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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

暗号ゲームと拡大解釈。曖昧な境界線の上で

レイプ被害についての様々なやりとりが最近、あちこちを賑わせているのです。
この手のやりとりの恐ろしいところは、盛り上がれば盛り上がるほど、男と女というのが無闇に対立するような構造になりやすいところだと思っています。おまけにその構造は男は加害者、女は被害者みたいな二元論ぶりでおまけにその場合の男と女って、ヘテロ前提ですが何か?風に語られている気がして、それもまたよくないよねえ、と感じます。
そしてさらに、しばし待たれよ、ほんとにこの手の性犯罪と自衛を結びつけた議論において、男女は必ず対立するものなのですかどうなのですかそのへん。
『24人のビリー・ミリガン』において、レイプを行った加害者たる人格はアダラナという名の19歳女性の人格だったりすることを思い出したりして。


さて、レイプの話になると、自衛すべきだという意見は、大体こんな風になるのではないかと思います。
「もちろん加害者が悪いのは確かだけれど、そういう悪い人間というのがいなくなることはないのだから、女性が各自気をつけるしかないよね。
おのれの身を守らずに被害に遭ったら激昂するというのは、残念ながら多少の自業自得の感がぬぐえない。それは鍵をかけずに泥棒に入られるようなものだ」
この言説に反発する人間はたくさんいて、私もその一人なのですが、何で自分がこんなに反発を覚えるのかというと、理由は大体以下の二つです。


自衛することがナンセンスとは私は思わないし、現に護身グッズ研究して購入したりとかもしているのだけれど、それでもなお、誰かが私を襲ったとき、その戦いは“ひのきのぼう”と“なべのふた”を装備したレベル1勇者がラスボスの前でごみのように果てる様子に限りなく近いだろうなと思う。
そして、性犯罪被害について調べれば調べるほど、「気をつけているつもりであってもそんな風に襲われたら避けられない!」と思える事例がとても多いし、大体365日24時間気を抜かず自衛をするのはちょっと無理だし、それでもなお、襲われたら「自衛が足りない」って新聞の論説や警察や周囲の人間に責められるのはやってられないなあ、というのが一つ。


資産家が金品強奪目的で殺害された事件などが報道されても、新聞の論説が「金持ちのくせに自衛が足りない」とか言い出さないのに、性犯罪被害者だけは、「加害者が悪いけど」と言った上で「でも被害者にも落ち度が」と貶めることを許されているのは不思議だなあ、というのが二つ。


どのようなレイピストも撃退できる完璧な自衛が存在せず、運が悪ければどれほどがんばっても駄目なのが現状で、それはつまり被害を受ける可能性のある側(多くは女性)のみが努力しても事態が改善されないことを意味しているのに、「女性の努力」「女性の自衛」が求められ、「そうするしかないよね」って言われるというのはつまり。
レイピスト本人ではない男性は結局
「おれには関係ないし、なんもできないから各自気をつけてね」
と思っているということだよなあ、と思うのですね。


私はそのことに対して、すごくすごく違和感があるのですね。
なんというか、ほんとは性犯罪被害って、それほど遠い場所の出来事ではないと思うのです。
いつ被害に遭うかわからないというのはありますが、それだけではなく。
加害者という立場もそんなに遠くはないのじゃないかと。
しかもそれは、女なら被害者、男なら加害者という割り切れるものでもなく。
それそのものはレイプでもなく犯罪でもなく、だからといってレイプとまったく無関係とは言い切れない、どこかで薄くつながっている事柄が、世の中にはたくさんごろごろ転がっているのじゃないかと、そう感じます。
そしてそういった事柄には、男女問わず立場問わず、私たちみんなが少しずつ関わっているのではないかと思いますし、ならば性犯罪減少のためにできることは「女性の自衛」だけなんて話にはならないのじゃないかと。
そんな風に思うのですね。


私がそういうことを考え始めるようになったきっかけは昔、
「女性に自衛を求めることで性犯罪被害を減らそうという話はどうなんだよ一体ってよく思う」
という憤慨を身近な男性にぶつけてみたことでした。
そのときは、なんかすげえ議論に発展して、途中何度もお互いに相手を「感情的になっている」と批判しあい、空気はギスギスと尖って、お互いにとても疲れました。
途中は「ここまで疲れるならこんな話はじめなきゃよかった」と思ったんですけど、やっぱりとことん話し合うと、「話してみてよかった」と思いました。相手になってくれた男性には感謝しております。


