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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

妊娠七ヶ月

はじめに

昔きいたえらく気になるんだけどいまだ未消化みたいなお話を唐突に思い出したので、書きます。
友人から聞いたものですので、私自身は登場人物の誰とも面識をもちません。又聞きゆえの曖昧な部分もございますが、ご容赦ください。あと、いつものことながら脚色はしております。フィクションと思ってお読みください。

本文

ニエ(仮名)さんは長く付き合っていた恋人と結婚することとなりました。
まだ幼い頃に母親を亡くした息子を、彼のお父さんは男手ひとつで育てました。
ニエさんは独身時代に何度も彼の実家に遊びに行ったことがあり、気さくで優しいおとうさんに可愛がられていました。
ですから、
「これまで苦労をかけた親父をひとりにしたくない。少しでも恩返しをしたい」
彼がそう言った時、ニエさんは素直に賛同して同居を決めたのです。
舅となった彼のおとうさんは相変わらず気さくで親切、義実家とのありがちな軋轢も発生せず、新生活はきわめてスムーズに滑り出しました。
しばらくしてニエさんは妊娠しました。夫と舅に助けられながら順調に過ごし、妊娠七ヶ月に入ったところで、ニエさんは仕事をやめて家で過ごすようになりました。


掃除機をかけているとき、ニエさんは最初の違和感に気付きました。
ニエさんたちの住まいは昔ながらの日本家屋で、襖や障子で仕切られた各部屋が廊下と縁側によって繋がれています。
舅の居室は家の中央部にあって、三方の襖をあけると家全体が見渡せるようになっていました。
洗面所、廊下、若夫婦の居室、居間。順番に掃除機をかけていくあいだ、ニエさんはずっと見られているような気がしていました。部屋の真ん中に座って新聞を読んでいる舅は少しずつ角度を変えて、常にニエさんのいるほうを向いているように思えたのです。
今までおとうさんの視線が気になったことなんてなかったのに、妊娠してナーバスになってるのかな。
ニエさんはそう結論付けたのですが、舅の凝視はそれからも続きました。
舅はニエさんのいるほうの襖を開けて、じっとこちらを見ているのです。


「珍しいんだよ」
夫は簡単に片付けました。
「おふくろがいなくなってからずっと、家の中に女の人がいたことがないからな。ついつい見ちゃうんだろう」
ニエさんが気になっているのは視線だけではありませんでした。
「どうされました? なにか気になります?」
「お腹がすかれましたか? おひるにしましょうか?」
最初のうちニエさんは視線を感じるたびに、舅に話しかけていたのです。
ですが舅は人が変わったように黙り込み、返事もせずただじろじろと、ニエさんの全身を眺めまわすだけなのでした。
ニエさんが更に話しかけると舅はぴしゃりと襖を閉めます。
そして、しばらくするとまた襖をあけて、凝視が再開されるのでした。
どう説明すれば夫の気持ちを傷つけずに話ができるか、ニエさんはずいぶん悩みました。尊敬する父親を貶めるようなことを、夫に言いたくなかったのです。


夫が不在の間は必要最低限の用事を終えたら襖をきっちりと閉め、部屋ににこもって過ごそう。ニエさんはそう決めました。
数十分後、突然襖があけられました。振り返るとそこには舅が立っており、座っているニエさんを見下ろしています。
「どうされました?」
「なにかご用ですか?」
「お願いします、なにか喋ってください」
何を言っても黙ったままの舅に話しかけるうち、ついにニエさんは泣きだしてしまいました。すると舅は自分の居室に戻り、再びニエさんの方をじっと見つめるのでした。
それからというもの、ニエさんが部屋の襖をしめると、舅がやってきてその襖をあけることが続き、かえってストレスとなりましたので、ニエさんは諦めて襖をすべて開けはなって過ごすことにしました。
鍵のかかるドアが欲しいと訴えても、夫には理解してもらえません。
やがてニエさん自身、
「もしも鍵のかかったドアをがたがた揺さぶられたりしたらどうしよう」
「無理やりドアを開けられたらどうしよう」
と考えておそろしくなってしまいましたので、それ以上ドアを欲しがるのはやめました。


夫が帰宅して三人が揃うと、舅は以前と同様によく笑い、よく喋ります。ですからニエさんの不安は夫に伝わらないのでした。
転んだりしたらたいへんだから、心配して目を離せないだけだろう。
日中二人きりになるのがはじめてだから、緊張して話が出来ないのかもしれない。
妊婦が情緒不安定になるのはよくあることだからね。ニエは今、何でもないことが気になってしまう状態なんだよ。
静かに諭す夫の声を聞くうちに、ニエさんはだんだんおかしいのは自分だったのだ、自分こそが諸悪の根源なのだと、思うようになりました。
さらに数日が経つと、舅が部屋を出て廊下をうろうろ歩きまわり、ニエさんと頻繁にすれ違ったり、後ろから追い越して行ったりするようになりました。
狭い廊下でニエさんの体をかすめるようにして勢い良く歩くので、ニエさんはふらついててバランスを崩してしまったりします。何度もおそろしい思いをしましたが、転びそうになるたび舅が素早く手を伸ばして彼女の体を掴むので、大事には至らないのでした。


「なんかそれ、若い女に触りたくてわざとぶつかりそうになりながら歩いているみたいに聞こえるんだけど」
私の言葉に、友人はため息をつきました。
「まあかなり嫌な状況だよねえ。ニエちゃんの様子もちょっとおかしくてさ。この間会ったら、全然話をしなくなってて。顔色もすっごく悪いし。どうしたの、何があったのって聞いても『なんでもないの私が悪いの』ばっかりでさ。ニエちゃん、前は『お舅さんが怖い』って普通に言ってたのにさ。今の話もけっこう苦労して聞き出したんだよね」
「嫌な話だなあ。里帰り出産すればいいのにその人」
「私もそれすすめてみた。けど、旦那さんがいい顔しないんだって。それにニエちゃんの実家って今の家と同じ町内にあるからさ。わざわざ帰るような距離じゃないってのもあるよね」
「だったら、お母さんに日中来てもらったりはできないの?」
「それが駄目なの、ニエちゃんの実家は今ちょっと非常事態なの。いろいろ重なって、三人くらい入院しててさ。家族全員が駆り出されて交代であちこちの病院に行ってて。ニエちゃんは妊娠中だからそういうのは免除されてるんだけど、それが心苦しいんだって。だからこれ以上家族に迷惑かけるようなことはしたくないって、そればっかり」
「なんて間の悪い。でもさあ、そのニエさんて人も非常事態だと思うんだけど。旦那さんの対応も酷いよね、もっと真剣に対処してほしい」
「だけど、実際そのお舅さんがしてることって、実体がないんだよね。ひたすらじっと見てるだけでしょ。廊下でしょっちゅうすれ違うんですとか訴えても、一緒に住んでりゃそりゃそうだろって言われそうだし。転びそうになると体を掴むってのも、当たり前っちゃ当たり前だよね。妊婦転ばせるわけにいかないんだから。だから全部、言い訳できちゃうっていうか、正当な理由が向こうにはあるわけ」
「襖を勝手に開けるのはヘンだよ」
「それだって、ニエちゃんの様子がおかしかったから心配になって見に行ったとか、いくらでも理由つけられるじゃない」
「そりゃ一回一回はそうかもしれないけど、何回もあるのはおかしいって。あ、そうだ。録音とか録画とか、そういうのはダメなの? 一日何回も襖を開けに来る様子とか見せれば、旦那さんもわかってくれるんじゃない?」
「家中の襖があけ放たれた環境で常に見張られながら、どうやって隠しカメラをセットするの?」
「録画は無理か。でもレコーダーで会話を録音するくらいなら……」
「だから、お舅さんは喋らないんだって。録音できるのはニエちゃんの声だけだよ。誰も返事をしないのに、ひたすら話しかけてる独り言みたいなのが録れるだけ」
「あ、それはまずい。再生したら逆にニエさんがおかしい人っぽく見られるだけだ」
「そういうことです。とにかく、次に会ったらもう一回、里帰り出産を強くすすめてみる」


それからニエさんがどうなったのか、私は聞いていません。もうとっくに子供は生まれて、幼稚園の年長さんくらいにはなっているはずなのですが。
学生時代は毎日のように顔を合わせていた友人であっても、社会人になるとなかなか会えなくなるのが普通です。
二年ぶりとか三年ぶりとかに会うとかって、全然珍しくないです。
顔を合わせればお互いの近況確認に忙しくなっちゃうし、他に話したいこといっぱいあるし。
そういうときに昔の、私自身は縁もゆかりもない知らない女性の話をわざわざひっぱり出して聞くのはなんか変な気がしちゃうんですよね。大体とっくの昔になんらかの形で決着はついちゃっているんでしょうし。
こうなってしまうと、もう今更続きをきけないのです。
なのに、時々何かの拍子にふっと、板張りの廊下に掃除機を掛けている若い女性の姿が思い浮かんで、
「そういえばニエさんてどうなったんだろう……?」
って気になっちゃうんですよね。

