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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

とりあえず始めますよね

とりあえず始めますよね。
なにをって、つまり書きはじめるってことなんですけど。うわ、この文、異常に段取りが悪い。
それも無理もない話なんです。事前に考えてないからこうなるんです、泥棒が来てから縄をなってんですよこちとら。
ダメだな。やっぱりわかりづらいな。やっぱり順番に話す必要がありますが、順番てやつをつけるのは難しいですね、思いつくままにやっていてはだめです、一度頭を整理しないと物事の順番はつけづらい。
のですが今回、私は頭の整理とやらを一切しないで感じたり考えたりすることをそのまま書いてみるという、ほら自動筆記ってやつ、あれを以前からやってみたくて、いや別にシュールレアリズムとかああいうの全然詳しくないんですけど、その手の教養全然ないくせにとにかくやってみたいなって、たぶん高校生くらいの時から思ってて、じゃあやりゃよかったのに、なんでやんなかったのって話ですけど、だってそういうのってなんかドラッグとかキメてからやるものっぽくないですか。勝手に私がそう思っていただけの話ですけど。
悪いのはらもさんですよ、中島らも。あの人のエッセイで「そういうのもあるのか」と思ったわけですし私。らもさんていったらラリパッパでしょう。だったらやっぱりこっちもそれなりの構えで応えていかなきゃな彼の教えにって、そう思ったわけですけど、いやそれほどは思ってないですけど、そもそも私は酒に弱いし、法律は守りたいし、それでもラリリたいならもうベニテングダケとか見つけて食らってゴーするしかないかなってところで、でもそんなめんどくさいことをしたくないでしょ、だから今まで自動筆記に挑戦しないできたわけです。
それはそれとしてベニテングダケは食べてみたいですけど。だってあれすごく美味しいって噂です。死亡例も北米で2例とかいう少なさで、小心な私でも挑戦できる気持ちにさせてくれますが、入手難易度が高そうなのがネックですね。山に分け入ってとりにいくつもりにはなれませんし。
子供の頃一度近所の山でかなり本格的なキノコとりに興じたことがありまして、近所とかいいつつ、日本百名山にも入ってしまっているような山なんですが、標高もそれなりにありまして、クマとかもわりかし出ちゃう地ではありましたが、とにかくそういう場所で大人たちに指導されるままキノコ採りすげー楽しかったですが、帰って数年経ってから怖くなった。
キノコとるの楽しかった思い出を振り返るためにキノコ図鑑みてたら、食用キノコとそっくりな毒キノコとかいっぱいのってて、これ見分ける自信ない、と思ったわけですそりゃ思うでしょ観察力とか乏しいほうですし私。
そしたらよく読んでいくとベテランきのこマニアでもけっこう食用と間違えて毒キノコ食べたりするんですって? ジスイジデンジャラス、すごい恐怖ですよこれはマジすげー恐怖、私これからは絶対スーパーで売ってるキノコしか食べないって決めました。
うん、まあ、子供にありがちなことでその決意はあっさり破れましたけどね、近所の山菜とり名人のばあちゃんが大量の松茸持ってきてくれたから。
まあそのばあちゃんは山菜全般に関してかなりのもので、
「あの山の色はゼンマイがとれるべ」
「あっちの山はたいしたことねえな。ワラビが少しとれっかもしんねえけんじょ」
とか言っちゃうくらいの達人、山を遠目に見てそんな判断が下せてしまうほどのマエストラですわ、現に大量の松茸をほいっと人に分け与えるくらいですからね、すごい人ですよマジで。
もうこのばあちゃんを信じなかったら誰も信じられないだろう、と私は自分に言い聞かせました。スーパーで売ってる外国産の松茸だって、結局どこかの誰かがとってきたやつだったりするんでしょうし、そのどこかのジョン・ドゥがですよ、ばあちゃんの上をいく達人だなんて想像しがたいじゃないですか。そんなジョン・ドゥレベルのキノコハンターの手がけた品が流通できるわけですから、ばあちゃんのキノコはもう絶対に問題ないに決まってると私は思い、すべてを忘れて松茸を食べましたよね。美味しかったです。
ばあちゃんは何年かの間、毎年のように松茸くれましたね、のちに引っ越していっちゃうまでね。ばあちゃんは妹と私のことを孫のようにかわいがってくれていて、本当にとてもかわいがってくれて、手編みの手袋や帽子をくれたり、人形のドレスまで作ってくれたりするほどだったんですけど、山菜の狩り場は教えてくれませんでした。
山菜達人のね、それは暗黙のオキテらしいですよ、なんでも。山菜達人てそういうものなんですって。自分のみつけた一番いい狩り場、一番いい山菜がたくさん取れる山は、絶対に人に教えないんですって。うちの家族はばあちゃんに連れられて、山菜がとれる場所に連れて行ってもらいましたけど、ああいうのは結局人に教えても問題ないレベルの狩場であって、本当に一番いい場所は、親子でも教え合わないとかなんとか、そんな風にききました。ほんとかな。
