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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

この場所でこれから

「先生、英語で『ただいま』はなんと言えばいいんでしょう?」
「うーん、英語では『ただいま』に当たる言葉はないねえ……帰ってきてそこに家族がいれば”Hello.”と声をかけたりするから、それが『ただいま』と言えないこともないけど……ああ、そうそう、こんなのもあったな……」
そう言って先生が教えてくれた短い文を、中学生だった私は、素直に記憶しました。




ただいま、という言葉を口にする度に、ためらいを覚えるようになったのは、いつからだったのでしょう。
私には家がない、という思いに捕らわれるようになったのは、何年前のことからだったのだか。


実家は未だに私の家です。私は帰省するとき「ただいま」と声をかけます。
けれど。
私が親元を離れて生活するようになって、既に十年が経ちます。
当然のことながら、家の中に私の痕跡は薄い。あの家は両親の家なのであって、私はたまにそこを訪れる親しい客に過ぎないのだなあというのが、正直な実感です。
もちろん、私がもう一度あの家で暮らせば、そこはすぐに我が家に戻るでしょう。家も両親も、私を快く迎えてくれるでしょう。そういった意味では、あの家はこれからも私の家であり続けるのですが。
それでもやはり、私は実家に帰るたび、「ただいま」と声を出す前に、一瞬考えてしまうのです。この家は本当に私の家なのだろうか、と。


九年間、私はひとと共に暮らしていたわけですが、私は自分がいつの間にか、自分が暮らしている部屋を、我が家だと思えなくなっていることに気付きました。
私はこのひとの部屋に、一時的な滞在客として場所を借りているに過ぎない、という思いが日に日に増していったのです。


たとえば電話がかかってきたときに、そんな気持ちはふくらんでしまう。


彼の名義でひかれた電話に、私は共同生活者として、自由に出てもいいことになっていました。けれど。
「もしもし、××さんのお宅ですか?」
××というのは、彼の名前です。
「はい、そうですが、××は外出しております」
「それではそちらは××さんの奥様でいらっしゃいますか?」


「はい、そうです」と答えたときも、「違います。友人です」と答えたときもあります。どちらの答えも、私をやりきれない思いにさせました。
私が××の奥様だと思われたことを知ったら、彼の両親がどれほど憤慨するだろう、などと考えると、自然と洩れてしまう苦笑とため息。


本当に、私は一体誰なんだろう。彼にとっての何なのだろう?


私は自然と、電話に出なくなりました。電話のベルが鳴り出すと、息をつめて電話機を見守り、電話が切れると安堵の息を吐くようになりました。
同じ理由で、訪問者をやり過ごすようになりました。新聞、生命保険、薬、ありとあらゆる種類のセールスが、私を脅かします。
「奥様ですか?」
「違います」
「ああ……今は籍を入れない関係も、流行ってますものね?」
流行のことは知りませんが、あのひとと私が籍を入れることを、絶対に許さないひとたちがいるもので。
もちろん、そんなことは言えないけれど。


「どうして家の電話に出てくれないの?」
と不機嫌そうな顔で××が尋ねてくることがありました。
「どうして玄関に誰かが来たとき、すぐに出てくれないの?」
ごめん、と私は謝ります。ちょっと億劫だったの、本当にごめん。
「億劫って、そんな理由で? 大事な電話かもしれないし、大事なお客かもしれないんだから、今度からはちゃんと出てね」
私は返事をせずに、曖昧に笑いました。そんな約束など、できるものか。


一人暮らしを始めた頃、私は誰もいない自分の部屋に向かって「ただいま」と声をかけることがありました。
私の部屋、私の生活、私の治めるささやかな領土。それを確かめる意味での「ただいま」という声。


私の領土は、どこに行ったのだろう?
××と一緒のhouseに私は住んでいる。けれどここは、私のhomeではないのだという確信が、じわじわと私にのしかかる。
私はゲストであり、一時的な滞在者であり、主人である××の好意に甘えているだけの存在である?


いつの間にか、ふとした折りに「帰りたい」と呟くことが多くなりました。
帰りたい……でもどこに?
私のhomeに。私の部屋に。私が客ではなく、主人として生きられる場所に。
ああでもそれがどこなのか判らない。


そして流れる月日。
私が、××のゲストですらなくなる日が訪れ。
それでも私は生きなくてはならず。
そのためには帰って眠るための場所が必要で。
私は部屋を、探しました。



「……それではここに印鑑を押していただければ、契約は完了ですね」
不動産屋の女性は、生真面目な表情で言いました。
「鍵をお渡しします。正式な入居は明後日からになりますが、今日からもうお部屋に入ることは可能ですよ」


私はぴかぴか光る真新しい鍵を握りしめながら、アパートの急な階段を上りました。
荷物の運び込みの前に、掃除だけでも済ませておくことにしたのです。
階段の手すりのペンキはところどころ剥げ落ちており、その下の真っ赤な錆が見えました。
駅から徒歩十五分、格安の家賃で見つけた、古ぼけたアパート。誰かに羨ましがられるような暮らしではないだろうけど。


掃除を終えた私は、開け放たれた窓の傍の床に、しゃがみこみました。
「……なんか眠くなってきた」
本当は、この部屋に入ったときから、私は既に眠くなっていたのです。不快な眠気、疲れと不調を感じさせる眠気ではなく、もっと穏やかな眠気ではありましたが。
「眠い眠い寝たい……なんでだろ。こんな床の上で寝たって、身体痛くなるのに」
あくびを繰り返しながら私は、被っていた麻の帽子をぽんと床に放り、その上に頭をのせると、あっさりと眠りに落ちてしまいました。


長い時間、眠っていたわけではありません。
何もない床の上で、麻の帽子を枕にして、それほど長い間、眠れるわけがありませんから。
目覚めた瞬間、私は自分がどこにいるのか、思い出せませんでした。
見覚えのない天井。家具が一つもない、がらんとした部屋。


けれどこの場所は、ひどく落ち着く。しっとりと肌に馴染む。
これほど安らかに眠れたことは長い間なかったと、私にそう思わせる。
なぜだろう?


私は首を傾げながら身体を起こし、理解は唐突に訪れました。


ここは私の家、私が治めるささやかな領土なのだ。
ここは私の家だと、私はここに住んでいるのだと、胸を張って言える場所に、私はついに戻ってきた。


帽子を拾い上げて立ち上がり、私は自分が微笑んでいることに気付きました。


中学時代、英語の先生が教えてくれた三語文が思い出され、私はそれを小声でそっと、呟きました。
“I’m home.”


私は私の家に、homeと呼べる場所に、やっと帰ってきたのです。