まさかとは思いますが、この「弟」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。

これを読んで「ゾクっとした」などという感想は多いんですが、私もまた、ちょっと別な角度でゾクっとしまして。
あの質問に出てくる「弟」と、ニエさんの話の「舅」はなんとなく似ている気がするんです。
見られている気がするって、すごくポピュラーな被害妄想の一つだったりしますし。
そうすると、初めてこの話を聞いた時には
「自分の父親を悪く思いたくないのはわかるけど、妻の不安を一顧だにしない夫が頼りないなー」
などと感じたんですけど、その感想もちょっと変わってきまして、
「夫の言葉こそが正しくて、ほんとにニエさんが不安定になりつつあったのか?」
などと思ったりするときもあるんです。だとしても、妻が苦しんでいることに変わりはないのだから、ちゃんとそこに向き合おうよとは思いますけどね。
一方で。
ニエさんが不安定になりつつあるのだと、周囲にそう思わせてしまえば、お舅さんはやりたい放題なんですよね。そのための段階を踏んだ巧妙な手口に思えるときもあって、そうすると妄想かもと疑ったことが申し訳ないような気持ちになります。
妄想説と現実説、ニエさんにとっては一体どちらがマシなのでしょうね。いずれにせよ彼女は追いつめられ、辛い気持ちを味わっていた、そのことだけが確かです。
とりあえずニエさんが無事に出産を迎え、今現在は母子ともに健やかに過ごしていますように。

『きのう何食べた?』の感想みたいな

きのう何食べた?』が面白いマンガであり、レシピ本としても優れているのは有名なハナシですが、最近私はあのマンガがもっと特殊なジャンルのような気がしてきました。
違うんです、BLだとかラブストーリーとしても読めるとか、そういうのでもないんです。


私にとって『きのう何食べた?』は知人マンガなんです。そんなジャンルないけど。知人の近況報告を聞くために単行本買うかんじというか。1巻を読み返すと、アルバムをめくっているみたいな気持になるというか。
私にはシロさんとケンジはもう、漫画の中の人じゃない気がするんです。なんつーか、ほとんど知り合いみたいなもんというか。
「今日はハンバーグかー。作るの大変じゃなかった?」
「玉ねぎ炒めないやつだから、そうでもなかった」
「あ、シロさんのやつか。あの人のレシピはほんと使えるの多いわ」
「料理うまいっていうか、ほんとに作るの好きなんだよな。まめだし、感心するわ」
みたいな、横で聞いてたら知り合いの噂話をしてるとしか思えないかんじで、我が家ではシロさんとケンジの話が出ます。
そもそも最初の4巻くらいまでの間は、我が家ではふたりとも「シロさん」とはいえても「ケンジ」とは言えませんでした。なぜなら「ケンジは年上だし」と思っていたのです。なにその距離感。漫画の中だから関係ないのに。
それがだんだん付き合いが長くなって、あの二人との親近感が勝手にコチラ側で増した結果「そろそろいいか」という気持ちで「ケンジ」と呼ぶようになりました。もう今更「ケンジさん」もよそよそしいので。
だからほんと、シロさんの実家にケンジと二人でいく回とか、「よかったね」と二人で言い合いましたよね。「ケンジ報われたね」とか「シロさんも変わったんだな」とか、そんな風に。
感情移入しまくった、いわゆる普通のマンガへの感想とは違うんですよ。我がことのように鮮烈な思いがほとばしったりはしないんです。知り合いの話をきいたときのような、しみじみとした感慨がじんわりと湧くんですよ、『きのう何食べた?』は。
「料理を中心とした日常生活の書き込みがリアルで細かい」
「地面に足のついた非常に現実的な展開だけで話が進む」
「時間経過が現実と同じ」
などの要素がここまで身近に感じさせてくれるんででしょうけど、それにしても独特な気持ちにさせられます。


神は細部に宿り給うと言いますが、『きのう何食べた?』はあらゆる細部に濃密なリアリティが宿っています。
全てのレシピは献立単位で考えられていて、「煮物を作っている間に焼き物を作る」、「出来たてを供する必要のない料理は先に用意する」、「しらたきを茹でた鍋でそのまま肉じゃがを作れば洗いものが減る」、「魚を焼いたグリルは食後に洗うとおっくうになるから、使ったらすぐ洗う」、「醤油、酒、水の順で測れば計量カップがすすがれて洗う手間が省ける」など、台所生活全般についての手順がそこにはあります。
それはレシピ本や料理番組から教わることはできないものです。こうすべきだというお手本ともまた違う、台所である程度の時間を過ごした人間が自分自身の好みや癖を反映させて身につけた極めて個人的な生活上の知恵としかいえないものです。魚焼きグリルを鼻歌交じりに洗うというたった一コマから、私はシロさんの人となり、台所で過ごした時間の長さを、強烈に感じ取ります。
過去のトラウマにまつわる幼少期のエピソードとか。数ページにわたって続くモノローグとか。キャラクタの情報というのはしばしばそういう方法で、直接的に読み手側に注ぎ込まれます。また、そういう風に注ぎ込まれるからこそ私たちは、現実の人間よりもずっと深く、物語の登場人物を知ったりすることができるわけですが。
きのう何食べた?』のひたすら積み上げられた細かな事柄によってキャラクタの内面を感じるというのは、私たちが現実の人間に対しての理解を深めていくのとほとんど同じやりかたです。
(『きのう何食べた?』においてモノローグや回想がまったく入らないわけではありません。ただかなり控えめです)


もともとよしながふみ先生は、化粧や服装やちょっとした言葉遣いや仕草で、登場人物の個性や好みの違いを表現するのが上手いのですが、登場人物一人ひとりの食の好みや作る料理の差もやはり絶妙に表現されています。
シロさんはけっこう上品な好みで、さっぱり和食が好き。魚の臭み抜きなどもかなりしっかりおこなう。
ケンジはシロさんよりがっつりしたのが好き。だけど同年代の男性に比べればややさっぱり。甘いものも好きで、じゃっかん女性っぽい食の好み。
佳代子さんの料理はシロさんのような自分の好みに特化したものではなく、あくまで家族のために長年作ったのだなということがわかる味。間口が広く、レシピの省力化がすごい。
シロさんのお母さんもいかにも「一家の母」という料理を作るのですが、佳代子さんとはちょっと趣が異なります。佳代子さんが女児の母ならば、こちらは男児の母。ボリュームたっぷりでがっつりめの、思春期の男子を養うためにはこのくらいやらないと、というご飯を作ってくれます。
そのため、若い頃はいざ知らず今となってはさっぱり和食好みのシロさんが帰省すると、お母さんは揚げ物など大量に作りすぎて食べきれなくなったりしてるのですが、こういう「実家を出て行った子供の変化を親が把握していない」描写もまたリアルですよね。
ジルベールと小日向さんカップルの、「あまり地道ではないセレブっぽい暮らしぶり」も服飾や食材の描写で伝わってくるし。ナルシストと言われつつシロさんが実はそこまで服にこだわり強くないのも読んでいればわかるし。


たとえばドラゴンボールを読んだとき、悟空やベジータは私たちの世界にはいないよな、という感覚になります。ドラゴンボール時空は私たちの世界と物理法則が同じかどうかすら怪しい、こことは違う、遠い場所です。
スラムダンクなんかは私たちの世界にぐっと近づいている気がしますが、それでもやっぱり微妙に違うスラムダンク時空を感じさせるんですよね。
それなのに『きのう何食べた?』には「何食べ時空」がある気がしないんですよね。だってその時空ここと一緒のやつでしょ、という気がするわけです。そんなわけないのに。だってどう考えてもパリス・ヒルトンとかロックフェラー一族よりシロさんとケンジのほうが身近だし同じ時空の民って気がしてしまうのです。
普段の私は、マンガの中の人たちは年をとらない気がしています。だけどシロさんとケンジに関しては違う。彼らは私たちと同じペースで年をとります。
鏡を見て昔と同じではない自分を発見するように、単行本を買うたびに私は、昔と同じではない彼らと再会します。よしながふみの筆はわずかずつではあっても確実な加齢のしるしを、登場人物に与えます。それは時々容赦のなさを感じさせるんですけど、それもまたリアルです。


