wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『きのう何食べた?』の感想みたいな

きのう何食べた?』が面白いマンガであり、レシピ本としても優れているのは有名なハナシですが、最近私はあのマンガがもっと特殊なジャンルのような気がしてきました。
違うんです、BLだとかラブストーリーとしても読めるとか、そういうのでもないんです。


私にとって『きのう何食べた?』は知人マンガなんです。そんなジャンルないけど。知人の近況報告を聞くために単行本買うかんじというか。1巻を読み返すと、アルバムをめくっているみたいな気持になるというか。
私にはシロさんとケンジはもう、漫画の中の人じゃない気がするんです。なんつーか、ほとんど知り合いみたいなもんというか。
「今日はハンバーグかー。作るの大変じゃなかった?」
「玉ねぎ炒めないやつだから、そうでもなかった」
「あ、シロさんのやつか。あの人のレシピはほんと使えるの多いわ」
「料理うまいっていうか、ほんとに作るの好きなんだよな。まめだし、感心するわ」
みたいな、横で聞いてたら知り合いの噂話をしてるとしか思えないかんじで、我が家ではシロさんとケンジの話が出ます。
そもそも最初の4巻くらいまでの間は、我が家ではふたりとも「シロさん」とはいえても「ケンジ」とは言えませんでした。なぜなら「ケンジは年上だし」と思っていたのです。なにその距離感。漫画の中だから関係ないのに。
それがだんだん付き合いが長くなって、あの二人との親近感が勝手にコチラ側で増した結果「そろそろいいか」という気持ちで「ケンジ」と呼ぶようになりました。もう今更「ケンジさん」もよそよそしいので。
だからほんと、シロさんの実家にケンジと二人でいく回とか、「よかったね」と二人で言い合いましたよね。「ケンジ報われたね」とか「シロさんも変わったんだな」とか、そんな風に。
感情移入しまくった、いわゆる普通のマンガへの感想とは違うんですよ。我がことのように鮮烈な思いがほとばしったりはしないんです。知り合いの話をきいたときのような、しみじみとした感慨がじんわりと湧くんですよ、『きのう何食べた?』は。
「料理を中心とした日常生活の書き込みがリアルで細かい」
「地面に足のついた非常に現実的な展開だけで話が進む」
「時間経過が現実と同じ」
などの要素がここまで身近に感じさせてくれるんででしょうけど、それにしても独特な気持ちにさせられます。


神は細部に宿り給うと言いますが、『きのう何食べた?』はあらゆる細部に濃密なリアリティが宿っています。
全てのレシピは献立単位で考えられていて、「煮物を作っている間に焼き物を作る」、「出来たてを供する必要のない料理は先に用意する」、「しらたきを茹でた鍋でそのまま肉じゃがを作れば洗いものが減る」、「魚を焼いたグリルは食後に洗うとおっくうになるから、使ったらすぐ洗う」、「醤油、酒、水の順で測れば計量カップがすすがれて洗う手間が省ける」など、台所生活全般についての手順がそこにはあります。
それはレシピ本や料理番組から教わることはできないものです。こうすべきだというお手本ともまた違う、台所である程度の時間を過ごした人間が自分自身の好みや癖を反映させて身につけた極めて個人的な生活上の知恵としかいえないものです。魚焼きグリルを鼻歌交じりに洗うというたった一コマから、私はシロさんの人となり、台所で過ごした時間の長さを、強烈に感じ取ります。
過去のトラウマにまつわる幼少期のエピソードとか。数ページにわたって続くモノローグとか。キャラクタの情報というのはしばしばそういう方法で、直接的に読み手側に注ぎ込まれます。また、そういう風に注ぎ込まれるからこそ私たちは、現実の人間よりもずっと深く、物語の登場人物を知ったりすることができるわけですが。
きのう何食べた?』のひたすら積み上げられた細かな事柄によってキャラクタの内面を感じるというのは、私たちが現実の人間に対しての理解を深めていくのとほとんど同じやりかたです。
(『きのう何食べた?』においてモノローグや回想がまったく入らないわけではありません。ただかなり控えめです)


