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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

父の親友とその裏面

 昔、私の父シロイ・ネコヒコ(仮名)の職場にはドウドウさん(仮名)という二歳年上の先輩がいました。
 二人はたいそう仲が良く、ドウドウさんの奥さんが出産なさったときは、独身だったネコヒコが名付け親になるよう頼まれたほどでした。
 ネコヒコが母と出会ったときは、
「シロイの家にはティーセットがないだろう。彼女が家に来てくれたとしても、そんなんじゃ振られちまうぜ」
と言ってドウドウさんは高級なティーセットを揃え、ネコヒコのもとに持ってきてくれました。
 私の故郷はたいそうな田舎です。ネット通販もなかった時代に珍しくて高級なティーセットを手に入れるのは、きっと大変なことだったでしょうに。
 ドウドウさんはニコニコ笑いながら当然のように、手を尽くしてくれたのです。

 

 幼い頃の私は、ドウドウさんにたいそう懐いていました。
 私は彼を「じいちゃん」と呼んでおり、その都度両親は慌てて謝り、
「その呼び方はやめなさい」
ときつく言ったものです。
 私はなぜそんな風に止められるのかわからず、きょとんとしていました。
 両親は彼を「ドウドウさん」と呼びなさい、と命じます。
 けれどそれはあまりに他人行儀で遠い呼び方のように思えました。

 

 この人がわたしのおじいちゃんじゃないことはわかっている。
 だけどわたしにとってこの人は、おじいちゃんみたいに近くて安心できる人なんだ。

 

 あの頃の私がぼんやり感じていたのは、大体そんなようなことです。
 だから他の大人と同じように呼ぶのは嫌で。
 近しくて気安くて特別な、そういう呼び方が必要だと思っていたのです。

 そして私のその思いは、ドウドウさんにちゃんと伝わっていたようでした。
「いいよいいよ。じいちゃんて呼べよ、ケイキ。な?」
 そう言ってじいちゃんは屈み込んで優しい目で笑い、私は嬉しくなって彼のスーツに顔をこすりつけたりしました。
 固くてちくちくしてタバコのにおいのする、懐かしいじいちゃんのスーツ。

 

 さて。
 月日が流れるうちに、ドウドウさんと父の関係がかつてのように緊密ではなくなっていくことを、子供である私も感じ取るようになりました。
 母と小声でドウドウさんの話をしながら、何度も首を振る父。
 しょっちゅう我が家にやってきては楽しそうに父と酒を飲んでいたドウドウさんの顔を見る回数はどんどん減り。
 中学生になる頃には仕事で何かあるんだろうなと、私にも見当がつくようになりました。
 久しぶりに顔を合わせた時、
「おう、ケイキ。じいちゃんだぞ」
と笑う彼に、私は頭を下げながら
「ドウドウさん、お久しぶりです」
と挨拶をしました。
 ドウドウさんは驚き、それからちらりと寂しそうな顔をしましたが、すぐ笑顔に戻りました。

 

 やがて私は、父の会社で大規模な人事異動が行われたことを知りました。
 ドウドウさんは順調に出世を重ね、会社のトップにかなり近いところまで登っていたのですが、大幅に降格させられたそうです。
 全社をひっくり返したような騒ぎの中で、父のポジションは変わりませんでした。にも関わらず、父はひどく消耗しきった様子でした。
 その後も父は鬱々とした表情を浮かべるようになり、疲れたように顔をこすることが増え、しばらくして長年勤めたその会社を辞めました。

 

 数年後、ドウドウさんが亡くなりました。
 既に成人して親元を離れていた私は、帰省時に父の口からそのことを知らされました。
 そして父は打ちのめされたような表情を浮かべながら、ドウドウさんの葬儀の話を始めたのです。
 人生の総決算とも言えるその場で、ドウドウさんの身辺のスキャンダルが大量に吹き出したこと。
 生前のドウドウさんが社内の自分の立場をフル活用して、思いつく限りのあらゆる不正な利益を得ていたことが明らかになりました。
 大勢の人がドウドウさんを恨んでいました。
 それはドウドウさんの家族すら例外ではなく、父が名付け親となった息子さんまでもがどこか冷めた表情をしていたそうです。

 冷ややかで涙の少ないお葬式。
 ドウドウさんはなぜかシロイ・ネコヒコとその家族の前でだけ別人のように振る舞っていたのだということを、私はその時知りました。

 

 父はドウドウさんの悪評について、それまで知らずにいたわけではありません。
 何十年も一緒に働きながら、悪しき面を知らずに済ませるのは難しいですから。
 だからこそ父とドウドウさんの距離は、少しずつ開いていったのです。
 決定的となったのは会社のトップ近くにまで出世したドウドウさんがライバルを追い落とそうと、派閥争いを激化させたことでした。
 父はドウドウさんの派閥に加わることを拒み、ライバルの派閥にも与しないことを選びました。
 そして一人こつこつと両派閥の動きを観察し、問題のある行為を記録して証拠を集め続けたのです。
 父はその証拠を、所属会社の親会社に提出しました。
 ドウドウさんとライバルの双方が厳しい処分を受け、結局親会社が外部から連れてきた新しい人材を社長に据えました。
 父は一連の流れに消耗しきってしまい、会社を去ることを決めたのです。

