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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

宇宙ひとつぶんの向こうで

ヒソダさん(仮名)はとてもいい人です。
いい人だよね、と言われる人は大勢います。というか世の人々の多くは、「どちらかといえばいい人」に入るのではないでしょうか。
ですから、「いい人」ってのは別に珍しい存在ではありません。
けれど、ある人にとって「いい人」に思える誰かが、別の誰かにとってはちっとも「いい人」なんかじゃないってことも、よくある話です。
そういう意味では、ヒソダさんはとても珍しい人でした。だって誰もが、彼を「いい人」と褒めるのですから。
ヒソダさんてああ見えて実はちっともいい人じゃないよね。そんな陰口を一切叩かれることがなく、
「ヒソダさんてどんな人?」
という問いに皆が口をそろえて
「いい人だ。とてもいい人だよ」
と答えるというのは、なんだかすごいことだな、と十年前の私は思っていました。


その日も私は、「ヒソダさんはいい人だね」と言いました。
すると友人のルルカ(仮名)は、ぎゅっと眉をひそめました。
「いやだな」
ルルカはぼそりと呟きました。
「シロイって、つくづく凡庸だよね。『夏は暑い』ってのと同じくらい無意味な台詞を、よくそうやって口に出せるわ。それ、本気で言ってるわけ?」
私はいささかたじろぎました。
「あれ? もしかしてルルカはヒソダさんをいい人だとは思ってないってこと? 今の口ぶりからすると」
ふん、とルルカは鼻を鳴らしました。
「そんなの、思ってるに決まってんでしょ。あそこまで悪意も害意も一切感じさせない人間に対して『いい人』以外の評価を下せるわけがないじゃないの」
「じゃあ、なんでちょっとつっかかり気味なわけ?」
「凡庸なりに考えてみれば?]
「下手の考え休むに似たりとも言うからね。凡庸な人間は、教えを乞いたがるもんです」
「……大抵の人間はね、どんなにちんけでひ弱なもんでも、一応牙は持ってんの。そんでそれを、隠してんの。隠したはずの牙が、それでもなんかの拍子に見え隠れするのが、そいつが生きてる人間だって証拠」
「なるほど。なんかその表現はわかるな」
「牙が見えないのは、死人くらいのもんで、場合によっちゃ死人の牙だって、見えるもんなのにさ。ヒソダの牙を見た奴は、どこにもいないんだよ? だからみんなに『いい人』とか言われちゃうわけでしょ」
「それってすごいことなんじゃないの? 鉄の自制心ってことだもんね」
「ふむ。それが自制だってことくらいはわかるわけね。牙がもともと生えていない人間だとは思わないんだ?」
「えー、だってー、生えてない人は、普通あり得ないからねえ。それを上手く隠して飼い慣らす技術が、いわゆる社会性ってやつじゃないの」
「はい、それはその通り。だけどね、あたしは、ヒソダは牙を隠してるわけじゃないと思うよ」
「どゆこと? 牙なんてもともとないってこと?」
「全然違う。もっと考えろ。たぶんヒソダは、牙を抜いてるんだよ。麻酔もかけずに、血を流しながら、無理やりペンチで牙を抜き続けてるんだよ、歪んでるよね、虫唾が走る」
吐き捨てるようにそう言って、ルルカはぎろっと私を睨みました。
「ヒソダに、じゃないよ。無責任に『ヒソダさんていいひとだよねー』って言えちゃうやつらに。結局そいつらの言う『いい人』ってのはさ、頭に『どうでも』とか『都合の』ってのがつくんだよ。自分の言葉が相手をますます歪めていくってことが想像できない、鈍感なやつら」
「あー……つまり、私みたいな人間のことね?」
「もちろん、シロイもそうだね。ヒソダのことを褒めるくせに、そのくせヒソダのことを考えない人間が、あまりにも多すぎる」


虫唾が走る、と評されたことよりも、ルルカの言葉が実際にかなり正確だ、ということのほうが、私にはよりショックでした。
その時私は、自分がヒソダさんを自動販売機かなにかのように、思ってしまっていたことに気づいたのです。たぶんそれは、私だけではなかった。「ヒソダさんはいい人だ」と言う人間は、皆そうだったのだと思います。