長時間に及ぶ議論はだいたい以下のような流れで進みました。
「確かに一番悪いのはレイピストでだ。
だけどもし、被害者側に落ち度があったのであれば、その被害者が再度同じ目に遭わないためにも、これから被害に遭うかもしれない他の女性のためにも、落ち度を明らかにすることは大事だ。
そうしないとみんなが気を付けることができない」

「性犯罪被害者の落ち度追求は大抵の場合ナンセンスだ。
よく言われるのは『夜道を歩くな』、『挑発的な服装はするな』、『男と二人きりになるな』の3つ。
しかし、そもそも現代日本の女性が夜道をいっさい歩かないことは不可能に近い。
おとなしそうで生真面目な女性こそがしばしば被害者に選ばれることがデータによって実証されている以上、挑発的な服装はこの際、性犯罪誘発とは無関係と考えるべきだ。
そして、たいていの人間は信頼していないと個室で二人きりになろうとしない。
相手をある程度信用してるからこそ二人きりになっても構わないと判断する。
そのように信頼していた相手に裏切られた苦しみがあるからこそ、デートレイプは罪深いのではないだろうか。
自分を信頼してくれた人を裏切った側が『男はそういうもんだから』と言われ、人を信頼した側がそのことを落ち度として責められる構図は、私は間違っていると思う」

「確かに夜道を歩くなというのは難しい。ただ歩いていただけで見知らぬ人間に襲われた人間が、そのことを責められるのは気の毒だが、歩く場所というのもあるのではないだろうか、住宅街ではなく、たとえばホテル街を歩いていても、それは本当に潔白な被害者なのか?
それに、挑発的な服装が性犯罪誘発に無関係というのは、本当なのか? その点を疑わしく思う。
そしてそもそも、そういった個別のことは問題ではない。『性犯罪の被害者とは一切の落ち度を持たない無垢な被害者である』というのはどこかあやしい。
落ち度ある、自業自得の被害者はいるはずで、そのような落ち度ある被害者が、いきなり見知らぬ人間に襲われた気の毒な落ち度の無い女性と一緒にされるのはおかしいと思う」

「それはつまり、見知らぬ男性に襲われた女性は気の毒だが、知り合いに襲われたのは自業自得ということか?
あなたは女性が自分と個室で二人きりになったらレイプしてもいいと、そう考えているのか」

「もちろんそんなことは言ってない! 拡大解釈をしないで欲しい。知り合いに襲われた人間は全員が自業自得とも言っていない。ただ、自業自得に近い被害者もその中には含まれるのではないかと思っているのだ」


実際の議論はこんなふうに淡々とは進まず、もっと寄り道したり泥沼化したりしたんですが、ふと私はあることに気づきました。
その一。私は彼を論破する、あるいは論破した気になることはできるかもしれないが、彼がそのことによって納得することはないだろう。
その二。彼はレイプを正当化しているわけではない。いろんなシチュエーションを想定して尋ねてみたときに、「そういう状況だからレイプしてもいいわけじゃないし、許されないし、落ち度を追求されたら女性が気の毒だ」と答える。
にもかかわらず「しかし落ち度が追求されてもしかたのない被害者はどこかにいるのではないか」と言い続ける以上、彼が自分からは口にしないが、心中密かに「落ち度が追求されても仕方のないシチュエーション」を思い描いているのではないか。
その三。「夜道を歩くことは落ち度と言われるほどのものじゃない」という私の発言に彼は条件付きで賛同した。
「信頼する男性と二人きりになったことを落ち度と責められるのは悲しいことだ」という発言には、「確かに責められたらかわいそうな場合があるだろうねえ」という答え方をした。
その四。「挑発的な服装は性犯罪誘発につながらない」と私が言ったとき、「それは嘘くさい。信じられない」とかなり強硬に反論してきた。


んんー?
つまり、おそらくは。
彼の中で「挑発的な服装の女性が男性と二人きりになった状況」の中には、被害者の落ち度を追求されても仕方のないケースが含まれているとゆーことかなもしかして。
というわけで、だんだん話はその「仕方のないケース」とはどんなものか、ということを追求していく方向に流れ始めました。
そしてついに、彼はこういいました。