 

 多くの悪評を耳にし、愚かな派閥争いを引き起こしたのを目にして。
 それでも父は、ドウドウさんに対して冷ややかになりきれずにいました。
 ドウドウさんは父の前ではずっと優しくて面倒見が良くてにこやかな、頼りになる先輩のままでしたから。
 開いていく距離を感じ、それを詰めようとは決して思わないながらも。
 父はどこかでドウドウさんを信じ続けていたのです。

 

 けれど最後に遺族の家で出された一杯のお茶が、父の心を砕きました。
 目の前に置かれた湯のみに、やけに見覚えがあったのです。
 どうして見覚えがあるんだろう。考えて父は、気づきました。
 当たり前だ、これは会社の備品だったやつじゃないか。
 父は顔を上げ、辺りを見回しました。
 そしてドウドウさんの家の中が、見覚えのある品だらけであることに気づき。
 あんなにしょっちゅうシロイ家を訪れたドウドウさんが、なぜ自分のことを家に呼ぼうとしなかったのかを知ったのです。

 父は理解しました。
 自分の目に映っていた姿ではなく、周囲が悪しざまに言っていた姿こそがドウドウさんの真実だったのだろうと。
 清廉潔白な人でないことはわかっていた。どこか暗い部分があるとは感じていた。
 けれどそれだけではない人だと、良い部分もたくさんあって、信じるに足る人間でもあるのだと
「信じていたのになあ」
と父は言いました。
「悪い噂はたくさん聞いたけど、それでもいくらなんでもあんな……機会があれば盗れるものはぜんぶ盗るような、そんなつまらない人じゃないと思ってたんだよなあ」
 いつも楽しそうに晩酌をする父が、その日は顔をしかめながら酒を飲んでいました。

「おれはドウドウさんを」
一瞬言葉が途切れ、
「し、親友だと思っていたんだよなあ」
そう言った父の声は震えていました。
「そんなこと、一度も言えなかったけどさあ。大の男が、照れくさくって。でも」
 本当にそう思っていたんだ、と呟く声。
「入社したばかりの頃に、ドウドウさんとよく話したんだ。この会社はこのままじゃだめだって。おれたちが変えていこうって。あのときドウドウさんは、いずれおれが社長になって変えるって言ったんだよなあ。現地採用組のおれたちにはすごく難しいことだけどやってやるって。だからおれはそれを手伝うって約束したんだよ。なのになあ……」
 騙されていたのかなあと嘆く父を見ながら、私が考えていたのは別のことでした。

 信じていたのに騙されたと、父は言いました。
 だけどたぶん、それは違って。
 この人は信じていたからこそ騙されなかったのではないかと、私は父の顔を見ながら思いました。
 ドウドウさんの周りにいた大勢の人の中で父だけが、奪われも貶められもせず、お互いに助け合って長い月日を歩くことができたのです。
 実際に騙され謀られたのは父ではなく、ドウドウさんを悪し様に言っていた人たちなのです。

 自分はどうせ悪人だとそんな風に思っている人間でも、自分を素直に信じ評価してくれる人の前では真人間として振る舞う。
 そんなお話は 世の中にありますものね。
 おそらく父は無自覚に、ドウドウさんが本来こうありたいと思う自分になれる場所を提供したのではないでしょうか。
 ドウドウさんだって最初から、自分に可能なあらゆる不正を働くような人間になりたかったわけではないのでしょう。
 本当はもっと違ったこうありたい自分像があって、けれどもどうしてかそこから少しずつずれた生き方をするようになってしまって。
 今更こうなりたいという言葉を、誰も信じなくなってしまって。
 けれどたった一人、信じ続けた人間がいたのでしょう。
 だからこそドウドウさんは、その場所だけは失わないようにしたのではないでしょうか。

 

 信じる者がバカを見るとか言いますし、疑ってかかるほうが利口という考え方があり、人間なんて誰も信じられないとかおっしゃる方がいます。
 私は全て、正しいと思います。
 ドウドウさんの本質に近いのは、父や私が見た姿ではないのでしょう。
 どこまでも自分を守りたいのであれば、誰のことも信じずにいるのが賢いのでしょう。
 けれどやはり、私は人を信じたい。
 ドウドウさんのことを周りのみんなが父と同じように信じていれば、逆に誰も騙されなかったんじゃないかなんて、そんな風に夢見たくなってしまう時があるから。
 信じてうしなうものは数多いけれど、信じたからこそ得られるものも決して少なくないと、私はそう思いたいのです。

