wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

でぶっちょシンデレラのおはなし

はじめに

遠い昔、布団の中で絵本を読み聞かせてもらいながら寝かしつけられていた時代が、私にもありました。
そして、我が父シロイ・ネコヒコ(仮名)は時折、どんな絵本にも載っていない、オリジナルおとぎばなしを作って、妹と私に聞かせてくれました。
今日は父の代表作である『でぶっちょシンデレラ』をご紹介いたします。

本文

昔むかし、あるところに、ひとりの女の子がいました。
女の子はおかあさんを早くに亡くし、おとうさんはのこされた女の子をたいそうかわいがりました。
やがておとうさんは再婚しました。新しいおかあさんは、二人のむすめをつれてきました。


女の子はシンデレラとよばれていましたが、これは本当の名まえではありません。
シンデレラというのは、日本語になおすと「灰かぶり」。その名のとおり、シンデレラはいつも灰にまみれ、よごれていました。
いいえちがいます、新しいおかあさんやおねえさんたちが意地悪だったわけじゃありません。
シンデレラの大好物は、だんろの火でじゃがいもをこんがり焼いてバターをたっぷりつけたもので、毎日大量に食べました。そして、シンデレラはどんどん太りました。
すると何もかもが面倒になり、シンデレラは一日中だんろのそばから動かなくなりました。だから灰かぶりと呼ばれるようになったのです。
おかあさんもおねえさんもそれはそれは心配して、
「ちょっとお散歩にいかない? すこし体を動かすと、きっといい気もちよ」
などと声をかけるのですが、シンデレラはいつもしらんぷり。
「このままではシンデレラはだめになってしまいます」
おかあさんがそう言っても、
「いいんだよ、だってむりに動かしたらかわいそうじゃないか」
おとうさんはシンデレラをどんどん甘やかすのでした。


しばらくすると、今度はおとうさんが死んでしまいました。
医療技術が未発達な昔は、けっこうあっけなく人が死んだりしたものなのです。
シンデレラのおとうさんは仕立て屋さんをしていました。
おかあさんはドレスをぬうのがとてもじょうずだったので、そのままお店をひきつぎました。
おねえさん二人はけんめいに店を手伝い、仕立て屋はたいへんに流行りました。


ある日のこと。
国じゅうにおふれがでて、わかいむすめたちはみな、お城に招待されました。
王子さまが、おきさき探しのぶとう会をひらくのです。
さあ、仕立て屋はおおいそがし。
おかあさんとおねえさんは、くる日もくる日も、たくさんのドレスをぬいました。
そして、おねえさんたちは仕事の合間をぬい、余った生地やレースをたくみに使って、自分たちのぶんのドレスを上手にこしらえたのでした。
問題は、シンデレラのドレスでした。シンデレラの体はとても大きかったので、余った布をぜんぶ使っても、ぜんぜん足りなかったのです。
「絹もビロードもレースも、ぶとう会のせいでどんどん値上がりしてるし、シンデレラのドレスを作ったら、うちは破産してしまうわ」
「木綿のドレスでお城にいくわけにはいかないし。どうしたらいいかしら」
おかあさんは、これは良い機会だと気づきました。
「ねえシンデレラ。あなたの体に合うドレスを作るだけのお金が、うちにはないのよ。だから、もしよかったら……」
おかあさんの言葉を、シンデレラはとちゅうでさえぎりました。
「ダイエットなんて、ぜったいしないよ」
「そんな」
おかあさんは目を丸くして驚きました。
「お城のぶとう会にはすばらしいごちそうが、とってもたくさん出てくるのよ?」
シンデレラの心は、大きくゆれうごきましたが、すぐに言い返しました。
「ダイエットなんかしたらふらふらして、馬車にひかれて死んじゃうかもしれないわ。こんなことになるくらいなら、今まで通り食べてればよかったって思うのがオチよ」
おかあさんは粘り強く説得をつづけましたが、シンデレラにダイエットをさせることは、できませんでした。


ぶとう会の晩。
「ごめんなさいねシンデレラ。留守番をまかせてしまって」
「ふん。まったくうるさいわね。いいからはやく行きなさいよ」
シンデレラはふきげんにそっぽをむきました。
「おみやげ、いっぱい買ってくるわ。タッパーも用意したから、お城のごちそうも、たくさんつめて持ち帰ってくるから」
おねえさんたちはそう言って、出かけていきました。
「はあ……」
一人ぼっちになったシンデレラは、さっそく新しいじゃがいもを手にとりましたが、なぜだか食欲がわきません。
「見たこともないようなごちそう、か……」
シンデレラのため息が、がらんとした家の中に、やけに大きくひびきました。
その時のことです。
台所のすみを、おおきなねずみがいっぴき、ちょろちょろ、と走りました。
シンデレラは次の瞬間、目にも止まらぬ動きでスリッパを脱ぎ、そのままねずみにむかって投げつけました。
ばしーん。
スリッパはみごとに命中し、ねずみはころりと、ひっくりかえってしまいました。
「あら、いいわね、けっこうな大物じゃない」
シンデレラはうきうきとねずみを拾い上げると、たこ糸でくるくるとしばり、なれた手つきでだんろのそばにぶら下げました。


シンデレラの国では昔おそろしい病がはやり、たくさんの人が死にました。
ある日、とてもえらい学者の先生が、国中のねずみをすべて退治すれば、病はひろがらないだろう、と言いました。
そして、みんなが半信半疑でねずみを退治したところ、本当にはやり病はおさまったのです。
それからというもの、この国ではお役所に退治したねずみをもっていけば、ごほうびのお金がもらえるようになったのでした。
シンデレラはねずみ退治の名人でした。
手裏剣のようにスリッパをあやつり、たくさんのねずみを、ちまつりにあげてきたのです。
おかあさんやおねえさんは、おいしいごはんやすてきなおかしを作ってくれましたが、基本的にヘルシー志向で、量もひかえめでした。
それでは物足りないシンデレラは、ねずみ退治の賞金で食べ物を買っていたのです。


「おじょうさん」
なんと、ねずみが人間のように話し始めました。
「このひもをほどいてください。おねがいします」
「口をきくねずみなんて、はじめてだわ。もしかしたら金貨をもらえるかも」
「ひいっ」
ねずみは悲鳴をあげました。
「やめてください、わたしはねずみじゃないんです、まほうつかいなんですよ」
「だからなに?」
「わたしを助けてくれたら、あなたを国いちばんの美女にしてあげますよ。うつくしいドレスと金のかみかざり、ダイヤのゆびわもおつけしましょう」
「うまいこと言ってひもをほどかせるつもりね。その手にはのらないわ」
これまで若い女性を百発百中でときふせた言葉がそっけなくかえされてしまい、ねずみはたいへんにあわてました。
「ダ、ダイヤモンドはえいえんのかがやきですよ? じょせいのさいこうのお友だちともいうのですよ?」
「ただの光る石じゃない。どうでもいい」
「そ、それでは、幸せな結婚などいかが? ヨメ・シュウトメ円満のまほうをはじめとして、アフターフォローも万全ですが」
「食べられないものに興味はないわ」
「では、では、では……」
口ごもるねずみ。たらりとひやあせが流れましたが、さすがにまほうつかい。台所を見まわして、こう続けました。
「ところでおじょうさんは、お城に行かないんですか? 確か今夜はせいだいなぶとう会では?」
ぴくりとシンデレラのまゆが動き、まほうつかいはここが勝負とばかりにたたみかけました。
「それはそれはものすごいごちそうが出るんでしょうねえ! 貴族でもないのにそんなごちそうが食べられるなんて、この国のむすめさんたちはなんてしあわせものでしょう! なのにどうしておじょうさんは、留守番なんかしてるんです?」
「うるさいわね」
シンデレラは顔をまっかにして言いました。
「わたしにはドレスがないのよ! 体が大きくて、着れるドレスがないのよう! だからお城にいけないの!」
ほとんど泣きだしそうになっているシンデレラの顔を見ながら、ねずみは丁重に申し出ました。
「それでは、そのドレスをわたしがご用意しましょう。一刻も早くお城に駆けつけたいでしょうから、馬車と馬もおつけしますよ」
シンデレラはぽかんと口をあけて、ねずみをまじまじと見つめました。
「そうと決まれば急ぎましょう! さあ早く! このひもをほどくんですおじょうさん!」
シンデレラはあわててハサミをとりあげ、じょきじょきとたこ糸を切りました。


ぼわわん。白いけむりがたちのぼりました。
ねずみの姿はとけるように消え、とんがりぼうしと長いローブを身につけたおばあさんがあらわれました。
「肝の据わったおじょうさんですねえ」
まほうつかいはあきれたようにつぶやきました。
「今までの人たちはみんな、ねずみが人間に変身すると、ずいぶんおどろいたものですけど」
「むだ話はいらないわ。早くしてちょうだい」
シンデレラはじれったそうに足踏みをしました。
「おまかせあれ」
まほうつかいはほほえみました。
ぼわわん。
けむりとともにシンデレラの木綿のドレスが、うつくしい絹にかわりました。
ぼわわん。
台所のすみにあったかぼちゃは、りっぱな金色の馬車に。
ぼわわん。
だんろの横にぶら下げられていた、息もたえだえのねずみ2ひきは、雪のような白馬に。
「これはとっておきのおまけよ」
まほうつかいはウインクをして、仕上げのつえをふりました。
ぼわわん。
そしてシンデレラの木ぐつは、それはそれはみごとな、ガラスのくつにかわったのです。
「すきとおったかがやきが若いむすめの純粋さ、けがれないうつくしさをひきたてる自慢のデザインですのよ」
シンデレラはきびしい顔をして言いました。
「ひとつ、いいかしら」
シンデレラの言葉をきいて、まほうつかいはおどろきました。
「ええっ、まほうをぜんぶ、途中でとけるようにしてほしいなんて」
「わたし、このかぼちゃでおねえさんにパイを作ってもらうつもりだったし、ねずみも役所にもっていく予定だから、なくなっちゃこまるの。馬車も馬も、大きくてじゃまだし」
「しかたないわねえ」
ためいきをつきながら、まほうつかいはもう一度、つえをふりました。
「さあおじょうさん、これでまほうはぜんぶ、真夜中をすぎればとけます。だから気をつけて、12時のかねがなったら、急いで帰ってくるのですよ。お城の中でまほうがとけたら、不審者扱いされるでしょうから」
「わかったわ。いろいろありがとね」
シンデレラは短い礼を言って、馬車に乗り込みました。


さて、そのころ、お城では。
「すごいごちそうねえ……シンデレラをつれてきてあげたかった。きっと喜んだでしょうに」
「人目があって、タッパーに詰めるのがはずかしいわね……もうちょっとおそい時間になったら、みんなの注意もそれるからしら」
「ふたりとも。ごちそうの話ばかりするのはおやめなさい。これから王子さまがいらっしゃるんだから、くれぐれも失礼がないようにね」
「王子さまって、きっとすてきな方なんでしょうね! わたし『どくがんりゅうまさむね』のケン・ワタナベにそっくりだってうわさをきいたわ」
「まあ、わたしは『ペイル・ライダー』のクリント・イーストウッドみたいに渋い方だってきいたけれど」
「一説によると『ハート・ブルー』のキアヌ・リーブスにも似ているそうよ!」
むすめたちのうわさ話をきいていたおかあさんは、心の中で首をかしげていました。
(おかしい……王子さまのイメージがあまりにもバラバラすぎるわ……それにみょうに古い作品ばかりだし)
そのとき、高らかににファンファーレがなりひびきました。
パンパカパーン。
「王子さまのおなーりー」
毛皮のえりがついた外とうの下からのぞくダブレットは、つややかなベルベット。
かざりおびには金糸銀糸がふんだんにつかわれ、髪の毛はきれいになでつけられています。
顔がうつるほどにみがきこまれたブーツで王子さまは一歩、ふみ出し。
それを見たおかあさんはそっとむすめたちのそでをひき、ささやきました。
「いくわよあなたたち」
「ええ、おかあさま」
二人は、あおざめた顔でこたえました。
(最初からおかしな話だったわ)
おかあさんはすばやく考えをめぐらせました。
(一国の王子ともなれば、よその国のお姫さまと結婚するのがふつうなのに、わざわざ国中のむすめを集めるなんて、どんな理由があるのかと思っていたけれど……)
帰ろうとしたのは、おねえさんたちだけではありません。
おおぜいのむすめたちが目立たぬようにこっそりと、けれど急いでわれさきにと出口に殺到しはじめていました。


王子さまの右手にはこんがりあぶられた鶏もも肉が、左手にはサーティワンアイスクリームのキングサイズトリプルがにぎられていました。
鶏もも肉とアイスクリームを交互にほおばる王子さまの体は、太っているなどという言葉ではなまやさしく、山が動いているようにしか見えません。
ゆさゆさと波打つ王子さまの肉。
いったいこれほどまでに大きな人間というのが、いてもよいのでしょうか。
(こんな人と結婚したらまちがいなく……わたしたちは、死ぬ。なにかのひょうしにおしつぶされる)
むすめたちはみな怯えてしまったのでした。


王子さまはあたりを見まわし、大臣にたずねました。
「おかしいな。国中のむすめたちが集まったはずではなかったのか。ずいぶん人がすくないぞ」
王子さま美形説を流してむすめを集めた大臣は、慌てて答えました。
「ど、どうやら風邪をひいているむすめが多いようです。王子さまにうつすわけにもいきませぬから、みなくやしい思いで家にこもっているのでしょう」
「なるほどなあ。かんしんな心がけじゃ」
王子さまはおうようにうなずき、そこで足をとめました。
(おや……?)
どっかりとテーブルのまえに一人のむすめがじんどっており、王子さまのほうに見むきもしません。じぶんと同じ部屋に王子さまがいることに、気づいていないようです。
「そなた、なにをしておるのじゃ?」
「食べてるのよ。そのくらい、見たらわかるんじゃない」
「ずいぶんたくさん食べてるようだな。うまいのか?」
「うるさいなあ、おいしいから食べてるに決まってるでしょ。とくにこのお肉! じっくり味わうんだからじゃましないで」
ぶれいな口をきかれたにもかかわらず、王子さまはにっこりとわらいました。


これまで王子さまは、食べ物のことではいろいろさみしい思いをしてきました。
王子さまが食事をはじめると、あまりのはやさといきおいにみな驚き、顔をしかめたりします。
となりの国のお姫さまとお見合いをしたときも
「王子さまが食事をするところを見ていると、気分がわるくなります」
とことわられ、王子さまはたいそうかなしみました。
ところがこのむすめさんときたら、どうでしょう。王子さまにまさるともおとらない食べっぷりです。
(このむすめならば、わたしが何をどんなに食べたって、気にするようなことはあるまい)
王子さまは胸のそこからぽかぽかとあたたかい光がさしてきたような気分になりました。
「その豚肉の煮こみは、かくし味に果物をつかっておるのじゃ。だから深みがでる」
「へえ。くわしいわね」
「そちらの牛のあぶり焼きも、なかなかのデキだぞ」
「ほんとだわ。すごく香ばしい」
ふたりは生まれて初めて、じぶんと同じくらい、食べることに情熱をかたむける人に会ったのでした。
ぴったりと息の合ったコンビネーションで二人は、食べて、食べて、食べつづけました。
たのしい時間はまたたくまにすぎるものです。
ごーん。
かねの音が、おしろにひびきわたりました。
「もうこんな時間!」
シンデレラはあわててたちあがり、走りだしました。
「むすめよ、どこにいくのだ?」
後ろから王子さまの声がきこえますが、かまっていられません。
階段をおりるときにひっかけて、くつが片方だけぬげてしまいましたが、
「どうせ、ほとんど家から出ないもの。くつなんていらないわ」
シンデレラはそのまま馬車にとびのり、去ってしまいました。
「あれは……?」
シンデレラを追いかけてきた王子さまは、きらきらひかるガラスのくつをひろいあげました。
ぼわわわん。
かねが鳴りおわると同時に、ガラスのくつは大きな木ぐつにかわりました。
「それはこども用のボートですか?」
あまりにも大きなくつでしたので、とおりすがりの衛兵がそんなふうに王子さまにたずねたくらいです。
「ちがう。くつだ。このくつの持ち主ともっと話をしたいのだが……」
「うわ。とっても足の大きい男なんですね」
「男ではない。若いむすめだ」
「ええええええっそれはすごい。国じゅう探したって、一人いるかいないかでしょうね、そんなに足の大きいむすめは」
衛兵の言葉が、王子さまの胸に希望をうみました。


よく朝。
「おはようシンデレラ。留守番ありがとうね」
「お城のごちそう、少しだけ持ち帰ってきたわ。あたためたからおあがりなさいな」
「いらない。ねむいからまだねる」
そう言ってシンデレラがベッドにもぐりこむと、おかあさんもおねえさんも、みんなびっくりしました。
お城からの帰り、馬車と馬のまほうがとけてしまい、長い道のりを歩くことになったので、シンデレラはつかれきっていたのです。
「どうしちゃったのかしら。やっぱり留守番を怒っているのかしら」
「だからって、あの子がごはんを食べないなんておかしいわ。ほんとうにぐあいが悪いのよ」
「たいへんだわ。おいしゃさまをよんできましょう」
おねえさんたちは家の外に飛び出しましたが、あちこちに人だかりがあって思うようにすすめません。
「どうしてこんなに混み合っているんでしょうか?」
おねえさんが近くの人に声をかけました。
「お城の使いが来てるのさ。手掛かりをもとに、人探しをしているそうだよ」
わあっとかん声があがり、みごとな行列がやってくるんのが見えました。
けらいたちがうやうやしくビロードのクッションをささげもち、その上にはシンデレラの木ぐつがのせられています。
「ボートだ」
「ボートがなぜあんなばしょに?」
みなふしぎそうな顔でささやきあっていますが、おねえさんたちだけは、あれがボートではないことをわかっていました。


