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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『タッチ』と『CIPHER』と双子の小宇宙

幼い頃の印象的な記憶の一つに、『タッチ』のアニメで和也が死んだ日というのがあります。
その日私は父が泣くのを初めてみました。アニメの内容だってショックではありましたが、父が号泣して放送終了後も長い間テレビの前で悲しそうにうなだれていた姿のほうが、よっぽど驚かされたんでした。
「なにも殺すことはないだろう」
「最初からそのつもりだったんだな」
「かわいそうだろう。こんなのはあまりにかわいそうだろう」
というフレーズを父は何度も何度も繰り返しており、そのときは「おとうさんはなにをいってるんだろう」くらいにしか思わなかったんですが、今ならばわかります。


「なんでタイトルが『タッチ』なんだろうな? 達也がたっちゃんだから、『タッチ』なのかな」
などと言っていた父は、和也の死を目の当たりにした時はじめて「弟のすべては兄にバトン『タッチ』される」というタイトルに隠されていた本当の意味に気付いてしまったんでしょう。
これはもともとそういう物語だったんだ、努力家の和也は殺されるために作られた少年だったのだ、和也があれほど望んでも手に入れることができなかった夢と恋を手にするのは達也なのだと、そういう構造に大人だからこそ気付いた父は、和也のために泣かずにはいられなかったんでしょう。


さて、話は変わりまして『CIPHER』という少女漫画があります。
あらすじをざっと説明しますね。

舞台はニューヨーク。15歳の少女アニスは、自分と同じ学校に通う芸能人ジェイクが、実は双子の弟ロイと二人一役を演じ、交互に学校に来ていることに気づく。親のいないアパートで二人きり、秘密を守ることに徹して閉鎖的に暮らす双子。学校の人気者である彼らの意外な姿に驚いたアニスは、双子がなぜ周囲を騙すのか訝しみ、その真意を知ろうとするが……

アメリカ人が主人公だし、野球のやの字もないし、共通点は双子が出てくるところだけじゃんというかんじなんですけど、私はこの『CIPHER』という作品を『タッチ』のアナザーストーリーみたいにとらえてるんですよ。
描いてる作者本人の意識の中ですらつながってないと思われるので、実際には全然無関係なんでしょうけど。
作中に何度も引用されてるし、『CIPHER』はむしろ『エデンの東』を意識して作られてるのがあきらかですから、あれを『タッチ』のif、ある種の続編として読んでるのは私くらいなんでしょうか。
ただ、この二つの作品に出てくる双子同士の葛藤、彼らが抱える生きづらさの形がすごく似てるんです。だからなんか結びつけちゃうんですよね。


まず、上杉家の話から。
出来のいい弟としょっちゅう比べられて「出がらし」よばわりされていた達也ですが、より強烈なコンプレックスを抱いていたのって、実は和也のほうだと思うんです。
「一番は達也」「愛されるのは達也」「自分は努力しているし認められているけど、達也が本気を出したら決してかなわない」というふうに彼は思ってしまっているし、おまけにそれはかなり正しい(そこが辛い)。
あだち充作品の主人公って大体そうなんですけど、達也って飄々としてほんとうにかっこいいです。和也の抱える苦しみってのはひりついてて、読んでる側まで息苦しくなっちゃうようなところがあるんですが、達也は逆。さらっとして、きもちのいい男です。さすが主人公。そりゃ南もたっちゃんが好きだよ、と思います。
和也は優等生でモテモテだけど、モテることと愛されることは違っていて、やっぱり「愛される」のは達也なんですよね。
達也を好いている人たちは、達也の人柄を知った上で好意を持っている人ばかりです。人間を見る目が優れている原田の親友となるのは、和也じゃなくて達也です。
和也に惹きつけられる人たちはかれの能力とか表面的なパラメータを見ているのであって、人柄を好まれているわけではないように思えます。そもそも人柄を感じ取れるほどに和也と親しくなった人が少ない。


そしてこの和也とよく似ているのが『CIPHER』に出てくる双子の兄ジェイクです。
あだち充先生は、キャラの心境というのをそのままは描かず、あくまで言動から読者に察させるスタイルなので明記していませんが、『CIPHER』の中では「愛されるのはロイ」「ロイのほうが友達が多い」「ロイには一番が似合う」というジェイクの思いがはっきりと描写されます。
弟への対抗意識と妬みをくすぶらせるジェイクとは対照的に、ロイは素直で明るく感情ゆたかに描かれ、確かに「愛される」キャラで、ごく自然にアニスと恋をします。
『タッチ』の前半、達也と南の関係に変化の兆しが現れると、和也は次第に焦燥を露わにし、物語に不穏な緊張感が漂いはじめますが、『CIPHER』でもロイとアニスの関係が進展することによって、ジェイクは少しずつ変調をきたしていき、明るい物語に影が差すようになるのです。