誰かに手助けして欲しい。
悩み事を聴いて欲しい。だけど耳に痛い意見は絶対に言わないで。こっちの気分を逆撫でしない台詞だけを聞かせて。
褒めて、認めて、甘やかして。
そんなとき、「お願い」という一言がコインとなり、好きなボタンを選べば、いつでも願った通りのサービスをしてくれる、それがヒソダさん。
自動販売機でジュースを買う時、内部のメカニズムや自販機がそこに設置されるようになった経緯にいちいち思いを馳せる人間がめったにいないように、私は願いどおりの言葉や助けを差し出してくれるヒソダさんが、何を考え、感じているのかに、ほとんど注意を払っていませんでした。
欲しいものを手に入れた後の私は、にこにこしながらお礼を言って、さっさとその場を離れます。次に喉が渇くまで、自販機の必要はなくなるから。


私が顔色を変えたのを見てとって、ルルカは大きく息を吐きました。
「だけどそういう人間が、ヒソダを喜ばせてんのも確かだからね。気にするのも違うのかも。どこまでも便利な存在として振舞って、みんなに必要とされるのがヒソダの願いなんでしょ。それをかなえてやってるシロイは、ある意味親切だとも言えるんじゃない? だけどあたしはヒソダのことを考えると」
気分が真剣に悪くなる。そう言って、ルルカはふいっと顔を背けました。


ルルカは。
気が強く、攻撃的で、皮肉屋。人と折り合うことが下手で、怒りっぽく、口はすさまじく悪いし、おかげでとにかく敵が多い、そういう人間ではありました。
その一方で。
率直で隠し事をせず、他人の評価など気にもかけない気丈さがあり、辛辣なユーモアをそなえていて、親しくなった人間に対しては驚くほどの愛情深さを見せる、そういう人間でもありました。
私はルルカが好きでした。口が悪いのはおためごかしを嫌い、正直であろうとするがゆえ。怒りっぽく見えるのは、他人の身の上に起きた事柄であっても、その都度我がことのように腹を立ててしまうからだと、私は彼女のことを、そのように理解していたからです。


誰もヒソダさんの内面になど、注意を払おうとしませんでした。だって、そのほうが楽ですもの。下手に思いやってしまえば、便利な自動販売機が、使えなくなってしまいます。たった一人ルルカだけが、そんなのは吐き気がする、と言い放ったのです。
ですから。
しばらく経ってから、ヒソダさんとルルカが付き合い始めた時、私はなんだかものすごく納得したのを覚えています。
ヒソダさんを自動販売機ではなく人間としてとらえようとした私の知る唯一の人間が、ルルカだったのですから。


ヒソダさんと付き合い始めてから、ルルカはしょっちゅう、腹を立てるようになりました。
ヒソダさんは実家に、給料の中から毎月かなりの額を仕送りしていました。
長男であるお兄さんが跡を継いでから、家業が傾き始めたので、跡継ぎにもなれない次男は、せめて金を送らなくてはならないのだそうです。
また、ヒソダさんの妹の学資も、かなりの程度、ヒソダさんが援助していました。
「金がないからって理由で、ヒソダは大学に行かせなかったくせに! 長男と妹は、大学に行かせんのよあの家は!」
ルルカはぎりぎりと歯を食いしばり、悔しそうに顔を歪めました。
「毎月の仕送り以外にも、何かと理由をつけて、金を寄越せって、そういう電話をかけてくんのよ! この間なんて、妹が春休み、友達と沖縄旅行に行く金だせって! そのくらいできないと、妹がかわいそうだからって! ヒソダは旅行なんて、もうずーっと行ってない、私はそれを知ってるのに!」


かと思えば。
ルルカが突然、漫画やゲーム、プラモデルなどを熱心に買い漁るようになったことがありました。
「ルルカって、プラモとか興味あるんだっけ?」
「全然。何が面白いのか、いまだにわかんないね。いろいろ勉強してるけど」
「えええ。じゃあなんで買ってんの?」
「小学生男子って、こういうの好きじゃん」
「身近に小学生男子いたっけ?」
「今はいないけど。十五年前のヒソダは、こういうもの全部、欲しくてしょうがなかった。漫画もゲームもプラモも鉄道模型も、買ってもらったことがないんだって。お兄ちゃんが持ってるのを、時々貸してもらったって。その時々とやらを根拠に『兄貴ってけっこう気前いいから』とかアホなこと抜かすのが苛ついてね。世の中にはもっと気前のいい人間がいることを、教えてやろうと思って」