「たいへんよおかあさん」
おねえさんたちは慌てて家に引き返しました。
「お城の使いが、シンデレラを探しているの!」
「あんな大きなくつ、シンデレラ以外の人がはくはずないもの」
「だけどシンデレラは、ゆうべは留守番をしていたじゃないか」
おかあさんがそう言うと、おねえさんたちはかぶりをふりました。
「きっとごちそうがどうしても食べたくて、なんとかして忍び込んだのよ」
「だから具合が悪くなったのね。食べすぎたのよ」
「どうしようおかあさん、このままじゃシンデレラがつかまっちゃう!」
そんなことを話していると、玄関のとびらがノックされました。
「城からの使いだ、この家には、若いむすめがいるはずだが」
「はい、こちらに」
おねえさんたちは前にすすみでて、頭をさげました。
「ふーむ」
お城の使いは、おねえさんたちの小さな足をじろじろとながめました。
「おまえたちはちがうな。試すまでもない」
おかあさんがそっと席をはずしました。このすきにシンデレラを裏口から逃がしてあげようとおもったのです。そのことに気付いたおねえさんたちは、なんとか時間をかせごうとしました。
「なにを試すのですか?」
「あのくつをはいてもらおうと思ったのだ」
「まあ。大きくてとってもすてきな木ぐつですのね。わたくし、はいてみたいですわ」
「ずるいわおねえさま。わたくしだってはいてみたいわ」
おねえさんたちはうまく調子を合わせました。
「おまえたちの足では、あのくつはぶかぶかで、すぐに脱げてしまうだろうよ」
「そんなのわかりませんわ。試してみませんと」
おねえさんたちが靴下を何枚も重ねてはき、その上からさらに古布をぐるぐるとまきつけていると、とびらがばたんとあきました。
「人がねてるってのになんなのよさっきから。うるっさいわねえ」
シンデレラが現れ、その後ろでおかあさんが必死にシンデレラを引き戻そうとしているのが見えました。
「だれよあんたたち」
そう言ってにらみつけるシンデレラの足元をお城の使いはじっと見つめ、とつぜんがばりとひざまずきました。
「試してみるまでもない。わが君がお探しなのは、まちがいなくあなたです」
おかあさんもおねえさんも、びっくりして口もきけません。
こうしてシンデレラはお城に迎えられ、王子さまと結婚したのです。


王子さまとシンデレラのしあわせな生活は、ふたりが健康診断できびしい警告を受けるまでは順調でした。
なにごとも「食」の観点から考える国王夫婦は、農地・農作物の改良や開墾事業に力を入れ、軍事面でも兵站の研究を重要視しました。二人の政策は案外に評判がよく、王子さまは国民に「美食王」と呼ばれ、親しまれました。
健康診断でひっかかってからも、二人はめげませんでした。シンデレラはおいしくておなかいっぱいになれるヘルシーメニューを研究し、レシピ本を出版しました。もちろん、大ベストセラーになりました。
おねえさんたちはそれぞれ、働き者の職人と結婚しました。
シンデレラはときどき王子さまと一緒に、実家である仕立て屋を訪れましたので、おねえさんたちはすかさず「王室御用達」の看板をかかげ、店は以前にもまして流行るようになりました。
おかあさんは娘たちに店をゆずったあとも商売の勘は鈍ることがなく、年配女性向けの新ブランドを立ち上げたり、保育所事業を始めて地域の子持ち家庭を支援したりと、忙しくも充実した日々を送りました。
そんなふうにみんなは、末長く幸せに暮らしたそうです。
めでたし、めでたし。


教訓

  • 王子さまが素晴らしい男性に見えるとは限りません。
  • 気立てのよい働き者であれば、玉の輿になど乗らずとも、自分の才覚でそれなりに幸せになれたりするものです。
  • 世の中には優しくて立派な継母や継父も大勢います。血は繋がっているけれど、ダメな親もたくさんいます。血の繋がりは尊いものかもしれませんが、それだけを重視するのは誤りです。
  • どのような手段であれ、自分のお金を稼ぐ方法を持つのはよいことです。ささやかな自活手段がシンデレラのような幸運をあなたにもたらすことはなかったとしても、じゃがいもは確実に買えますし、じゃがバターを食すのは幸福になる一つの方法でもあります。





あとがき

六道輪廻スープに酔いしれろ!

私の節約術として一人暮らし時代に活躍していた「六道輪廻スープ」について書いてみます。


一人暮らしだと自炊って実はあまり安くない、というのはよく言われます。安さだけを追求するなら激安惣菜だの弁当だのを買ってきて食べる方が確かにお金はかかりません。
しかしそういう生活をしていると体をこわしたりしがちですから、医療費がかかって結局高くなる、という考え方もできるわけですよ。
健康的でおいしいものを比較的安く食べ、体を健康に保つというところに自炊の真の価値があるのです。
自炊するなら外食ではとりづらい野菜を食べましょうよ、いう話ですね。


しかし野菜をとれっていわれてもそれが難しいじゃない、肉や魚はただ焼けば食えるけどさ!
とか思う方にお勧めなのがこちらの六道輪廻スープでございます。

一日目

日曜日。目を覚ましたあなたは冷蔵庫の中身をチェックして、余った野菜を集めます。
サラダ作った残りのセロリとか。味噌汁作った残りの大根とか。パスタ作ったとき使いきれなかったブナシメジやエリンギとかね。
玉ねぎ、にんじん、キャベツあたりの安くて日持ちして使い道の多い野菜は、常備しておくとよろしいです。このあたりの野菜もちょっとずつ使いましょう。
ブナシメジを小分けにし、野菜は基本1cm角に切ります。エリンギやセロリは四角になりませんので、適当に小さくしてください。
ベーコンがあるとベストなんですけど、なかったらハムでもソーセージでもいいです。スープの具としてちょうどいいくらいの大きさに切ってください。
いろんな野菜があるから、切るとけっこうな量になるでしょう。
そしたら鍋を出して火にかけてオリーブオイルを熱し、これら具材を投じて、炒めましょう。


ちなみに私としてはここでぜひシャトルシェフの使用をおすすめしたいのです。しかも一人暮らし用としてはちょっと大きいかな、くらいのやつ。節約術って言ってるのに何高い調理器具すすめてんのコイツ、と思われるかもしれませんが、よく言われることですがシャトルシェフはガス代の節約にとてもよいので、イニシャルコストは高くついても、ランニングコストまで考慮に入れれば、かなり優秀なのです。我が家のシャトルシェフは既に使用開始から8年目に突入していながら未だキッチンのエースです。その間にフライパンは何度か代替わりしていることを考えますと、シャトルシェフ購入こそが長い目でみれば節約術であるとも言えます。
また、単身者用の賃貸物件は、しばしばコンロが一口しかなかったりするんですが、シャトルシェフで保温すればコンロが節約できるのもありがたい。


炒めた具材にだいたい油が回ったら、鍋の八分目くらいまで水を入れてください。しばらくすれば鍋の湯が湧きますね。
そしたら、シャトルシェフをコンロから下ろして、保温器に入れたらあとは放っておけばよろしい。
週末には週末の用事がありますよね、掃除するとか洗濯するとか散歩に行くとかゲームするとか図書館行くとか、二度寝したっていいですし、とにかく好きに過ごしてください。
余り野菜を片づけて冷蔵庫が空になったわけですから、スーパーに買い物もいいですね。一週間分の食材を買ってきて冷蔵庫につめると、とても充実した気持ちになれますので。
ただし、冷蔵庫の中に鍋一つ分の隙間は開けておいてください。


あとはまあ、夕食の支度をするときに保温器から鍋を取り出して再び火にかけ、気になるならアクをとって、塩コショウで味を調えて、できあがり。
コンソメすら入っていないとか味だいじょうぶかよ、と思われるかもしれませんが、低温で長時間煮込まれているので、野菜の旨みがしっかり引き出されて、ちゃんと美味しいスープになっています。不安な方はコンソメキューブ入れたっていいですけど。


こちらは「ズッパ・ディ・ヴェルドゥーラ」といいまして、れっきとしたイタリア料理でございます。伊丹十三先生がそうおっしゃっていました。
なので、料理で見栄を張ってみたい方は週明け、
「日曜の夕食はイタリアンにしてみたよ。ひさびさにズッパ・ディ・ヴェルドゥーラを作ったんだ」
などと言ってみるのはいかがでしょう。一個も嘘ついてませんから。
まあとにかく一日目の夜はこのシンプルなズッパ・ディ・ヴェルドゥーラで、野菜の滋味をしみじみと味わいましょう。パルメザンチーズをたっぷり振っていただくのも美味です。
それにしてもシャトルシェフで作ったスープって、野菜の火の通り具合が絶妙なんですよね、特ににんじん。にんじんのアルデンテみたいな、じゅうぶん柔らかいけれどぐずぐずには決してならず、どこか凛とした歯ごたえをうっすらと残す、あのかんじ。これはガスコンロだといくら弱火じっくりをキープしてもなかなか難しいよなー、と私は思っていまして、ここでまたシャトルシェフステマですよ。一銭ももらっていないですけど。


二日目

月曜日。帰ってきたあなたは週初めの疲れで、ごはん作るのが面倒だったりします。
そういうとき、昨日作ったスープがまだあるから汁ものは作らなくていい、という事実は電球のようにあなたの心をあかるく照らすでしょう。
ただあたためなおすのではなく、スープにちょっとカレー粉を入れてみましょう。彩りにパセリなどをふってみるのも吉。
たったこれだけで昨日のスープはカレー風味に生まれ変わり、あなたを別な角度から楽しませてくれます。

三日目

火曜日。思えばこれまでの二日間、あなたが口にしてきたスープはわりあい淡白な味のものでした。
この辺りでちょっとがつんといきましょうか。特売で購入した一缶78円のトマト缶を温めなおした野菜スープに投入して、ミネストローネにするのです。
トマトスープとかトマトソースとか、トマト系の料理には、塩コショウ以外にカレー粉をはらはらと落とすと、味の奥行きがぐっと増します。
というわけで昨日投入されていたカレー粉は、ニューカマーたるトマトの水煮缶と相性が非常によろしいのです。カレー粉とトマト缶のハーモニーを味わいながら、恋人たちをひきあわせたキューピッド役の気持ちになりましょう。
トマト投入のおかげでリコピンも摂取できますから、いろんな意味で
「今日の私はいいことをした……!」
と思えるはずです。


四日目

水曜日。一人暮らしをしてると炊いたごはんというのは何かと余りがち。多めに炊いて余ったら小分け冷凍していたりするかと思うんですが、今日はその冷凍ごはん一人前を電子レンジで解凍しましょう。
ミネストローネをあたためたら一部とりわけ、その中に解凍ごはんを投入して少し煮込み、簡単リゾットのできあがり。お好みで牛乳、チーズ等をくわえてお召し上がりください。
リゾットにすると小さめの冷凍ごはんでもじゅうぶんな量なるのがありがたいです。炭水化物を減らしてダイエットにもお財布にも優しいのでした。
とかいいつつ、ここで生クリームを使ってみると濃厚な味わいが楽しめますが、途端にダイエットからも節約からも離れますのでご注意ください。生クリームというのは本当にいろいろと罪深くて魔性ですね。リゾットをすすりながら「ふぅ〜じこちゅわぁ〜ん」とか呟いてみたくなります。

五日目

木曜日。あと一日がんばればもう週末じゃん、という思いはあなたに調理への意欲を湧きたたせます。
というわけで本日はカレーの日。残ったミネストローネにカレールーをわりいれ、水分その他を適当に調節してください。トマトたっぷりカレー、と表現するとまったく残り物感がなくてグッドです。
カレーが残ったら冷凍したいけど、ジャガイモ入れるとまずくなる、でもジャガイモ食べたいし、と悩んでいるあなたのために、私が一計を案じました。
バター(半量をマーガリンにすると節約気分)を溶かしたフライパンに薄くスライスしたジャガイモを並べて両面を焼き、これをカレーにトッピングして食べるのです。
もともとスープに入っていた具材は小さめで、ごろごろ野菜カレーを食べたいあなたにとっては、物足りないものでした。
焼きスライス野菜トッピング形式が、そんなあなたの不満を解消します。
かぼちゃ、なす、ピーマンなど、お好きな野菜をトッピングしてみましょう。

六日目

金曜日。週末を控えてすっかりご機嫌なあなたは、鼻歌交じりに冷凍ご飯を解凍し、耐熱皿に敷き詰めます。
ごはんの上に残りカレーをのせ、卵なんか割入れてみたあと、ピザ用チーズをたっぷり散らして、オーブンにイン。
焼き上がればもちろんカレードリアです。
繰り返された輪廻転生もひとまずはここで打ち止め、残りスープという名の業は食べつくされましたので、七日目の土曜日は、たっぷりある時間で好きなものを好きなように食べるといいんじゃないでしょうか。

というわけで

野菜スープリメイクなんてよくある話じゃねーか、なに六道輪廻とかご大層な名前つけちゃってんだよバカかオメーは。
とお思いの方。
あなたは正しい。ほんとすみません、私、いろんなものの邪気眼ネームとか考えるのが好きなんです。ごめんなさい。
しかしこういう大仰ネーミング制を採用しますと、野菜スープを大量に作ってえんえんと目先を変え続ける作業も、
「ばかな、コード128? これでは次代の転生サイクルに狂いが生じてしまう……やむをえん。オペレーション・ホワイトアウトを発動する!」
(翻訳「トマト缶128円は高いなー。ミネストローネやめて、ミルクスープにしよっかなー」の意)
などと呟くと楽しいんです。バカでよかったと思う瞬間です。


ちなみに上記のローテーションは、転生パターンのほんの一部でありまして、他にもいろんなパターンが考えられます。

  • ミネストローネの翌日は、ごはんの代わりにスパゲティを投入して野菜スープパスタ。
  • カレーコンソメの翌日、トマト缶の代わりに牛乳を投入してミルクスープに。リゾットやパスタ経由後は、ホワイトシチューのルーを入れてもよし、カレールーでもよし。
  • ミネストローネにカレールーの代わりにハヤシライスのルーを入れる。牛肉が入っていないとハヤシじゃない、とお考えの方は、牛薄切り肉を買ってきて別途ソテーして添えるとよいと思います。
  • ホワイトシチューもグラタンやドリアに転生させることができますね。
  • ミネストローネにひき肉を合わせて炒めて水分を飛ばし、パスタと合わせるとけっこうボロネーゼ風です。

ごはんで遊ぶなと叱られるかもしれませんが、私には「ライオンハートごっこ」と呼んでいる楽しみもありまして、六道輪廻スープ以外のおかずも、並行して転生させてみたりするわけです。
たとえばカレー野菜スープのときのメインおかずを肉じゃがにして、翌日和風カレーに変じた元肉じゃがを転生したミネストローネと一緒に食することで、
「また会えましたね」
「そんなまさか……あなたは!」
「約束したでしょう、生まれ変わってもまた見つけ出すって」
「嬉しい! このまま一緒に溶け合ってしまえたら!」
とかいう会話が自分の胃袋の中で繰り広げられている様子を想像してみるのもいいですよって、……えええ、ちょっとまって何その目つき、ひいてるよね、私に対して今ひいてるよね?