ところで『タッチ』と『CIPHER』は国が違うとか野球マンガかどうかとかじゃなくて、『CIPHER』が少女漫画らしくモノローグと心情描写を多用してキャラクタの心的葛藤を中心的に描くのに対し、『タッチ』はあくまで言動を通して心情をにじませる、さらりとした描写に徹している点が、個人的にはすごく対照的に感じられます。
『CIPHER』では前半にジェイクの抱えるコンプレックスを描き、そのぶんロイは明るく日の当たる存在に見えるんですが、後半になってロイもまたジェイクに対してすさまじいコンプレックスを抱いていたのだということが明かされます。
「愛される」ロイを妬むジェイクがそれゆえに自分のとりえである几帳面さや生真面目さ、冷静でしっかりしたところを努力して伸ばそうとするんですが(まあここも「達也が一番」と信じるがゆえに異常なほどの努力家となった和也に通じますよね)、今度はそれがロイにとっての脅威になるんですよね。
自分と違ってしっかりしている、努力して身につけた能力があり人に認められている、ジェイクは「自分より大人だ」と。
「愛される」ロイと「努力家で有能な」ジェイク。この構図も上杉家の双子にかぶります。「愛される」達也と「努力家で優秀な」和也。
さて、達也はといえば、激情を見せることなくさらりとしてるので、コンプレックスを感じさせません。弟をうしなって苦しんでることも、弟と比較されるのが辛かったこともわかるのですけれど、達也が和也にコンプレックスを抱いているようには見えない。
と思わせておいて作中屈指の名シーン、孝太郎に電話で「俺と和也どっちが好きだ?」ときいちゃう場面が来るわけですよ。ぞくっとしましたね。
達也って、人の気持ちを察するのに長けていて、自然に寄り添える、すごく「空気読める」やつなのに。あの「どっちが好きだ」というのは間違いなく孝太郎にとって最悪な問いで、そのことはわかってるのに、それでもきいてしまう。
すげー闇だ、と思いました。「愛される」役割を持ち、「本当は一番」な達也だからこそ、闇は表に出すことも許されず潜み続け、こうやって噴き出してしまったのだなあと。


生のままの人柄を「愛される」のが達也とロイ。だからこそ努力しなければ愛されない(と思い込んでいる)和也とジェイクは苦しみ、いくら努力しても簡単にひっくり返されるんじゃないかと怯えます。ですが逆にロイは、そういうがんばりやの兄にはかなわないと感じていて、それは達也も一緒だったのではないでしょうか。
そのままでしかない自分と違って、積み上げている相手なんだもの。そして自分はそんなふうに積み上げられる気がしないんだもの。
物語の初期、南と自分の気持ちが通じ合っているにも関わらず、達也は和也に譲ろうとします。それはもちろん弟を愛し、理解する兄の思いやりからきた行動だったことに疑いはないのですが、それだけじゃないんじゃないかと私は思うのです。
達也はがんばらないことで、和也に活躍の場面を譲ってきた。けれどそれは一方で、がんばることから逃げたことでもあるんじゃないかと。
「努力と才能、最強の弟だよ」
という達也の言葉は心からのものだと思うのです。自分のほうが才能はあるかもしれない、だけど和也のようにがんばれる気はしない、だから結果的に努力ができる和也の方が優れている。達也はそんなふうに考えていたのでは。
孝太郎ってのは、和也の女房役で、まさに和也の努力と能力を最大限に高く評価し、そこから認めて親友になった人間です。生まれたそのままじゃなく、努力した和也だからこそ得られた存在なんですよね。
だからこそ達也は南じゃなくて原田じゃなくて孝太郎に「どっちが好きだ?」と聞いちゃうんだよなあ、と思うとほんとに辛いですね。和也亡き後達也がものすごい努力をしたのは間違いないのに、それでも和也の高みにまだ届いていないのかもしれないという怯えがあったのだなあ、と。