「ヒソダは映画が好きだね。口に出しては言わないけど、間違いない。映画に行こうっていうと、いつもより嬉しそうだ。単純明快なアクションよりサスペンス・スリラー系とか、頭使って伏線消化する系が好きっぽい。あと、SFも好きだな」
「口に出して言わないってのは何? 意味がよくわからないよ?」
「シロイ、気づいてないわけ? ヒソダは相手の意見に合わせるクセがつきすぎてるから、自分の好き嫌いはほとんど口に出さないんだよ。嫌いな食べ物でも、黙って食べ切ったりするから、けっこう注意して見てないといけない。自分の気持ちを黙ってさえいれば完全に隠せるとかいう、その馬鹿げた思い込みをぶち壊すことが私の生きがいだよ最近。とにかく、おすすめの映画教えて。今度借りてくるから」


ルルカはとにかく。本当にずーっと怒っていました。
自分からも他人からも、ここまで内面を蔑ろにされている人間が、実際に存在してしまうというその事実が、ルルカを激怒させていたのです。


けれどそのような日々は長くは続かず。
付き合い始めてから二年目の冬に、ヒソダさんとルルカは別れました。
彼らの破局を喜んだ人間は、少なからずいました。
「ルルカと付き合ってる頃のヒソダさんて、なんか付き合い悪かったもんねー。あれぜんぶルルカのせいでしょー」
「シフト変わってくださいとか頼むとさ、ルルカがでしゃばって、交替させねえんだもん。ヒソダさんはいいって言ってんのにさあ」
「ごはんとかも奢ってくれなくなったよね。ルルカが怒るからって。なんかさ、自分の金でもないのに、ルルカ何様ってかんじ」
「別れてよかったですよヒソダさーん、あんなきっつい女、ゼッタイ苦労させられるだけですってー」
そんな言葉を聞きながら、ヒソダさんは困ったように微笑み、
「でも、悪いのはおれだから」
と言葉少なに呟きました。


その頃、私はルルカに、ある約束をさせられていました。


「あのさシロイ、シロイはこれからも、ヒソダと友達でいてよね?」
「なんで? ヒソダさん、友達いっぱいいるじゃん。私がいる必要はナイデスネ」
「あれを友達と呼ぶのかシロイは。ヒソダを使っていかに得をするかしか考えていない輩を」
「私が呼ぶわけじゃないよね? あれを『友達』だと言ってるのは、ヒソダさんだ」
「……まあ、それはそうか。うん、だからなおさら。わかってるだろうけど、ヒソダが自分の思ってること、ごくちょっとでも正直に話せる人間って、あんまりいないからさ。シロイにはわりと慣れてんだよヒソダも。だから時々、話を聞いてあげて。辛い時辛いって言える場所が、ヒソダにもあったほうがいいから」
もうあたしは、その場所にはなれないわけじゃん? とルルカが言い、私はかみつくような勢いで言い返しました。
「いや、だけどね! あんな理由で別れるなんて、私ぜんぜん納得できてない! つーか、この期に及んでそんな心配いまだにしちゃうルルカにすら、私はちょっと腹立ってるんだよ! ルルカはがんばったのに、本当にがんばったのに、それなのにあんな理由で一方的にさあ! もう、悪口いいまくって、怒って、嫌いになっちゃえばいいのに! こういう時くらいは、自分のことばっかり考えろよルルカ、別れた男のことなんて、心配するんじゃない!」
「あー、だからさ。大丈夫なんだよ、あたしは。今ちょっと辛くても、たとえばシロイが怒ってくれるじゃん? あたしは、友達多くないけど。だけど少ないなりに、話を聞いてくれる人間はいるから。怒ってくれる人も、泣いてくれる人もいるから。でもヒソダはあたしより、もっとずっと一人だから」
頼むよ、とルルカは深く、本当に深く、頭を下げました。