まとめ

だんだん自分でも何を言っているんだかわからなくなってきましたが、とりあえず今回は以下の記事を参考に書かせて頂きました。
一人暮らしでカレーを作るべきではない理由。 - 貧乏人は麦を食え。年収200万円時代を生きる方法-bobcoffeeの麦食指南


いやいや一人暮らしだからこそカレーで節約ってのはある話だよ、と思ったので書いてみたのです。
肉じゃがでもマーボー豆腐でも野菜スープでもポトフでも、最終的に味と水分調節してカレールーぶちこんでしまえば、なんかそれなりに落ち着くところがカレーの懐の深さ、好きな男の腕の中でもそんなカレーの夢を見ちゃうの、ということが書きたかったのでした。
というわけで、元エントリのその後の記事に対してもちょっとだけ反論いたします。


「時間もお金同様に重要」
「大事な時間を必ずしも優先度の高くないもの(代替物がある)を作るために割くのですか」
「ジャガイモと人参を入れた場合、出来上がるまでに火にかけてから30分は掛かります。」
「一皿分を作るのにそれだけの時間を掛けますか?」


というお話がありましたが、確かにまあカレーだけで考えるとそうかもしれないんですが、「六道輪廻スープ」方式のお得な点としましては、時間がかかる煮込み部分を初日に済ませてしまうので、それ以外の日は調理時間が大幅に短縮されてラク、というのがあげられます。
そしてまた、煮込みの間中ガスコンロの横にいるのは無駄とお思いかもしれないのですが、そこでシャトルシェフを使えば、コンロの横にいる時間もぐっと短くなるわけですから、金と時間、双方の面でお得とも言えます。
時間の節約の観点から推奨されている炊飯器カレーですが、それがたいへんによろしきものであることを認めた上で、シャトルシェフ調理は電気代不要でガス代もちょっとだから更にお得でございます、と更に言い募る私はほんとなんなんでしょう、シャトルシェフの血でも引いてるんでしょうか。


まあシャトルシェフは夏場に使うと腐りやすいとか言いますけどね……六道輪廻スープも一日一回は加熱するとはいえ、六日間の使いまわしですから、衛生管理に気を付けるのは絶対の条件ですね。夏場は避けた方がよろしいかも。同時に、私は六道輪廻スープでお腹壊したことはないというのも、シャトルシェフとカレーの名誉のために一応言っておきます。


ここまできたらシャトルシェフ愛ついでに言っておきますけれど、やっすい豚ブロックや、やっすい牛筋を買ってきて、寝る前にシャトルシェフにぶちこんでお湯わかして保温器に突っ込んで、朝起きたらもう一回わかして保温器につっこんで、とやれば帰宅する頃にはどちらもトロトロ柔らか、実にいい具合に煮えててシャトルシェフ先生マジ幸せの伝道師、と実感できます。
私はこの煮込みはどちらもあえて平日の作成をおすすめしたいのです。
ああ仕事だるいわだるいわ帰りたいわ、と思った時には、キッチンの片隅でけなげに働くシャトルシェフ先生のお姿を思い浮かべてみるのです。
ああ私がこうしている間にも鍋の中でちょっとずつやわらかになっていくのね、と思い描く肉の塊ほど、働く善男善女の足取りをはずませるものはないと、私そのように信じております。


私の節約術「セツヤクエスト

消えた女の子

私が子供の頃住んでいたのはたいそうな田舎だったのですが、その中でも我が家は更に辺鄙な場所にありました。
幼稚園に入るまで、妹と私はお互いだけが遊び相手でした。我が家の半径3km以内には、他に子供がいなかったからです。
そのせいでしょうか。
幼稚園に入ってすぐに私は、自分の対人スキルが同年代の子と比べて大幅に劣っていることに気付きました。
遊びの仲間に入れない。
たまに入れてもらってもどんくさくて、みんなをイライラさせてしまう。
遠いとおい昔のことなのに、入園当時にあったいろんな出来事を、私は今でも思い出せます。
それだけ毎日緊張して過ごしていたのでしょう。


自分が他の子供と上手く遊べないことに気付いた私は、自分の何がそれほどまでに駄目なのか、いっぱい考えるようになりました。
かなしくて苦しかったですが、ぎゃんぎゃん泣きながらお母さんに引きずられて幼稚園にやってくる子が他にいたりしたので、自分だけがつらいわけじゃないんだと思い、少し慰められました。あの子の方が辛そうだから、私はまだ我慢できるし我慢しなくちゃな、とぼんやり思った記憶があります。
一人で座って他の子供たちが遊んでいる様子をずっと見ていたのを覚えています。輪の中にいるときのほうが緊張するので、退屈だけど安心な気持ちでした。
時々リーダー格のエビナ(仮名)ちゃんがちらりと私のほうを見て、ばかにしたように笑ったり、悪口を言ったりするので、それがとても嫌でした。
お母さんに悪い、というのを一番強く感じました。うちのお母さんはとてもいいお母さんなのに、私がバカなせいでお母さんまでバカにされたらすごくひどい。私はもっとおりこうになってみんなと遊べるようにならないといけない。そういう決意を固めました。
私はそれから、周りの子供のやりとりをなるべく一生懸命見て、真似をするようになりました。無数のトライアンドエラーを繰り返し、遊びに入れる回数がじわじわと増え始めたあたりで私は、みんなができることができない子はすごくバカにされることと、逆にお絵かきやかけっこなどがすごくできる子は尊敬を集め、できない子がやったら許されないことも許される場合があることを学びました。こんなに初歩的なことをそれまで理解していなかったのが恐ろしいですが、遅くとも身に着かぬよりはマシというものです。
秀でることで許される道はとても魅力的でしたが、私は不器用で足が遅いので、早々に諦めました。無難を目指す道だけが残されましたので、私は親に頼んで字を教えてもらうことにしました。
四歳当時の私は、字の読み書きがまったくできませんでした。そして幼稚園にいた他の子たちは全員が既に、ひらがなとカタカナを読める状態でした。
早く字が読めるようにならないともっと仲間外れにされると、私は子供なりの危機感を抱いたのです。
娘が自分から字を習いたがったので両親は喜び、さっそく教えてくれました。


その日、またエビナちゃんは女の子を集めていました。体が大きくて力が強いエビナちゃんが、女の子たちが何をして遊ぶかをいつもぜんぶ決めていたのです。
エビナちゃんはクレヨンの箱を開け、中のクレヨンを並び替えて、みなに見せました。みなそれを見て何か言い、それから他の子もクレヨンを並び替えました。エビナちゃんはその並びを見てうなずき、ほめました。
私はそれをちょっと離れた場所から見ていました。
どうやらクレヨンをどの順番に並べると綺麗に見えるか競っているらしいと、私は推測しました。
どうしてあの子たちはそういうことがわかるんだろうと、私は泣きたくなりました。どうすれば速く走れるか、綺麗に色が塗れるか、かわいいお姫様の絵が描けるか、私以外のみんなは知っているみたいなのに、私だけが知らない。
クレヨンをどんな順番に並べれば綺麗なのかなんて、私には全然わからない。そういうことがわからないと、あの輪の中には入れないのに。
なんで私だけがこんなにものすごくバカで、わからないことばっかりなんだろう。
私はのろのろと自分のクレヨンの箱を開けました。とにかく適当にクレヨンを並び替えて、エビナちゃんのところに持っていこう。もしかしたら偶然すごくいい並びになって、一緒に遊んでもらえるかもしれないし。そんな風にはかない望みをかけたのです。
それから私はなんとなく箱のふた裏を見て、すごいことに気付きました。
クレヨンの並べ方が書いてある!
色の名前が順番に並んでる。もしかしてみんな、これを見てクレヨンを並べたのかもしれない。だから私にはどうすればいいかわからなかったんだきっと。今までは字が読めなかったから


私ははりきってクレヨンを並べ替えました。ふたに書かれている順番通りであることを示すために、クレヨンの胴体部分に書いてある「あか」とか「ちゃいろ」とか「みずいろ」などの文字が、きちんと読みやすく上に向くようにしました。
それから私は、にこにこしながらクレヨンの箱をエビナちゃんに見せました。
エビナちゃんはちょっと驚いた顔をしたあと、にこっと笑いました。
「いっしょに描く?」
エビナちゃんが場所を開けて私をお絵かきに誘い、その日から私は、遊び仲間として受け入れてもらえるようになりました。
驚いたことにその後、エビナちゃんと私はけっこうな仲良しになりました。母親同士も気が合ったので家族ぐるみの付き合いが始まり、何度か一緒に旅行に行ったりもしました。


みんなが当たり前にわかることがわからないバカな自分、という感覚は相変わらずありましたが(大人になった今でもあります)、私はだんだん、そのことが気にならなくなりました。
バカでも物知らずでもいいんです。世の中には賢くて物知りな人がいっぱいいて、おかげで役に立つ本がいっぱいあるんですから。
私のような子供は、そういう本を探して読めばいいんです。そうすれば輪の中に入っても、なんとかやっていけるのです。
私は、本が好きな子供になりました。


これが私の幼稚園暗黒時代の記憶です。
本当にずうっと大昔のことなのに、驚くほど細かく、いろんなことを覚えています。
母が広告の裏に升目を書いて、お手本になる五十音を書いてくれたのを覚えています。
その間に父が別の広告の裏に升目を作り、私はそこで字の練習をしました。その紙が黄色かったことを覚えていますし、広告がなくなったら父がわら半紙を出してきたことも思い出せます。
何回も間違えて悔しくて、カーペットに涙を落としたことも、そのカーペットがグレーで、四角い模様が入っていたことも、忘れていません
これからは一人で読めるんだと気がついて、本棚から絵本をひっぱり出したときの記憶は、特に鮮明です。
選んだのは、おじいさんが落とした手袋にいろんな動物がやってくるお話。
筋は知っていてもあらためて自分で読むと何もかもが違って感じられて、胸がいっぱいになりました。


さて。
私の記憶はこんな風にまるで昨日のことのように何もかも克明できっちりしているのに、実はすさまじく狂っているのです。
中学生のときのことです。私はエビナちゃんの家で、一緒にテスト勉強をしていました。
エビナちゃんのお母さんが、途中で私たちをリビングに呼んでおやつを出し、
「エビナもケイキちゃんも、見てごらんなさい。さっき片づけしてたら出てきたの」
と言って写真の束を広げました。
「幼稚園の頃の写真じゃん」
「なつかしー」
勉強に飽きていた私たちは、はしゃぎながら写真をめくり始めました。
「あれ?」
知らない女の子が、エビナちゃんの横に立っています。
(親戚か誰かと一緒に撮ったのかなあ)
私は更に写真をめくりました。また同じ女の子が出てきました。次の写真にも、その次の写真にも。
そこで私は、その女の子の服装が変わっていることに気付きました。
(同じ日にまとめて撮ったわけじゃない……この子は何日も何ヶ月も、ここの地域にいたんだ)
なんとなく嫌なもやもやが胸の中でふくらんだような気がして私は、エビナちゃんに訊きました。
「これ誰?」
「何言ってんの、マヤト(仮名)ちゃんでしょ?」
(全然知らない名前だ……なんで知ってて当然みたいな雰囲気……)
私が茫然としていると、エビナちゃんがびっくりした顔をしました。。
「えっ、シロイ本気で言ってるの? マヤトちゃんだよ? 忘れるとかありえないよね?」
「あの子の印象はけっこう強烈よねえ」
目を細めながらエビナちゃんママが語るところによると、マヤトちゃんというのは私と同い年の女の子で、体が大きくてとても気が強く、いつもみんなを取り仕切ってリーダーを務めていたそうなのです。マヤトちゃんにはちょっと意地が悪いようなところもあって、気に入らない子は容赦なくいじめるので、泣かされた子も多かったとか。
「それってあの……エビナちゃんのことですよね?」
失礼だとは思ったのですが、私は我慢できずにそう言ってしまいました。
「エビナちゃんは足が速くて、お絵描きも工作も上手で、だからいつもリーダーだったじゃないですか。みんなエビナちゃんの言うこと、聞いてましたよね?」
エビナ母子はきょとんとした顔をしました。
「ケイキちゃん、なにか勘違いしてない? 幼稚園の頃のエビナは体が小さいし、気も弱くて。よくいじめられていたでしょ?」
「えっ」
「泣きながら『マヤトちゃんがこわい、いじめられる』って、幼稚園行くの嫌がってね。雨の日は特にぐずったなあ。わんわん泣くエビナを、ほとんど引きずって連れてったよね。よその子やお母さんに見られるのが、恥ずかしかった。覚えてない?」
「覚えて……ます……」


白いレインコートの女の子の手を、傘を差した大人がぐいぐいとひっぱっています。女の子はやだやだと首を振り、足をふみならします。勢いの良い雨が白くけぶってあたりは妙にあかるく、その中で揺れるレインコートが白くて大きなあぶくみたいに見えたのを、私は唐突に思い出しました。
「かわいそうだね」
誰かが小声で囁きました。
「しょうがないよ」
他の誰かがもっと小さな声で囁き返しました。
それから彼女たちはちらりと横を見ると、さっと口をつぐみました。ぼーっと雨を見ていた私も慌てて口を閉じ、視線を床に落としました。
おゆうぎ室に、ゆうゆうとエビナちゃんが入ってきました。
(あれ……?)
窓の外、レインコートの女の子が、ようやく昇降口に辿り着きました。
「それじゃあよろしくお願いします」
そう言ってお母さんが背を向け、歩き始めた途端、女の子は火がついたように泣き叫びまます。
「いやだああああ」
「たすけてえええ、おかあさん、たすけてえええ」
「いやなのおお、いやなのお」
「こわいのおおお、おかあさん、こわいのよ、こわいのにい」
先生が女の子のレインコートに手を伸ばし、するりとフードが落ちました。
(こっちの顔も、エビナちゃんだ……)


私は自分の記憶を、丹念に確認しました。
確かにエビナちゃんママの言う通りです。雨が降るたびわんわんと泣き叫び、引きずられてきていたのは、エビナちゃんです。彼女の白いレインコートと赤い長靴を、私はしっかりと思いだすことが出来ました。
(だけどおゆうぎ室にもエビナちゃんいたぞ……)
みんながエビナちゃんの周りに駆け寄って、だけど私は自分もその中にまざっていいかわからなくておろおろして、それを見たエビナちゃんが唇のはしをきゅーっとつり上げて笑って。
先生にレインコートを脱がしてもらったエビナちゃんが、しゃくりあげながらおゆうぎ室に入ってきます。
(あ、ちがう)
私はそこでエビナちゃんが笑ったのは、私を見たからではないことに気付きました。
怯えきって泣くエビナちゃんの様子が面白かったから、あの子は笑ったのです。


「もしかして、私のこと仲間外れにしてたのもマヤトちゃん?」
「そうそう。なんだ、覚えてるんじゃない。マヤトちゃん、怖かったよねえ」
「いや、覚えてはいないんだけど……」
ここまでくれば、事態は明白です。
私がエビナちゃんだと思い込んでいたリーダー格の女の子は、実はマヤトちゃんだったのです。
どの場面を思い返してもやっぱり、輪の真ん中に立つリーダーはエビナちゃんの顔をしていて、写真の中の知らない女の子とは、全く結びつきません。
やられたことや言われたことは思い出せるのに、当人の顔と名前が思い出せないなんて。
「マヤトちゃん、途中でお引っ越ししちゃったものね。忘れてもおかしくないんじゃない? ケイキちゃんがマヤトちゃんと一緒だったのって、数ヶ月だけでしょう」
「あ、そっか。家が近いから、あたしは幼稚園に入る前からマヤトちゃんと遊んだりしてたもんなあ。だから覚えてるのか。そうだよねー、幼稚園のことなんて、忘れちゃうよね。ずっと昔だもん」
「いや、昔だから忘れちゃったわけではないような……」
幼稚園に入ってからの数ヵ月は、私の平凡な人生の中でもちょっとした暗黒時代で、毎日とても緊張していて、だから昔のことでも些細なことでも、本当にはっきりと覚えているんです。
初めて会ったとき、エビナちゃんママがグレーの細い毛糸で編んだセーターを着てたことだって、覚えてるんです。
エビナちゃんの赤い長靴にピンクのいちごの絵がついていたことも、思い出せるんです。
マヤトちゃんのこと以外は、ぜんぶ。


帰宅してから私は、どうして自分がマヤトちゃんのことを忘れてしまったのか、中学生なりに考えてみました。
わずか数ヵ月でいなくなったから忘れたというのは、ありそうなことではあります。私の記憶がどれほど克明であるとしても、未発達な幼児の脳を使っていたことに変わりはありません。安定した大人の脳なら到底起こらないような不可思議なことも、幼児の脳なら可能なのかもしれません。
「マヤトちゃんをエビナちゃんだと勘違いした理由も気になるけど」
マヤトちゃんがいなくなった後、リーダーになったのがエビナちゃんだったからだろうと、私は推測しました。
園児だった頃の私は、自覚以上にいろいろ拙くて、物事をわきまえられなかったのでしょう。人を役割でとらえ、個体差をしっかり認識できなかったのかもしれません。
ゆえに私はリーダーの交代劇を一人の人物の変遷と誤認し、そのまま記憶が定着した。
「だとしたら私、バカすぎる気もするけど……」
バカな子供だったからこそ、そういうことが起きたのかもしれません。


「ちょっとショック……」
私にとって幼稚園暗黒時代の記憶は、実は悪いものではなかったのです。つらいことかなしいことはたくさんあったけれども、エビナちゃんに認めてもらえたのは嬉しくて、それも大人に強制されたのではなくて、自分で考えてやったことで道が開けたというのは、思い出す度誇らしい気持ちになれるのでした。
だから「成功体験」という言葉から私が真っ先に思い出すのは、クレヨンの日のことなのです。この気持ちが今後も自分を支えてくれるだろうと、人生で最初に感じたのは、あの日だったのですから。
信じれば願いがかなうなんて、あまりにも甘っちょろいセリフですけれども、だけどあの時私が感じたのは、まさにそういう気持ちでした。
「あの気持ちはなんだったんだ……世はすべてこともなしっていう、すごく平和で満ち足りた気持ちになったっていうのに……あれがきっかけで本が好きになったのに」
私は寂しくなってしまいました。


「いやーどうかなそれ、別の可能性あるんじゃないかな」
私の話をきいた妹のサイキ(仮名)が、そんなことを言い出しました。
「どゆこと?」
「たぶんお姉ちゃん、そのマヤトちゃんとやらが、だいっきらいだったんだよね」
「まあそうかも。好きではなかったよねきっと」
「だからさ、消しちゃったんじゃないの?」
「なにそれゴルゴ? 無茶言うなよ」
「いやそういう物理的なことじゃなくてさ。存在を認めたくなくて、覚えようともしなかったんじゃないの。だから記憶からも消えちゃった」
「えー。忘れたってのはわかるけど、覚えようともしなかったてのは何さ」
「だってさ、わたしも子供だったから覚えてないだけかもしれないけど、お姉ちゃんがマヤトちゃんて子の話をしてるの、聞いたことないよ」
「……え?」
「写真だってないじゃん。エビナちゃんの家にはあったんでしょ写真。なのにうちのアルバムには、その子の写真、一枚もない。入園式の写真とか、写っていてもよさそうなのに」
「そういえば、ないね。あれ、どうしてだろ。なんでないんだろ?」
「だから、お姉ちゃんが消したんだよ。だいきらいなマヤトちゃんの写真は、こっそりアルバムからはがして、捨てちゃったの。そんでマヤトちゃんの話は、家族の前では絶対にしなかったの。幼稚園で無視されてたんでしょお姉ちゃん? 無視って存在の否定だよね。だからお姉ちゃんは自分なりにやり返そうとして、マヤトちゃんの存在を徹底的に否定したわけ」
ぞくっとしました。
「これ、簡単に確かめられるよ。お母さーん」
妹がふすまを開けて、母を呼びました。
「マヤトちゃんて覚えてる? お姉ちゃんの同学年で、幼稚園の時いた子?」
母の答えは、否でした。その後妹は父にも同じ質問をしましたが、やはり答えは否。
二人ともそんな子供のことは覚えていないし、私がその子の話をしたこともなかった気がすると、言ったのです。
「昔のことだからはっきりは覚えてないけど」
母が首をかしげました。
「エビナちゃんの話ならしてたけどねえ。エビナちゃんは足が速い、エビナちゃんはお絵描きがじょうずって、毎日言ってたのは覚えてるわねえ」


ぐらっと、足元が揺れたような気がしました。
確かに私も覚えているのです。自分が毎日エビナちゃんの話をしていたことを。
けれどそれは記憶違いなのだと思っていました。自分はマヤトちゃんとエビナちゃんを、ごっちゃにしてしまっていたのだと。
ですが母の言葉が正しいとすれば、私はまだマヤトちゃんが引っ越す前からずっと、彼女の存在を無視して、あてつけるように他の子供の話をしていたことになります。
「おまじないみたいだね」
妹が言いました。
「エビナちゃんの話をいっぱいして、マヤトちゃんのことを塗りつぶそうとしたんだね。そうやって、毎日まいにち、マヤトちゃんを消そうとして、そしたらその相手が本当に引っ越して、いなくなっちゃった。ただの偶然だけどさ、おまじないで願いがかなったみたいだよねまるで」
「おまじないっていうか、呪いじゃんそれ。消えるとか」
「そんなの、漢字で書けばどっちも同じだし」
「幼稚園児が呪うとか。なんかやだなあ」
「えー関係ないよ。子供の心が清らかとか、嘘じゃん。現にマヤトちゃんだって意地悪だったわけでー。よかったねお姉ちゃん。たった数ヶ月で引っ越してくれるなんて、おまじない大成功じゃん」


成功。
その言葉から私が思い出すのは、クレヨンの日のこと。
お絵描きに誘われたときの晴々とした、もう大丈夫なんだという気持ち。
ああよかった、がんばった甲斐があった、信じれば願いはかなうのかもしれないという、すがすがしいあの気持ち。
一体私は何を願って、かなえられたと思ったのでしょう?