きのう何食べた?』の登場人物は全員、冒険者でも勇者でも英雄でも復讐者でも異能者でもなく、平凡な一人の生活者に過ぎません。
淡々とした日常が流れていく中で、彼らの身の上にたまにドラマチックな出来事が起きる時もあります。それはたぶん当事者にとってはかなりのオオゴトだったりするのでしょうが、世間から見ればありふれた平凡な出来事でしかなかったりもします。
そして彼らは、そのありふれているけれど特別なドラマを、平凡な生活者として乗り切ります。
父親の癌の手術に付き添う前日、シロさんは留守番するケンジのために二日分の食事を作ります。いつもと同じように、栄養バランスとコストパフォーマンスを考えながら。
一昨年、実父の告別式の準備を進めながら私たち家族は、長い時間台所に立ちました。お線香を上げにくるお客様のために茶葉を補充してお湯を沸かしてお茶菓子を出して、合間合間に自分たちの食事の用意もしなくてはいけなくて。悲しくて辛くて、だけど食べ物のことを考えずに一日を過ごすことはできませんでした。これまで生きてきた日常と地続きになった生活の手順を積み上げながら、時間を過ごすしかありませんでした。
たぶんそれが、生活者として生きるということなのです。そして生活の一番基本的な部分に、食があります。
シロさんとケンジはドラマチックな出来事にヒロイックに立ち向かうのではなく、生活を積み重ねることで生き延びます。私たちと同じように。だから彼らは、豪勢すぎず美味すぎない日常のごはんを、大事にだいじに食べるのです。


だから私は、やっぱり彼らをどうして遠い世界の漫画の中の人のようには思えない。近い時間を近い場所で生きている、知人のように感じてしまうのでした。

『タッチ』と『CIPHER』と双子の小宇宙

幼い頃の印象的な記憶の一つに、『タッチ』のアニメで和也が死んだ日というのがあります。
その日私は父が泣くのを初めてみました。アニメの内容だってショックではありましたが、父が号泣して放送終了後も長い間テレビの前で悲しそうにうなだれていた姿のほうが、よっぽど驚かされたんでした。
「なにも殺すことはないだろう」
「最初からそのつもりだったんだな」
「かわいそうだろう。こんなのはあまりにかわいそうだろう」
というフレーズを父は何度も何度も繰り返しており、そのときは「おとうさんはなにをいってるんだろう」くらいにしか思わなかったんですが、今ならばわかります。


「なんでタイトルが『タッチ』なんだろうな? 達也がたっちゃんだから、『タッチ』なのかな」
などと言っていた父は、和也の死を目の当たりにした時はじめて「弟のすべては兄にバトン『タッチ』される」というタイトルに隠されていた本当の意味に気付いてしまったんでしょう。
これはもともとそういう物語だったんだ、努力家の和也は殺されるために作られた少年だったのだ、和也があれほど望んでも手に入れることができなかった夢と恋を手にするのは達也なのだと、そういう構造に大人だからこそ気付いた父は、和也のために泣かずにはいられなかったんでしょう。


さて、話は変わりまして『CIPHER』という少女漫画があります。
あらすじをざっと説明しますね。

舞台はニューヨーク。15歳の少女アニスは、自分と同じ学校に通う芸能人ジェイクが、実は双子の弟ロイと二人一役を演じ、交互に学校に来ていることに気づく。親のいないアパートで二人きり、秘密を守ることに徹して閉鎖的に暮らす双子。学校の人気者である彼らの意外な姿に驚いたアニスは、双子がなぜ周囲を騙すのか訝しみ、その真意を知ろうとするが……

アメリカ人が主人公だし、野球のやの字もないし、共通点は双子が出てくるところだけじゃんというかんじなんですけど、私はこの『CIPHER』という作品を『タッチ』のアナザーストーリーみたいにとらえてるんですよ。
描いてる作者本人の意識の中ですらつながってないと思われるので、実際には全然無関係なんでしょうけど。
作中に何度も引用されてるし、『CIPHER』はむしろ『エデンの東』を意識して作られてるのがあきらかですから、あれを『タッチ』のif、ある種の続編として読んでるのは私くらいなんでしょうか。
ただ、この二つの作品に出てくる双子同士の葛藤、彼らが抱える生きづらさの形がすごく似てるんです。だからなんか結びつけちゃうんですよね。


まず、上杉家の話から。
出来のいい弟としょっちゅう比べられて「出がらし」よばわりされていた達也ですが、より強烈なコンプレックスを抱いていたのって、実は和也のほうだと思うんです。
「一番は達也」「愛されるのは達也」「自分は努力しているし認められているけど、達也が本気を出したら決してかなわない」というふうに彼は思ってしまっているし、おまけにそれはかなり正しい(そこが辛い)。
あだち充作品の主人公って大体そうなんですけど、達也って飄々としてほんとうにかっこいいです。和也の抱える苦しみってのはひりついてて、読んでる側まで息苦しくなっちゃうようなところがあるんですが、達也は逆。さらっとして、きもちのいい男です。さすが主人公。そりゃ南もたっちゃんが好きだよ、と思います。
和也は優等生でモテモテだけど、モテることと愛されることは違っていて、やっぱり「愛される」のは達也なんですよね。
達也を好いている人たちは、達也の人柄を知った上で好意を持っている人ばかりです。人間を見る目が優れている原田の親友となるのは、和也じゃなくて達也です。
和也に惹きつけられる人たちはかれの能力とか表面的なパラメータを見ているのであって、人柄を好まれているわけではないように思えます。そもそも人柄を感じ取れるほどに和也と親しくなった人が少ない。


そしてこの和也とよく似ているのが『CIPHER』に出てくる双子の兄ジェイクです。
あだち充先生は、キャラの心境というのをそのままは描かず、あくまで言動から読者に察させるスタイルなので明記していませんが、『CIPHER』の中では「愛されるのはロイ」「ロイのほうが友達が多い」「ロイには一番が似合う」というジェイクの思いがはっきりと描写されます。
弟への対抗意識と妬みをくすぶらせるジェイクとは対照的に、ロイは素直で明るく感情ゆたかに描かれ、確かに「愛される」キャラで、ごく自然にアニスと恋をします。
『タッチ』の前半、達也と南の関係に変化の兆しが現れると、和也は次第に焦燥を露わにし、物語に不穏な緊張感が漂いはじめますが、『CIPHER』でもロイとアニスの関係が進展することによって、ジェイクは少しずつ変調をきたしていき、明るい物語に影が差すようになるのです。


ところで『タッチ』と『CIPHER』は国が違うとか野球マンガかどうかとかじゃなくて、『CIPHER』が少女漫画らしくモノローグと心情描写を多用してキャラクタの心的葛藤を中心的に描くのに対し、『タッチ』はあくまで言動を通して心情をにじませる、さらりとした描写に徹している点が、個人的にはすごく対照的に感じられます。
『CIPHER』では前半にジェイクの抱えるコンプレックスを描き、そのぶんロイは明るく日の当たる存在に見えるんですが、後半になってロイもまたジェイクに対してすさまじいコンプレックスを抱いていたのだということが明かされます。
「愛される」ロイを妬むジェイクがそれゆえに自分のとりえである几帳面さや生真面目さ、冷静でしっかりしたところを努力して伸ばそうとするんですが(まあここも「達也が一番」と信じるがゆえに異常なほどの努力家となった和也に通じますよね)、今度はそれがロイにとっての脅威になるんですよね。
自分と違ってしっかりしている、努力して身につけた能力があり人に認められている、ジェイクは「自分より大人だ」と。
「愛される」ロイと「努力家で有能な」ジェイク。この構図も上杉家の双子にかぶります。「愛される」達也と「努力家で優秀な」和也。
さて、達也はといえば、激情を見せることなくさらりとしてるので、コンプレックスを感じさせません。弟をうしなって苦しんでることも、弟と比較されるのが辛かったこともわかるのですけれど、達也が和也にコンプレックスを抱いているようには見えない。
と思わせておいて作中屈指の名シーン、孝太郎に電話で「俺と和也どっちが好きだ?」ときいちゃう場面が来るわけですよ。ぞくっとしましたね。
達也って、人の気持ちを察するのに長けていて、自然に寄り添える、すごく「空気読める」やつなのに。あの「どっちが好きだ」というのは間違いなく孝太郎にとって最悪な問いで、そのことはわかってるのに、それでもきいてしまう。
すげー闇だ、と思いました。「愛される」役割を持ち、「本当は一番」な達也だからこそ、闇は表に出すことも許されず潜み続け、こうやって噴き出してしまったのだなあと。