さて。
あれから十年、ヒソダさんは時折、私の携帯に電話をかけてきます。
そのたびに私は、この人は未だに話が出来る人がいないのだなあ、と実感します。
話をするために電話をかけてきた筈のヒソダさんはそのくせ、私がしつこくせっつかない限り、無難な世間話から一歩も出ようとしません。
何度もうながされて、それからようやくしぶしぶと、少しずつ話すのは、大抵の場合、聞いているこちらの頭が、クラクラしてくるようなことばかりです。
ミスの責任を巧妙にヒソダさんに押し付けた同僚の話。
中絶の同意書に名前を書きたくない友人に代わって、ヒソダさんが署名をし、知らない女性に付き添って病院で一夜過ごした話。
妹の結婚式の費用を出すために、ヒソダさんが借金をした話。
実家の建て替え費用を出すために、ヒソダさんが更に借金をした話。


「なんだそれ、ひっでえ話だなあ。何考えてんのソイツ。縁切りなよ、その手の輩とはさあ」
「いや、だけど本当はいい人なんだよ? 今回はたまたま、おかしなことになっちゃったけど。ほんと、普段はいい人なんだって」
時々私は『いい人』という言葉の意味が、わからなくなってきます。
みんなに『いい人』と評されるヒソダさんがかばう人たちは、私にはちっとも『いい人』だと思えないけれど、それでもヒソダさんは彼らを『いい人』と呼ぶのか。
人は人を、どんなときに『いい人』と言うんだ?
ヒソダさんの内面に思いを馳せず、ただ欲しい物があるときだけ近寄った私は、どうして彼を『いい人』と言ったんだ?


やがてヒソダさんは、さりげない様子で、話を変えます。
私の近況をたずね、昔の思い出にふれ、共通の知人が今何をしてるのか知りたがるのです。
遠まわしな質問を繰り返すうちに、ヒソダさんがわずかにいらつき始めます。もちろん、彼のような『いい人』はその苛立ちを必死に隠そうとしますが。
そのうち。
ヒソダさんは諦めます。シロイという人間はにぶすぎて、自分が一番知りたがっていることを察してくれはしないのだと理解し、ストレートな質問をおずおずと口にします。
「そういえば、ルルカはどうしてるのかなあ」
結局、ヒソダさんが私に電話をかけてくるのは、ルルカのことを聞きたいからなのです。シロイが自分の近況をルルカに伝えてくれるんじゃないかという、そんな期待もあるのかもしれません。
「元気だよ」
「ああ……うん。連絡取ってるんだ?」
「とってる」
「……なんか言ってた?」
「別に。たいしたことは」
あー、そう。ヒソダさんはいつも、少しがっかりしたような声を出します。