私は今でも、本が好きです。
おまじないは、あまり好きではありません。馬鹿げているとか、信じられないとか、そういう理由で好まないのではなく。
「願い事をするときは心せよ。叶えられてしまうやもしれぬ」
何かの本で読んだフレーズが、頭の中でちらついてしまうからです。

打ち合わせ中の睡魔対策

皆様にお伺いしたいのですが、打ち合わせの最中に睡魔に襲われた時など、どのような対策をとっているのですか?
緊張感が足りないという批判に対してはまったくそのとおりですねと同意しますし、そうです私がダメ人間ですと付け加えたいくらいなのですが、体調とか風邪とかなんかいろいろ重なって耐えられない眠気が生じるときってあると思うんですよ人によっては。
私は対策として大量にメモをとることにしていまして、手を動かすってやはり効く気がします。これやると真面目そうに見えるんじゃないかなという期待もあったりします。
先日、ある打ち合わせが終わった後、
「いつも思うんですけどシロイさんてすごいメモとってますよね。ちょっとわからなかったところがあるんで、あとで見せてもらってもいいですか?」
と無邪気に尋ねられました。


私のメモは基本的には打ち合わせの内容を細かく書いたものです。とにかくずらずらと話されたことを書きまくる方式です。これだけだとすごく無害ぽいんですが、ただ私、必要なメモを全部とっても眠気が去らないときはとりあえずどんな内容でもいいから余白に何かを書くことに決めているんです。それが一番眠くならないことに気付いたので。
だから仕方ないんです。どんなに酷い内容が余白に書かれているとしても、余白メモのほうが本文メモより多いとしても、それは私が仕事をこなすために必要だから書いたメモなんです。わかってほしい。わかってもらえますよね?。
でもこのメモを他人に見せたら、いくらそういうやむにやまれぬ理由があっても、私の社会人としての立場が、マジでうしなわれてしまう気がするんですよね。気のせいかな?
というわけでもう一度自分の残したメモを読み返してみました。

○月×日の打ち合わせメモ

Sさん。
デザイナ!ヒゲメガネ。自由ぽさ。

Hさん。
自由ヘア。オサレ。メガネなし。デザイナー。


Uさん
30代ボサナチュヘア
まゆ太赤黒
結婚指輪とみせてあの指輪には毒針が(願望)


Tさん
若いメガネない。飛石連休の藤井ににてる。

初めて顔合わせをする人が4人いたので、彼らの顔と名前を覚えるため印象などを書いたメモです。
私がこのとき使った「自由」は「堅気っぽくないけどやくざぽくもない」くらいの意味だと思ってください。カタカナ商売とか文化人とか、そういうかんじの雰囲気をさして「自由」と言っています。たぶん。



顔を覚えるため書いたメモ続き。

デザイナ2人は「デザイナ!」感あるつーか、オサレ感あるよね。「オシャレなぼくであることも仕事です」(キリッ)
HさんよりSさんに好感。
Hさんのオサレ感は強い。きっと非オサレへの見下しも強いだろう(偏見)。
Sさんはいい人そう。いわばホワイトオサレ。見下しはするけどわずかなレベルとみた。
「さあ出かけよう、オシャレども殺りにさ」Hさんはためらなく殺るが、Sさんは三秒ためらってから殺る。そのくらい差あり。
にしても2人ともヒゲ。ヒゲ=オサレですか?
屈強な男性のいない会社なのだなあ。うちにもいないけど。まあホワイトカラーなのにどの会社いけば屈強な男が揃うんだよつー話か。にしたってみんなインドア色白ヒューマンじゃないの。WWEなら瞬殺よ? まあホワイトカラーでどの会社いけばWWEで瞬殺されない人材がいるんだよつー話か。でもシェイマスはITやってた。だからきっと日本のどこかに。色白インドア屈強マンが。いなくてもいいや。
あっでもUさんは屈強そうだよね今気づいた。日焼けしてねえ? 休日にはフットサルか? 草野球か? カラリパヤットか?

Tさんはお笑い芸人で似ている人を見つけた安心感から顔を忘れずに済むと安心した模様。他の三人の印象だけをまとめています。Hさんに対する敵愾心の強さは我ながら謎です。



睡魔に襲われ始めたあたりから、余白の書き込みが増えていきます。

眠い。眠いから帰りたい。家に帰りたい。ブンブンブン。文文。
井の中のカエルfrog ビーリビリうなぎ
極限までくずし字。極限までくずし字。極

この後しばらく解読不能なぐにゃぐにゃが続きます。どうやら同じフレーズを字をくずしながら繰り返し書いてるようです。

潮騒のメモリーモリー火を飛び越えてやけどしたら眠けさめるかな
ヤバイヤバイ超ヤバイ。みんなこんな時どうしてんの。なるべくそっと外に出るとか。みんなの眠さ対策を知りたい(切実)。つーかさ、どうしてみんなそんなもっともらしい顔できるの。
PCていいな。ぜったいみんなPCで眠気たいさくしてる。

相手方が全員ノートPC持参だったのを羨ましく思った様子です。

ティッシュ持ち歩きたい。
頭イタイ。冷房か? さいしょは暑かったけどだんだん冷風が
クールビズの社会。みなノージャケット。だが4人中ノーネクタイは2人のみ。デザイナはそりゃネクタイとかファックだよね。カジュアルにドレストダウンしてサラリマン社会に反骨心アピールだよね。Hさんはたてストライプボタンダウンシャツで自由オサレ感を強調だ! でも裸ネクタイのほうがノーネクタイよりずっと反骨心アピールできると思うんだ。吉良、フーゴ、恥知らないパープルヘイズらない。

またしてもHさんに対してほのかな敵愾心が垣間見えます。何も悪いことしてないのに。気の毒な。
この頃になると眠気がピーク。メモをとっていても眠いとき私は、打ち合わせの場所に自分と同じように眠気と戦っている仲間がいないか探して安心感を得ようとする習性があります。

SさんとUさんは眠いと見たが、飛石連休藤井もといTさんはさっきねかけてたはず。がくんとなったのをオイラみた安心した。なんだよオイラって。その一人称はゆるせねえ。
Tさんがログイン名とpwを失念するプレイを繰り出してオモロー。オモローて古いな。あ入れた。はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた。
Hさんが帰った。次の打ち合わせにいくとか。多忙やね。慌ただしい日々の中、心うしなうな!←余計なお世話。
眠気対策にむちゅうになりすぎで余白が足りないかも。ヤバイ。牛乳アイスくいてー。

余白の書き込みが途切れました。反省して、普通のメモのみをとることに集中している様子がうかがえます。

またねむくなてきた。ヤバイ。まじめにすると眠くなる。今ねむい。耳かゆい。

わりとすばやく力尽きたようです。まじめにすると眠くなるって、社会人としてジエンド感が半端ないよ自分……

Uさんも帰ったー! まさに最も屈強そうな人が。どうするんだテロリストに襲われたら。コックに襲われたら。コックとテロリストが戦いあえばいい。ぼくらはみな戦士じゃないからね。色白スキンが語るインドア派ぶり。
今ふと思った。はてなーってインドア派多数なイメージ。この部屋の中にはてなーいないよね?

以前知人と話していたら「彼氏がブログやってて」と言いだし、よくよくきいたらはてなの某有名ブログだったことがあっったんですが、適当にごまかしながら、
はてなってよくしらないなー。しいていえばホワイトケーキとかいうブログを一回読んだかなあ」
と言ってみたら、
「あ、彼氏もそのブログ読んでた」
とか言われてなんかもうすごい真夏のホラー感あったんですよね。そんなことを不意に思い出したんですよこの時。


アブネー。アブネー。はてなーはどこにいる? まずいない? それは油断?
バレるな隠せ。おれはハテナなんてしらねーと言え。ひらがなじゃなくあえてカタカナ使うと知らないぽい。増田? 誰それ明美? ブログなんて持ってねえ。書いたことなんてないよ当然。むしろ書くって何? おれとおまえと大五郎はハテナなんて知らねえ。くりかえせ。人力検索だのハイクだのうごメモだの、すべてきいたこともない。マブで。

必死に自らに言い聞かせた痕跡が残っています。けっこう怯えていたわりに、もしもこのメモぎっしりなノートを落として拾われて読まれたらどうしようとか、そういう観点は抜落ちています。

くしゃみ超でるヤバい。鼻水も出る。ヤバイヤバイ。打ち合わせ中に鼻水がずるずるしてティッシュを持参してない人間は普通どうするものなの教えて、ハウツー本書いてよ誰か。たすけ

このあたりで急にくしゃみが連発し、いろいろ辛いのでトイレに行きました。

クシャミはエアコンのせいで出たのかな。トイペマン!私を救え。救え。頼むよ。救国の英雄よ。
トイペマンマジ最強。マジすげえ。マジ人を救う。優しい英雄。水にとけるトイペマンのはかなさがヤバイ。日本人ならみなむちゅうになるやばさ。
トイレ? 人類みなトイレ。あれはちょうやすらぎのば。みんなかみしめろ、清潔なトイレの価値を。

よっぽどトイレで鼻をかめたのが嬉しかったんでしょう。はてなーへの恐怖も忘れて、ひたすらトイレをたたえています。

極限までくずし字。極限までくずし字。極限(以下、解読不能なぐにゃぐにゃ)

くずし字ブーム再来。
その後打ち合わせ終了までは、通常のメモをとりつつ、眠気が酷くなるとくずし字を繰り返すことで乗り切ったようです。


読後の結論

これひとに見せて理解求めるとか絶対ムリじゃん……むしろトップシークレットじゃんコレ……ノートをどこかに封印しないと安心安全ライフから遠すぎる。
というわけで現在、余白へのフリーメモ以外の打ち合わせ中の睡魔対策を募集しております。みなさまきらめくアイディアがございましたら、お教えくださるとありがたいです。

スラダン、おお振り、山賊ダイアリーの枝葉末節な深読み

セキゼキさん(仮名)と漫画の話とかをすると、
「同じ作品のはずなのに、そんなこと考えてたんか!?」
とびっくりすることが多いんですが、今日はその中でも特に印象に残った有名マンガの3つの感想を紹介します。

SLAM DUNK』彩子さんの思い人

「時々振り返って思うんだけど、スラムダンクリョータって、彩子さんとうまくいったのかねえ」
という私の台詞に、セキゼキさんが
「どうだろ。彩子さんは赤木キャプテンに惚れてるからな」
と返してきたからびっくりしましたよね。
「えええ、なにそれ、そんな話あったっけ?」
「うーん、直接的にはなかったから違うかもしれないけど、おれはそう思ってんだよね」


「彩子さんて見た目はけっこう派手だし、最初はギャルっぽい印象なんだけど、話が進むにつれて、外見とは裏腹にしっかり者で聡明であることが明らかになってくじゃない」
「そうだね、勉強会の話でもゴリ、木暮と並んで優等生側だったね」
「言葉遣いにも難がないし、浮ついたところがなくて、堅実なんだよ彩子さん。ルックスを重要視するキャラである『流川親衛隊』なんかとは明らかに違うタイプの女性として描写されてるよね。晴子は親衛隊と彩子さんの中間的なキャラかな」
「そういや、作中いちばんの美形として設定されている流川に対する態度が、彩子さんおそろしくフラットだもんな」
「そんで、その堅実で聡明な彩子さんが作中で一番明確に敬意を示している男って、実は赤木じゃない? でまあ、言うまでもなく尊敬する先輩なんてのは、好きな人になりやすいよね」
「確かに全く尊敬できない相手を好きになる女性って、あんまりいないかも。敬意とか感心とかそういうところから始まることが多い気はする」
「尊敬という観点から見ると、あのチームの中でゴリの男のとしての完成度はずば抜けている。他のメンバーのほうがわかりやすくルックスはよかったりするけど、さっきも言ったように彩子さんはあまりルックスを重要視しない」
「まあねえ。確かに人間のタイプとしては彩子さんがゴリに惚れる可能性はあるかもねえ。でも作中に彼女がゴリを好いていることを示唆するシーンがないんだから、やっぱこの説の根拠は薄いよなあ」
「ゴリが足首怪我して、彩子さんが試合に出るのを止めようとして、『いいからテーピングだ!』と怒鳴られるシーン。おれはあそこが根拠になると思うんだけどな」
「ほう?」
「赤木って、とにかくストイックでバスケに集中したい人間でしょう。下手に恋心を打ち明けたりしたら、『おれの集中を乱すな』と怒りだしそう。そうすると、自分の気持ちを隠し通して、マネージャーとしてサポートに徹することが、彩子さんにとっての最上の愛情表現になるわけだよ」
「あ、ちょっと納得。ゴリって硬派っぽいもんなあ」
「ところがあのシーンで初めて、彩子さんのその姿勢が崩れる。具体的には言葉遣いだね、『ムチャよ!だって立てもしないのに!』とタメ口になっちゃう。
あれはひたすら好きな男の身を案じる気持ちだよね。マネージャとしてではなく、恋する女としての気持ちが勝ってしまったからこそ、あそこで彩子さんの言葉遣いは変わったんじゃないかなー。あそこってたぶん彩子さんが、作中で一番冷静さを失ってるシーンなんだよ」
「言われてみればあのシーンの彩子さん、感情むき出しだよね……
最終話直前に桜木が背中を怪我したときより、ずっと動揺してるもんなあ。桜木の怪我のときは、『選手生命に関わるかもしれない』って警告はするし、すごく心配もしてくれるけど、ゴリの怪我のときよりは冷静だ。そっか、惚れた男が相手だからこそ、あんなにも必死に止めようとしたって見方は、確かにあるわ……」
「そんで、赤木もバカじゃないからさ、たぶんそこに気づいてんだよね。だからこそ怒鳴るわけだ。『そういうのを持ち込むな』という拒絶の意志がこもっているからこそ、いっそうきつい言い方になる。
彩子さんがびくっとするのはもちろん赤木みたいな男に怒鳴られたら怖いから当たり前なんだけど、それだけじゃないと思う。
恋愛感情に対してノーを突きつけられたことを感じて、だからこそ諦めるんだよね。拒絶されずにゴリのそばにいるには、マネージャとしての役割に徹するしかないんだ、という事実を再確認したからこその、虚脱したような従順さ」
「な、なんかすごいな、全然そんなの考えたことなかった私」


と一度はとても感心した私だったのですが、一週間後くらいに、
「そういえばさー、彩子さんがゴリに惚れてる説だと、彩子さんが晴子と仲がいいってのも意味深だよねー」
と言ったら、
「何それ」
と返ってきたから、マジでほんと心底びっくりしましたよね。
「えっ、だって彩子さんが好きな人はゴリだって、セキゼキさんこの間すげー熱弁してたじゃん」
「全然覚えてない。おれほんとにそんなこと言った?」
「言ったよ!」
「だって彩子さんてリョータの手のひらに『No.1ガード』って書いてるし、山王戦の前夜に二人で散歩行ったりしてるし、素直に考えれば赤木に惚れてる説はないでしょ。おれそんなこと言うはずないと思うけどなア。誰か他の人と話したんじゃない?」
「いやいやいやいや、絶対にあなたですよ熱弁してましたよ、連載終了から15年以上経過したマンガの話を今更他の誰と話すっていうんすか、ていうかマジですかなんですか記憶喪失ですか、どうして忘れるですか」
「記憶にないなあ。夢でも見たんじゃない」
とか言われてパラレルワールドに迷い込んでしまったかのような思いを味わわされたんですが、確かにセキゼキさんは「彩子さんが好きな男はゴリ」説を唱えていたんです本当です信じてください。