生のままの人柄を「愛される」のが達也とロイ。だからこそ努力しなければ愛されない(と思い込んでいる)和也とジェイクは苦しみ、いくら努力しても簡単にひっくり返されるんじゃないかと怯えます。ですが逆にロイは、そういうがんばりやの兄にはかなわないと感じていて、それは達也も一緒だったのではないでしょうか。
そのままでしかない自分と違って、積み上げている相手なんだもの。そして自分はそんなふうに積み上げられる気がしないんだもの。
物語の初期、南と自分の気持ちが通じ合っているにも関わらず、達也は和也に譲ろうとします。それはもちろん弟を愛し、理解する兄の思いやりからきた行動だったことに疑いはないのですが、それだけじゃないんじゃないかと私は思うのです。
達也はがんばらないことで、和也に活躍の場面を譲ってきた。けれどそれは一方で、がんばることから逃げたことでもあるんじゃないかと。
「努力と才能、最強の弟だよ」
という達也の言葉は心からのものだと思うのです。自分のほうが才能はあるかもしれない、だけど和也のようにがんばれる気はしない、だから結果的に努力ができる和也の方が優れている。達也はそんなふうに考えていたのでは。
孝太郎ってのは、和也の女房役で、まさに和也の努力と能力を最大限に高く評価し、そこから認めて親友になった人間です。生まれたそのままじゃなく、努力した和也だからこそ得られた存在なんですよね。
だからこそ達也は南じゃなくて原田じゃなくて孝太郎に「どっちが好きだ?」と聞いちゃうんだよなあ、と思うとほんとに辛いですね。和也亡き後達也がものすごい努力をしたのは間違いないのに、それでも和也の高みにまだ届いていないのかもしれないという怯えがあったのだなあ、と。


『タッチ』では和也は途中退場するがゆえに、達也が一人で自分の課題を解決していくしかありません。彼はこれまで和也の役割だった苛酷な努力を自らに強いて、弟が望んでも得られなかった夢と恋を得るためにすすんでいきます。
それは素晴らしく美しい物語なのですが、じゃあ和也は、ひりつくほどの焦燥をかかえてそれでもあんなに努力し続けた和也の救いってなんなの、と思うからそこで『CIPHER』なわけですよ。
上杉家の双子とよく似たコンプレックスを抱えたジェイクとロイが、ふたりとも死なずに、生きたまま、苦しんで苦しんで、それでも課題を克服していく物語。
『タッチ』しかしらない人はもったいないから『CIPHER』も読むといいよ!と思うのです。


なんで双子が辛いのかって、それはきっと彼らだけの閉じた宇宙の中で比べ合ってしまうからなんですよね。だって客観的に考えればどちらの双子もコンプレックス抱く必要なんてないんですよ。多少の差はあっても彼らは全員、とりえのあるいい子なんですから。だけど彼らは外を見ていない。閉じた世界でお互いだけを比べ合うから、世間的にみれば自分がどうかなんてことに気付けない。
その小さな宇宙を離れてそれぞれの世界を獲得していく過程でジェイクとロイは友人をつくり、仲間を見つけ、自分自身を再発見します。そうすることでやっと兄弟が抱えていた痛みにも気付き、もう一度お互いを認め合えるようになるんですが、これは双子が生きていたからこそ示された救いなんだと思うんです。あたたかい繭を離れて新たな痛みを知りながら、自分の世界と立場を獲得するってのは、学生時代からさらに先へと続いていくお話ですものね。


この過程で興味深いのは、彼らは自分の中の兄弟を再発見しているようにみえるところです。
しっかり者のジェイクに生活を管理され、そこに甘えていたロイが、散らかしやのルームメイトと暮らし始めると、きちんと家事をしてルームメイトを助けます。
ジェイクと比べると素直で奔放で自由な子供のようだったロイは、客観的にみればそれほど自由でもなんでもなく、かなり抑圧されてたことに気付きます。
ロイの中にもジェイク的な部分があるんですよね。
同様に、抑圧されていつも冷静なジェイクは、新たな友人関係を築くうちに、実はそれなりに感情的でわがままな部分も持ち合わせているのが見えてくるんですよね。
そしてジェイクのそういう部分を認め、好意を抱いてくれる人たちがたくさんいて、愛されるのはロイだけの役割ではなくなるんです。
弟からのバトンを受けた達也が、ひたむきな努力家という和也的な性質を身につけるように。
閉鎖宇宙の中でお互いに偏った役割を振っていた双子たちは、自分の中の多様な側面を見つけ、認め、一人の人間になっていくんですよね。


あと、和也の焦りと「愛されるのは達也」という思い込みを強化してしまったのは浅倉南だったわけですが(南は悪くないけど)(でもちょっと思わせぶりだったのはひっかかる)、『CIPHER』においても双子と親しくなったアニスが恋人としてロイを選んじゃうことが亀裂のはじまりなあたり、色恋ってのはほんといろいろこじらせますよね、と思います。ただアニスはかなり恋心を明確にロイにだけ向け、ジェイクに対しては一貫して友愛しかないので、そこはえらいな。
色恋のおそろしさは、ジェイクは別にアニスのこと好きじゃないんですよね。だけど恋愛って「選択」だから、またしても「ロイだけが選ばれてしまう」から辛いだけ。
和也が南に強く執着したのは、そりゃあ好きだったからなんでしょうけど、もっとも親密な異性であり、閉じた小宇宙を共に作ってきた南によって「達也だけが選ばれる」ことが辛くて辛くてしかたなかったてのはあるんだろうなあ、と。
『CIPHER』でしめされた双子への救いは「恋愛」ではなく選別を伴わない友情なんですよね。ここが『タッチ』とは違う部分。ラブコメとしても傑作である『タッチ』は少年漫画で、恋愛が主題となりがちな少女漫画でありながら、『CIPHER』はだんだん恋愛要素を薄めていくのが面白いところでもあります。
というわけで最後にもう一度。『タッチ』好きだけど『CIPHER』知らない方は、ぜひ読んでみると面白いですよ! 古い作品ではあるんですけど、今読んでも不思議と古さを感じさせません。本当に面白いのでぜひぜひ!
ほんとにねー、あの日号泣してた父にも読んでほしいですよ、和也はあまりにもかわいそうだけど、ジェイクは大丈夫だよちゃんと救われたよって。まあ勝手にリンクさせてるのが私だけなので「だからなに?」と思われるのがオチなのもわかってますが。

自分の敵は自分だけど味方も自分

睡眠中に尿意を催すと、トイレを探す夢を見ます。
見つかったと思うと人が長蛇の列をなしていたりやたら汚かったりしてまた別のトイレを探すことになり、そうこうするうちに目が覚めて現実のトイレに行って解決、というのがいつものパターンです。
あれって一種の夢の検閲なんですかね。欲望ほとばしるままに夢みちゃうとおねしょしちゃうから、そうならないようにしてくれてるんでしょうか。ありがたい話です。
でも私の検閲官、最近様子がおかしい気がするんですよね。


いえ、違います。検閲官を責めてはいません。そもそもの原因は私にあります。
思春期の頃の私は、ガラスを割ったりバイクを盗んだりはしなかったものの、やはり今よりは繊細だったのでしょう。
夢の中のトイレが汚いと、病気になりそうな気がして嫌でした。
たくさんの人がいる場所で用を足すということが妙に気恥しいので、行列には尻込みしました。
なのにね。今の私ときたら。
そういうの、全然気にならなくなってきてるんですわ。
「いざという時のために汚いトイレに慣れたほうがいい。わんぱくでもいいから逞しく育てよ私」
とか
「人間は一生、他人の心などわかるはずもない……私たちは一人で生き、一人で死んでいくが、この一瞬、この場にいる皆だけは同じ尿意を感じている。ので全然恥ずかしくない、むしろ素晴らしい」
とか、なんかそういう理屈が次々とわいて出て、その場にいる自分を全肯定しちゃうんです。
大人になるとどんどん自己欺瞞がうまくなりますからね。Don't trust anyone over thirty とか全くその通りだと思いますよ。
まあでもね、ほら。若者じゃない人間はこっからすげー大成長とかのぞめないわけですし? それなのにこんな自分は嫌とか思ったら、ただ絶望しちゃいそうですし? だったら自分で自分を肯定したほうが気分よく過ごせてトクよね?
というのが私の結論なんですけれども、この件に関してはまずい気がします。私の自己欺瞞がこれ以上熟達してしまったら、おねしょを防ぐ術がなくなってしまうのではないでしょうか。
検閲官の歯車が狂いつつあるとすればそれは、加齢と共に恥を脱ぎ捨てつつある私のパーソナリティのせいでしょう。


二年ほど前に見た夢の話です。
ハエがぶんぶん飛び交う簡易式トイレの中で私は、パンツを下ろしてしゃがみこみました。
途端にバン、と何かが炸裂するような音が響きました。爆破テロ、という言葉が脳裏を横切った次の瞬間、トイレの四面の壁がすべてはじけ飛びました。
行列に並んでいる人たちは皆ぽかんと口を開け、目を丸くしてこっちを見ています。
私は高速で立ちあがり、高速でパンツをはき直し、猛ダッシュでその場を去りました。ちょっと泣いていたかもしれません。
目を覚ました後私は、
「その手があったか」
と検閲官の手腕に感じ入りました。いくら図太くなったとはいえ、群衆の前のオープントイレという状況を肯定することは、私にはできませんでした。
そのときは、まだ。