一度私は、ルルカに確認をとったことがありました。
「ねえ、ヒソダさんにきかれるたび、ルルカの近況を逐一報告したほうがいい? それとも曖昧にごまかす? あるいは、何も知らないふりをする?」
「へえ」
ルルカは驚いたように目を丸くしました。
「ヒソダがあたしのことを、気にすることがあるなんてね」
「常に気にしてるよあの人は。今更よりを戻したいと口にするほど恥知らずではないけれど。それでもああいうのは、ちょっと不健全だと私は思うね」
「それこそ今更だね。ヒソダが不健全なのは、今始まったことじゃない」
うーん、と私は唸りました。
「まあ、そうね。昔ルルカが言ってた意味が、わかってきた気はする。ヒソダさんはなんつーか、ただの『いい人』ではないね。というか、実は『いい人』ではないのかも」
「おっ、凡庸なりに成長したかシロイも。『いい人』ではないってのは、どのへんからそう思った?」
「つまり……えーと、『いい人』って言葉の中には、倫理基準も含まれると思うのねほんとは。正邪の判断を誤らないというのが、大事なのではないかと。だけど、実はヒソダさんの行動って、善悪とは無関係。ヒソダさん自身のモラルからすれば、当然『悪』として判断しているはずのことでも、周りに頼まれれば、言うこときいちゃうっていうか……」
「誰かに『死ね』って言われれば、ほんとに死んじゃうみたいな?」
「あー……近いかも」
「珍しくはないよね、そういう人」
ルルカはあっさりそう言いました。
「暴力を振るう恋人から離れられない、なんてのもそうじゃない? ひとを殴ってはいけないって、自分では思ってるのに、殴る相手を許容してしまう」
「それって子どもがお菓子を欲しがったら与えちゃう大人みたいなもんだよね? そのせいで栄養が偏って体を壊すかもしれないし、虫歯にだってなるかもしれないのに、それでもお菓子を与え続ける人を、私は『いい人』とは思えないなあ……ヒソダさんがやってるのは、それと同じことだと思う」
「そうねー、思いやりあるようにみせかけて、実は相手のことなんて、ほんとはどうでもいいってことだもんねー」
ふう、とルルカはため息を吐きました。
「シロイがそう感じるってことは、ヒソダはあんまり変わってないんだなあ」
「つーか、むしろちょっと酷くなってるような……ルルカと付き合ってた頃は、そのへんの判断がもうちょいしっかりしてたよね」
「あー、なるほど。てことは、ヒソダは今、必死なのかもしれないな。昔よりもっと」
「必死って、一体何に必死なの? 私はそこがわかんない。ヒソダさんは、あれだけ他人に便利にこき使われて、何かトクする事あるわけ? 損ばっかりじゃん」
「トクはあるよ。みんなに『いい人』って言ってもらえるでしょ?」
間が空きました。
「ええええええ、じゃあ、ヒソダさんは『いい人』って言われたいから、あんなふうにがんばってんの!? だめ、もっとわかんなくなってきた、だって『いい人』って言われても何のトクもないってのは、変わらないと思うんだけど!」
「誰にも嫌われたくないんだよ。不安なの。『いい人』って言葉を集めて、それを鎧にして、やっと少し安心するんだよ。愛されそうな気がするの。少なくともあたしは、ヒソダをそういう人間だと思ってた。愛されたくて認められたくて肯定されたくて、だから一生懸命がんばって、『いい人』を続けちゃうひと」
「それは」
私はごくりとつばを呑みました。
「それは、酷い勘違いだ。人間は別に、『いい人』だから、誰かを愛するわけじゃない」
「そうだね。悪人でも愛されることはあるもんね」
「ていうか……ヒソダさんが欲しかったのが、『肯定』とか『愛情』だったって言うんなら……」
私は思わず、その先の言葉を飲み込みました。


なんでヒソダさんは、ルルカを捨てたんだ?
付き合っていた人間同士のことなんて、外のやつにはわからない。それは確かにそうかもしれないけど。
あの頃のルルカは、私には少なくとも、ヒソダさんに対して、心から愛情を持って接していたように見えたのに。彼を認めて、肯定するために、懸命に心を砕いていたように思えたのに。
自分が欲しくてしょうがないものを、それでもやっと手に入れたのに、ヒソダさんはそのことに、気づかなかったのか?


そこまで考えて私は、そうではないことに気づきました。
ヒソダさんはたぶん、ちゃんとわかっていたのです。口の悪さの裏に隠れたルルカの愛情を、きっと理解していたのです。
だから彼は未だに、私に電話をかけてくるのです。ルルカの近況を聞き出そうとするのです。


「あたしの敗因はさ」
とルルカは言いました。
「ちゃんとヒソダの友達に、ならなかったことだね。友達を飛ばして、恋人なんぞになろうとしたことだ。それって実は、選択をつきつけることだからね。あたしを優先してって、頼み込むことでもあったりするし。ヒソダに本当に必要なのは、友達なんだ」
ま、それも今だから思うんだけど、とルルカは付け足しました。
「だからまあ、あたしの近況についてどこまで知らせるべきかってのは、シロイの判断にまかせるよ。あたしは急ぎすぎて終わった人間だからね。もう関われないし、関わる気もない。つーか、謝っとく。ごめんね?」
そう言って、ルルカは私の顔を覗き込みました。
「なにそれえ。何を謝られたの今?」
「あたしに頼まれたからって理由で、自分の意志とは無関係に、友達やろうとしてるでしょシロイ。シロイは関係を無理に続けるために、言いたいことも言わないでいるけど、そういうのは本当は、友達とは言わない気がする。なので、もういいです。あとはほんと、全部シロイが好きにしてくれて構わない」
「それはつまり、やってらんねえー、とか言って、ヒソダさんと縁切りしてもいいってこと?」
縁切りか、とルルカは苦笑いをしましたが、すぐに「うん、いいよ」と答えました。