おおきく振りかぶって西広の余裕

「おれつくづく思うんだけど、西広って絶対童貞じゃないよね。西浦野球部の中で、やつだけが非童貞」
「えええええ、なにそれ、西広モテキャラとかいう描写あったっけ?」
「ない」
「やっぱないよね……なのになんなのその確信アンド断言」
「いやーだって西広の余裕はすごいもの! 野球部全員経験者の中でさ、西広だけ未経験者なんだよ? その状況で入部するのがまずすごいよね」
「野球部の練習のきつさは、たいていどこの学校でも折り紙つきだもんなあ。運動神経は元々いいらしいけど、だからって未経験だと敷居高いよなあ」
「そんで西広は基本、試合に出れないじゃない。阿部が怪我したら出れたけど、治ったららまた出番なしだしさ」
「そうねえ」
「だけどやつは腐らないじゃない」
「それは未経験者だから、出れなくて当然と思ってんでしょ」
「それは違うよー、確かにベンチに入りきれないくらい部員がいる学校なら、出れない子たちもアキラメつくんだろうけど、あんな小さい規模のチームで、しかも部員全員が一年だったら、やっぱり多少の欲はでるよ。次の試合はクソレフト水谷あたりを引っ込めておれを出してよ、とか思うのが自然だ」
「それもそうか。出たいという気持ちもないのに野球部入るやつがいたら、そっちのほうが不自然だね」
「でしょ? そう考えると西広のメンタルって、かなり強いんだよ」
「えらいなあ西広。ずいぶん人間ができてるね」
「違うよ、何言ってんの、高校一年生、ティーンエイジャーの人間性なんて、いかに練れててもたかが知れてるよ。キャプテンとかそういう、立場で人間が作られる経験したならまだわかるけど、西広はそうじゃないし」
「なんか家庭の事情で苦労したのかも」
「それじゃ栄口とキャラかぶるだろ! そうじゃなくて、ここで話を最初に戻すわけだよ。西広は童貞じゃないっていう話に!」
「ええええ、やっぱり全然納得できない。非童貞は人間性が高まるとでもいうんですか」
「いや、そうじゃなくて。なんか西広って、何かと余裕を感じさせる男なんだよね。
『テストのためにあえて勉強はしない』とかいうのがその最たるものでさ。あの落ち着きっぷりがあるからこそ、野球未経験とか、試合に出れないとかそういう問題を、西広は一歩引いたところから眺めて、平常心を保てるわけだ。武蔵野の加具山は、ちょっと西広を見習うべき。
そんで、十代の少年にそういう精神的な余裕をもたらすものって何かなって考えた時、『ああそうか、西広は童貞じゃないんだ』と思うにいたったわけ」
「えー。そんなことでそこまで変わりますか精神状態」
「二十代、三十代だったら正直変わらない。
『おれは三十五歳、職場ではダントツに仕事できない。だけど大丈夫、おれは非童貞だからヨユー』とか思えるやついないから。
だが人生の中でもティーンエイジャーというあの一時期に限って言えば、一足先に童貞じゃなくなったやつってのは、すげえ尊敬されたりするわけだよ」
「ああなるほど、あの時代の少年だからこそ、そういう要素が余裕を生むと」
「そうそう。あとはまあ、西広どうやら洋物AVいけるらしいじゃない。あれも童貞っぽくないよね」
「泉が『西広もスゲー』って思うとこか……いや、実は何がすごいのかよくわかんないんだけどその感覚。洋物いけると非童貞とかいう基準も謎すぎる」
「これは個人差が大きいところではあるけれども、要するに少年たちにとって性は未知の領域じゃないか。未知ゆえに憧れやわくわくはあるけど、怖さもあるわけだよ」
「それはそうでしょうねえ」
「そして外国人というのも未知の存在じゃないか」
「まー、そうかも」
「たとえば新しい学校に通い始めるとわくわくしたりするし、外国に行くのも楽しい経験だろうけど、外国で新しい学校に通えって言われたら、なんか大変そうで楽しめる気分じゃなくなったりしない? 未知に未知が重なると、余裕が消えて楽しむどころじゃなくなったりするんだよ人は。日本在住の童貞少年たちにとって未知と未知が重なった存在、それが洋物AVなんだよ! わかるか?」
「外国の学校を使った例えのほうは、すげーわかった。洋物AVについては、わかったようなわからないような気持ちになった」
「彼にとって洋物AVは未知に未知を重ねた存在じゃないのかもしれない。そう思わせる西広は、ここでもおのずと余裕をにじませるわけだよ」
「その理屈だと、栄口はどうなるのさ?」
「栄口は有能だし性格もいいし、人付き合いもかなりこなせる。モテ要素はあるよな。
とはいえ、母親のいない家庭で幼いきょうだいの面倒を見ながら野球に打ち込む彼に、男女交際にうつつを抜かす余裕があるかどうか。それにおれは、栄口が人生で最大にモテるのは今からおよそ十年後、二十代半ばになってからと踏んでるからな」
「長くなりそうだから栄口についてはいいや。話を西広に戻すと、セキゼキさんが言いたいことは大体わかった。最初は根拠なしの妄想話としか思わなかったけど、聞いてみるとそれなりに筋は通ってて、面白いな。
確かになんか西広って、周りの誰も知らないうちにしれっと彼女作ってそうな雰囲気があるかもね」
「そんで西広の彼女は他校にいるね。同じ学校だったら、とっくにみんな知ってるだろうから」
「ああ、なるほど。それはそうかも」
「あと、その彼女は頭いいね!」
「ちょっ、さすがにそれは根拠ないだろう、登場すらしてないんだぞ」
「あるよ根拠。体育会系の部活と学業を両立させるのは難しいのに、西広の成績がいいのは、彼女も優秀な子だからじゃないかと、おれは睨んでる」
「あー、そういうことか。図書館で一緒に勉強したり、お互いの家で勉強会したりとか、そういう関係なんだねきっと。だから西広も成績がキープできるんだ。
うわ、そう考えると『わざわざテストのための勉強しない』ってのが更に繋がるぞ。他校の彼女と一緒に勉強してるなら、定期考査よりも模擬試験とか、そっちに重点を置くだろうからね。おお、すごいな、けっこうきれいに辻褄があった」
「ふふふ、そういうことなのだよ。他校にかわいくて賢い彼女がいたからこそ、西広はあれほど余裕があって、かつ成績優秀なんだよ」
「かわいい? さすがにルックスを推測するのは無理じゃない?」
「いや、西広の彼女はかわいいね。髪はセミロング、携帯電話の色は白、デートの時にはよくクレープを食べてて、本を読むのが好きで、脚のきれいな子だね!」
「おいちょっとまて、今まで一応根拠を示しながら話をすすめてきたのに、いきなり根拠レスになったよね? 妄想ぎりぎりの仮説が、ただの妄想に切り替わったんだが?」



山賊ダイアリー』野蛮という言葉に込められた気持ち

山賊ダイアリー面白いねー、実際に生き物殺すのは、大変だろうけどさ。だからって『生き物殺すなんて野蛮』てのは言っちゃいけないよなあ」
「そう? おれ彼女の気持ちわかるけどなあ」
「セキゼキさんも殺生は野蛮て思うのか」
「いやー殺生には抵抗あるけど、そういうんじゃなくて。つまりさ、このシーンで岡本くんと一緒に夜景の見えるレストランにいる女性は、誰だと思う?」
「誰って……彼女とかじゃない?」
「だよね。たぶん二人は付き合ってるよね。交際開始直前の、親密度上げの最中かもしれないけど。少なくともただの友達とか、職場の同僚とかではなさそうだよね」
「まーねー。友達とか同僚なら、野蛮て言われたことで喧嘩になったりはしないだろうしなー」
「マンガだと、どういう流れで岡本くんが猟師になりたいと言ったかかかれてないけど、おれはたぶん、彼女の側がそれとなく将来についての展望とかを訊いたんじゃないかと思ってる」
「あ、それはそうだろうね。これからどうするのって訊かれて、それに答えたかんじぽかったし」
「でさ。たとえば高校生のカップルだったら、恋人がなんて答えても別に平気なわけ。海賊王だろうが新世界の神だろうが好きに目指せばいい」
「その二つを目指されるのは困るんだけど、言いたいことはワカル。十代で付き合っている子の本音って『この人好きだけど、いつまで一緒にいるかわからない』だろうからなー。相手の将来が自分と関係している感覚もうすいだろうし、あんまり気にしないだろうね」
「『山賊ダイアリー』の一巻冒頭時点で岡本くんは二十代半ばから後半くらいの年齢だよね雰囲気的に。彼女もそれほど違わないくらいの歳だろう」
「そうね」
「そのくらいの年代のカップルって、結婚とか将来とか考え始める頃じゃない? 特に女性は」
「そうだね。出産のことを考えると、二十代のうちに結婚した方がいいかなとか、頭をかすめ始めるよね。今付き合っている人と結婚するか、それともしないのかって、かなり重要な問題になってくるわ」
「だからこの彼女の立場で考えてみると、彼氏の心のうちが、すごく気になり始める時期だと思うんだ。『結婚とか一生しない』とか、『いつかは結婚するかもしれないけど、相手はお前じゃない』とか、そういう考えの男が彼氏だったら、つきあい自体を考え直した方がいいかもしれないし」
「それは……そうだねー。そういう人が相手だと辛いねー」
「夜景が見えるレストランって、たぶんけっこういい店だよね。どうでもいい相手と行く店ではないっぽい。そういうところに連れていかれて、彼女は嬉しかっただろうな。この人はちゃんと私のことを考えてくれてる、もしかして私はこの人と結婚するんじゃないかしら、とか思っても不思議じゃない」
「ほうほう」
「だから彼女は、岡本くんに将来の展望を訊いてみたんだろう。そしたら『田舎に帰って猟師になりたい』という答えが返ってきた。シロイならどうよそれ?」
「うわー、初めて気が付いたけど、それけっこうショーゲキかも! だって彼女のほうだって、たぶん働いているわけでしょ。その仕事やめて田舎に来いってことになるよね? それは大変だ!」
「それならまだいいよー。彼女に犠牲を強いる形ではあるけれど、おれと一緒に生きてくださいってことだから、一種のプロポーズになるでしょ。だけどこのシーンの岡本くんが、そういう意味で『猟師になりたい』って言ってるように見える?」
「……見えない。彼女とは無関係に、やりたいことを言ってるだけに見える」
「そうだよねー。だからどっちかっていうと、『おれは田舎で猟師やるし、お前は都会で会社員してれば』ってかんじだよね。『お前とおれの人生は無関係だ』って言ってもいいかな」
「それってさっき言ってた『いつかは結婚するかもしれないけど相手はお前じゃない』っってやつに近いよね。やばい、それきつくないか。相手に対して真剣であればあるほどきついよね」
「だから『猟師やりたい』ってぶっちゃけ、『近いうちに別れようか』ってメッセージとしても機能するわけ。これから一緒にやってくつもりないよって、ことになるから。そんなこと言われたら、彼女がむっとしてもおかしくないでしょ」
「いやいや、でもほら、漫画家は地方でもできる仕事ではあるし、岸部露伴は『もはや東京に住む理由はくだらないステータス以外にないと言えるね』とか言ってるよ? 田舎に帰って猟師兼漫画家やって、それで一緒に暮らすつもりだったかもよ?」
「わかんないけど猟師兼漫画家って、そんなにもうかるの? 『山賊ダイアリー』がヒットした今ならそれも可能だろうけど、この食事の時点で、そんな将来って予想できた?」
「共働きのつもりだったかも」
「猟師として活動できるほど山奥の田舎に引っ込んだら、彼女の側の仕事探しはたいへんだよね。それで共働き?」
「それはそうか。うーん」
「それに仕事の話で言えばさ、岸部露伴みたいな売れっ子なら別だけど、中堅クラスまでくらいなら、岡山の田舎よりは東京に住んでるほうが、いろいろ有利でしょ」
「まー、編集の人に会いやすいし、売り込みもかけやすいだろうね。まんが道的な作品て、大体主人公は上京してくるものだしなあ。『田舎に帰って猟師』とか言い出した時点で、彼女にしてみれば『仕事どうすんのよ?』って思いそう」
「『あたしと別れて、今の仕事もあやうくして、それでもいいからアンタは狩りがしたいのね? 自分の手で動物を殺すことが、そんなにも大事なの?』とか、そんなふうに感じてもおかしくないと思うんだよねー。少なくともおれならそう思っちゃう」
「いやいやいや、でもさ、この時点の岡本くんは、すぐに田舎にひっこむつもりはなかったんじゃない? 5年後とか20年後のつもりだったかも」
「5年付き合って三十代になってから『おれ猟師になるから』って言いだされる方が彼女には大ダメージだよ。あと将来の展望の話になったときに『猟師』って言ったら、彼女がそれを数十年後の遠い未来の願望と受け取ってくれる可能性は、低いでしょ。長く見積もっても10年以内くらいに実行するつもりのことだと、思うのが自然」
「うー……なるほど。てことは岡本くんは彼女に、恋人や仕事よりも殺生を優先する人間だと思われたかもね。それは人によっては『野蛮』と感じてもおかしくないなあ」
「あとはまあ、『野蛮』てのが彼女の本音じゃない可能性もあると思うけどね。全然野蛮とは思わないけど、その場ではそう言ってみたって可能性も」
「えー、わかんない。なんで思ってもいないことをわざわざ言うわけ」
「岡本くんを、傷つけたかったんじゃない。怒らせて、嫌な気持ちにさせたかったんだよ。現にこの後、喧嘩別れしたって話になってるじゃん」
「傷つけたいって、ナニそれこわい」
「怖くないよありふれた話だよ。
岡本くんの願望は、彼女という人間に対して、とても無関心なんだよ。彼女は田舎に行きたくないかもとか、田舎にいったら彼女と別れなきゃいけないかもとか、考えたらできないことだもの。そういう、自分を排除した上で成立する未来について、彼氏が嬉しそうにうっとりと語る。冷水浴びせられたようなもんだよね。ものすごく傷つくんじゃない?」
「それはまあ、そうだね。きつかったろうね」
「だからこのシーンで、先に傷ついたのは実は彼女なんだよ。傷つけられたと思ったからこそ、彼女はやり返そうとするんだ。
自分の傷の大きさを思い知らせるために相手を傷つけるって、カップルの喧嘩ではよくあるパターンだよね」
「ワカル! ほんとはさー、やり返さないで『今の悲しいよ傷ついたよ』って穏やかに伝えたほうがいいんだよね! だけど本気で傷ついたときって、それができなくて、ついつい相手を傷つけようとしちゃうんだよね、すげーワカル!」
「なんかえらい熱こもってるのはなんなんだ……まあいいや、とにかく。彼女は岡本くんの無邪気な言葉に傷ついた。だからこそ自分も同じように相手を傷つけようとして、岡本くんがむっとするであろう言葉を選んだ。仕事よりも恋人よりも生き物を殺すことを優先するんだから、そう言われたってしょうがないでしょ、という気持ちで。
『野蛮』『山賊』『最悪』『見損なった』って、次々と投げつけるのはだからだろ。
彼女が本当に『最悪』で『見損なった』って思ったのは、動物を殺すことじゃないと思うんだよなあ。
作中で岡本くんが指摘しているように、彼女だって誰かが殺した動物の肉は食べているんだもの。そのことを棚に上げてしゃあしゃあと『野蛮』よばわりする恥知らずと片付けちゃうのは、ちょっとかわいそうな気がするよ」
「な、なるほど、なんかこの考察はリアルで生々しく、ずいぶんと説得力があるな……」
「岡本くんの気持ちもわかるんだけどねー。
『田舎に帰って猟師になる』ってのは、岡本くんにとってはものすごく重大な決断だったんだと思うし。それこそ現在の仕事を危うくして、恋人と別れてでも、やらなきゃいけなかったことなんだろう、彼にとっては。自分が自分であるために必要なことってのは、そういうもんだよね。なにを犠牲にしても、やらなくちゃいけない。
だからこの喧嘩のシーンは、誰が悪いってわけでもないんだよ。彼女も岡本くんも悪くない。悲しいな、とは思うけどね」
「おおおお、今回の考察はいい! 深いかんじする! シメも大人っぽいし。ついてはセキゼキさんにお願いがあってね……」



てなわけで

「セキゼキさんの妄想深読み考察みたいなものをね、まとめてブログに載せてみたいなって思うんだけど、どうでしょう。既に途中までは書いてあるんで、確認してほしいなーって」
10分後。
「赤木と彩子さんの話、おれほんとにした? 全然覚えてないんだけど……まあいいや。いいよ別に」
「マジでいいの? だってこれ読んだ人たぶん『セキゼキってのはずいぶんな妄想野郎だな』とか思うよ」
「どこの誰とわかるわけでもないしなあ。問題ないんじゃない」
「作品の本筋でもなんでもない、枝葉の部分を異常に細かく考察して会話する、痛い二人組だと思われるよ?」
「あのさ」
「うん」
「事実、そうだよねおれたち」
「えっ」
「おれたち二人はどうでもいいマンガの枝葉末節を異常に真剣に話し合うかわいそうな大人だよね実際?」
「えええっ」
「マンガの感想が原因で本気で喧嘩したことあるよね?」
「ある……」
「それが立派な大人のやることだと思う?」
「おもわない……」
「もうどうせダメ大人なんだからいいんだよ別に。むしろ立派と見せかけようとすることが痛ましい話だよ」
「ほんとにそうだ……」


というわけで、妄想深読み考察を今回は3本お届けいたしました。
私たちはどうせ痛ましい大人ですので、今後もまた何かの作品で妄想深読みをするかもしれません。
そのときもまたよろしくお願いいたします。
それでは皆さま、よき妄想ライフを!