昨日の明け方、私は久しぶりにトイレの夢を見ました。
やたらと長く、ロープで区切られながらうねうねと曲がりくねった行列に、私は並んでいました。最後尾付近にプラカードを持った人がうろついているあたり、どこぞの遊園地を思い出させます。
行列はしずしずと進み、廊下だの階段だのを通り抜けてやっとトイレの中に入ると、ハエは飛び交うわカマドウマはうろつくわゴキブリは走るわ、壁や床のあちこちに正体不明の茶色や黄色のシミがあって、とにかく臭くて汚い空間が広がっていました。
この時点で私は帰りたい気持ちになっていたのですが、ここまで長い行列をじっと耐え忍んでいたものですから「列を離れるなんてMOTTAINAI!」とどうしても思ってしまうのでした。
たぶん、検閲官もここまでは想定内だったんじゃないでしょうか。なので彼女は、素早く次の手を打ってきました。
「個室の仕切りがない……だと……?」
いくつかの洋式便器が床から直接にょきにょきと生えており、人々はためらう様子も見せずにそこに腰を下ろして用を足していきます。
オープントイレ作戦は、以前にも成功してますからね。検閲官の手腕は確かです。
(さすがに嫌だよコレエ)
げんなりしながらもMOTTAINAI精神に打ち勝てず、ぐずぐずと列に留まる私。
(でもみんな平気そうだな)
はい、ここです、ここがダメでした、そこに気づいちゃいけなかったんです。
そこで私は、中学時代の英語教師の留学話を思い出してしまったのです。
「あっちのトイレは日本に比べると個室の扉の下半分があいてることが多いんだよね。特に寮のトイレは扉の上の部分もがばっと空いてるから入っている人間の顔が丸見えで、すごく嫌だったなあ。みんな平気で用足しながら他の学生に挨拶したり、ばんばん会話したりしてて、なかなか馴染めなかった」
もしかするとこの先生の話が印象深かったからこそ、検閲官も夢トイレからなにかと仕切りを奪うのかもしれません。


(そっか。ここ日本じゃないんだきっと。だからみんな平気なんだ)
夢の中らしく、私の考えは大胆に飛躍しました。
(郷に入りては郷に従えだよね。それが異文化交流に必要なことなんだ。たぶん)
(ぼくらはみんな生きている、生きているからトイレ行く。トイレもまた生命の営み。無理に隠そうとしていた自分の感覚こそを、まず疑った方がいいのかもしれないな私は)
ああー、ついに。丸見えトイレすら肯定する理屈が、この瞬間に生まれてしまいました。
私が検閲官なら絶望しましたよね。そしてもうヤケクソになって、流れに任せていたかもしれない。
「じゃあもういいよ好きにしろ、後片付けはテメーでしやがれ!」
とか言い出して知らんぷりだったかもしれませんよ。とはいえまあ、検閲官もまた私ですから。他人事と割り切ることはできなかったのでしょう。
思いもよらぬ方向から、次の手を打ってきたのです。


「ねえーん、どうしたのあなたそんなところで?」
すけすけでレースたっぷりでエロエロしい。そんなスリップを着た美女が突然あらわれ、私に声をかけてきました。
「え、いや、トイレに並んでるですけど」
「そんなことよりぃ、もっとイイコトしましょうよお?」
なぜかすぐ近くに椅子が出現し、そこに腰を下ろした美女が長くかたちのよい脚を思わせぶりに組み替えました。
恐らくこの時点でパニック気味だった検閲官は、「誘惑」のテンプレートを参考に美女を作りだし、私をトイレから連れ出そうとしたんだと思います。
たった一つ、彼女が見落としていたのは私がヘテロセクシャルな女だったという点でした。
「今すげートイレ行きたいから無理です」
ぜんぜん心動かされない私。
「えええーん、けちぃ」
「そう言われましても。困ったな」
「こまらないでよう」
「わたしたちといっしょにきてよう」
美女はいつの間にか三人に増えてました。検閲官のヤケクソぶりがうかがえます。鳴かぬなら増やしてみようホトトギス的な力技ですね。


意外にも、この手は有効でした。チャーリーズエンジェルとか、けいおんとか、キャッツアイとか、見目麗しい女性が集まって仲良さそうにしている構図に、私は異常に弱いのです。きゃっきゃっうふふしてる美女たちを見ると、多幸感がほとばしるのを感じます。コンディションによっては、けいおんのオープニングを見ながら感極まって涙をこぼします。自分で書いててなんか気持ち悪いなコイツって思いました。
「いいことってなんなんですか?」
そんなわけで私は、ちょっぴり浮き立つ気持ちで美女たちに話しかけました。
「ケーキバイキングよん!」
「それは確かにイイコトですね……」
「ケーキ以外のあらゆる美味も揃ってるのよん。焼き肉もトンカツもすき焼きも」
「それってもうケーキバイキングじゃないんじゃ」
このあたりで美女三人は私の前に顔を並べ、一気にまくしたてはじめました。
「全部作りたて揚げたてよん! 名人が目の前で天ぷらをあげるわよん!」
「なのにローカロリー! いっくら食べても太らない!」
「おまけにタダ! あなたはわたしたちに選ばれたから! とてもラッキー!」
私はつばを飲み込みました。
「すばらしい、そんな夢のような話があるなんて……でもトイレ行きたいんですよね。すごく。トイレの後じゃダメですか?」


幼い頃私は、
「見知らぬ人に声をかけられてもついていってはいけません。お菓子をあげると言われてもだめです」
とか周りの大人に言われて、
「おかしにつられるとか、わたしそんなにばかじゃないよー」
とか思っていたんですけど、大人になったらバカになっちゃった気がします。菓子だの美味だのに釣られまくりです。
「だめようん。今すぐいかなきゃあ」
「だとすると残念ですがそのお誘いは断るしかないのかも……残念ですけど……」
「んまあ、もったいないのねえ。この季節ならではの各種期間限定・数量限定メニューがたっくさんあるのにい」
「限定! それは行かないとMOTTTAINAI! 限定ならば、行かざるをえない!」
こうして私はそのまま限定限定連呼しながらふらふらと美女たちと一緒に歩きだし、ぶじおねしょの危機は回避されました。


「あんな手も、ありなんだ……」
ぱんぱんの膀胱を抱えて起き上がった私は、現実のトイレに向かいながら、思わずさみしいかんじで呟いてしまいましたよね。
私ってバカだなあって、心底思いました。
自分を誘惑するためにエロ美女を作りだすという検閲官の短絡的な発想。さらに増やすという安易さ。
うさんくさい誘いにもまんまと乗ってしまう食い意地の張りっぷり。
期間限定という言葉におそろしく簡単に釣られてしまうあたり悲しいほどに小市民ですし、全体的に人間としての器があまりにもトゥースモールな気がしました。
おのれの愚かさをじっくりと
噛みしめた私は、危うく自己嫌悪の深い海に沈んでしまうところでしたけど、ほら。無駄にトシ食ってませんから。
「ま、いっか。考えてみれば欲望に対して素直ってことだわコレ。複雑化する現代社会ではきっと、そういうシンプルイズベストな発想こそが、しばしばベストソリューションを導くような気がしないでもないしね」
適当にカタカナ言葉を操りながら私は顔を洗い、
「あったま、からっぽのほーうがー、ゆーめつめこめるー」
と歌いながらごしごしタオルで顔をこすったりしたんでした。。

投げっぱなしキャッチボール

はじめに

当ブログはしばしばかつて実際に起こったことを元ネタとしつつも、「大事なことは話が面白くなることだ、私は事実よりも娯楽性を重んじる!」というシロイの歪んだ信念によって、事実をある程度改変しています。なのでしょっちゅう「フィクションと思ってお読みください」と断りを入れているわけなんですが、今回はややノンフィクションよりに感じていただきたいと願う、その程度には勝手な人間です私は。

昔のこと

何年も前のこと。
その日飲み会帰りの私は、電車の中でぐっすりと眠りこけてしまいました。
「寝過ごしてますよ!」
耳元で誰かが叫び、びっくりして飛び起きたら、
「ほら、乗り換えはこっち!」
とその誰かが言って私の手を引っ張り、誘導されるままに折り返し電車に乗り込んで、気が付いたら見知らぬ男性と二人、隣り合って座っていたわけです。
その男性はものすごくにこやかな人で微笑みながらじっとこちらを見つめており、私は何が起こったのか把握しきれずやや呆然としながらも
「ありがとうございました」
と頭を下げました。