『タッチ』では和也は途中退場するがゆえに、達也が一人で自分の課題を解決していくしかありません。彼はこれまで和也の役割だった苛酷な努力を自らに強いて、弟が望んでも得られなかった夢と恋を得るためにすすんでいきます。
それは素晴らしく美しい物語なのですが、じゃあ和也は、ひりつくほどの焦燥をかかえてそれでもあんなに努力し続けた和也の救いってなんなの、と思うからそこで『CIPHER』なわけですよ。
上杉家の双子とよく似たコンプレックスを抱えたジェイクとロイが、ふたりとも死なずに、生きたまま、苦しんで苦しんで、それでも課題を克服していく物語。
『タッチ』しかしらない人はもったいないから『CIPHER』も読むといいよ!と思うのです。


なんで双子が辛いのかって、それはきっと彼らだけの閉じた宇宙の中で比べ合ってしまうからなんですよね。だって客観的に考えればどちらの双子もコンプレックス抱く必要なんてないんですよ。多少の差はあっても彼らは全員、とりえのあるいい子なんですから。だけど彼らは外を見ていない。閉じた世界でお互いだけを比べ合うから、世間的にみれば自分がどうかなんてことに気付けない。
その小さな宇宙を離れてそれぞれの世界を獲得していく過程でジェイクとロイは友人をつくり、仲間を見つけ、自分自身を再発見します。そうすることでやっと兄弟が抱えていた痛みにも気付き、もう一度お互いを認め合えるようになるんですが、これは双子が生きていたからこそ示された救いなんだと思うんです。あたたかい繭を離れて新たな痛みを知りながら、自分の世界と立場を獲得するってのは、学生時代からさらに先へと続いていくお話ですものね。


この過程で興味深いのは、彼らは自分の中の兄弟を再発見しているようにみえるところです。
しっかり者のジェイクに生活を管理され、そこに甘えていたロイが、散らかしやのルームメイトと暮らし始めると、きちんと家事をしてルームメイトを助けます。
ジェイクと比べると素直で奔放で自由な子供のようだったロイは、客観的にみればそれほど自由でもなんでもなく、かなり抑圧されてたことに気付きます。
ロイの中にもジェイク的な部分があるんですよね。
同様に、抑圧されていつも冷静なジェイクは、新たな友人関係を築くうちに、実はそれなりに感情的でわがままな部分も持ち合わせているのが見えてくるんですよね。
そしてジェイクのそういう部分を認め、好意を抱いてくれる人たちがたくさんいて、愛されるのはロイだけの役割ではなくなるんです。
弟からのバトンを受けた達也が、ひたむきな努力家という和也的な性質を身につけるように。
閉鎖宇宙の中でお互いに偏った役割を振っていた双子たちは、自分の中の多様な側面を見つけ、認め、一人の人間になっていくんですよね。


あと、和也の焦りと「愛されるのは達也」という思い込みを強化してしまったのは浅倉南だったわけですが(南は悪くないけど)(でもちょっと思わせぶりだったのはひっかかる)、『CIPHER』においても双子と親しくなったアニスが恋人としてロイを選んじゃうことが亀裂のはじまりなあたり、色恋ってのはほんといろいろこじらせますよね、と思います。ただアニスはかなり恋心を明確にロイにだけ向け、ジェイクに対しては一貫して友愛しかないので、そこはえらいな。
色恋のおそろしさは、ジェイクは別にアニスのこと好きじゃないんですよね。だけど恋愛って「選択」だから、またしても「ロイだけが選ばれてしまう」から辛いだけ。
和也が南に強く執着したのは、そりゃあ好きだったからなんでしょうけど、もっとも親密な異性であり、閉じた小宇宙を共に作ってきた南によって「達也だけが選ばれる」ことが辛くて辛くてしかたなかったてのはあるんだろうなあ、と。
『CIPHER』でしめされた双子への救いは「恋愛」ではなく選別を伴わない友情なんですよね。ここが『タッチ』とは違う部分。ラブコメとしても傑作である『タッチ』は少年漫画で、恋愛が主題となりがちな少女漫画でありながら、『CIPHER』はだんだん恋愛要素を薄めていくのが面白いところでもあります。
というわけで最後にもう一度。『タッチ』好きだけど『CIPHER』知らない方は、ぜひ読んでみると面白いですよ! 古い作品ではあるんですけど、今読んでも不思議と古さを感じさせません。本当に面白いのでぜひぜひ!
ほんとにねー、あの日号泣してた父にも読んでほしいですよ、和也はあまりにもかわいそうだけど、ジェイクは大丈夫だよちゃんと救われたよって。まあ勝手にリンクさせてるのが私だけなので「だからなに?」と思われるのがオチなのもわかってますが。