイキちゃんは参加できますか?」
 私はすぐに「行く」と返しました。
 即答だったので、ドウシくんは少し驚いたようでした。
「そんなにすぐ決めていいの? 用事とか大丈夫?」
「大丈夫だよ。万難排して行きますよ」
 と私は言いました。ドウシくんが幹事なんだから、と心の中で付け加えながら。
 ドウシくんは
「助かります。じゃあ他のやつらにも電話をかけなきゃ。それじゃあまた」
 と言って電話を切りました。
 それが最後になりました。
 その数ヶ月後にドウシくんは死んでしまったからです。
 あまりにも急なことで、何の心当たりもなかった私は、驚きました。
 電話で話した時は元気だったし、病気とも怪我とも聞いていなかったのに、どうしてそんなことに?
 私の問いに、答えは返ってきませんでした。
 ドウシくんの死因は伏せられていたのです。
 けれど伏せられるという事実がすでに雄弁です。
 ドウシくんの職場はひどいパワハラの横行する場所だったということを、私はしばらくして知りました。
 以前彼が働いていた会社は、ドウシくんに合った、働きやすい場所だったようです。
 ですが結婚して子宝に恵まれ家を建てたドウシくんは、別の会社からもっと良い収入でこちらに来ないかと誘いを受けた時、その誘いにのったのです。
 たぶん家族のためを思ったのでしょう。そういう人でしたから。
 ドウシくんの職場でドウシくんと同じように亡くなった人間は、他にもいたのだという話も後から聞きました。
 ドウシくんのお葬式にその職場の人は一人も来ていなかったそうです。以前勤めていた会社の人たちは、大勢来ていたというのに。
 その頃プライベートで色々なことがあった私も、結局ドウシくんの葬儀には行けませんでした。
 そのことがひどく辛くて私は、葬儀の日には風呂場で一人泣きました。
 私はいつかドウシくんのお母さんのところにお線香をあげに行きたいのですが、よりによってドウシくんの亡骸を見つけてしまったのはお母さんだったということもあって、別人のようになってしまったのだと聞きました。
 私がドウシくんのお母さんに最後に会ったのは、あの結婚式でした。記憶の中の彼女は、輝くような笑顔を浮かべています。
 フロックコートを着たドウシくんとその隣の綺麗な奥さんを眺める彼女の目は、うっとりと細められていました。
 この美しい幸せな記憶が、どうしようもない悲しい現実に上書きされてしまうのが嫌で、私は今だに線香をあげに行けずにいます。
 こんなの言い訳にもなってないって、自分でも思いはするんですけど。

 ドウシくんと彼の言葉のことは、この先何十年も抱えて行くだろうと思った通り、未だにしっかりと覚えています。
 だけど本当はこの思い出は全部、微笑むためのものだったのです、
 悲しかったりやりきれなかったりする時に思い出して、ちょっといい気持ちになるものだったのです。
 それらはすべて、今では痛みに変わりました。
 生きていて欲しかった。
「よくがんばったなあ、おれ」
 そう言ってたじゃないかドウシくん。そのよくがんばって辿り着いた三億分の一に、こんな結末を迎えさせないでくれよ。
 生きていて欲しかった。
 ドウシくんが真面目ながんばりやだったのを、私は知っている。他人の言葉や気持ちをどこまでもまっすぐに受け止めるタチだったことも。どちらも美点なのに。
 パワハラが横行する職場でそんなドウシくんがどれほどつらい思いをしたのか、まともに考えるとおかしくなりそうだ。
 生きていて欲しかった。
 私はドウシくんに敗北して、これは生涯続くと思って、でもそれが嬉しかったのに。
 この憧れはずっと、私は力づけてくれるものだったのに。
 これが自分勝手な言い分なのはわかっているから、それは謝る。ごめんなさい。だけど。
 生きていて欲しいんだよ。今もそうなんだよ。あの日からずっと、そう思っているんだよ。
 私は今もドウシくんに負け続けているのに、ドウシくんはもう、この世にはいないのです。