「どういたしまして」
「助かりました」
「助けましたからね。ぼく、○○駅で降りる予定なんで、それまではあなたを助けてあげます。酔ってるみたいですからね」
「ご心配お掛けして申し訳ありません。本当にありがとうございます」
「もうお礼はいいですよ。他の話をしましょう」
「はい。えーっと、ずいぶん遅い時間ですけど、お仕事から帰られるところですか?」
「いいえ」
「金曜ですし、飲み会帰りとか?」
「はい。友人と飲みました」
「楽しい週末で何よりですね」
「楽しかったとは言ってませんよ」
「す、すみません。なにか嫌なことでもあったのですか?」
「いいえ」
「? 結局どんな飲み会だったんですか?」
「ふつうの飲み会でした」
「ふつう……」
「はい。ふつうです」
「私も今日は友人と飲んだ帰りです」
「なんで?」
「え?」
「なんでそんなに飲み会の話ばっかりするんですか? 酒がそんなに好きなんですか?」
「そういうわけではありませんが……」
「なら飲み会の話はやめましょう」
「そうですね、すみません」
「まあいいでしょう。気をつけてください。別の話を」
「別の話? ええっと……あら。面白いデザインの腕時計をされていますね」
「そうですか」
「なかなか見たことないですよ。この時計はどうされたんですか?」
「買いました」
「どこで買ったんですか?」
「店で」
「そ、そうですよねー、買うと言ったら店ですよねー、薄々そうじゃないかとは思っていました。どちらのお店で買われたんです?」
「さあ。忘れました。どこかの店ですよ」
「……」
「ちょっと」
「はい」
「なんで黙るんですか」
「あ、いや」
「何か話してくださいよ。ね? お話しましょうよ」
「お話したいんですか? 私はてっきり……」
「てっきり?」
「なんでもないです。お話ですよね、お話……ああそうだ。最近見た映画なんですけど」
「ぼく、映画みないんで。興味ありません」
「そうですか。本とかマンガはお読みになります?」
「ほとんど読まないですね。好きじゃないです」
「なるほど。休みの日とかは何をなさっているんですか?」
「いろいろです。いろいろ」
「そ、そうですか。ええっと、それじゃあ……明日は何かご予定でもおありですか」
「仕事です」
「飲んだ翌日にお仕事なんて大変ですね。休日出勤ですか?」
「世の中には土日が休みじゃない仕事だってありますから」
「ごご、ごめんなさい。おっしゃるとおりです。どんなお仕事をなさっているんですか?」
「パティシエです」
「パティシエ! いいですねえ、私、甘いもの大好きです」
「はあ。それで?」
「えっ、えーっと、つまり、甘いのが好きだからこそ、パティシエは素敵な職業だと思っています。そういうことを言わんとしていました」
「そうですか」
「大変なお仕事なんでしょうね。どんなご苦労がおありですか?」
「いろいろありますね。簡単は言えません」
「そ、そうですか、そうですよね……あ、そうだ今の時季ですと、どんな期間限定のお菓子がありますか?」
「いろいろありますね」
「寒い季節だし、たとえば栗を使ったお菓子なんかありそうですけど?」
「栗も使いますね」
「栗も? 他にはどんなものを?」
「まあ、それもいろいろですよ」
「そ、そうですか、いろいろですか……いろいろ……いろいろかあ……」
私はうつむきました。


(弾まなくても腰を折られても話を続けなきゃいけないって、辛いな。そろそろ限界だよ)
私が途方に暮れたその時アナウンスが流れました。
「次はー○○駅ー」
ついに電車は男性が降りる予定の駅に到着したのです。私は思わず、その日一番の笑顔を浮かべました。
「今日はお世話になりました。お気をつけてお帰りくださ」
「降りませんよ」
「へっ? あれ、だってここが最寄りなんですよね?」
「そうですけど、降りるのやめました。せっかくですから、あなたの降りる駅まで一緒に行ってあげます」
「いやいやいや! そこまでして頂くのは申し訳ないです! どうぞお帰りください!」
「遠慮しないでください」
「遠慮してないです。本当です。まったく遠慮してません! それにどうせ私が降りるのってこっからすぐの△駅ですから! ついてくる必要ないですから!」
「なら△まで行きます。決めました」
「決めないでくださいよ! ぜひともお帰りにって、あああっ」
無情にもドアが閉まって電車が動き出しました。
「そんなあ」
呆然とする私に向かって、男性が言いました。
「まあまあ。それより、なにか話でもしましょうよ」
そう言われた瞬間の絶望が深すぎたせいか、私の記憶はここでいったん途切れます。
○○駅から△駅までのみじかい時間、何を話したのか全然思い出せないのです。その前にしていた会話は異常に細かく覚えているくせに。


その後結局△駅まで着いてきた男性は、なぜか私と一緒に電車をおり、人が多かったのと酔いが残っていたせいで私はそのことにしばらく気付かず、suicaをカバンから出そうとした私の右腕が何かにひっかかり、横を見たらニコニコしながらなぜか件の男性が私の手を握っていたのでした。
「!!!!??? ななななななな、なんなんななんなんですかああっ」
急いで手を引きもどす私。
「送ろうと思いまして」
「ももも、もういいかげんにしてください! たのんでないですよね頼んでないですよね、頼んでないですよね! 送らないでください! 勝手に送られることの方が嫌ですよ! い! や!」
私が語気を荒げても、男性は相変わらずニコニコしています。
「じゃあ、お茶しましょうよ」
「はああああ? おちゃああああああ?」
「だって。せっかく縁があって、話もあんなに盛り上がったのに、ここでお別れなんてさみしいじゃないですか。ね? あと一時間くらい、駅前でコーヒーでも飲みましょうよ」
頭の中であれほど大量のクエスチョンマークが飛び交った瞬間て、人生でもそうはなかったな、と思います。
それはひょっとしてギャグで言っているのか
盛り上がった? どこが? 何が? どうしてそう思った? 盛り上がるの定義ってなに? そもそも私たちは本当に同じ言語使ってる?
ぶつんと頭の中で何かが切れました。
「ぐっすり寝てたじゃないですか私、だから寝過ごしたんですよ、知ってるじゃないですか!」
「むちゃくちゃ眠いんですよ、とにかく寝たい、帰宅したい、どこでもドア欲しいんですよ!」
「あと一時間帰れないとか拷問ですか陰謀ですか怨恨ですか!?」
「というわけで帰ります! さようなら! さようなら!」
私は半ば叫ぶようにしながら人ごみの中を猛ダッシュして改札に向かいました。
最後にちらっと振り返ると、男性が改札の手前で踵を返し、ホームの方に歩いていくのが見えました。

そして2014年

「お、シロイ、何書いてんの?」
「まだ途中なんだけど読む? ちょっとした思い出なんですけどね」
数分後、セキゼキさん(仮名)は苦笑いを浮かべて言いました。
「いやいや、初対面の人にこんな対応する人間いないっていくらなんでも。話の盛りが過ぎる」
「セリフ全部を一言一句カンペキに覚えてるわけじゃなし、長くなりすぎるからあちこち削ったし、脚色ゼロとは言えない。認める。ただ、『ふつうの飲み会です』とか『買いました』とか『店で』とか『いろいろです』とか『栗も使いますね』とか、そういうセリフはそのまんま。どれもあまりに取り付く島のない返答だから、ものすごく印象強くてさ。何年経っても覚えてるわけ」
「え? じゃあ思ったよりずっとリアルな話? あ、そういえばずっと前に電車で話が弾まない人に会ったとかなんとか言ってたけどコレ?」
「そうそう! 覚えてるんじゃーん」
「覚えてるけど……ごめん、見知らぬ人と会話が弾まないのは当たり前だろとか思って、なんかこういう話だとは思っていなかった」
「遅ればせながらわかってもらえたようで嬉しいよ。うん」
「でもさー、黙ったら『話をしましょうよ』と言われたとかゆーのはさすがにありえないだろ?」
「ないよね? ないと思うよね? いや私もね、あー初対面の人間とはあまり話したくないんだろうなあと思って、黙ったんだよ。馴れ馴れしくして悪かったなとか思って。そしたら『話しましょうよ』とか言われて、いや『話してくださいよ』だったかな? まあとにかく会話続行を促されて、大困惑したわけ!」
「え、じゃあその人は本当に会話したがってたわけ?」
「だと思うんだよねえ……ずっとにこにこしてこっち見てたし……でもなあ、だったら普通もっと向こうも会話を盛り上げようとするよねえ? どう話を振っても素っ気ないし、なにかとこっちの話を遮るし、本当に何をしたいのかわからなかったなあ。いま思い返してもわからなすぎて、ちょっと怖い」
「あ、そうか。わかったぞ」
「え、すごい、何がわかったの?」
「その人さあ、ホントはシロイの知り合いなんだよ。でもシロイがそれに気づかないくらい前後不覚に酔ってて、それでわけわからないキャラになりきってからかってたんじゃないの?」
「それはない。そこまで酔ってないし。話している間に酔いがどんどん覚めたしね」
「ダメかあ。記憶もあるし会話もできてるし、確かに泥酔してたわけではなさそうだなあ。うーん、でもさあ、そう考えないと辻褄あわないっていうか、逆に怖いっていうか……」
「怖い? 何が?」
「だってさーなんでそいつはシロイが乗り越しているってことに気づいたの?」
「あのね、起こされたのが××駅だったの。終点なのに降りないで寝てたから、気づかれたんだと思うよ」
「××駅って、けっこう大きなターミナル駅だよね。あそこで乗り換える人、いっぱいいるよね? ……なのになんでシロイがどの電車に乗るべきなのかわかったの?」
「!? い、言われてみれば……」
「知り合いなら乗り換える路線も知ってるよなあ、と思ったんだけど。違うならなんでわかったんかね?」


