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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

秋だから文化、文化だから映画 今更ながら『タイタニック』を思い出せ

最近、忙しくてブログ書く時間とれなくて、さらっと書いた記事しかアップできていません。
ほんとはコツコツ書きたいネタが何本かたまっているんですけど、取り組めないの。
そんなある日、自分が数年前に書いたまま放り出しておいた文章をマイPCの奥底から発見しちゃったので、それをアップしようかと思います。
映画の話題です。秋だし、文化の香りを漂わせてみることにしようかと、そんな試み。


タイタニック』ってありますよね、感動大作、超大作。
あの映画に対してどんな感想を抱くかで、そのひとの「ひねくれ具合」あるいは「すれてなさ度合い」あるいは「普段映画や本や漫画に接してない度合」などが計れるのでは、というのが私の仮説です。そんな仮説は無意味なんですが。
とにかく私の言いたいことは、あの映画はけっこう評価が分かれる映画だということです。感動した、泣いた、というひとがいる一方で、徹底的にくさすひとも珍しくない。


ところで私というのは、自分で言うのもなんですが、至極素直な性質でして、なんというか、
「目の前で相手が何かを力説すれば、とにかくそれをその場では信じる」
タイプです。
これはけっこう危ない。店員に商品をすすめられるとロボットのように言いなりになるタイプと言ってもいい。
そんな言いなりロボットの私は、大抵の作品で
「ここは感動するところだ!」
という制作者側の意図にばっちり従います。泣き所では素直に泣きます。当然『タイタニック』でも泣きました。


それでは私がタイタニック信者なのかというと、これが実はさにあらず、さにあらず。
私はあくまで「その場では信じる」タイプの人間なので、その場というやつが通り過ぎると、あっという間に正気に戻り、一瞬前の自分を疑ってかかりはじめます。
「あれほんとに感動するタイプの作品だったかよ?」
という突込みが入っちゃうのです。そして、その後慎重な吟味が行われ、
「やはりいい作品だった」
という評価が下される場合もあれば、
「アレで泣いた自分が恥ずかしい」
という結論がでる場合もあるわけです。


タイタニックは後者でした。冷静になってみると、あれ泣ける話じゃない。ここから先はネタバレが含まれますんで、あの映画を観てない人は読まないほうがいいかもしれません。
そもそもあれ、よく考えるとラブストーリーとしてどうなのか。
あれ、船が沈まなかったら、
「ディカプリオ扮する女たらしの貧乏画家(おそらく将来はヒモになるタイプ)が、金持ち令嬢を発見し、彼女のいかにも金持ち令嬢らしい甘ったれたわがままぶりを見て、こういう世間知らずのくせにワルぶったお嬢さんを落とすのはちょろいぜ、と考えてまんまと食い物にする話」
なんじゃないんでしょうか。違いますか皆さん。
というか私、途中までそういう映画だと思って観てました。普通にそう思ってた。そうじゃない解釈が存在する可能性に気付いてなかった。
「金持ち令嬢を口説くために、下層階級のひとたちのあたたかさを見せるというのは陳腐だがいい手だぜ、ナイス!」
くらいの感想を抱いてました。
それなのに、なに? もしかするとこの映画、愛をたたえる映画なの、ひょっとして。
というよりも、もしかしなくてもそうらしいですよ。
タイタニックの真似してあの有名なポーズとるカップルとかいるらしいですが、シロイ視点ではあれは、
「いかにもヒモタイプの女たらしが使いそうな、親密度上げテクニカルポーズ」
なのですが。


でもね、なんというか、あれがラブストーリーになるわけもわからんではないのです。
だって、プラトニックならラブストーリーとして成立するし、美しいんですよ。
「彼女のためを思うと、自分と結ばれるわけにはいかない」
と身を引いたはずの画家が、にも関わらず彼女のために命を張る。やや陳腐で使い古されていますが、王道であることは確かです。
だが実際には、ディカプリオは速攻で令嬢を攻め落として、行き着くところに行き着いてますからねえ。悪いやつ。