「あのね。レイプ被害者は絶対の無垢なる犠牲者で、加害者たる男は絶対の悪という図式がなにかひっかかるのよおれは」
「合意あるセックスは無問題で、合意なきセックスがレイプ。でもその合意って何なの?」
「女の人は全員が善良なわけじゃない。これはオーケーだよね。そして善良な女性が常に正しいわけでもない。間違うこともある」
「そして、性欲に駆られた男が何かを勘違いすることもあって」


「つまりね。合意あるセックスは喜ばしく双方の望みがかなったもので、そうでないセックスはレイプなんて、綺麗に割り切れるものばかりじゃないよね世の中は」
「しぶしぶ応じる、強引に口説き落として行う、途中でうんざりする、後でどっぷり悔やむ、勢いで始めて途中でやめたくなる、相手の機嫌をとるためにする、そういうセックスも世の中にはあるだろう」
「二人きりになって、迫られて、相手の機嫌を損ねたくなくてセックスに応じる女性はいるだろう。でも男はそんなことに気づかず、相手も自分と同じ気持ちでいると思うかも」
「それにそもそも、セックスを少し嫌がるふりをする女性もいるんだよ現実に。そういう媚態を好む男がいるからってのもある。『私は嫌がったのに』ということでセックスに伴う責任から逃れられるんじゃないか、という狡猾な計算が働く人間もいる」
不本意なセックスというものがあったとき、不本意ながらそれに応じた側は必ず被害者で、応じられた側は加害者になるわけ?」
「それはなんか違うよね。確かに、不本意なセックス、望まないセックスは、しばしば人を傷つける。でも傷ついたんだから私は被害者って、それはおかしい。不本意であるにも関わらず応じてしまって、後で悔やんだとしたら、やっぱり自分の責任を省みる必要はあるよね。応じてもらった側に責任を全部押し付けてはいけないと思う」
「おれが恐れているのは、性犯罪の被害者として名乗り出た人が絶対的な弱者となり、その人を尊重するのが正義となること」
不本意だったけど、相手の機嫌をとるために、空気を壊さないためにセックスに応じた」
「応じた後、やっぱりとても嫌だったと思ったから、『あれはレイプだった、私は傷ついた』と言い出して」
「男が慌てて、『いや、合意はあったじゃん』と言い出しても、そっからは水掛け論になって、男は状況証拠を提出するしかなくなるわけだ」
「『セクシーな服装で一緒に行動して、一緒にホテル行ったじゃん、それってつまり、おれとのセックスに同意してくれたんだと、おれは思うよ』とね」
「そしてそのとき、『でも嫌だったんだ。セクシーな服装も、ホテルに行ったことも、関係ないんだ』とか言われたらさ」
「レイプなんてとんでもない、酷い犯罪だ、おれはレイプしないと思ってて、当然そのときだってレイプしたつもりなかったのに、後からレイピスト扱いされて、すべての反論を無効にされたら、たまんないよ」
「だったら女性は、男とセックスした後、なんか気に入らないことがあったら、いつでも『あれはレイプだった』と言い出しちゃえばいいことになっちまう」


あーなるほど。
私はそこで、謎がひとつ解けた思いになりました。
彼がこだわり続けていたのは、彼自身の言葉を借りれば「不本意なセックス」というものが念頭にあったからなのだ、と。
彼が「挑発的な服装」に最もこだわった理由も、そうなればわかります。
自分が性的な関心を寄せる相手が、セクシーなアプローチをしてくるのであれば、、それは「合意」であると思いたいし、思ってしまうかもしれない。
セクシーな服装で、たとえばホテル街を一緒に歩いてくれて、なおかつその後個室で二人きりになったのだから、そこには「合意」がある。そう信じたのに、後からそれは違いますと言われても、納得いかない!