妹への私信。クロスバイク購入に関するアドバイスをまとめてみたぞ


知人に、というか具体的に言うと妹に
クロスバイクが欲しいんだけど、どれ選ぶのがええんじゃろー? いろんな自転車があって違いがわからん」
と質問されたので、返信メールを書いていたら我ながら気持ち悪いくらい長文化して、誰に何を語っているのかわからなくなってきたので、どうせだからブログにのせます。
スポーツ自転車をちょっとはじめてみたい、とか思っている方は読んでみてもいいかもしれません。
私自身はクロスバイクに乗り始めて一年ちょっとで最近やっとロードバイクの購入計画をたてはじめたくらいの初級者ですので、あまり深くは信頼しないようお願いします。
ただまあ、そのくらいの初級者の言葉のほうが立場の近さゆえに初心者には参考になるケースがどこかにある、そんな可能性が微粒子レベルで存在している気もするんです。

いろいろな自転車

クロスバイクってなにさ、ママチャリで何が悪いのさとお思いの方がいらっしゃると思いますのでまずはそこから軽く説明します。
ママチャリというのは靴にたとえると、気軽にはけて便利な「つっかけサンダル」です。
近所のコンビニまで行くときはブーツやスニーカーやパンプスよりも、つっかけサンダルが使いやすいように、ちょっとでかけるときにぴったりな自転車、それがママチャリです。
丈夫で安価、ほとんど手入れをせずに野ざらし状態でも乗れる、段差や荒れた路面に比較的強い、カゴに荷物を積めるなど、長所がたくさんあって、とても実用的ですが、つっかけサンダルでマラソンに出場するのが不適切なように、長い距離を乗るのには不向きです。5kmくらいならば気持ち良く乗れると思いますが、10kmを越えたあたりから「楽しくないしなんか辛いしできればおうちに帰りたい」みたいな気持ちが芽生えてきたりします。
自転車は有酸素運動を長い時間らくにできるのでダイエットに向いていますが、ママチャリは長距離に不向きなゆえ、ダイエットにもあまり向いていません。
もちろんママチャリであっても工夫次第でそれなりの長距離乗れるのですが、そのへんの話は置いといて。
自転車で長距離走って、長く運動したい、と思う方にはいわゆる「スポーツ自転車」をおすすめします。


スポーツ自転車にもいろいろありますので、今回はざっと「マウンテンバイク」、「クロスバイク」、「ロードバイク」について説明します。
マウンテンバイクはその名の通り、未舗装の山道などもがんがん走れる自転車で、靴に例えるなら「登山用のトレッキングシューズ」が近いです。
サスペンション付きで段差に強く、ごつごつした太いタイヤが路面をしっかりとグリップするので荒れた道でもどんどん進めるマウンテンバイクは、オフロードでは無類の走破性能を誇ります。
ですがそのぶっといタイヤゆえに、舗装された路面での走行性能はロードバイククロスバイクに劣ります。
どれほど優れた性能のトレッキングシューズでも、陸上用トラックでの競争になれば、スニーカーやスパイクのほうが走りやすく有利、というのと同じようなかんじです。


ロードバイクは舗装された路面をできるだけ長い距離、できるだけ速く走るために作られた自転車です。
おそろしく軽いフレーム、細いタイヤで、びゅんびゅんと走ります。靴にたとえるならば、極限の軽量化をはかり、特殊素材などをふんだんに用いた「陸上用スパイク」が一番近いでしょうか。
ロードバイク乗りの方々は軽めなら一日100km、たっぷりなら一日200km、おれなんて500kmいけるぜ、とかちょっと信じがたい距離を乗りこなします。そういうことができるのがロードバイクなのです。
タイヤが細いということはつまり摩擦が少ないということで、その分タイヤが転がりやすいので、ロードバイクは速く、効率よく走るわけです。ですが摩擦が少ないということは、その分路面をしっかりグリップしていないことになりますから、荒れた路面や段差には弱いです。
コレ、厳密にはビミョーに間違った知識なんですが、興味あるようでしたらあとでちゃんと勉強して正しい知識を上書きして下さい。手っ取り早さを重視するようでしたら、とりあえずこのまま覚えちゃってください。


今回妹が欲しがっているクロスバイクは、靴にたとえれば「スニーカー」です。
つっかけサンダルよりは脱着が面倒だけれど、ずっと運動に向いていて、気軽な散歩やスポーツにはちょうどいい靴ですね。
オフロードを楽しむならマウンテンバイクのほうがずっといいです。
長時間・長距離をストイックに楽しむなら、ロードバイクにはかないません。
そういう中途半端にいろんなジャンルがクロスした要素を持っているから、クロスバイクというのです。
クロスバイクは街乗りや通勤に向いていると言われます。私も通勤用に買いました。
舗装された道ならば、マウンテンバイクよりも軽快に走ってくれますし、ロードバイクよりは太いタイヤをはいているので、段差や荒れた路面にもそれなりに耐えてくれます。
気軽に乗れるけどママチャリよりはずっとスポーティで楽しいというのが、クロスバイクの魅力です。


あと他にはシクロクロスとかファットバイクとかミニベロとかピストバイクとかリカンベントとかいろんな自転車がありますけど、きりがないのでこのへんで。どうしても知りたい人はウィキペディアとか見るといいじゃない。

クロスバイクの選び方

ここでやっと初心者がクロスバイクを購入するためのハウツーに入っていくわけですが、まず予算としては、5万前後(できれば7万くらい用意できると幅も広がる)を覚悟してください。
ホームセンターなどで数千円のママチャリが気軽に買えるこの時代、自転車に5万というのはおそろしく高く思えたりもしますが、「ちゃんとしたクロスバイク」といえるものを買うには、これくらいは必要なのです。


世の中には安いママチャリよりは高いんだけど、いわゆる「ちゃんとしたスポーツ自転車」よりは安い、「ルック車」と呼ばれるものがあります。
マウンテンバイク風な見た目なのに強度が足りなくて悪路走行できないルックMTBなどが、その代表ですね。
ホームセンターママチャリしか知らない人がルック車に乗ると、ギアも多いし、なかなか速くて快適だなあ、と思ったりもするんですが、それは今までの人生で牛肉の代わりにハムが入ったすき焼きしか食べたことがない人なら、
「わーすき焼きだうれしー、ハムがおいしー」
と思ったりするようなもので、つまり、濃厚な悲しみの気配が漂います。
もしもあなたの友人や恋人が「えっ、すき焼きってハムじゃないの?」とか言い出したら、とりあえず一度はスーパーでそれなりの肉を買ってきてすき焼きを作ってあげたくなりませんか。
というのは置いといても、自転車というのは乗り物で、ゆえに安全性がしっかりしているかどうかというのが、とても大事なポイントになりますから、下手にお金ケチらないほうがいいんじゃないかと思うのです。
あと、乗ってみればわかりますが、5万でも全然高くないです。そのくらい世界が変わります。


「じゃあその5万前後のちゃんとした入門用クロスバイクの中でオススメのやつを教えてよ。それこそが知りたいんだよ」
そろそろ妹がそんな風に言いだしそうなんですが、まだちょっと待ってください。
何を買うか決める前にまず、どこで買うかを決める必要があります。


ホームセンターやスーパーの自転車売り場でも、最近はそれなりにちゃんとしたクロスバイクが置いてる場合があり、安くなっているときもあります。
信販売で買えるクロスバイクもありますし、これがまたけっこう値引きされていたりするんですよね。
スポーツ自転車高いなー、でもこういうお店用意すれば安く買えそう、わーいあたしって買い物上手。
みたいな流れが発生する前に、しばし待たれよ。
安くなくてもいいから、まずはご近所でいいかんじの自転車屋を探すのです!


5万出そうよ世界変わるよ、と私は先ほど書きました。
新しい世界に踏み出す時に、いろいろなことを教えてくれる人がいるかいないかは、大きな差です。
あなたが通りすがりの見知らぬスポーツ自転車乗りをつかまえて、
「色々知りたいんです、友達になってください! それでは質問はじめます!」
とか言えるタフなメンタルの持ち主なら、もうそれでいいです。自由に自転車買って、自由に友達作って、その人に頼ればいい。
ですが見知らぬ相手にいきなり助けを乞うとか無理ゲーと思う方、あなたが一番すがりやすいのはたぶん、自転車を買った店の店員さんです。


チェーンから変な音がします、これが初期伸びですか、とか。
自転車の掃除ってどうすればいいんですか、とか。
このあたりで遠乗りする時は、みんなどういうコースでどのへんを走るんですか、とか。
冬の寒さ対策、夏の暑さ対策、坂道の登り方、タイヤがパンクしたときの処置、その他もろもろ。
乗り始めると自分でもびっくりするくらい、いろんなことがわからなくて、いろんなことを知りたくなります。なんせ新しい世界に踏み出したんですから。
ネットの知恵袋等を活用する手もあるんですが、自転車の実物を見てもらわないで答えてもらわなきゃいけない時点でいろいろ不利ですし、玉石混交いろんな答えが揃っちゃって何を信じていいかわからない、とか初心者にはありがちですしね。
ですから、自転車購入時には目先の安さに惑わされず、しっかりとしたアフターケアが望めるお店を選ぶのが、長い目で見たとき一番お得なのです。


信販売で購入した場合は質問相手がいなくなる、というのは皆さん納得できると思います。
そして「スポーツ自転車とかよくしらないけど売れそうだから置いてみました」みたいなお店でもやっぱり、質問相手が確保できない場合があったりします。
そういうお店では店員さんの知識が豊富ではないことが多かったりするので。修理等も頼みづらかったりします。
また、スポーツ自転車は乗り始めるといろいろ関連グッズが欲しくなるんですが、「一応置いてみました」系の店だとグッズの品ぞろえが薄かったりするのも泣きどころ。
だからまず何を買うか決める前に、スポーツ自転車がいっぱいあって、信頼できる店員さんがいるお店を探しましょう。


お店を探しましたか決まりましたか?
「すべてのメーカーのすべての自転車を扱っています」というショップはまずありません。
あなたが見つけたお店でも、取り扱っているブランドは限られているはずです。
そしたら簡単、そのお店で扱っているブランドにしぼって、用意した予算ではどんなクロスバイクが買えるか調べて、その中から選んでしまうのです。
大体、第3希望くらいまで決めておくことをおすすめします。「いろいろあって迷っちゃう」という気持ちそのままに3台選ぶのです。親切なお店ならカタログを貸してくれたりします。


「その第3希望までの決め方がわからないから困ってるんだろうが」
という妹の心の声が聞こえてきましたが、これに対する答えはズバリ、
「見た目で選びなさい」
だと私は思っていますスミマセン。
本当に自転車に詳しい人ならもっと素敵なアドバイスができるんでしょうけど、なんせ私も素人なもので。


まーただ、言い訳させてもらうなら。
信頼できるショップを見つけたんでしたら、その店で扱ってるのはブランドはどこも、ちゃんとしたところだと思うんです。
自転車の世界って、なんかいろいろ開発が進んでまして、メーカーが違っても価格帯が一緒なら、それほど性能差がないんです。(実は異常にコスパのいいブランドもあるけれど、そこは置いときます)
乗り味の違いとか、メーカーごとに重視するこだわりの差とか、そういうのもいろいろあるんですけど、初心者の方がそんな微妙な差を理解できるはずもなく。
たぶんどれに乗っても「すげーいい!」と感じるでしょう。
だったら斎藤和義の『君の顔が好きだ』でも口ずさみながら、初心者でもはっきりわかる違いである「見た目」にこだわって、「かっこいい!」と思える自転車を選ぶのがいいと思います。
自分が惚れ込んだデザインのものなら、気持ち良く乗れますしね。
これが自動車だったら痛車だろうが、発音できない「ターャジス」表記のあるトラックだろうが、エンジンは気にせず同じ性能を発揮してくれますが、自転車のエンジンは人間です。
気持ち良く乗れる、というメンタルの要素は案外とても大事です。


さて、第3希望まで決まったらお店に行って、自分の欲しい自転車の在庫がどうなっているか、調べてもらいましょう。
スポーツ自転車には「好評につき重版出来!」みたいなことがないんです。
狭い世界であるがゆえに、メーカーは決まった台数だけ作ってそれを売り、売切れたら「来年のニューモデルを待ってください」になるんです。
ですからあなたが欲しい自転車も
「すみませんそのカラーは人気で」
とか
「すみません、MとかLのフレームサイズはどうしても先になくなっちゃうんで」
とか言われる可能性があります。だから第3希望まで決めておいたほうがいいのです。



自転車以外にも必要なもの

さいわいなんとか希望する自転車の在庫もあったしコレで決まりだ肩の荷が下りた、とお思いのところまことに申し訳ありませんが、もうちょっとだけ続くんじゃよ。


「空気入れ」を買ってください。これは絶対です。
空気入れならうちにもあるよ、とお思いの方。残念ですがおそらくそれは使えません。
今までママチャリの空気を入れるために使っていたのは、英式バルブってやつだったんです。クロスバイク用で使うには仏式バルブの空気入れが必要となります。
「アダプタとかでなんとかなんない?」
なります。ですがおすすめしません。


クロスバイクは週に一度は空気圧の管理をする必要があるのです。
しかもタイヤごとに異なる適性空気圧をしっかり把握して、そのとおりに空気を入れなきゃいけません。なのでメーターが必要です。
あなたが今まで使っていたママチャリ用にメーターはついていますか? ついていないなら、バルブだけなんとかしてもダメです。メータ付仏式バルブの空気入れを買いましょう。
週イチで空気入れるとかめんどくさい、とお思いの方。
今までより速く走る乗り物を手に入れたということは、もしコケたりしたら今までより酷い怪我をするってことなんですよ。
なので今までよりいろんなことに注意する必要があります。だから週に一回の空気入れくらい、10分とかからないんだし、やっときましょうよ。
空気を入れてるとあちこちに目がいって、自然と自転車の状態をチェックできますしね。
さて、空気入れを買っても買い物はまだ終わりませんよ。


ママチャリには最初から標準装備されている「スタンド」と「ライト」と「カゴ」と「泥除け」と「鍵」が、クロスバイクにはありません。
この際「カゴ」と「泥除け」はなくてもいいと思うんです。自転車は少しでも軽い方がよく走りますし。
ですが「ライト」と「鍵」は必要です。必要なのになんで付いてないんだ、と思うかもしれませんが、その気持ちは忘れなさい。忘れてとにかく買いなさい。あなたは新しい世界に来たのですから。
ライトは前用と後ろ用の2つ買ってください。スポーツ自転車を乗り始めると意外とバカにならないのがライトの電池代だったりしますが、最近はUSB充電式のライトもあって、なかなか便利です。
鍵は太くて長いのを買うのがオススメです。クロスバイクのタイヤはメンテナンスのため、ママチャリと違って、ホイールごとワンタッチで外せるようになっています。そのため、短い鍵を買うとタイヤとフレームをばらして盗まれることがあります。前輪と後輪とフレームすべてに通せる長さで、なおかつ簡単に切られないよう太い鍵を買うのがよいということです。
とはいえ、クロスバイクロードバイク程じゃないけど軽くて、ママチャリの半分くらいの重さしかないので、鍵をつけたままひょいっと持ち上げて運んでいくこともできますけどね……どれほど太い鍵でもじょきんといけるワイヤーカッターだってあるし……考えているといろいろキリがありませんが……
ただ、スポーツ自転車を盗む人間はたいてい、スポーツ自転車に詳しい人間です。彼らは高級な自転車をしっかり選んで盗む傾向にあるので、10万円以上の自転車から、ぐっと危なくなるんですって。10万以下の初心者向けモデルをわざわざ狙うことって、あまりないんですって。ちょっと屈辱的な気もしますが、ここは素直に安心しておきましょう。


「スタンド」はどうしましょうかねー、要らない気もしますねー、現にロードバイク乗ってる人たちはスタンドなんてつけない人の方が多いですしねー。
ですが私はあえてここはスタンドも購入することをおすすめします。
ロードバイクよりも気軽に乗れて、街乗りに向いているのが魅力のクロスバイク
なのにスタンドがついてなかったら、街中の駐輪スペースの大半が使えなくなったりして、いきなり気軽さが減じてしまう気がするのです。


次は自転車ではなく、乗り手本人の装備を揃えましょう。
ヘルメットは買っときましょう。要らないって思いますよね。わかりますよ、私も最初買わなかったし。こんなの恥ずかしくてかぶれないよ、とか思いましたし。
だけどやっぱりヘルメットはあったほうがいい。実は私、クロスバイク乗り始めて一ヶ月ほどで交通事故に遭いました。そのときヘルメットなきゃだめだな、と実感しました。
なので買いましょう。恥ずかしさなんていずれ慣れます。


あと地味に忘れちゃいけないのが、ズボンのすそ止め。
クロスバイクはママチャリと違ってカバーがなくてチェーンがむき出しなので、チェーンにズボンのすそが巻き込まれてしまうときがあるのですよ。
それを避けるために裾止めがあります。
見た目にこだわりがないようでしたら、裾止めは100均で買って済ませても問題ありません。