教えてもらえなかったやつがひがんでそんな風に言いふらしてるだけじゃねえの、この話の元ネタ。
と思わないでもないんですが、考えてみると山菜達人が狩り場を教えない理由は納得がいくというか、実際山菜をとりにいくと、マナー悪い奴らの痕跡をよく目にするんですわ。
ゴミを捨てるとか、そういうのはもちろん実刑に値するよな、ここがシンガポールならいいのに、そしたら当局に言いつけるのにちくしょうちくしょうってかんじですが、他にもいろいろありまして、たぶん罪人たる当人は全然悪気ないんでしょうけど、タラの芽を根こそぎにしちゃダメですよアンタ。
タラの芽ってのは、枝の先にふんわりとやわらかく萌える若芽が出てるもんですが、一本の木からこの若芽を根こそぎにしちゃダメ! とりすぎるとその木が死んじゃう! 脇芽をとるな、タラの木が人の害に負けてしまうんだよ!
少し残せば、その木は来年もまたそこで美味しい美味しいタラの芽をつけてくれるわけなのですから、とりすぎんなバカ。
あと更にタラの木がとげだらけで芽を摘む時痛いせいかもしれませんけど、枝ごと切り取って持っていく不届きものがいるので、殺したい。
まーとにかくそんな具合に、あそこは山菜がとれるぞって話になると、どやどやっとその場を荒らす人が来て場所が駄目になっちゃうってことは、あるわけですよ。
人の口に戸はたてられないわけで、ここすごいでしょいっぱいとれるでしょ、ほんとだお母さんすごいね、みたいな親子のほほえましいやりとりがいつしか、ぼく昨日たくさんタラの芽食べたよお母さんがとれる場所教えてくれたよ、いいなあおれにも教えてよ、とかそういうかんじで広まって、無法者が来るまであっという間なんでしょうね、ほんと。
だから達人は一番いい場所は秘密にする。荒らされないように。山の環境なんてね、人がいっぱいきたら荒らされて、同じものが採れなくなってもおかしくないですしね。
達人が狩り場を秘密にしたまま死んでいくことを「もったいない」と思わなくもないですが、これはあまりに人間中心主義的な考えというか、そりゃ人間からみればもったいないけど、山のほうからしてみればもったいなくはないですよね。いつの日か達人の志を継いだ新たな達人が狩り場を見出すまで、山はたくさんの財宝をかかえて静かに眠るわけですよ。
いやはや私何の話してるんだろう、自分が自動筆記に挑戦するにいたった経緯を順番に説明するつもりだったのに、いつの間にか山菜の話してますよ、話それすぎて怖い。
えっと、何で山菜の話したんだっけ、つまりキノコ自分でとりにいくの怖いしめんどい、大体どこでとれるかわからない、なのでベニテングダケはある日偶然の機会に恵まれるまでチャレンジする気はないと言いたかったのです。
ベニテングダケ以外のラリリ物質にももちろん興味はありません。だって法に触れたくない。
というわけでラリれない私は自動筆記への興味も自然とうしなったわけですが、なんだろうしばらくまえにインターネッツで「イケダハヤトメソッド」というものを目にしまして。これって一種の自動筆記なんじゃないか、しかもラリリを前提としない、と思ったわけです。思っちゃったんですよ。
だったら挑戦するよねー? なんか怖いけどさあ。というわけで実は今書いているこれ以外にもイケダハヤトメソッドに挑戦した文章はあるんですけど、確かに書くのは楽しいですねこれ。でもやっぱり推敲なしとか怖すぎるし、だらだらしててちゃんと終わらないから、これは自分ひとりで楽しむためのものだな、ブログにはのせられないな、とね。そう思ってたんですけどー。
暗いんですよ暗いのなんか。誰にも見せる予定のない文を書くのって暗いし、ちょっと気が滅入るの。やっぱり書いたら誰かに見てもらいたいのです。これってなんでなんでしょうね。不思議ですよね。書きたいから書くわけですけど、どうしてそれを誰かに見てほしいと思うんでしょう。よくわからない。わからないけど、書いちゃった以上はそう思うんですよね。
いやもちろん人に見せられない文章って、それなりに手元に大量に残ってますけど。でもそういうのって大抵「いつかはこの題材で何かをちゃんとまとめる」と思っているやつなんですよね。その手の亡霊みたいな遠い日の思い出的な文章ストックの多さときたら我ながら嫌になりますけど、でもやつらの中の何割かはある日しっかりと手直しされて、日の目をみるときもあるんです。でもイケダハヤトメソッド文はそうじゃないから。これに手を入れて完成される日とか来ないんですよ、ノー推敲でただ書くだけってとこに価値があるものですから。もう書かれるごとに、一行ごとにそこが完成品となっていくわけですよ、リセットができない、人生みたいなもんですよ。今むりやり深そうなこと言って話まとめようとしましたよ私、大人って汚いですね。
でもねでもね、水たまりだらけの道を歩く時、靴やズボンの裾が汚れるのを気にしている間は嫌な気持ちになりますけれど、たとえば一回すってーんと転んで、全身ずぶぬれになっちゃえば、逆に爽快でしょ? 楽しいでしょ? もっと早く噴水その他に飛びこんでから歩けばよかったなって思うでしょ?
