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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

映画美学

映画が終わったあとにスタッフロールが流れますよね。
私はアレが好きなんですよ。いつも好きなわけじゃないんですけど、時々ものすごく好きになる。
画面をのぼっていくたくさんの名前を羨望の眼差しで見つめてしまうのです。
いいなあ、私も映画を作りたいなあ、と思いながら。
そういう思いを味わうのはもちろん、良い映画、愛せる映画をみたときだけのことですが。
駄作を見たな、と思ったときはスタッフロールそのものが忌まわしく感じられますから。


映画を作りたい、と言っても監督やプロデューサーになりたいわけではないのです。
役者になりたいわけでもない。まあなれたら素晴らしいでしょうけどね。
そういうひとたちって、はっきり読めるように、ゆっくりと一人ひとりの名前がスタッフロールに表示されますでしょう?
私はああいう立場になりたいとは思わない。


私が憧れるのは、スタッフロールにだんだん大量の名前が表示されだして、とてもじゃないけど誰が誰だか判りません読めません、という状態になる、あのあたりの立場のひとなんですよ。
ほら、十二人の大工や八人の衣装係や7人の漆喰職人が一斉に表示されたりするじゃないですか。あれがいい。ああいう立場になりたいんです。
実際には手先も不器用だし、大工やスタイリストといった職業自体には憧れないんですけどね。


映画というものが他人に語られたり、愛されたり、歴史に残ったりするときには、主な出演俳優と脚本と監督くらいしか話題にならないでしょう。あとは音楽と衣装とセットくらいですね。
だけど実はそういうひとたちの陰に、大勢の無名なひとたちが集まって、自分たちの技術の限りを尽くしているわけじゃないですか。
それがいいんですよね。
「ほら、あのシーンの彫刻、実はおれが発泡スチロールで作ったんだぞ」
とか
「あの衣装の裾を縫ったのはわたしなの」
とか。
うわー、かっこいい! 憧れるう。
なんというか、おのれの自我を越えたもっと大きなもの、映画という美しい存在自体に奉仕しているかんじがするじゃないですか。
おのれが有名になるためではなく、映画を素晴らしくするためにがんばっているんだよ、という純粋な美学っていうの?
そういう風に生きられるっていうのは、素晴らしいことなんじゃないの、と思ってしまうわけです。
名前が残らないからこそ、いい。スタッフロールで名前を読みとることができないからこそ、尊い
そんな思いで胸をいっぱいにしながら見るスタッフロールは、本当に美しい。


だから、エキストラにも憧れますね。
特にその映画に群衆シーンが何カ所かあって、エキストラがそのたびに衣装を変えて何回か登場したりすると言うこと無し。
それだけエキストラが便利にこき使われているってことですからね! いいなあ〜。
早朝の撮影現場で主演女優のメイクの完成を待って何時間も待たされたりしたらエキストラ冥利に尽きるよなあ絶対、とか思いますよ。
それで山奥の撮影だからトイレもないのが辛かったり!
ヤブ蚊にさされたり、支給される弁当がなかなか貰えなかったり!
大ファンで憧れていたスターの嫌な素顔を見て幻滅とか!
そういうのすごくイイ! わーい、今気付いたけどあたし、エキストラになりたーい。


みたいなことを以前、ある友人に語ったら
「……それってマゾヒズムの一つの形だったりする?」
と言われました。


そんな。