そしてアイウェア。要するにサングラスのことです。
実はアイウェアはヘルメットと並んで自転車乗りの必須装備と言われているアイテムなんですよ。
ぜかと言えば、びゅんびゅんと自転車を飛ばしていると、びっくりするくらい目にゴミが入るからです。
自転車用のアイウェアはレンズが深くカーブして顔をぴったりと覆うかんじで、目もすごく守られます。なかなかかっこいいです。
ただし、値段はけっこう高い。
実は私はアイウェアは「ロードバイク買ってからでいいや」と思ってまだ買ってないんですが、コンタクトで自転車に乗っていると半端なく目に砂が入って、すごく困ります。
ホームセンターで売っている380円の保護メガネを使っていた時期もあります。案外悪くなかったのですが、かけているのが恥ずかしくて、店に入ったりする都度素早く外して隠すことを繰り返していたら、失くしてしまいました。
早くちゃんとしたアイウェア買おう……今は自転車に乗るときは普通のメガネかけてます。


乗り方にもよると思いますが、あと他に必要そうなものは以下の通り。

  • タイヤレバーと予備チューブと携帯ポンプ―出先でパンクした時のために。
  • ボトルケージ―自転車乗ってると汗かきます。特に夏はすごい。脱水症状を防ぐためにもドリンクを持ち歩きましょう。
  • チェーンオイル―自転車のチェーンはものすごく汚れます。できれば月イチで掃除してオイルをきちんとさしたい。長く安全に乗り続けるためにも、チェーンオイルは必要です。ドライとウェットの二種類があって、どちらを選べばいいのか、店員さんに相談してみてください。
  • チェーンクリーナーとディグリーザーとディスプレイスタンド―汚れたチェーンを綺麗にするためにはこの3つがあると便利なんです。チェーンを外して洗う方法もあるんですけど、それもそれで大変なので。


このあたりのものは、一気に用意するのは大変なので、必要を感じたら買って、焦らず徐々に買い揃えていきましょう。
そうやってちょこちょこ買い物をしながらショップに足しげく通い、店員さんとの友好値をあげていくというのも大事なことだって、人生で必要なことは大体ゲームから教わった皆さまなら、きっと理解してくれることでしょう。


クロスバイクを買ったら

がんがんあちこちに行ってみようぜー。
ロードバイクみたいに一日200kmとかこなすのは辛いつーかたぶんムリですけど、100km程度なら慣れてくれば楽しく乗れます。
交通ルールはしっかり守って、歩道ではなくなるべく車道を走って(最初は怖いかもしれませんが、慣れてくると車より歩行者のほうが怖いです)、信号は歩行者用じゃなくて車両用の信号に従って、無茶せずマナーよく、安全に乗りましょうー。


人によっては最初のうち、クロスバイクのサドルが高くて怖い、と思ったりするようです。
なんであんなに高いの、と思うかもしれませんが、サドルが高い方がペダルが効率的に回せるから高めにするのですよ。
子ども向けの三輪車に無理やり大人が乗ると、足がつっかえてペダルが回しにくく、子どもよりも遅くなっちゃったりしませんか?
極端に言えばそういうことです。低いサドルだと足はうまく回らないから、スピードも落ちてしまう。
時々街中で、ガニマタになってママチャリにまたがり、ゆっくりペダルを回している男性を見かけますが、あれはサドルが低すぎて、あんなふうに足を外側に開いてペダルを回すことになっちゃうんですよね。
なのでママチャリユーザーの方でも、サドルを適正な高さまで上げて、ついでにタイヤの空気パンパンにするとけっこう速くなったりします。
そんなわけでスポーツ自転車のサドルは高くなりがちですし、速い人ほどサドルをあげる傾向にあったりするのですが。


サドルあげて前傾で自転車に乗ると、足以外の筋肉をけっこう使うことになります。
椅子のようにどっかりとサドルに乗ることができなくなるので、体幹の力で体を支える必要があるからです。
自転車乗ってると下半身だけでなく上体も鍛えられるのは、そういう理由です。
しかしながら初心者、特に女性なんかはあんまり体幹強くなかったりするので、体もしっかり支えられないし、足は地面につかないし、なにこれすごく怖い! と思ったりするわけです。
だから、まあ、最初は怖くない程度にサドル下げて乗るといいと思います。
お店の人がちゃんと身長・体重・股下などをはかって算出してくれたポジションを崩すのかと思うと、生真面目な人は後ろめたく感じたりするみたいですが、だったら今現在のサドルの位置がわかるようにシートポストにセロテープ巻いてしるしをつけて、ちょっとだけサドルを下げてみればいいんです。
怖くて乗れなくなったら、本末転倒ですからね。
そんで慣れてきたら少しずつ、サドルをあげていきましょう。


段差につっかかって腰とか痛い、とお思いの方。
クロスバイクロードバイクは、ちょっとした段差であっても「抜重」が必要になります。ママチャリ時代の習性で「このくらいは平気っしょ」とか思ってもかなり「ガツン」と来たりします。小さな段差でも抜重を習慣化しましょう。
抜重ってなにさ、どうすればいいのさ、とお思いの方。
とりあえずサドルからお尻を上げる、それだけでいいです、最初のうちは。
なんか自転車本体へのダメージを軽減するためには、腰を浮かさずに両手両足をサスペンションかわりにしてフロントを持ち上げうんぬんかんぬん、みたいな話もあるんですが、そういう専門的なことはショップ店員に相談して、友好値上げにいそしんでください。


あと、けっこうな確率でスポーツ自転車に乗り始めた人間は、デリケートゾーンの痛みに悩まされることになります。
最初の頃、痛みを訴える私に対しセキゼキさんは
「皮が堅くなればいいだけじゃん?」
とか無慈悲に言い捨てていたんですけど、後に自分が同じ痛みに苦しめられた時、
「皮を堅くすれば?」
と私に言われて、
「こんな場所の皮がそうそう堅くなるものかああっ」
とか怒ってましたよ因果応報。


とにかく、痛みに苦しむ民草はサドル買い換えようかな、とか思い始めたりするんですが、ちょっと待ちましょう。
サドル選びというのはとても難しく、ベテランの自転車乗りの方であっても、ジプシーのようにより良きサドルを求める旅を続けていたりするんですが、初心者の痛みはたぶん、サドルを変えても解決しません。
痛みの原因は、乗り方の悪さだからです。。
ではどんな乗り方にすればこの痛みは解決するのですか、という話になると、実はこれ「骨盤を立てて乗ればOK」派と「骨盤を寝かせて乗ることこそが真の解決」派がいまして、ネットで調べて両派の存在を知ったときの私は、
「ほしたらどうせい言うんじゃあああああ」
と生まれ故郷ですらない土地の訛りで吠えたわけですが、これもショップ店員さんに相談しちゃいましょうか。
新世界の案内人たる店員さんがどちら派なのか把握して、自分もその色に染まっちゃう方が、当面は生きやすいんじゃないかという、そんな世渡りの知恵です。
そしてまた安易にサドルの買い替えをすすめてくるようなら、その店員さんの信頼度について、考え直してみるのもいいかもしれません。
一時しのぎでしたら、生理用ナプキンを使うという手もあります。あなたが男性であったとしても、法で禁じられているわけでなし、使ってみるのも一興と思いますよ。
あとはレーパンですね。サドルの痛み対策以外にもいろいろと優れた点がありますので、これをきっかけにレーパン買っちゃうのも手だと思います。


スポーツ自転車の専門店ですと、お客様を対象にサイクルイベントを開催していたりします。
イベントの性格もいろいろで、「自転車乗るオレ速くなるレースでる勝つ」みたいにストイックな人が集まるショップでは、早朝からひたすら練習に打ち込んだり。
「たくさん出歩いてきれいな景色見ておいしいものとかたべようねえ」とほんわかした雰囲気の人を集めて、「海に行って海産物を食べるぞイベント」、「山でおいしいそばをたぐるぞイベント」を開くお店があったり。
初心者向けに自転車の乗り方をじっくり教えてくれるイベントもありますしねー。
そういうイベントに参加して、いろいろ教えてもらいながら自転車友達を作るのもよし。
一人でひたすらたくさん乗るってのも楽しいものです。


だいたいこんなもんですかねー。
それではみなさん、良き自転車ライフを!




どうでもいいおまけ

乗り始めるとすぐにわかりますが、クロスバイクは速いです。
それほど頑張っているつもりがないのに、気がつけばママチャリをすいすい抜いてしまいます。
「ふははははは、ザクとは違うのだよザクとは!」
とか思ったりして通勤が楽しくてしょうがなかったんですけどー。
それだけじゃなかったんですよ。


スポーツ自転車に乗り始めた以上、ママチャリ時代より交通法規を厳守しようと決めていた私は、歩道がある道でも基本的には車道を走るようにしていました。
だからこそすいすい抜けたってのはありますよね。たいていのママチャリは歩道を走っているので。
んで、そうやって車道をシャアアアアアアと軽快に走りながらふと歩道を見ると、前のめりになった体を左右に揺らしながら必死に立ち漕ぎしている男子高校生がいるわけですよ。
たぶんその少年はちょっと前まで、友達と喋ったりしながらママチャリで楽しく歩道を走っていたんだと思うんですよ。
そしたらもっさりした中年女に抜かれちゃったわけですよ。現役男子高校生が。ダニエル・ブライアンのイエスエスTシャツとか着たオバサンに。
そりゃあびっくりですよ。プライドも刺激されますよ。
というわけでクロスバイク購入直後は、何かと男子高校生などに絡まれることが多かったんです。
ムキになって追いかけてくるのは男子高校生が一番多かったですが、男性というのは老若問わず負けず嫌いな生き物なんでしょうね。
サラリマン風の男性とかにも、よく追いかけられました。


まー、こう言ったらなんですけど、私も大人げない人間ですので! 最初の頃は、
「抜かせはせん、抜かせはせんぞー」
とか呟きながらスピードアップしたりして、クイーン・オブ・大人げないっぷりを遺憾なく発揮していたんですけれど。
なんかだんだん、怖くなってきまして。
歩道にはひとだって自転車だって多いのに、そういう場所に必死漕ぎしている人間が一人いるって、考えてみたらすごく危ないんですよね。
わざとスピードゆるめて先に行かせたりすると、彼らほどなく必死漕ぎやめちゃうので私がまた追いついちゃっったりしてね。そのことに気付いた瞬間、
「ババアが追いついてきやがった!」
みたいな顔されて、また必死漕ぎ始まったりしてね、ああもう!


とか思ってたんですけど、自転車用ヘルメットをかぶるようになったら、ほとんど絡まれなくなりました。
たぶんヘルメットをかぶっていると「ガチの人」っぽく見えるんだと思います。ヘルメットなしだと
「こんなもっさりオバンになぜ」
という気持ちになって火がつくんでしょうが、ヘルメットかぶってると、
「ガチなやつに抜かれるのは仕方ねえ」
と判断されやすいんじゃないですかね。


なのでヘルメットおすすめです。いろんな意味でかぶると安心安全です。




※ブクマで指摘あったので修正。☓「リカンデント」→○「リカンベント
ご指摘ありがとうございましたー。

二人目。カイちゃん(仮名)とそのまわりのおはなし その3

長々と続けてまいりましたモシノセ・カイ(仮名)ちゃんのお話は、本日完結いたします。
その1はコチラその2はコチラでございますので、よろしくお願い致します。

クモの巣で散歩

カイちゃんがサークルに顔を出すことはますます減り、二年の秋から三年の夏にかけての頃は、カイちゃんがどこで何をやっているのか、サークル内で把握しているメンバーは最早ほとんどいない状態になっていました。
たまにサークルに顔を出すと見知らぬ男性と二人連れだっりするんですが、その男性たちの顔ぶれも時々変わる上に肩書きが「友達」だったり「彼氏」だったり「元彼」だったりフクザツで、何がなんだかよくわかりません。
サークルをやめることも華やかな恋愛遍歴も、すべて個人の自由ですから別にどうでもいいのですが、カイちゃんの場合は、ちょっと問題があったんでした。


「カイちゃんと連絡がとれない! いっつも留守電だし、昨日とか家に行ってもいないし」
「あれ? 昨日ってカイちゃん、ずっと家にいたはずだよ? 夜、ぼくがバイトしてるコンビニにきて、『今日は一日中家にこもってたから、息が詰まっちゃいましたー』とか言ってたよ」
「うそっ? だってあたし、居留守かもしれないと思って、何回もチャイム鳴らしたんですよ! 電気のメーターも確かめて、昨日一日で三回もカイちゃんのアパート行ったのに……」
「なにその張り込み中の刑事みたいの」
「実はあたし、カイちゃんにフォーマル用の靴とバッグを、貸してるんです。来月姉の結婚式があるから、もう返してもらわないと困るんですけど……」
「あーそういえば○○もカイちゃんに貸したCDが返ってこないとか、ぼやいてたなあ」
これまでの経験から言って、カイちゃんにモノを貸すのは危険かもしれないということは、みな薄々わかってはいました。
ですが、カイちゃんのほうが一枚上手でした。渋る相手を説得するのが、彼女はとてもうまかったのです。
ゆえに「カイちゃんがどこで何しててもどうでもいい。個人の自由」とは、なかなか言いきれない状況でした。


そんな会話を横で聞いている間、私の頭の中では一つの疑問が、ぐるぐると回っていました。
(現実の人間関係って、リセットボタン押せる数に限りあるよね……?)
テレビゲームは好きなだけ何回でもリセットすればいいわけですが、同じ感覚を現実に持ち込めば、すぐに行き詰ってしまうでしょう。
(カイちゃんのリセットボタンは、あと何回押せるんだ?)


ある晩、またしても私のバイト先に、ふらっとカイちゃんが現れました。
「わー、シロイさんの助手席ひさしぶりー。うれしー」
カイちゃんは上機嫌で、にこにこしていて、一見元気そうではありましたが。
(痩せたよな? 顔色もちょっとよくないような)
(あー、でもわからん、気のせいかも。夜の車内は暗いからなー)
(今日はなにしに来たんだろう? なにか悩みがあるふうでもないし……)
私がぐだぐだ考えていると、カイちゃんがはずんだ口調で言いました。
「シロイさんて、ホームページとかやってるんですって?」
「げっ。なにそれどこ情報?」
「あ、いいですよーべつに、無理に見たりしません! それより実はわたし今、掲示板にはまってるんですけど」
それからカイちゃんは、インターネットで自分がどんな活動をしているかという話を、すごい勢いで始めました。
(そっか、ネットの話ができるひとが欲しくて、私のとこに来たのか)
そんな風に納得した私は、とりあえずカイちゃんの話に耳を傾けました。


「なんかー、わたしがやってるのはー、綺麗な夜景を見に行くのが好きな人たちがあつまる掲示板なんですけどー、たのしいんですけどーちょっと困ること多くてー。
社会人が多くて、みなさん優しくしてくださるのは嬉しいんですけどー、いろいろおごってくれるしー、なんかわたし、モテるんですかねー? なんでですかねー? ただちょっとみんながっつきすぎでー、そこ困っててー。
わたしはただ夜景見たいだけでー。誘ってもらえたから一緒に行くだけなのにー、ごはんとかお酒とか奢ってもらって、こんなにいろいろしてもらうと悪いなーって、すごく思ってー。みんな優しすぎっていうか必死すぎっていうかー」


(なるほど、インターネットという手があったか)
私は深く納得しました。
インターネットの人間関係ならばリセットは簡単、何度でも繰り返すことが出来ます。カイちゃんがはまるのは理の当然とも言えましたが。
(だけどネットの場合、リセットかけてくるのはカイちゃんの側だけじゃないんだぞ)
これまで彼女が渡り歩いてきた場では、カイちゃん以外はみな、これからも同じ場所に留まる予定の人たちでした。
その場に長くいるつもりの人は大抵、あまり無茶をしません。悪評が立てば自分が生きづらくなるからです。
リセットが容易な場所には当然、カイちゃん自身がそうであるように、「リセットが容易だからこそ」集まった人が一定数含まれていることでしょう。