そのとき私の頭の中に、白い画用紙が浮かびました。
画用紙の中心には黒い線が一本、くっきりとひかれており、右側には「はい」、左側には「いいえ」と書いてあります。
合意あるセックスと、そうでないものを分ける境界線。
ふと、その境界線に誰かが手を伸ばし、ごしごしと擦り始めました。
きっと、芯のごく柔らかな鉛筆で描かれていたのでしょう。線はにじみ、広がり、やがてぼんやりと太い、曖昧なものに変わりました。


境界線を曖昧にしたのが誰なのかは、今となってはわかりません。たぶん元々、くっきりした境界線なんてものは、存在しなかったのかも。
相手のちょっとした態度やしぐさを希望的に拡大解釈することは、誰にでもあり得ることです。
自分の本当の気持ちを隠し、そのくせ読み取ってほしいと思うことも、誰にでもあり得ること。(ツンデレってそうだと思うんですけど)
境界線が常にくっきりはっきりしていることでやりづらくなることや起きるトラブル、消えてしまう味わいなども、きっとあると思うのです。
そして「私はあなたとのセックスを望んでいます」と明確に伝えるのではなく、曖昧な境界線上での振る舞いから「はい」をなんとなく読み取ってもらう、あるいは読み取ることのほうが、ずっと楽だったりもするのです。
人間の気持ちというのはそもそも、くっきりと境界線で分かれているわかりやすいものではないのですから。
だからこそ世の中には、曖昧な境界線上で発信される暗号めいた数多のサインを読み解くためのマニュアルが流布されるのです。
「絶対それは気があるって」
「そうかな〜?」
そんな会話が、今日も昨日も二百年前も、世界中のあちこちで楽しく行われていたはずで、これからも行われていくでしょう、きっと。


けれど、境界線が曖昧になっていることで起こっている悲劇もあるのだと、私はその時、そう感じました。
そして、たくさんのデートレイプをはじめとした、性犯罪もまたやはり、曖昧な境界線によって生みだされた悲劇であるのではないかと。
更に、セカンドレイプと呼ばれる性犯罪被害者に対する二次被害、三次被害もやはり、にじんだ境界線の子どもなのではないかと思います。


曖昧な境界線上ではたとえばそう、ミニスカートがセックスに対する「はい」を発信するときはあるのでしょう。
個室で二人きりになることが「はい」を発信するときも、絶対にあるでしょう。
ですが当然、曖昧な滲んだ境界線上で、ミニスカートも夜道の歩行も二人きりの個室も、「はい」を発信しないときはたくさんたくさん、あるのです。
「はい」が「いいえ」に変わるときも、あるのです。


性犯罪の被害者が責められる理由の一つに、私はぼやけて広がった境界線が原因で起こる拡大解釈があるのではないかと思っています。
セクシーな服装は「はい」を発信していると解釈することもできる。
だから相手は誤解したんだ。誤解されても仕方ないだろう。
「はい」を発信していたくせに、いわば誘っていたくせに、後からそれをなかったことにして相手を責めるのかお前は。
夜道で襲われる人がが世の中にいることを知っているくせに、お前は夜道を歩いた。それはつまり夜道で襲うという行為に対する「はい」の発信であるとも解釈できる。
だったら、それは襲われても仕方ないだろう。


もちろん、そんなことは絶対にないと、私は何度でも繰り返します。
それは非常に誤った拡大解釈で、悪意に満ちている。
現実のコミュニケーションで、誰にも一度も誤解されなかったという人が、いったいこの世にいるのですか。
誤解したことが一度もない、そんな人だっていないでしょう。
仮に私がそうだ、という人がいるのならば、異形と言っていい高能力の持ち主であるか、自分は誤解とは縁のない人生を送れていると錯覚している愚者であるか、さもなくば悪辣な嘘つきです。そして、高能力の持ち主である可能性は最も低く、かつそれほどの高能力の持ち主が、周囲の人間が自分と同じパフォーマンスをたたき出すべきだと考えるのは愚かしいにも程がある。ウサイン・ボルトと同じスピードで走れる人間は、ほかに一人もいないのです。


誤解を避けるべく努めることは重要です。それが悪意のない、単なる誤解であるならばね。
しかし、意図的な拡大解釈、それも悪意をもって行われるそれから逃れる術は、存在しません。