冷静に考えて、ディカプリオに操を食い散らかされた(酷い表現)時点で、令嬢のこの先の幸せはないですからね。
あの時代、あの階級の女性が、あんなふうにバージンブレイクしちゃったら、もう普通の結婚はできない。
かといって、女喰いのディカプリオ(これも酷い表現だなあ)と結婚しちゃったりなんかしても、あの令嬢が貧乏暮らしに耐えられるとは思えない。だってディカプリオの職業は画家ですよ。貧乏エリートというか、普通の貧乏人よりなお悪いですよ。しかも彼は賭け事を楽しむタイプであるという最悪の事実が、映画の冒頭のほうで明らかにされてるしー。


あのふたり、船が沈まなかったらどうするつもりだったのさ。
大体どうして女を食い物にして生きていくタイプのディカプリオが、船が沈み出したら突然女のために命を張るのか、理解できないよママン。
君はそんな人間じゃなかったはずだろ、ディカプリオ。
「もしかしたらこいつ、単に『引っ込みがつかなくなった』んじゃないだろうな。そんで『うっかり死んじゃった』のかもしれないな」
とかそんな風に思ってしまう話なのですよあれは。
というわけで、私の中で『タイタニック』の話の評価は低かったのです。


ところがですよ。
最近、新しい見方が私の中に芽生えちゃったんですよ。
ディカプリオ扮する悪党画家(あ、決めつけた)が、令嬢の婚約者に柱に縛り付けられて、それを令嬢がずぶぬれになりながら助けにくるシーンがあるじゃないですか。
氷山が浮いてる海の水なんだから、すごくすごく冷たいはずなのに、苦労知らずの令嬢が、そんな冷たさは意に介さないで悪党画家を救うシーン。
あれがね、あのシーンが、実は鍵だったんじゃないかと。
女たらしの悪党画家は、それまで彼女を騙して自分がいい目をみることにしか興味がなかった。
「うまくすれば金と女が同時に手に入るぜククククク……この女の家にまんまと上がりこむことができれば、次にこの船に乗るときは当然一等船室だぜ」
くらいにしか思ってなかった。


ところが、その騙す相手の令嬢が、命懸けで苦労しながら自分を助けに来たのを見た瞬間、もしかして画家の心の中で、
「ピシャーン」
と稲妻が落ちたんじゃないでしょうか。
令嬢の純粋な気持ちが彼を動かしたんですよ!


そう考えるとあの映画は
「すれた小悪党が、カモだったはずの女の純粋な愛情に心打たれ、生まれて初めてまっとうな人間として行動し、その結果女を庇って命を落とす」
そんな話だったんじゃないかと。
これいいじゃん。いい話じゃん。
すれた悪党が最後の最後に真人間として生きることを決める話というのは、私の中でポイントが高いことが多いです。
最近では山田風太郎の『風来忍法帖』のラストシーンとかにかなりハートをがっちりキャッチされました。


それにほら、みなさんだって、『うしおととら』に出てくる東京でヤクザをやってた徳野信二さんが、最後の最後に命を捨ててシュムナに特攻して
「オレは……まっすぐ……立ってるか……?」
とか言うシーンにウルウルさせられたはずでしょう? そらあもう、ぼろぼろ泣いたじゃないですか!
と考えると、令嬢のために最後の最後で真人間に戻り、命を賭して彼女を救い、笑って海の中に消えていくディカプリオのその姿は! やっぱ泣くところだあれは! いい話だ、あれだけヒットするだけあって、実はそうとういい話だったんだよ、あの映画は!


しかし。
あれですよねえ、なんでか知らんけどこの見方、あんまり賛同を得られないんですよねえ。
「前半の解釈が酷すぎ」
「私のディカプリオを悪く言わないで」
「制作者側が誰も意図していない見方を作るんじゃないよお前は」
みたいな冷たい台詞が私の心を心底から冷やすっていうか、この寒さと涙は季節が秋に向かいつつあるからだけじゃナイ気がします。
とりあえず、今日のお外は秋晴れだなあ。
モンブランでも食べに行こうっと。秋らしく。
そして『ブラック・ダリア』と『プラダを着た悪魔』と『レディ・イン・ザ・ウォーター』が観たいわ。