もともとよしながふみ先生は、化粧や服装やちょっとした言葉遣いや仕草で、登場人物の個性や好みの違いを表現するのが上手いのですが、登場人物一人ひとりの食の好みや作る料理の差もやはり絶妙に表現されています。
シロさんはけっこう上品な好みで、さっぱり和食が好き。魚の臭み抜きなどもかなりしっかりおこなう。
ケンジはシロさんよりがっつりしたのが好き。だけど同年代の男性に比べればややさっぱり。甘いものも好きで、じゃっかん女性っぽい食の好み。
佳代子さんの料理はシロさんのような自分の好みに特化したものではなく、あくまで家族のために長年作ったのだなということがわかる味。間口が広く、レシピの省力化がすごい。
シロさんのお母さんもいかにも「一家の母」という料理を作るのですが、佳代子さんとはちょっと趣が異なります。佳代子さんが女児の母ならば、こちらは男児の母。ボリュームたっぷりでがっつりめの、思春期の男子を養うためにはこのくらいやらないと、というご飯を作ってくれます。
そのため、若い頃はいざ知らず今となってはさっぱり和食好みのシロさんが帰省すると、お母さんは揚げ物など大量に作りすぎて食べきれなくなったりしてるのですが、こういう「実家を出て行った子供の変化を親が把握していない」描写もまたリアルですよね。
ジルベールと小日向さんカップルの、「あまり地道ではないセレブっぽい暮らしぶり」も服飾や食材の描写で伝わってくるし。ナルシストと言われつつシロさんが実はそこまで服にこだわり強くないのも読んでいればわかるし。


たとえばドラゴンボールを読んだとき、悟空やベジータは私たちの世界にはいないよな、という感覚になります。ドラゴンボール時空は私たちの世界と物理法則が同じかどうかすら怪しい、こことは違う、遠い場所です。
スラムダンクなんかは私たちの世界にぐっと近づいている気がしますが、それでもやっぱり微妙に違うスラムダンク時空を感じさせるんですよね。
それなのに『きのう何食べた?』には「何食べ時空」がある気がしないんですよね。だってその時空ここと一緒のやつでしょ、という気がするわけです。そんなわけないのに。だってどう考えてもパリス・ヒルトンとかロックフェラー一族よりシロさんとケンジのほうが身近だし同じ時空の民って気がしてしまうのです。
普段の私は、マンガの中の人たちは年をとらない気がしています。だけどシロさんとケンジに関しては違う。彼らは私たちと同じペースで年をとります。
鏡を見て昔と同じではない自分を発見するように、単行本を買うたびに私は、昔と同じではない彼らと再会します。よしながふみの筆はわずかずつではあっても確実な加齢のしるしを、登場人物に与えます。それは時々容赦のなさを感じさせるんですけど、それもまたリアルです。


きのう何食べた?』の登場人物は全員、冒険者でも勇者でも英雄でも復讐者でも異能者でもなく、平凡な一人の生活者に過ぎません。
淡々とした日常が流れていく中で、彼らの身の上にたまにドラマチックな出来事が起きる時もあります。それはたぶん当事者にとってはかなりのオオゴトだったりするのでしょうが、世間から見ればありふれた平凡な出来事でしかなかったりもします。
そして彼らは、そのありふれているけれど特別なドラマを、平凡な生活者として乗り切ります。
父親の癌の手術に付き添う前日、シロさんは留守番するケンジのために二日分の食事を作ります。いつもと同じように、栄養バランスとコストパフォーマンスを考えながら。
一昨年、実父の告別式の準備を進めながら私たち家族は、長い時間台所に立ちました。お線香を上げにくるお客様のために茶葉を補充してお湯を沸かしてお茶菓子を出して、合間合間に自分たちの食事の用意もしなくてはいけなくて。悲しくて辛くて、だけど食べ物のことを考えずに一日を過ごすことはできませんでした。これまで生きてきた日常と地続きになった生活の手順を積み上げながら、時間を過ごすしかありませんでした。
たぶんそれが、生活者として生きるということなのです。そして生活の一番基本的な部分に、食があります。
シロさんとケンジはドラマチックな出来事にヒロイックに立ち向かうのではなく、生活を積み重ねることで生き延びます。私たちと同じように。だから彼らは、豪勢すぎず美味すぎない日常のごはんを、大事にだいじに食べるのです。


だから私は、やっぱり彼らをどうして遠い世界の漫画の中の人のようには思えない。近い時間を近い場所で生きている、知人のように感じてしまうのでした。