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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

ア・リトル怖い話〜初夏の味編〜

かつて、ちょっとだけ怖かった話をします。
裏返せば、それはちょっとしか怖くなかった話ということになるのですが。


友人Mと温泉に行き、ホテルに泊まりました。
翌日、朝食を終えて部屋に戻った私は、先に立って鍵を差し込み、ドアを開けました。
後から部屋に入ってきたMは、身支度のためにバスルームに入り、私は忘れ物がないか部屋の中を見て回り、そして気付きました。


部屋の隅の目立たぬ場所に、ひっそりとソーダの瓶が置いてあります。
「置いた」というよりは「隠した」という言葉のほうが、しっくりとくるかもしれません。
丹念に部屋の中を見て回ったのでなければ、見落としてしまいそうな場所でした。


見覚えのない瓶でした。
前夜、Mと私は、近くのコンビニに出掛けてジュースを買ってきていたのですが、そのとき買ったものとは全く違う瓶なのです。
私に覚えがない以上、このソーダを買ってきたのはMなのでしょうが、それにしてもいつの間に?
私は首を傾げ、身支度を終えてバスルームから出てきたMに、
「このソーダ、いつ買ったの?」
と訊ねました。


Mが奇妙な顔をしました。
私がその顔つきの意味するところを掴めずにいると、Mはさっさとソーダの瓶に歩み寄って、手を伸ばしかけました。
次の瞬間、Mはさっと顔色を変えました。


Mの右手は空中で止まり、指がためらいがちに震えたように見えました。
やがてMはおずおずと指先で瓶に触れましたが、すぐにその手を引っ込めました。
どうしたの、と私が声をかけようとすると、Mは片手を上げて私を制し、指を一本、唇の前に立てました。
私は反射的に言い掛けた言葉を飲み込みました。Mはその様子を見て、よし、というように頷きました。
それからMはきょろきょろと部屋の中を見回していたかと思うと、私のほうを向き、身振りでかばんを持つように指示しました。
M自身の右手も、既にかばんを掴んでいます。
Mが私の後ろに向かって顎を動かしました。
部屋を出よう、ということなのでしょう。


予定もありましたので、私たちは朝食後早々にチェックアウトするつもりではありました。
身支度も既に済ませてあります。
それにしても、何故突然急ぐのだろう?
私のいぶかしげな表情を見るとMは黙って首を振り、またしても唇の前に指を立て、言いました。
「喉渇いちゃったから、ジュースを買いに行こう。戻ってきてそれをゆっくり飲んでから、出ることにしようよ」
それからMは私の腕に手をかけ、有無を言わさぬ様子で、部屋の外に私を押し出しました。 


部屋の外に出て数歩進むと、Mが小声で呟きました。
「……あせをかいていた」
「えっ?」
「あの瓶。汗をかいていた」


ああ、と私は頷きました。
ソーダの入っていた薄緑色のガラス瓶が、その表面に細かな水の粒を浮かせていたことを思い出したのです。
「それが?」
私が問うと、Mはこわばった顔でこちらを見ました。
「わからないの?」
「わからないって……なにが?」
「あの瓶が汗をかいていた、その意味だよ。よく冷えていたってことだよね? つまりあれは、冷蔵庫から出されたばかりの瓶なんだ……そうじゃなきゃ、買ったばかりの瓶だったてことだ」
私は首を傾げました。Mの言いたい事が、まだよくわかっていなかったのです。
Mはもどかしげな顔で言葉を続けました。
「シロイはあのソーダ買ってないんでしょう?」
「うん」
「あたしもだよ。あたしも買ってない。でもそのことは判っていたでしょう。あたしたちは一緒に起きて、一緒に食事に行って、一緒に部屋に戻ったんだから。あたしたちは今朝、一度も離れなかった」


私はそこで目を見開きました。言われてみればその通りです。
私たちは、ずっと一緒だった。
そしてその間、Mも私も、ソーダを買わなかった。


「あのソーダは、私たち以外の誰かが、あそこに置いたものなんだよ」
Mの顔は蒼ざめています。
「それも、ついさっきのことだよ。瓶があれほど冷えていたんだから。ほんの少し前、誰かがソーダを買ったんだ。たぶんその誰かは、あたしたちが朝食をとっている間に、あの部屋に入ったんだろうね。ソーダを持って」
「嘘。嘘でしょう。あたしを脅かそうとしてるんでしょう。Mがあのソーダの瓶を、あそこにこっそり置いたんでしょう」
「そう思う? じゃあ聞くけど、食事から戻って、部屋に先に入ったのは誰?」
「……あたしだ」


そう、部屋の鍵を開けたのも、先に入ったのも私でした。Mは部屋に入るとすぐにバスルームに行った。彼女がソーダを私に気付かれぬようにあの場所に置くことは不可能だった。


瞼の裏に、情景が浮かびます。
Mと私が空けた部屋の中に、そっと入っていく人影。その手にはよく冷えたソーダの瓶がある。
部屋の中を、人影が歩く。
やがて、廊下から人の気配。Mと私の話し声。部屋の主が戻ってきたことに気付いた人影は、咄嗟に目立たない場所にソーダの瓶を隠し……


「ちょっと待った」
私はそう言って立ち止まりました。気付いてしまったことがあったからです。
「もしかして、そのひと、まだあの部屋の中にいるんじゃないの?」
言ってからすぐに思い出しました。
Mが部屋の中をきょろきょろと見回していたこと。あれは……
「あたしもそう思った」
Mは頷きながら言いました。
「瓶が汗をかいていることに気付いたとき、すぐにそのことを考えた。ああ、この部屋には今誰かがいるのかもしれないって」


Mと私は、その後ロビーで荷物をあらため、盗難などの被害がないことを確かめた後、チェックアウトのときにソーダの瓶のことを話しました。
警察には連絡しませんでした。被害がなかったのですから、そんなことをしても無意味です。


部屋の中からは、誰も見つかりませんでした。


その後、Mと私は予定通りの日程を消化して、旅行を楽しみました。
ですがその間、私の念頭からは、「自分達はきわどいところで何かを逃れたのではないか」という思いが去ることはありませんでした。
口にはしませんでしたが、Mも同じ思いだったのではないでしょうか。


私はソーダが好きです。以前も好きでしたし、今も好きで、よく飲みます。
ソーダの味は、夏の味、強い日差しの味だと、子どもの頃から思っていました。
だから私は、考えたくない。夏を象徴するあの飲み物を、他のイメージで汚したくないのです。


ホテルの客室に潜む人影なんて、まるで都市伝説のよう、B級ホラー映画のようで、ひどく滑稽で馬鹿げています。
きっとあの瓶があそこに置いてあったことには、何か納得のいく理由があるのです。あんなものに怯えるなんて、おかしなことなのです。
あの部屋の中には、誰もいなかった。
私たちは、些細なことに大げさに怯えてしまっていただけで、こっそりと気付かれないように部屋を出て行ったことなど、無意味だったに違いないのです。


けれどあれ以来、ソーダという言葉は私に、もっと別のイメージを連想させることが増えました。


緑色のガラス瓶。中に入っているのは冷たくて甘いソーダ
瓶の表面には幾粒も水滴が浮かんでいて……




そしてその傍の物陰には、誰かが潜んでいる。
息を殺して。


今日もどこかのホテルの客室で、見知らぬソーダの瓶を見つけて、いぶかしむひとがいるのかもしれません。