「はい」をひとたび発信すれば、それがすべてのセックスへの全面的な「はい」になるわけではありません。
99.9%の「はい」は限定的な「はい」なのです。それはセックスに関してもそうですし、それ以外のことに関してもそうです。
「私とのセックスに同意した以上は、いついかなるときも、どのようなセックスでも、こちらの求めに応じるべきである」
そんなことはありません。
人は変わる、状況も変わる、「はい」が「いいえ」になる可能性は無数にあるのです。
一度発信された暗号、それは「はい」であると思えた、ならば常に絶対的に「はい」だ。そんなことはないのです。
これは当たり前のことです。幼稚園の砂場で最初に習うような、ごくごく当たり前のことなのです。


「はい」が覆されることを恐れるのは、そのことに怒るのは、ごく自然な話ではあります。
だからこそ、「女性は自衛をすべき」というひとが最もこだわるのは「挑発的な服装」だったりするのでしょう。
それは「はい」なのだから。それを覆すのは卑怯であると感じるから。
けれどその「はい」はあなた向けに発信されたものであるとは限らない。
あるいはあなた向けの発信であっても、いつか「いいえ」に変わるかもしれない。


「携帯が鳴ってる。ちょっと待ってね……もしもし、はい……え…わかった…………ごめんなさい、今の電話父からで、母がさっき倒れたらしくて、これから病院に行かなきゃいけないの。久しぶりのデートだったのに、部屋まで取って貰ったのに、こんなことになって本当にごめんなさい」
何を言ってるんだお前は、おれはお前とセックスするためにここに来たのに、そのために金も使って部屋も用意したのに、お前だってそのつもりでここに来たはずなのに、それなのに裏切るのか、今更の「いいえ」なのか、そんなことは聞いてやらない。
一度「はい」と発信した以上、責任をとれ、犯されろ。


そんな理屈が、通ってはいけない。
裏切り者はむしろそんな理屈を通す人間だと、私は思います。信頼を裏切り、コミュニケーションの基本を踏みにじっている。


更に、そのような誤った解釈は、その解釈を悪意で用いることで自己を正当化できるのだと、そんな救いを、加害者側に与えます。
おれはあいつがセックスしたくないと知っていた、無理やり犯してやった、嫌がっていたのは知っている、だけどそう、
「ミニスカートをはいていたんだから誘われたと思った」
とそう言ってやればいい、むらむらさせるのが悪いと、我慢できなかったと、そう言えばいい。
そんな風に。


そしてまた。
ぼやけた境界線が生み出す拡大解釈によって不幸を味わうのは、性犯罪の被害者だけではありません。
暗号を読み間違えた人間がそのことによって不幸になることも、たくさんあるのです。恥をかいた、裏切られた、そんな風に。
更にぼやけた境界線と曖昧な暗号は、人に恐怖を与えます。
自分はこれから読み間違うのではないか、既に読み間違ったのではないか、間違ってはいないはずなのに読み間違ったという罪を着せられるのではないかと。
自分はこれまでの人生で、ぼやけた境界線上の曖昧な暗号をすべて正しく読み解いた、そんな風に断言できる人は、きっとどこにもいないのですから。


だから、つい、言いたくなるのかもしれません。「被害者が気をつけてよ」と。
誤解させないで、拡大解釈の隙を与えないで、自分の解釈を後から覆したりしないで。
よくわからない曖昧なものを解釈するのは読み解くのはとても骨が折れることなんだ、マニュアルに従って「はい」だと思うしかないんだ、それがそうじゃないだなんて、そんなことを言うのはやめて。


なんて不幸な人たち。それもとてもたくさん。


「夜道を歩くな」
「挑発的な服装はだめだ」
「個室で二人きりになるな」
私にはそういった発言はすべて
「『はい』だと解釈される可能性のあることを行うな」
と言っているように感じるときがあります。
「『はい』だと解釈される可能性のあることを行うのは、『はい』を発信するのと同じことだ」
「そして、ひとたび『はい』を発信した人間は、それを覆してはならない」
そのように言っているようにも聞こえます。
そして、なぜだか性に関する女性の『はい』はどこまでも引き伸ばして拡大解釈されるときが珍しくありません。


レイプ被害に遭った女性が警察に行ったとき
「処女ではないのだからそんなに大げさに騒がなくても」
と警察官に言われたという話を、私は以前読みました。
「午前一時過ぎに基地の近くを一人で歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない」
曽野綾子氏は言いました。
「私のような人間が警察に行っても相手にしてもらえないだろう」
とレイプ被害を警察に訴えることを諦めたポルノスターの話もあります。