折悪しくなのか、それとも折よくなのか。
ルルカと話した後、それほど間を置かずに、またしてもヒソダさんが、私に電話をかけてきました。
最近、ヒソダさんからの電話の回数は、以前よりも増えています。
不景気な世の中だからなのか何なのか、ヒソダさんを取り巻く状況の過酷さは、年月がすぎても解決するどころか、酷くなる一方で。
だから彼は話相手を、ルルカの近況を知る相手を、求めてしまうのかもしれません。

会話はいつもと同じように進みます。
世間話をしながら少しずつ、ヒソダさんは自分が一番知りたいことをなんとかして聞き出そうと、遠まわしな質問を重ね始めました。
「ルルカは結婚したよ」
ヒソダさんが息をのんだ気配がしました。
「来年には、子どもも生まれる。みんなで一回集まって、お祝いの会もした」
「え…………」
ヒソダさんはショックを受けた様子で呟きました。
「おれ、そんな話、全然きいてない……」
「そりゃー、そんな話、誰もしないでしょう。言いたくはないけど、ヒソダさんの周りって、ルルカを嫌ってる人ばっかりじゃない」
「嫌ってるって……そんな」
「嫌われてたでしょルルカ。特にヒソダさんの家族に」
ヒソダさんがぎょっとしたのが、電話越しでも伝わってきました。
「うん、ごめん、今まで言わなかったけど、実は私、知ってるんだ。ヒソダさん、ルルカが母子家庭出身だからって理由で、別れたでしょ。片親育ちの娘なんて強欲に決まってるって、家族にそう言われたから」
「そうじゃなくて! いや、そうなんだけど! でも、うちの親も別に悪気があったわけじゃなくて、ただルルカのことをよく知らなかったから、不安になっちゃっただけで!」
「ヒソダさんの借金をやめさせようとしたら強欲と呼ぶってのは、そういう好意的な解釈でカバーしきれるものじゃないと思うんだけど……まあいいや、じゃあなんでヒソダさんは、ルルカの良さをご両親に理解させようとしなかったの?」
「それは……いろいろ難しくて……年寄りは頭かたいし……」
「別にいいよヒソダさん、私に言い訳する必要はない。実を言えばまあ、すっごく怒ってた時期もあったけど、ぜんぶ昔のことだから。もう怒ってないし、それに」
窓の外の大きな月を見ながら、私は言葉を続けました。
「それで一番辛い思いしたのって、ヒソダさんでしょう?」


十年。
ヒソダさんの話を聴き続けてそれだけ経つのだから、私は既に知っています。
自分の感じていることや考えていることを、押し隠して押し殺して、言いたいことは全部飲み込んで、自我というものを削り続けて。
そういう風に振る舞えと、教え込まれた子どもがいたことを。
そうでなければ許さないぞと、脅しつけられて育った少年は、生真面目に教えを守り続け、とうとう、自分が心の底から欲しかったもの、いつでも一番に求めていたものを、自分の手で壊してしまう、そんな大人になりました。


数秒の沈黙の後、ヒソダさんは、しぼり出すような声を出しました。
「あのとき、どうしていいか、わからなくて……ルルカがいなくなるのは嫌だったのに……でも、怖くて。親に認められないのは辛いよ、本当に辛いんだ……」
「うん、そうだね」
「あの時、おれがもっとがんばれたらって、時々、ちがう、しょっちゅう思う……そしたらまだルルカがいたのかなって……いてくれたらいいのに、本当にいいのに」
いつの間にか、ヒソダさんの声は、涙で曇ったものになっていました。
「こんなこと言うの情けなくて嫌だ、だけどおれは、ルルカの結婚相手が、羨ましくてしかたない、ずっとずっとルルカが傍にいてくれるなんて、なんて贅沢なんだって、思ってしまう……」
鼻をすすりあげ、それからかむ音。
「どうすればよかったのかなあ……ぜんぶ夢ならいいのに、そうすればきっと、目が覚めた時、ルルカがいる」
誰か知らないやつの隣なんかじゃなくて。おれの隣に。
呟いて再び、ヒソダさんは鼻をすすりました。


