本日10月27日に『むしろウツなので結婚かと』の第18話が無料公開されました。
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インターネット老人会に所属する者として大昔の話をいきなり始めてしまうんですけれども、時はそう2006年。
日本のインターネッツの中に「はてな村」と呼ばれる地域がありました。
あの頃のはてな村では日々いろんな「論争」が繰り広げられていまして、「非モテ論壇」とかいう懐かしワードが思い出されて今私が瀕死ですが大丈夫。生き延びていろんなこと、懐かしんでいきたいですよ?
大勢の書き手たちが生み出した大量の長文をがっつり読んでこれまでのやり取りの内容をしっかり踏まえた上で、自分の意見を長文で素早く書くことが前提となっている、たいそう参加ハードルの高いバトルでしたね、今思い返すと。そりゃもうああいうの流行らないわ、ブログに人生捧げたような人間が大勢いないとあんなの無理ですもの。
そんでまあ2006年に盛り上がった話題の一つに「なぜ人は結婚したがるのか」というものがあったのです。
一緒にいたいだけなら結婚という形式は必ずしも必要ないじゃんとか(元にフランスなんかは事実婚めちゃくちゃ多いですしねえ)。
税制的に優遇されるとかそういう実利のために、結婚するわけ? とか。
もうそもそも結婚という形式にとらわれる必要ないんじゃない? とか。
ただ結婚したほうがいいという思い込みにとらわれているんだよ俺たちは! とか。
なんか、そんな話がされていたんじゃなかったかなあ……?
というか大昔過ぎて私の記憶もぼやっぼやですよ。やばい。インターネッツはログが残るから読み返せるとかいうのは錯覚ですからね、ログだってどんどん消えていくから、もうすべてが霧の中です。
ええとまあ、それで当時の私が思った、結婚したい理由について書いた文章がこれだったんですけれども。
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あれから月日が流れ、セキゼキさんがウツになったとき、私は具体的で切実な理由で、またしても結婚したくなっていました。
捜索願、出したい。
あったりまえなのですが、家族じゃないと出せないんですよ捜索願。
一緒に住んでいる恋人です、十年来の親友です、長年苦楽を共にしているパートナーです。
とか名乗っても駄目なのです。
まあ確かにストーカーだの借金取りだの悪意ある存在が身分を詐称して人探しをする可能性、めっちゃありますもんね。
私は失踪者の家族であると、そう証明できる人間だけが捜索願を出せるというのは、けっこう妥当な話です。
公的な証明。つまり家族。
血縁がない人間同士が、そういう立場になろうと思ったら法的な手続きが必要なのです。
セキゼキさんと私が成年養子縁組をするとか。
私がセキゼキさんのご両親の養女になるとか、その逆でセキゼキさんをうちの両親の養子にしちゃうとかね。
そんな手もありますけど、現代日本で公的証明を必要とする二人組が異性同士の組み合わせの場合は、結婚しちゃうのが一番手っ取り早いんですよね。
そりゃ同性婚を求める人たちがいらっしゃるわけですよ。ないと困りますよねこういう手段。
公的な証明というのは、お互いが健康で金にも困っておらず、ハッピーでいられる間はなくても無問題ですが、どちらかが病んだり怪我したり貧しくなった時には、ないとすっごくきついんです。
捜索願いだけじゃないです。
パートナーが倒れたときの緊急連絡先になりたいとか。
今すぐ手術をしないと死んでしまう状態のパートナーが意識を失った状態で、だから代わりに承諾書にサインしなきゃいけないとか。
生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際で、一歩踏み込んで相手を助けるための行動をする権利は、公的な繋がりがなければ得られないんです。
私は結婚というものに毛筋ほどのドリームも抱かずに生きてきました。ということは全くなく、たとえばウェディングドレスを着て人生で一番綺麗になれる日っていいよなとか、新婚旅行って素敵な響きですよねラスベガス行きたいとか、まあそういうふわっとしたことは思いましたし、いいじゃんねえ! ふわふわした夢が心を支えるときもありますよねそりゃあ!? ブライダルフェアとかレストランウェディングとか、なんかそういうふわふわフレーズに憧れるでもいいじゃないか、にんげんだもの。
でもそういう理想の結婚とか結婚式とかそういうものは、ウツで調子が悪くなってちょくちょく姿を消すセキゼキさんの前ではマジでぜんぶ要らないなと感じました。結局私には、縁がなかったのだと。
そういえば小学生くらいの頃は、「空を飛ぶ」ということに憧れて、教室の窓からぼーっと外を見てはあの空を飛びたいと、延々考えていました。
そして周囲の大人たちが特にそういう憧れを持たずに生きていて、小学生に比べれば経済的にも恵まれていて自由もある彼らが、特に飛ぼうとしないことが、なんだか不思議でしょうがなかったのでした。
飛行機に何度も乗るとか、パラグライダーやスカイダイビングを始めるとか、その気になればかなり「空を飛ぶ」に近いことができるはずなのに。
私は空を飛びたいし、友達に話を聞いても「わかる! 飛びたい」という答え返ってくるし、だからきっと大人たちだって昔は空を飛びたい子供だったんじゃないかという気がするのに。
なぜ大人になったら、そうじゃなくなるんだろう?
そして現在、私は特に空を飛ぼうとはしない大人になりました。憧れのすべてが消えたわけではありませんが、それでもだいぶ薄くなっています。
どうして空を飛ぼうとしないの?
少なくとも私に関して言えばその答えは、空を飛ぶよりもやりたかったり大事だったりするものが増えてしまったからです。
お金も時間も有限で、空を飛ぶ以外のことのほうに、それを使いたいから。
そして似たようなことが、結婚という事柄に対しても起きました。
お金も時間もそれほどなくて、人生で一度に結婚できる相手は一人しかいない、そういう限られたものを、私は誰にどう使いたいか。
結婚できる相手の限定一枠は、捜索願その他のためにセキゼキさん用にする。
お金や時間は憧れのためではなく、働くことができないセキゼキさんとの生活のために、できるだけ使わないで結婚を簡素に済ませる。
答えはおそろしく簡単に、考えるまでもなく下りてきたのでした。
にもかかわらず私のその答えを、プロポーズを、セキゼキさんはあっさり断ったわけなんですけれどもね。なんだよもう。