以前、ある男性が私に向かって言ったこと。
「昏睡した好みのタイプの女性が横たわっていて、女は処女ではなく、何があってもしばらくは目を覚まさない。そんな状況なら、ほぼ100%レイプする。それが男だよ」
私はその発言自体には驚きませんでした。世の中には紳士的な男性のほうが多いと私は信じていますが、それでもそのような発言が自分の男らしさのアピールになると誤認している方が存在することも知っているからです。
それよりも私が気になったのは、「女は処女ではない」という但し書きがわざわざ付いた点でした。


処女ではない女。
性的商売をしている女。
ポルノスター。
それはつまり、「少なくとも一度は、セックスに関して『はい』を発信した女」ということです。
であるがゆえに、彼女たちがその後「いいえ」と言っても、
「少なくとも一度は誰かに向かって『はい』と言ったのだから」
と片付けられてしまうときがあるのです。
セックスに関する「はい」が無限に拡大解釈される恐ろしさが、そこにあります。
ただ一度の「はい」が、あるいは「はい」を発信したかもしれない可能性が、発信したつもりもないのに誤読された「はい」が、個人の意思を踏みにじり、信頼を裏切り、加害する理由になるのですから。


「だからこそ『はい』を発信することを、あるいは発信したと誤解される可能性のあることを行うな」
そう告げる声は善意に満ちています。
けれど私はその声に従うことはできないのです。
なぜなら私はどうすれば自分が一切の「はい」を発信しないでいられるのか、わからないから。
どこまでもどこまでも針小棒大に、ほとんど無限に引き伸ばされる拡大解釈を避ける方法など存在しないだろうと思うから。
ちょっとした接触や笑顔、声の調子も、「はい」と誤読されることを、私は知識の上でも経験の上でも知っているから。
何よりも私はひとを信じたいし、信じてしまうから。いついかなるときも、どんな相手も信じない。そんな風に生きることは出来ないから。
私があなたの言葉を、しぐさを、表情を、読み間違うことはあるだろう。
あなたが私の声音を、服装を、態度を、誤解することもあるだろう。
けれどそれでもその誤解は正していくことが出来るだろうし、そのための努力を惜しんではならないし、そう思える相手を作らずに生きることは、きっとあまり良いことではない。
私はそう思っています。


「遠近法で画面の奥に向かってまっすぐに伸びる道を描く時、道の両端の線を延長すれば、画面のずっと先で交わるだろう。この点を虚焦点と呼ぶ。
なぜ虚なのか。それは当然、そのような点は存在しないからだ。道の両端が交わる点は、どこまで行っても存在しない。だが、その点は絵を描くために必要な点でもある。
必要だが、実際には存在しない点。それはたとえば『絶対平和』や『完全なる平等社会』などがそうなのかもしれないな。存在せず到達できない点であるとしても、それでもその点は必要だ」


これは私が大学一年生のときに受けた講義で聴いた言葉です。
実際には存在しなくとも、必要な点。それがなくては絵が描けない、理想も描けない、目指すべき道を設定できない点。虚焦点。
私は虚焦点を愛します。それは必要なのだと、信仰します。


性犯罪がゼロになる社会は、きっと来ないでしょう。少なくとも私たちが生きているうちには。
けれど、それでも減らすことはできるはずで。
あるいは、被害者を今よりもよく支えることはできるはずで。
ゼロにならないのならば努力するのは無駄だとは、私は思いません。


それでは虚焦点に向かって進むための第一歩が何なのか。
それはとても小さな一歩で、道のりは本当に険しく遠いけれども、コミュニケーションをきちんと行うことだと、私は思います。
私たちは失敗を恐れます。誤解を指摘されると恥じ入り、つらい思いを味わいます。。
だからこそ誤解させた側が悪いと、怒りだす人もいます。
あるいは敢えて誤解を招き、それを利用して他人を陥れる人もいます。
それゆえ「はい」は、あるいは「はい」と誤解される可能性は、硬直するのだと私は思います。


「はい」を覆すな。
「はい」を覆してはならない。
「はい」だと思わせることが悪い。
そして、それは「いいえ」だと、この先は「いいえ」だと、伝えることは、どんどん難しくなっていく。