「カイちゃん。ちょっとそういうの、やめなさい」
私の言葉は、何の意味もなしません。それは今に始まったことではなくずっと前からそうで、だからこれから話すこともきっと無駄で、けれどわかっていても、黙っていられない時があるのです。
「危ないから、すごく。知らない男性と二人っきりで夜景を見に行くのも、お酒を飲むのも」
「だいじょうぶですよー、みんないい人ですよー」
「そうだね。なんだかんだ言って世の中、善人の方が多いと、私も思う。だけどやっぱり、ネットは危ない。すごく悪いやつも、平気で混ざってるから。つうかネット以外でもそのシチュエーションは危ない」
「平気ですよー。みんなすごく優しくてー」
「ごめん、やな言い方するね。女に股開かせるためなら、いくらだって優しい顔するし金も使うって男は、ほんと多いですよ。女子大生と二人きりで夜景見学とか、誘ってる時点で下心ないわけないし」
「あはっ」
カイちゃんが笑いました。
「シロイさん、ありがとうございますー。でも大丈夫ですー、わたしだってそんなのわかってますよー。ていうか」
通り過ぎて行くパチンコ屋のまばゆい光で一瞬車内が照らし出され、私はカイちゃんが痩せたように見えたのは、気のせいではなかったことを知りました。
「今更そんなこと言うシロイさんにびっくりですー。どんだけ優しい場所で生きてきたんだよって、思っちゃいますー。当たり前じゃないですか、そのくらいやらせてやりますよ、それすら嫌な男とは会いませんよ、お互い楽しめばいいだけですよー」
「その程度の下心で済むなら、あなたはたぶん正しいだろうね。だけどもっと酷い男が相手だったら? 最悪の場合は殺されるかもしれないんだよ?」
「やだもー。ドラマとかの見すぎじゃないですかー。そんなこと本気で言ってるとアタマわるそうにみえますよ?」
「そうだね、頭悪そうだねマジで。だけど現実問題として、犯罪に遭遇する可能性は高いよね、そんなこと繰り返してると」
「ないない、ないですよー。そこまで危ない人なんてめったにいないし、会えばわかりますよー」
「うん、それもそうだ、カイちゃんはきっと正しい、好きにすればいい。だけど一つ訊くね、その掲示板に、好きな人いないのカイちゃん?」
きょとんとした表情を浮かべたカイちゃんはその瞬間、実年齢よりもずっと幼い、中学生くらいの女の子に見えました。
「いますけど?」
「その人とも出かけてる?」
「あんまり……まだ一回だけです」
「他の男の人のこと、その人知ってる?」
「いいえ。知りません」
「同じ場所でいろんな人と関係を持てば、そういうのはいずれバレるよ。ばらすやついるし。そうなったとき一番傷つくのは、カイちゃんを好いてくれる人。もし、カイちゃんの好きな人が、カイちゃんのことを好きになってくれたら、その人が一番かわいそうなことになる。それはわかる?」
カイちゃんが大きく目を見開きました。
「そんなの、考えてもみませんでした」
(相変わらず因果の理解が苦手なんだな……)
自分のどんな行動が「因」となって相手を傷つける「果」につながるのか、その流れがカイちゃんの頭の中ではすっぽりと抜け落ちているのです。
かつて何度も言われたように、カイちゃんには悪意がないのです。それはある意味、とても絶望的でした。
悪意は意志ですから。他人を傷つけることも、それをやめることも、自分の気持ちで決められる。
けれど悪意のないカイちゃんは、自分の振る舞いの何が他人を傷つけるか、きちんと理解していないのです。
ならば彼女が他人をいたずらに傷つけないためには、どうすればよいのでしょうか。
「大切な人につけた傷って、なんでか巡り巡って自分に返ってくるんだよね。そう思ったことない?」
「よくわかりません。どういうことですか?」
もちろん、カイちゃんはそう答えるでしょう。「因」と「果」を結びつけることが苦手なカイちゃんが、『巡り巡って返ってくる』なんて考え方、するはずがないのですから。
「たとえばさ、相手を怒らせちゃったら、ケンカになったりするじゃん? ケンカになると自分も辛いでしょ。そういうこと」
「ああ、なるほど! うーん、そうですね、ケンカは嫌ですね」
「だから、自分の好きな人、自分を好いてくれる人は、大事にしないと。好きな人を傷つけるようなことは、やらないほうがいいと思うんだ。それだけ」
「そっか。そういう考え方もあるんですね。なんか勉強になりました。とりあえず、バレないようにしないとですねー」
腹の底からぐっとこみあげる徒労感。きっと何も変わらないという確信。
(カイちゃんはこれからもたぶん、リセットボタンを押し続ける……)


やがてカイちゃんが上機嫌な様子で、別の話を始めました。
「シロイさん、わたしすごくいい映画見つけたんです!」
それからカイちゃんは、映画のストーリーやキャラクターの魅力、とりわけ主人公に共感して「ぼろぼろに泣いた」ことなどを早口でまくしたてました。
「絶対オススメですー。シロイさんも観てください」
「気が向いたら、ツタヤで借りようかな」
「そんなこと言わないで、すぐ見てください。そうだ! 借りる必要ないですよ、だってわたし、DVDもってます! 買ったんです! 貸してあげます!」
「いいって別に。すごく見たいわけじゃないし」
その話は一度そこで終わったかに見えました。


ドライブが終わってカイちゃんを送り届けようとすると、
「あ、そこで止めてください。アパートまで行かなくていいです。ありがとうございました。まだ帰らないで、ちょっと待っててくださいね」
小走りに去ったカイちゃんが、やがて小さな箱を手に持って戻ってきました。
「どうぞ! 観てくださいね、それ!」
DVDケースを押しつけるようにして渡したカイちゃんは、最後に一度振り返り、にこっと笑って、姿を消しました。



キャッチ・ハー・イフ・ユー・キャン

二週間後。
大学の学生課から、サークルに連絡が入りました。
「授業料未納の学生モシノセ・カイと連絡がとれない。届け出の住所には既に住んでいる様子がなく、電話もつながらない。彼女の連絡先を知る人間が、サークルの中にいないか?」


サークルの中は大騒ぎになり、そうなってから初めて、カイちゃんがあらゆる人に、借りられるだけのものを借りてからいなくなったことがわかりました。
服、靴、バッグ、CD、DVD、ゲーム機、ノートPC、本、マンガ、ゲームソフト。
更に、昔からサークルの人間がお世話になっているお店で、かなりの額の買い物をして、支払いは全部ツケにしていたこともわかりました。


後始末は、なかなかたいへんなことになりました。
慣れないスーツとネクタイを身につけた会長が奔走して、各方面に頭を下げました。カイちゃんがサークルの名前を出して作った借金は、サークルの活動費から返済を行うこととなりました。


数ヵ月後、全てが終わったと思った頃に、今度はカイちゃんがサークルに連れてきていた男性たちのうちの一人が姿を現し、モシノセさんと連絡をとりたい、と言いました。
最初のうちは、元カノにつきまとうストーカーと思われたらどうしようとか、そんなことを心配している風だった男性は、カイちゃんが授業料も払わずに失踪したと聞かされて、真っ青な顔になりました。
そして私たちは、カイちゃんが別れた後も「いいお友達」となった彼に何度も会い、その都度いろいろな理由をつけて、万単位でお金を借りていたことを知りました。
もしかすると他の男性たちにもカイちゃんはお金を借りていたかもしれない、また誰か来るかもしれない、としばらくみな警戒して過ごしましたが、結局サークルまで来た男性は、彼一人で終わりました。


カイちゃんが姿を消した理由は、よくわかりませんでした。
起業する知人を手伝うから忙しくなると、そう聞かされた人もいました。
実家で何かもめごとがあったらしいという噂もありました。
どれも理由としては不十分だと、思わずにはいられませんでした。
カイちゃんは退学の手続きすらとりませんでした。おそらく最後は除籍処分になってしまったはずです。
中退ですらない、除籍。
今後の人生、履歴書に「除籍」と書かなければならないデメリットを、知らなかったはずはないのに。
マイナス要素ばかりの道をなぜカイちゃんが選んだのか、私はまるで納得がいきませんでした。


もしかしてコレか、と思い当たったのは、数年後のことです。
私はその時、あるゲームをプレイしていました。
物語の中で主人公の女の子は、ちょっとしたことから、どんどん借金を重ねていき、やがて借金地獄に陥ります。
取り立てに怯えきった主人公はやがて、アパートの部屋に引きこもりました。
「借金こわー」
などと呟きながら私は、コントローラーをぎゅっと握りしめました。


電話が鳴りますが、主人公は出ません。借金取りからの電話かもしれないからです。
ドアチャイムが鳴らされますが、やはり主人公は出ません。借金取りがドアの向こうにいるかもしれないからです。
そんな風に誰とも連絡を取れなくなり、助けを求めることすらできなくなって、どんどん追いつめられていく主人公の様子がとてもリアルで、なぜか既視感がありました。


「カイちゃんと連絡がとれない! いっつも留守電だし、家に行ってもいないし。居留守かもしれないと思って、何回もチャイム鳴らしたんですよ!」
突然そんな台詞が、脳裏によみがえりました。
(だけどその日、カイちゃんは家にいたはずだった)
「カイちゃんてよく続くよなー金。携帯だけじゃない、他にもいろいろあるだろ。よっぽど仕送り多いのかなー」
(そこまで金があったなら、あんなにいろんなバイトをやってたはずがない)


ゲームと同じことがカイちゃんの身に起こったのだと考えれば、筋は通るし納得もできます。
いずれにせよ、本当は何があったのか、もうわかることはないのですけれど。
私は小さく息を吐いて、ゲームの続きに戻りました。
(だからってまあ、どうということはないんだよなあ)
どうして気付いてあげられなかったんだろう、とか。
どうすれば助けられたんだろう、とか。
あのときどうするのが正解だったんだろう、とか。
その手の後悔が私を苦しめることは、もはやないのです。


カイちゃんと最後に会った日。カイちゃんが私に向けた「どんだけ優しい場所で生きてきたんだよ」という言葉は、あの時点で既に、私を傷つける力を失っていました。
そりゃあちょっとはむっとしました。プライドとか、そういうのがちょっぴり、傷ついたような気はしました。
だけどそれはボタンつけの途中で針を刺した時みたいなもので、その瞬間は痛いし、数滴の出血があったりするけど、それだけ。ボタンをつけ終わる頃にはそんなことがあったことすら忘れてしまうような、小さな痛みと傷なんです。


もしも出会って間もない頃にあんなことを言われたなら私は、もっとずっと深く傷ついたでしょう。
悔んで悩んで、謝ったり怒ったり、心は忙しく揺れ動いたでしょう。
だけどそういうのが嫌だったから、私はカイちゃんと距離を置くことを選びました。
彼女のために心を揺らすことはなくなり、カイちゃんが失踪したときも、驚きはしたけれど、悲しみませんでした。
それは私だけのことではなく、大勢の人が同じような選択をしたのだと思います。


カイちゃんがいなくなって三年ほど経ち、ひさしぶりにかつてのメンバーで集まった時、酔った誰かが、
「おれたちはもっとカイちゃんに優しくすべきだったんだ」
と言いだしたことがありました。その時は、一人がそっけなく
「それは無理だった。たぶん今も無理」
と吐き出すように言い、皆がそれになんとなく同意しました。


カイちゃんから借りたDVDを私は、何度か引っ越しを重ねるうちになくしてしまいました。
結局私は、最後までそのDVDを観ないままでした。
なんとなく気が進まないまま後回しにしていたら、いつの間にかどこかに行ってしまったのです。
「ねえねえ、あたしこの映画好きなんだ。借りてきたやつ一緒に観ない?」
けれど大学を卒業して七年ほど経ったある夜、友人の部屋に泊まった時、そんな台詞と共に差し出されたDVDに記されていたのは、見覚えのあるタイトルでした。


二時間半後。
「ひさしぶりにみたけどやっぱいいなあ。泣いたわー」
などと言う友人の横で私は、茫然としていました。
「コレいいかあ? 見ててすげー疲れた。主人公みたいな人、周りにいたらやだけどなー」
「当たり前じゃん、あたしだってやだよ」
「!? そ、それは……一体どういう……」
「あの子って、ものすげー愛されたいヒトじゃん。愛して愛して愛して優しくしてって、そんな風に年がら年中主張してる人間、そばにいたらたまんねえっつーの」
「えええええ、だけどこの映画好きだって言ったじゃん、泣けるんでしょ?」
「物語と現実は別じゃーん。困ったちゃんだからこそ、この主人公は物語の中で魅力的なわけでしょ。そもそも、『愛されたい』ちゅー欲望は、主人公だけじゃなく、いろんな人みんなが持っているものなわけで。だけど、それをむき出しにするのは諸事情あってはばかられるから、みんな我慢してるのに、この主人公は我慢しない! 赤裸々にさらけ出す! フツーならどん引きされるはずのその振る舞いが、物語の中では純粋さと解釈されて、大絶賛で受け入れられる! そこがサイコーで、すごく憧れちゃうんだよね」
「そ、そういうもんなの?」
「そういうもんだよー。てゆーか、ヘンだねシロイ?」
「へっ?」
「普段気弱な子がアクション映画に憧れるシチュエーションなら、こんな説明なくても自然に共感するんじゃないのシロイは? 暴力で解決とかありえない、この主人公ひくわーとか、いちいち思わないんじゃない?」
「い、言われてみれば、確かにそうだ……そっか、カンフー映画にあこがれる秘宝系ボンクラと同じ構図と思えばよくワカル……」


ちやほやされたい、優しくされたい、興味と関心と好意をちょうだい!
それはつまり「愛されたい」ってことであり。
わたしはかわいい、わたしは特別、わたしはすてきで、他とは違う!
それはつまり「だから愛して」ってことである。


カイちゃんはいつだってとても愛されたがっていたのだなあと私は思い、だからこそこの激しいラブストーリーにはまり、共感したのだと、実感しました。


友人の講釈は続きます。
「アクションスターにあこがれた少年がヤンキーに喧嘩売ったらえらい目にあうように、この映画を見習うやつがやばいのも一緒だね。愛されたいってのは受身な願望だから、そんなことばっか思ってるヤツは、よけい嫌われたりするのがゲンジツ。だからこそ映画はファンタジーとして美しいのだ」
「そう?愛されたがっている人間が念願かなって愛されることは、あると思うけどなー」
「もちろんあるよ。だけどさ結局、愛される人間は、能動も持ち合わせてんの大抵。受動だけのやつは、ほぼ無理」
「ずいぶん思いきった断言するなあ」
「だってさ、部屋の窓を開けるとき、自分で立ちあがって開けに行くのと、他人に頼んで開けてもらうの、どっちが簡単で確実?」
「そりゃ自分でやったほうが確実だろうねえ」
「でしょ? 窓くらいなら簡単に頼めそうだけどさあ。それだって、『なんでおれが』とか『寒いから嫌』とか言われたら、けっこう厄介だし。もしも窓の開閉は必ず他人に任せることにしたら、すっごく大変で、すっごくストレスたまって、しかも窓は全然思い通りにならないと思うよ。そんで、愛されたいってのは、そういうことなんだよね! 主体が自分じゃなくて、相手。
つまり『愛されたい』というのは実のところ『他人を思い通りにコントロールしたい』という欲望なのです! だっけど感情とか行動なんて、自分のものですら完璧にコントロールしたりはできないわけで。ましてや他人のコントロールなんて、うまくいくわけないので、のめりこむほど欲求不満に陥って、自他共に苦しむのがオチですわ! あー現実は世知辛い」
「じゃー、愛されたい人はどうすればいいわけ?」
「それこそ千差万別、決まった答えのない問題でしょ。ただまあ、他者のコントロールを望むおのれの欲こそを、人はコントロールすべきなんだろうね。愛されたければまず愛せって、そういうことじゃない? 愛するというのは能動だから、まだしも制御可能なわけ。それがうまくできれば、結果として、愛されることもあるだろうってゆー」
「なんかずいぶん聖人君子的な結論だなー。実際にはただモテちゃうひとって、けっこういると思うんだけど」
「ただモテちゃうことは愛なのかね? こいつの体が欲しい金が欲しい、そういう『欲しい』気持ちだけが強い状態を『愛』とみなすのは、なかなか危険な錯覚ではないかね?」


缶ビール片手にとうとうと述べた友人はそこで、ぐにゃりとソファに崩れ落ちました。
「だからもういいんだあんな男……『してくれ』ばっかりで、『してあげる』のない相手に付き合うのは限界です……」
「まー、確かに要求の多いタイプではあったねえ。寂しがり屋ぽかったから、今頃はすっごく落ち込んでるんじゃないすか」
すると友人はがばりと身を起こし、新しいビールの缶に手を伸ばしながら私のセリフを「ハッ」と鼻で笑い飛ばしました。


「甘いなーシロイは、二か月前の私と同じくらい甘いわ。寂しがり屋だから一人にしたらよくないとか、私がいなくなったらこの人落ち込むとか、思いましたねかつて私も!」
「と、おっしゃいますと?」
「ああいう人間はね、タフなんです。すっげーパワフルでエネルギッシュだったりするんです。考えてみてよ、さっきの窓のたとえに戻るけどさ。自分でやったほうが簡単で確実に、窓は開閉できるわけでしょ? なのに懲りずに他人にやらせようとするのって、どんな人?」
「あーなんかわかってきた。難しくて手間暇かかってストレスかかる道を、わざわざ選んでるんだからってことね?」
「そっ。エネルギータンクがいっこ余分についてるような人間じゃなきゃ、そんなことできるわけないじゃん」
「でもさー、それだけたいへんなことしてたら、いずれ疲れちゃうんじゃないの? エネルギー切れ起こしそう」
「そーねー、だから若い頃さんざん遊びつくした浮気者が、急に落ち着いてマイホームパパになっちゃたりするんじゃないのー? 疲れた途端に、フツーに落ち着くってゆー……はああ、だから絶対心配しないんだ。あいつ絶対、私よりタフだもん。私より先に立ち直って、さくっと結婚したりするのさちくしょう……」


そのあたりで友人は酔い潰れ、なにかぶつぶつと呟きながら眠りに落ちてしまったんですが、一人のこされた私は、なんとなく深く納得できる気持ちになったんでした。
(つーことはたぶん、カイちゃんも元気にやってんだなあ……パワフルにエネルギッシュに。そんでまあ、トシと共にエネルギーが衰えて、そんで落ち着くんだなあきっと。それがいつなのかは知らんが)


私はなんとなく携帯から某SNSにアクセスし、「モシノセ・カイ」でユーザー検索をかけてみました。
ヒットしました。
写真もありました。
プロフィール欄に目を通すと、好きな映画のタイトルがいくつか並んでいる中に、
「……ないじゃんコレ。はまったんじゃなかったんかよ」
先ほど鑑賞したばかりのラブストーリーは含まれていませんでした。
「つうか、映画の好みだけじゃなくてこのプロフィールなんか……」
昔のカイちゃんのイメージと、ちょっと違います。
(そういえばばそもそもカイちゃんは「変わりたいです」とすごく真剣に言ってたよなあ……)
エネルギーが衰えたのか、それとも全然別の理由か、あるいはただ単純に「成長」ってやつがあったのか。
「借金……はしてたかどうかわからないけど、とにかく今は問題ないんだろうな。こうやって名前出してんだし」
タフでパワフルで、嘘つきの女の子。
もう会うこともないだろうけれど、それでも。
「ゲンキニヤレヤー」
呟いて私は携帯を閉じ、立ち上がりました。
目前の酔っぱらいが目を覚ました時のために、コンビニに水でも買いに行こうと、思いながら。
まあとにかく。
昔の知人がどこかで無事に生きているらしいってのは、悪いことではありません。