思わないか。思わないな。思いませんねすみません。私がその立場だったら冷たくて何もかもが嫌になると思いますごめんなさい嘘つきました。だからいっそ汚れきったほうがいいとかそういう話に持っていこうとして、若者たちに汚れきる楽しさを伝えて未来に希望を持ってもらおうかなって、一応善意から出発した嘘なんですけど、ダメですねこれは。大体そこまで汚れきってる大人も滅多にいないですしね。大体その流れで「そっかあ、おれも早く大人になって汚れてえ」とか思う若者はちょっとかわいそうな子ですしね。このブログを読んでる若者がどんだけいるのかギモンですしね。そもそもこのいつにもましてとりとめのない文章を、未来に向かって生き急ぐ若者たちが読むとは思えないし。
というか、だからってお歳を召された方々がこれを読むとも思えないですよね。画面上で長文読むの疲れますもの。長文は紙だよ兄貴。
あああそれにしても酷いな、何が酷いって、私はね、自動筆記にあこがれてチャレンジってことはつまり、シュールで芸術的な、なんかそういう文章がね、書けると思ったからですよわかりますか。そういうのに憧れる気持ち、芸術家にあこがれぬ者はいないだろうって言うでしょ、それだよ。
だからこそ、こうばあああああっと書いたらばああああっと、自分の中にある難解だけれどもなんだか芸術的なかんじのさー、手術台の上のコウモリ傘とミシンの出会い的なさー、そういう文が生まれると思ったのに、全然違うじゃないコレエ、ただの冗舌な、話がっちゃこっちゃとぶ、おしゃべり糞野郎的ななにかじゃなあい、違うのこんなん書きたかあったわけやないのー。意識の流れがばりばり見えてるしい。全然無意識に書いてないしい。
ていうかほんとに人って無意識で書けんのかよ、嘘も休み休み言えよみんな。
なんだよちくしょう、私に足りないのはあれか、スピードか。もっと早くタイピングすればいいのか。でもこれ以上早くしたら手がつりそう。むり。
だいたいさー、早けりゃいいんだったら、いるじゃん、すげーマシンガントーク、ちょうスピードトークの人って時々。そういうひとがね、話しているうちに忘我の境地に達してシュールレアリズム的な何かを垂れ流したのとか、見たことありますか。私はないですよ。見たって話もきかないですよ。
だからやっぱスピードさえあればいいって話は嘘なんじゃないのー、っていう疑いが頭をもたげていて、じゃあ足りないのはラリリかあ、やっぱりベニテングダケいるかー、いやいや待て待て、いいんだよイケダハヤトメソッドならシュールじゃなくていいの、アートとか目指すな、ただ書け、と思いました。
そもそも修行が足りてない可能性もありますよ、まあ自動筆記に修行が必要なのかはちょっとわからないわけですけれども、繰り返すうちに無意識の扉をノックノックノック、そこからサムシングニューなものが飛び出してくる可能性、ないわけじゃないだろう。
なのでお目汚し甚だしいのですけれども、自動筆記じゃなくてイケダハヤトメソッド文の垂れ流し、そしてブログアップをやってみようかなと思っちゃいました。恥ずかしいことこのうえねえな、という気もしましたが、まあ別にいいやあ、そういうの気にしているうちは器が小さいままだよ人として、いやまあ別にそれほど器のビッグな人物になりたいわけではないけれど。