ある人は諦めて、不本意なセックスに応じる。
ある人はセックスの後、相手が不本意だったのではないかと思いつき、不安に駆られる。
そしてある人は強制されたセックスの結果、殺される。


生き延びた人は、「はい」を発信したかもしれない可能性をあげつらわれ、責められる。


けれどもしも、「はい」がそれほどに絶対的なものでなければ、悲劇の何割かは回避できるのではないでしょうか。


「はい」は常に「はい」ではない、変わることがあり得る。
「はい」と解釈できるものが常に「はい」であるとは限らない。
一度発信した「はい」も、撤回することは出来る。
ひとによって何が「はい」であるかは異なる。


何が「はい」であるか読み解くのは難しい、間違えないことも難しい。
「はい」と言う事は悪ではなく落ち度ではない。「はい」を伝えることが必要なときはある。
「いいえ」と告げることは裏切りではなく、攻撃でもない。「いいえ」と言わなければならないときが必ずある。


誤解することは恥ではなく、ありふれたことだ。
誤解されることは罪ではなく、避けがたいことだ。
誤解を誤解のまま放置することのほうがよほど罪深い。
誤解を解くべく努めよう。ひとは話し合うことが出来る。


相手の意思を確認することは不可能ではない。むしろ、きちんとそれを行うこと必要だ。
自分の意思を表明することは不道徳ではない。むしろ、それを行わないことが怠慢だ。


性以外の事柄に関しては、それらはすべて当たり前のことです。
そして実際には、性に関しても、それはすべて当たり前のことです。
相手の意思を確認すること、自分の意思を明確にすることが、性に関していかに重要であるか、そのことをできるだけ多くの人が、当然の前提として共有できることは、虚焦点に向かって踏み出す、第一歩となるのではないでしょうか。


曖昧な境界線上で行われる悪意ある拡大解釈は、確かにある種の人々に、大いに益を与えます。


「はい」と誤読された人間が悪いのだと無邪気に信じる女性は、優越感を得ることができます。
「私はレイプされたことがない。なぜなら私は『はい』と誤読されるような落ち度ある振る舞いをしたことがないから」
優越感は更に、安心をもたらします。
「落ち度ある振る舞いをしない限り、私は安全だ」
実際には、多くの性犯罪被害は、夜道を歩かず、ミニスカートを穿かず、男性と二人きりにならぬよう気をつけている女性の身にも起こっています。落ち度ある振る舞いなどなくとも、自衛を心がけても、運が悪ければ誰もが犯され得る。
けれどそんな考えは、とても不安で不快で、恐ろしいから。
被害者を責めることは、彼女に安らぎを与えます。


実際、アメリカの性犯罪の裁判では、陪審員に選ばれた女性が、被害にあった女性に手厳しい態度を示すことが多いそうです。
私はあなたのような落ち度ある女性とは違うのよ。だから安全。だから安心。
そう思いたい人間は、大勢いるのです。


「はい」と誤解させる人間が悪いのだと、堂々と言い切る男性は、拡大解釈を盾に自身の欲望を満たすことができます。
「お前は『はい』と言った。夜道を歩き、スカートを穿き、おれと二人きりになったお前は、おれに許可を与えた。お前の体を好きにしていいと、そう言った」
被害者の言い分を封じ、他者を傷つけることを正当化できる拡大解釈は、手放し難く愛おしい、便利な道具なのでしょう。


責めたてられ悩み苦しむ被害者は、どうせ自分とは別の人間なのですから。
そんな人間のために優越感を安心を、性欲を満たすのに都合のいい便利な道具を、どうして手放す必要があるでしょう?


けれど本当は、そんなことはないのです。
性の苦しみは、遥か彼方にのみ存在するわけではないのです。
自分は生涯そんな目に遭わないと、断言できる人間はいないのです。
どのような人間であっても、セクシャリティに関わらず、立場に関わらず、性で苦しむことはあるのです。
被害者も加害者も、決して遠く隔たった存在でないのです。
誰もが被害者にも加害者にもなり得るのです。


とても身近で、とても重要な問題。
一人でも多くの人が、考え続けなければならないこと。
それは答えが出ない難問かも知れず、そのような問題に取り組み続けることは、時としてひどく苦しいのだけど。
それでもやめないことが、虚焦点に向かう大切な一歩なのだと、私は信じます。