本日7月7日に『むしろウツなので結婚かと』の第13話が無料公開されました。
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セキゼキさん(仮名)と「一年」という期限を取り決めたことは、私にとってはずいぶん役に立ちました。
一年という区切りで、私は自分から「選択肢を奪った」のです。
そのことを私が自覚できるようになったのは、ずいぶん経ってからのことでした。
ここで、これまでのこととまるで無関係に見える話をします。
ゲームの話です。
ゲームとは人生の模倣であり、現実よりも単純化されていることがほとんどです。
具体的には、ゲームの中でプレイヤーに与えられる選択肢は現実よりもずっと少ないのです。
もちろん最近では、いわゆる「自由度が高い」と言われるゲームもたくさんあります。
何処に行って何をして誰に会うのか、従来のゲームよりもずっと豊富に提供された選択肢で楽しめるゲーム。まるでもう一つの世界に住んでいるかのような気分にさせられるゲームです。
けれどそういったゲームですら、現実の世界に比べるとまだまだ選択肢の少ない、単純なものなのです。少なくとも、現代のテクノロジーではまだそうなのです。
現実の私たちは明日書店に行って、そこに並ぶ膨大な本のうち、どれを選んでもいいのです。マンガでも小説でも雑誌でも実用書でも図鑑でも旅行ガイドでもいい。
一軒の書店の中だけでもそれほど膨大な選択肢があって、しかもそういった店が一つの街の中に複数軒あったりするのです。
ゲームの世界では、そうはいきません。
にも関わらず、ゲームの世界はプレイヤーにそういった貧しさを感じさせないことがほとんどです。
それはなぜか?
私はそれは、人は無数の選択肢の大半を切り捨てて暮らしているからだと思います。
先ほどの書店の話に戻りましょう。
書店の中には数千冊、数万冊の本が並んでいるにも関わらず、その中で実際に購入するのは一度に数冊程度におさまることがほとんどです。。
数十冊になることすらまずありません。
料理が嫌いな人はレシピ本のコーナーを素通りし、旅行に行く予定もないのにガイドブックを買う人は滅多にいません。資格試験のマニュアルを手にとるのは、実際にその試験を受けるつもりの人に限られるでしょう。
興味や関心がない、自分の生活には関係ない、好みじゃない。
そういった本を私たちは、視界に入れることすらしません。
だからこそゲームの世界の極めて限定的な選択肢しかない状態も、貧しいようには見えないのでしょう。
そもそも選択肢というのは多ければ多いほど良いわけでもないのです。
だってその状態は、雑音が多いとも言えるんですから。
無数の音が響き渡る中で、必要な音だけを聞き取るのは難しいことです。
単純化されたゲームの世界は、ストレスの少ない場所でもあります。
一年という期限を区切り、別れという選択肢を捨てた時、私は一瞬「世界の表面が剥ぎ取られた」ような感覚を味わいました。
巨大な手を持った誰かが、くるくると絨毯を剥がしていくようなイメージ。
その直後に世界は、再びそっくりな絨毯に覆われました。一見同じに見えるけれど、確実に違うなにかに。
現実の世界に比べるとつるりとして、陰影が少なくて、シンプルなテクスチャのなにか。
私の世界はそのとき、現実の豊かな複雑さを捨てて単純化されたのです。
その結果、自分自身のそれまでの悩みの多くを、私は雑音として切り捨てられるようになりました。
たぶんそれは、正しいことではなかったんですけど。
だって私が切り捨てた「雑音」とやらの中には「自分の結婚」、「自分の将来」について思い悩むことも含まれていたからです。
私もうアラサーなのに、このままじゃ一生結婚できなくなるんじゃないのかな?
仮にセキゼキさんと結婚するようなことがあったとしても、無職で病気のセキゼキさんを抱えてずっと生きていくのはたいへんじゃない?
子供はまず持てないだろうなあ。男の子でも女の子でもいいから、欲しかった……
結婚とか子供とかそういうのぜんぶ諦めてそのままおばあちゃんになったら、そのときむちゃむちゃ後悔したりするんじゃないかね?
すべて、ものすごく当たり前の悩みです。この先数十年続くであろう人生のために、きっちり考えておくべきことです。一時の感情に流されて無視するのはよくないことです。
けれどその必要な悩みを切り捨てたことで、私の気持ちははっきりと楽になりました。
そもそもこの先の人生のことを考えて、「安定した生活」とか「幸せな日々」とか「可愛らしい子供」とかが欲しいんだったら、もうとっくに答えは出てますからね。「別れる」が正解ですよ。さすがにそのくらいのことは、私にもわかっているんですよかなり早い段階で。
だけどわかっていてもできないから、悩んでしまうわけです。
一年という期間限定で、私はその「正解」を選ばなくても良いことになりました。
私が考えなければならないのは、この一年をどう乗り切ればいいのか、それだけです。シンプルで極めてわかりやすい。
そもそも「別れる」ことにしたって、単純ではないんです。
さようならした翌日に冷たくなったセキゼキさんが発見されるとか、そういう末路は望んでいないわけですよこっちは。
別れってどう切り出せばいいの? 穏やかな話し合いのスタートが切れるかんじが全然しないのは気のせい?
仮に別れの同意をとりつけたとしても、その先は?
この先もセキゼキさんには治療を続けてほしい。セキゼキさんの実家の近くに通いやすいクリニックを探したほうがいいのか?
今のクリニックでうまく治療が進んでいるなら、多少遠くてもそのままのほうがいい気もするし……
けど遠くなったら通うのやめたりしない?
傷のない別れなんてあるわけないし、とかいう歌があったし確かにそうかなとは思うけど、致命傷だけは避けたいと思っちゃうのはわがままですか?
そういうことを考えていると、それだけでへとへとになっちゃうんですよね。
けどその煩雑さに疲れたからって「別れない」でいると、また心の中で
「将来はどうするのー?」
「結婚とかしたくないのー?」
「老後の生活、考えてるー?」
ってそういう声が絶妙のハーモニーを響かせてきて、私はまた新たなひとり検討会を始めることになってしまう。
一年という区切りによって、この終わらない検討会の開催はしばらく延期されることになりました。
別れ方についても考える必要はありません。既にセキゼキさんと同意がとれているわけですし。
とりあえず大事なことを棚上げして先に延ばしただけとも言えますが。
それでもよかった、とても助かった、と今は思っています。