なんていうか、ほんとに。あの人なんだったんでしょうか。マジで。

とりあえず始めますよね

とりあえず始めますよね。
なにをって、つまり書きはじめるってことなんですけど。うわ、この文、異常に段取りが悪い。
それも無理もない話なんです。事前に考えてないからこうなるんです、泥棒が来てから縄をなってんですよこちとら。
ダメだな。やっぱりわかりづらいな。やっぱり順番に話す必要がありますが、順番てやつをつけるのは難しいですね、思いつくままにやっていてはだめです、一度頭を整理しないと物事の順番はつけづらい。
のですが今回、私は頭の整理とやらを一切しないで感じたり考えたりすることをそのまま書いてみるという、ほら自動筆記ってやつ、あれを以前からやってみたくて、いや別にシュールレアリズムとかああいうの全然詳しくないんですけど、その手の教養全然ないくせにとにかくやってみたいなって、たぶん高校生くらいの時から思ってて、じゃあやりゃよかったのに、なんでやんなかったのって話ですけど、だってそういうのってなんかドラッグとかキメてからやるものっぽくないですか。勝手に私がそう思っていただけの話ですけど。
悪いのはらもさんですよ、中島らも。あの人のエッセイで「そういうのもあるのか」と思ったわけですし私。らもさんていったらラリパッパでしょう。だったらやっぱりこっちもそれなりの構えで応えていかなきゃな彼の教えにって、そう思ったわけですけど、いやそれほどは思ってないですけど、そもそも私は酒に弱いし、法律は守りたいし、それでもラリリたいならもうベニテングダケとか見つけて食らってゴーするしかないかなってところで、でもそんなめんどくさいことをしたくないでしょ、だから今まで自動筆記に挑戦しないできたわけです。
それはそれとしてベニテングダケは食べてみたいですけど。だってあれすごく美味しいって噂です。死亡例も北米で2例とかいう少なさで、小心な私でも挑戦できる気持ちにさせてくれますが、入手難易度が高そうなのがネックですね。山に分け入ってとりにいくつもりにはなれませんし。
子供の頃一度近所の山でかなり本格的なキノコとりに興じたことがありまして、近所とかいいつつ、日本百名山にも入ってしまっているような山なんですが、標高もそれなりにありまして、クマとかもわりかし出ちゃう地ではありましたが、とにかくそういう場所で大人たちに指導されるままキノコ採りすげー楽しかったですが、帰って数年経ってから怖くなった。
キノコとるの楽しかった思い出を振り返るためにキノコ図鑑みてたら、食用キノコとそっくりな毒キノコとかいっぱいのってて、これ見分ける自信ない、と思ったわけですそりゃ思うでしょ観察力とか乏しいほうですし私。
そしたらよく読んでいくとベテランきのこマニアでもけっこう食用と間違えて毒キノコ食べたりするんですって? ジスイジデンジャラス、すごい恐怖ですよこれはマジすげー恐怖、私これからは絶対スーパーで売ってるキノコしか食べないって決めました。
うん、まあ、子供にありがちなことでその決意はあっさり破れましたけどね、近所の山菜とり名人のばあちゃんが大量の松茸持ってきてくれたから。
まあそのばあちゃんは山菜全般に関してかなりのもので、
「あの山の色はゼンマイがとれるべ」
「あっちの山はたいしたことねえな。ワラビが少しとれっかもしんねえけんじょ」
とか言っちゃうくらいの達人、山を遠目に見てそんな判断が下せてしまうほどのマエストラですわ、現に大量の松茸をほいっと人に分け与えるくらいですからね、すごい人ですよマジで。
もうこのばあちゃんを信じなかったら誰も信じられないだろう、と私は自分に言い聞かせました。スーパーで売ってる外国産の松茸だって、結局どこかの誰かがとってきたやつだったりするんでしょうし、そのどこかのジョン・ドゥがですよ、ばあちゃんの上をいく達人だなんて想像しがたいじゃないですか。そんなジョン・ドゥレベルのキノコハンターの手がけた品が流通できるわけですから、ばあちゃんのキノコはもう絶対に問題ないに決まってると私は思い、すべてを忘れて松茸を食べましたよね。美味しかったです。
ばあちゃんは何年かの間、毎年のように松茸くれましたね、のちに引っ越していっちゃうまでね。ばあちゃんは妹と私のことを孫のようにかわいがってくれていて、本当にとてもかわいがってくれて、手編みの手袋や帽子をくれたり、人形のドレスまで作ってくれたりするほどだったんですけど、山菜の狩り場は教えてくれませんでした。
山菜達人のね、それは暗黙のオキテらしいですよ、なんでも。山菜達人てそういうものなんですって。自分のみつけた一番いい狩り場、一番いい山菜がたくさん取れる山は、絶対に人に教えないんですって。うちの家族はばあちゃんに連れられて、山菜がとれる場所に連れて行ってもらいましたけど、ああいうのは結局人に教えても問題ないレベルの狩場であって、本当に一番いい場所は、親子でも教え合わないとかなんとか、そんな風にききました。ほんとかな。
教えてもらえなかったやつがひがんでそんな風に言いふらしてるだけじゃねえの、この話の元ネタ。
と思わないでもないんですが、考えてみると山菜達人が狩り場を教えない理由は納得がいくというか、実際山菜をとりにいくと、マナー悪い奴らの痕跡をよく目にするんですわ。
ゴミを捨てるとか、そういうのはもちろん実刑に値するよな、ここがシンガポールならいいのに、そしたら当局に言いつけるのにちくしょうちくしょうってかんじですが、他にもいろいろありまして、たぶん罪人たる当人は全然悪気ないんでしょうけど、タラの芽を根こそぎにしちゃダメですよアンタ。
タラの芽ってのは、枝の先にふんわりとやわらかく萌える若芽が出てるもんですが、一本の木からこの若芽を根こそぎにしちゃダメ! とりすぎるとその木が死んじゃう! 脇芽をとるな、タラの木が人の害に負けてしまうんだよ!
少し残せば、その木は来年もまたそこで美味しい美味しいタラの芽をつけてくれるわけなのですから、とりすぎんなバカ。
あと更にタラの木がとげだらけで芽を摘む時痛いせいかもしれませんけど、枝ごと切り取って持っていく不届きものがいるので、殺したい。
まーとにかくそんな具合に、あそこは山菜がとれるぞって話になると、どやどやっとその場を荒らす人が来て場所が駄目になっちゃうってことは、あるわけですよ。
人の口に戸はたてられないわけで、ここすごいでしょいっぱいとれるでしょ、ほんとだお母さんすごいね、みたいな親子のほほえましいやりとりがいつしか、ぼく昨日たくさんタラの芽食べたよお母さんがとれる場所教えてくれたよ、いいなあおれにも教えてよ、とかそういうかんじで広まって、無法者が来るまであっという間なんでしょうね、ほんと。
だから達人は一番いい場所は秘密にする。荒らされないように。山の環境なんてね、人がいっぱいきたら荒らされて、同じものが採れなくなってもおかしくないですしね。
達人が狩り場を秘密にしたまま死んでいくことを「もったいない」と思わなくもないですが、これはあまりに人間中心主義的な考えというか、そりゃ人間からみればもったいないけど、山のほうからしてみればもったいなくはないですよね。いつの日か達人の志を継いだ新たな達人が狩り場を見出すまで、山はたくさんの財宝をかかえて静かに眠るわけですよ。
いやはや私何の話してるんだろう、自分が自動筆記に挑戦するにいたった経緯を順番に説明するつもりだったのに、いつの間にか山菜の話してますよ、話それすぎて怖い。
えっと、何で山菜の話したんだっけ、つまりキノコ自分でとりにいくの怖いしめんどい、大体どこでとれるかわからない、なのでベニテングダケはある日偶然の機会に恵まれるまでチャレンジする気はないと言いたかったのです。
ベニテングダケ以外のラリリ物質にももちろん興味はありません。だって法に触れたくない。
というわけでラリれない私は自動筆記への興味も自然とうしなったわけですが、なんだろうしばらくまえにインターネッツで「イケダハヤトメソッド」というものを目にしまして。これって一種の自動筆記なんじゃないか、しかもラリリを前提としない、と思ったわけです。思っちゃったんですよ。
だったら挑戦するよねー? なんか怖いけどさあ。というわけで実は今書いているこれ以外にもイケダハヤトメソッドに挑戦した文章はあるんですけど、確かに書くのは楽しいですねこれ。でもやっぱり推敲なしとか怖すぎるし、だらだらしててちゃんと終わらないから、これは自分ひとりで楽しむためのものだな、ブログにはのせられないな、とね。そう思ってたんですけどー。
暗いんですよ暗いのなんか。誰にも見せる予定のない文を書くのって暗いし、ちょっと気が滅入るの。やっぱり書いたら誰かに見てもらいたいのです。これってなんでなんでしょうね。不思議ですよね。書きたいから書くわけですけど、どうしてそれを誰かに見てほしいと思うんでしょう。よくわからない。わからないけど、書いちゃった以上はそう思うんですよね。
いやもちろん人に見せられない文章って、それなりに手元に大量に残ってますけど。でもそういうのって大抵「いつかはこの題材で何かをちゃんとまとめる」と思っているやつなんですよね。その手の亡霊みたいな遠い日の思い出的な文章ストックの多さときたら我ながら嫌になりますけど、でもやつらの中の何割かはある日しっかりと手直しされて、日の目をみるときもあるんです。でもイケダハヤトメソッド文はそうじゃないから。これに手を入れて完成される日とか来ないんですよ、ノー推敲でただ書くだけってとこに価値があるものですから。もう書かれるごとに、一行ごとにそこが完成品となっていくわけですよ、リセットができない、人生みたいなもんですよ。今むりやり深そうなこと言って話まとめようとしましたよ私、大人って汚いですね。
でもねでもね、水たまりだらけの道を歩く時、靴やズボンの裾が汚れるのを気にしている間は嫌な気持ちになりますけれど、たとえば一回すってーんと転んで、全身ずぶぬれになっちゃえば、逆に爽快でしょ? 楽しいでしょ? もっと早く噴水その他に飛びこんでから歩けばよかったなって思うでしょ?
思わないか。思わないな。思いませんねすみません。私がその立場だったら冷たくて何もかもが嫌になると思いますごめんなさい嘘つきました。だからいっそ汚れきったほうがいいとかそういう話に持っていこうとして、若者たちに汚れきる楽しさを伝えて未来に希望を持ってもらおうかなって、一応善意から出発した嘘なんですけど、ダメですねこれは。大体そこまで汚れきってる大人も滅多にいないですしね。大体その流れで「そっかあ、おれも早く大人になって汚れてえ」とか思う若者はちょっとかわいそうな子ですしね。このブログを読んでる若者がどんだけいるのかギモンですしね。そもそもこのいつにもましてとりとめのない文章を、未来に向かって生き急ぐ若者たちが読むとは思えないし。
というか、だからってお歳を召された方々がこれを読むとも思えないですよね。画面上で長文読むの疲れますもの。長文は紙だよ兄貴。
あああそれにしても酷いな、何が酷いって、私はね、自動筆記にあこがれてチャレンジってことはつまり、シュールで芸術的な、なんかそういう文章がね、書けると思ったからですよわかりますか。そういうのに憧れる気持ち、芸術家にあこがれぬ者はいないだろうって言うでしょ、それだよ。
だからこそ、こうばあああああっと書いたらばああああっと、自分の中にある難解だけれどもなんだか芸術的なかんじのさー、手術台の上のコウモリ傘とミシンの出会い的なさー、そういう文が生まれると思ったのに、全然違うじゃないコレエ、ただの冗舌な、話がっちゃこっちゃとぶ、おしゃべり糞野郎的ななにかじゃなあい、違うのこんなん書きたかあったわけやないのー。意識の流れがばりばり見えてるしい。全然無意識に書いてないしい。
ていうかほんとに人って無意識で書けんのかよ、嘘も休み休み言えよみんな。
なんだよちくしょう、私に足りないのはあれか、スピードか。もっと早くタイピングすればいいのか。でもこれ以上早くしたら手がつりそう。むり。
だいたいさー、早けりゃいいんだったら、いるじゃん、すげーマシンガントーク、ちょうスピードトークの人って時々。そういうひとがね、話しているうちに忘我の境地に達してシュールレアリズム的な何かを垂れ流したのとか、見たことありますか。私はないですよ。見たって話もきかないですよ。
だからやっぱスピードさえあればいいって話は嘘なんじゃないのー、っていう疑いが頭をもたげていて、じゃあ足りないのはラリリかあ、やっぱりベニテングダケいるかー、いやいや待て待て、いいんだよイケダハヤトメソッドならシュールじゃなくていいの、アートとか目指すな、ただ書け、と思いました。
そもそも修行が足りてない可能性もありますよ、まあ自動筆記に修行が必要なのかはちょっとわからないわけですけれども、繰り返すうちに無意識の扉をノックノックノック、そこからサムシングニューなものが飛び出してくる可能性、ないわけじゃないだろう。
なのでお目汚し甚だしいのですけれども、自動筆記じゃなくてイケダハヤトメソッド文の垂れ流し、そしてブログアップをやってみようかなと思っちゃいました。恥ずかしいことこのうえねえな、という気もしましたが、まあ別にいいやあ、そういうの気にしているうちは器が小さいままだよ人として、いやまあ別にそれほど器のビッグな人物になりたいわけではないけれど。