「ヒソダさん、SFは今も好きなんだね」
「え?」
私の言葉に、ヒソダさんは少しばかり、意表をつかれた様子でした。
「いや、なんか。シュレディンガーの猫っぽいなあ、と思って。今の」
あまりにも有名すぎるパラドックス。50%の確率で猫の死ぬ箱。箱を開けるまでは重ね合わされていたはずの可能性が、箱を開けた瞬間に確定する。猫は生きている、あるいは死んでいる、そのどちらかに。
「私たちの宇宙では、猫は死んだんだよね。世界はそう確定した。もうひとつの可能性がどうなったのか、わからない。収束してしまったのか、それとも別の宇宙が存在するのか。もし別の宇宙があるならそこで、ヒソダさんはルルカと、並んで笑っているのかもしれない」
「……いいなあ」
ヒソダさんの口調は、何かを夢見ているようでした。
「その宇宙に、行きたいなあ……」
「うん、でも、無理だよね」
「無理、か……」
「別の可能性に思いを馳せるのはいいけどさ、少なくとも私たちのいるこの宇宙では、その可能性は消えたんだよ。ヒソダさんの傍にずっといてくれるルルカという人間は、ほんとは誰よりも遠い。だって彼女がいるのは別の場所、少なくとも宇宙ひとつぶんは離れちゃったところなんだから。この宇宙では、猫は生きてない。死んだというより、殺された。誰が殺したのかも、わかってるでしょ?」
二秒の沈黙。それからヒソダさんは、囁くような声で言いました。
「わかってる」


「でも、その猫はさ、死ぬ間際に、何かを残そうとはしたんだよ。自分を殺す相手のために、頼んだの。『怒らないで』って。『あの人の話を聞いてあげて』って。だからねヒソダさん、私は死んだ猫の毛皮なんだよ。猫がそれでもなんとか、残そうとした何かなの。
今まで私はずっと、ヒソダさんの話を、聞いてきた。自分の意見は言わなかった。だってそんなの、猫の毛皮のすることじゃないから。ヒソダさんは『いい人』だって、言われるの好きでしょ? だから私も、『いい人』だって言った。それが毛皮の仕事だと思ったから。だけどもう、こういうのはやめることにする」


「やめる?」
その瞬間、ヒソダさんの声が揺れました。
「え、それってつまり、おれと話すのが嫌になっちゃったってこと? おれみたいな人間には付き合いきれない?」
「いや、違う。そういうことでは、なくてだね」
私は息を、吸い込みました。
「ちゃんと、友達になろう」
「へっ?」
「言いたいこと我慢して、言うべきことも飲み込んで、ただただイエスマンに徹するみたいなことをやめよう。それはお互いにってことだよ? ヒソダさんも、本当は私に対して、言いたいことすっごくあるでしょ? 誤魔化しあって、薄ら笑いを浮かべてって、それは友達じゃないと思う。私たちはもっと、ちゃんと話をするべきだ」
「よくわからない……おれは、どうすればいいの?」
「わかんないけど、なんかあるでしょ? 私にやってもらいたいこととかあったら、言ってみていいんだよ。可能な範囲で手伝うし」
「わからない……」
「うーん、そうか、それもそうか、じゃあ、先に私から言うよ。ヒソダさんにやってもらいたいことがあるから」
「何?」
ヒソダさんが、少しだけほっとしたような声を出しました。なんといっても彼は、他人の願い事を聞くことに慣れています。
「幸せになってよ、ヒソダさん」
これは私の、ただのエゴなんだけど。余計なお世話なのもわかってるんだけど。


「他人の面倒みる前に、自分のことを、ちゃんとケアしてよ。今のままでは、いないでよ。
『いい人』でなくていいんだよ、ヒソダさんが今よりちょっと、もしかしたらだいぶ悪くなっても、私は全然気にしないよ。というか」
はああ、と私は息を吐きました。
「目の前で子どもが殴られて、お菓子をとりあげられているの見たらさあ、すっごく嫌な気持ちになるじゃん。店で一番大きくて、一番美味しいお菓子を、その子にあげて、食べてもらわないと、その嫌な気持ちは、消えないで、ずっと続いちゃうじゃない。
ヒソダさん、私の目の前で何度も殴られて、お菓子だのおもちゃだの、全部とられちゃうんだもん。そういうのは、見てるだけでもすんげえイヤなのね。気が滅入るの。
だから、とにかく、幸せになってよ。幸せにならなきゃ、いけないよ。
すんげえ勝手な言い分だってのはわかってるから、そこは謝るけど、でも」
十年間おとなしくしていた猫の毛皮には、このくらいのエゴを振り回す権利が、あると思うんだよ。


ヒソダさんはしばらくの間、黙り込んでいました。
もしかしたら電話を投げ出してどこかに行ってしまったのかと、私が不安になってしまうくらい長い間、彼はずっと黙っていました。
それでも時折、鼻をすすりあげ、かむ音が聞こえ。
だから私も、沈黙を守りました。


やがて。
聞き逃してしまいそうにかすかな声で、ヒソダさんが呟きました。
「…………は、いやだ」
「はい?」
「一人は、嫌だ。このままずっと、一人でいるのは辛い」
「なるほど。ルームメイトでも募集してみる?」
「そういうんじゃなくて! か、彼女とか。欲しい」
「わかりやすい要求をありがとう。それでは合コンとか開いてみます?」
「それは、その……嬉しいです。とても嬉しい、かも」
「よし、そんでは任せなさい。私の身の回りの独身の人材は、昨今急速に減りつつあるのですが、それでも三人くらいはなんとかご用意してみせましょう!」
「あ、でもこっちが三人も揃えられないかも。ていうか、おれはおれ以外に連れていける心当たりがない……」
「わかった、じゃあセキゼキさんを派遣しよう。やつは身体がでかいので、なんとか小柄な男性二人分くらいの存在感は醸せるんじゃないかと」
「いや、それ悪いよセキゼキさんに! いいよ、合コンとか、ほんとおれのせいで、なんかシロイにも迷惑かけちゃいそうだし」
なにその発想、と言いかけて私は、黙りました。
まあいいや、と思い直します。
何もかもがいきなり変わるわけはないけど、それでもちょっとずつ変わることはできるだろうから。


「つか、合コンて形にこだわる必要もないよね。鍋パーティでもするかーうちで。その際、女性参加者も募ってみるってのはどう?」
「あ、そっちのほうがプレッシャーはないかも……でもほんとに大丈夫?」
「もちろん。というか、最近セキゼキさんが新しい鶏団子のレシピ試したがっていたから、ちょうどいい」


ヒソダさんとルルカが並んで笑う、別の宇宙があるとしても。
それがここではないのは確かなのだから、その場所にたどり着けることは決して無いのだから。
可能性を葬った自分を嘆くのはいい、悔やむのはきっと大切なことで、でも後悔の後に続くべきなのは、別の宇宙の夢を見ることではなくて。
何が正解なのかもわからないけれど、それでもとにかく、自罰と後悔以外の何かを、ヒソダさんは始めたほうがいい。


そのためにできることが合コンとか、鍋パーティとか、それ以外にもあったらいいよね、と考えつつ。
私はもう一度、窓の外に目をやりました。
白く輝く大きな月が、この宇宙でもヒソダさんは幸せになれるはずだと、そう請け負ってくれたような気がしました。


もちろん本当は、何の保証もないのです。
ヒソダさんのような人が変わることは、とてもとても難しくて、なにより本人が先に変わりたいと望まなければ何も起こらず、望んでもなお、達成できるかどうかなんて、誰にもわからないほどの困難が行く手には横たわっているわけで。
そもそも変わってほしいなどと望むことが、とんでもなく失礼で厚かましくて図々しいことであり、それなのに希望を抱きたがるなんて、我ながら呆れるほどエゴイスティックだったりもするわけですが。
それでも私は信じます。
自分からも他人からも蔑ろにされず、ヒソダさんが笑えるようになる日は必ずくるのだと、それはそれほど遠い未来でもないのだと、私は強く、信じます。
誰のためでもなく、自分のために。猫の毛皮ではなく、人間として。