雪のバス停

雪が降ると、北で育った子供の頃のことを思い出します。
中学生のときのことです。その日は朝から雪が降り続けていました。
帰り道、私がバス停に行くと知り合いのおばあさんが、にこにこと話しかけてきました。
一時間に一本しか通らないそのバスは利用者もきわめて少なく、バス停で私はいつも一人でした。
「おでかけですか? めずらしいですね」
おばあさんは嬉しそうに笑いました。
「息子たちの顔が早く見たくて」
街に住んでいる息子一家がバスに乗って来るから待ちきれなくて迎えにきたのだと、おばあさんは言いました。
おばあさんの家はバス停から20分ほど歩いたところにありました。遠いというほどではありませんが、雪の中歩くのに楽な距離ではありません。
私たちはバスが来るまでしばらく話をしました。体の芯から冷えるような日で、私は時々その場で足踏みをしながら、暖かいバスが来るのを心待ちにしていました。
ついさっき来たばかりの私がこんなに寒いんだから、その前から待ってるおばあさんはもっと寒いんじゃないかと思った私は、急に心配になって尋ねました。
「本当に、次のバスなんですか?」
するとおばあさんは困ったような顔でわからない、と答えました。てっきり一本前で来るものだと思っていたのに、さっきのバスには乗っていなかったのだ、と。


バスが来ました。降りる客は一人もいません。私はステップを駆け上り、車内を見まわしました。
バスはほとんど空っぽで、家族連れはいません。おばあさんが運転手さんに頼む声が聞こえてきました。
「息子たちが乗ってるはずなんです。確かめさせてください」
それからおばあさんは、ゆっくりとステップを上ってきました。
おばあさんは目を大きく見開いて首を左右に動かしながら数歩進み、それから振り返って、運転手さんに謝りました。
「すみません、このバスじゃなかったようです」
おばあさんが降りるのを待って、バスが走り出しました。
私はがらがらの車内を急いで一番後ろの席に行き、窓ガラスの曇りを拭きました。
ベンチ一つない吹きさらしのバス停の脇に、曲がった腰のおばあさんが立っているのが見えました。小さくて丸い背中の上に雪がどんどん降りしきり、そのままうずもれてしまいそうです。


私はおばあさんが家に帰るのだと思っていました。こんなに寒い日に一時間も外に立っていたのです。一人暮らしで病気になったら大変ですし、あたたかい部屋に早く戻るべきなのです。
なのにおばあさんはこちらに背を向け、街へと続く道をじっと見ています。一時間後のバスを更に待つつもりなのだと気づいた瞬間、私はなぜか泣きそうになりました。
これが「親」なのだ、と私はそのとき思いました。とうの昔に成人し、結婚して家庭を持つ息子を、いくつになってもいとおしんで心配して待ち望む、こういう人を「親」と呼ぶのだと。


あれから長い月日が経ちました。さびれた田舎で路線が廃止され、あのバスはもう走っていません。バスが廃止される何年も前に、おばあさんは亡くなりました。
ですからもう、全てがとっくに終わったことではあるのですけれど、それでも私はあの雪の日のことを思い出すと、祈らずにはいられない気持ちになります。
どうかどうか次のバスからはちゃんと息子一家が降りてきて、おばあさんと会えていますように。雪の中の二時間は辛いです、おばあさんがあれ以上待たされたなんてことはあってはいけないのです、そんなことはなかったのだと、誰か私に言ってください。
おろかしくも盲目的でひたむきに気高い母親は、凍えながらもあの日確かに報われたのだと、誰か私に教えてください。


会社からの帰り、雪の中を歩きながら私は、今日もまた同じ祈りを捧げました。