今更すぎるんですが「Fate/hollow ataraxia」はいいぞ

今年3月に「今更だなあ」と思いつつ「Fate/Grand Order」を始めたところすっかりはまってしまい、先日ついに人理を修復いたしました。
終章のストーリーに深く感動してしまい興奮さめやりませんので、「Fate/hollow ataraxia」の紹介をいたします。
「え、なんで? そこはクリアしたてのFGOの感想とかになるんじゃなくて?」
と思われる方もいらっしゃるかと思いますけれども、全くそのとおりですなあと私も思うのですけれども、しかしながら山ほどあるFateシリーズの中でも私が一番好きなのは「Fate/hollow ataraxia」なので、仕方ないのです。
そしてまた、FGOの終章で得た深い感動は、「Fate/hollow ataraxia」の感動になんだかひどく似ている気がしましたので、ここはぜひFGO大好きだけどhollow ataraxia 未プレイの方に
「だったら! やっとく! べきですよ!」
と声を大にして伝えておきたいと、余計な使命感にとらわれたわけです。
というわけで今回のエントリは、オタクが自分の好きな作品について語るときの声がちょっと甲高くなって早口になるあの感じで書いていきます。


「ところでそのhollow ataraxia ってなによ? stay night は知っているけど」
という方が多いかと思いますのでそこから説明いたします。
Fate/stay night」は本編にして原点でして、Fateシリーズをとりあえず知りたいという方は、stay night をやればいいわけです。それ以外の山ほどあるコンテンツは、そこから派生した外伝だったり並行世界だったりするわけなので、stay night がお気に召してもっと他にもFateが欲しいぞーとなったら手をだせばよろしい。
そしてその「もっとFate欲しいぞー」となったとき、じゃあ次に選ぶべきFateって何よとなったら、そこはあなたhollow ataraxia をやるべきなのですよ、というのが私の主張です。


hollow ataraxia はstay night の続編にしてファンディスクにあたる作品です。
と言ったらこの間友人に「ファンディスクってなに?」と訊かれて、オタクとそうじゃない人間との間の深い溝の存在を痛感したわけですが、皆様はファンディスクとは何かご存知ですよね? ご存知ないならググってください。
stay night プレイ済の方ならわかってもらえるかと思いますけれども、あれは聖杯をめぐって行われる「戦争」の話ですので、登場人物はばんばん死にます。ルートによって生存者の顔ぶれは変わりますけれども、とにかく魅力的なキャラクターが景気良く散っていくお話です。
だからなのでしょうか。どのルートの後日談という設定にしても人気キャラが大勢脱落済みとなり、ファンへのサービス精神に欠けてしまうということなのか、本編の半年後という設定のhollow ataraxia の世界ではほとんどのキャラクターが生存した状態で物語が幕を開けます。
なにそれおかしいじゃんどういうことよ、とここでまず初プレイ時の私は思ったわけですが、シナリオの中でも主人公あたりが同じ疑問を抱いて事態の解明に乗り出していくのです。


本編であるstay night がぴりぴりと緊迫した死と生の間をぎりぎり綱渡りしていくような話であるのに対し、hollow ataraxia はひたすら穏やかで明るくコミカルな雰囲気で話が進みます。
私はこの本編との落差に最初は戸惑ったのですが、この穏やかで明るい物語が本当に楽しいので、シリアスに死んでいったはずのキャラクターが見せる日常の顔があまりにも魅力的なので、いつしかギャップなど気にせずニコニコとえびす顔でhollow ataraxia 世界を満喫することとなったのでした。
と言いつつもそれはあくまで「昼」のお話で、舞台が「夜」となりますと一転します。
なぜいないはずの人々がいるのか?
そしてなぜ物語は同じ四日間を何度も繰り返し、その四日間に起こり得た可能性をすべて塗りつぶすようにして進んでいくのか?
という謎が不穏な空気を孕みながら迫ってくるのです。


さて、このhollow ataraxia の魅力を語るにあたってですね、昼と夜、コメディとシリアスなパートが双方それぞれの魅力に溢れて面白いですとか、キャラクターの新たな側面が見られるのが楽しく嬉しいですとか、伏線とその回収が見事とか、誉め言葉はいくらでも出てきます。
出てきますけれども、私がこのゲームで衝撃を受けたのはそこではないんです。


あのですね。
ゲームに限らず、「物語」というものは、読み手の感情移入を促すべく、いろいろ仕掛けられているものですけれども。
特にゲームにおいてはプレイヤーが主人公を操作することになりますから、そこの一体感を生むための工夫がキモになったりしますよね。
有名どころですと、ドラクエの主人公がしゃべらないってのがそうだったりしますよね。
あとは、主人公が記憶喪失とか、突然わけのわからない世界に飛ばされてとか、そういう設定も感情移入に効果的ですよね。プレイヤーと主人公、双方が世界や設定に無知だからこそ、共に学習していくことで一体感が生まれる。
私もこれまで、いろんなゲームの工夫に助けられて、たくさんの主人公に感情移入してきました。
hollow ataraxia にも、同じような仕掛けがあります。主人公とプレイヤーの一体感を生む仕掛けが。
けれどこの仕掛けは、私にとっては生まれて初めての衝撃を伴うものでした。


ネタバレを避けるためなんだか曖昧な語り口になってしまって申し訳ないんですけれども。
私が今までしてきた感情移入というのは、自分が主人公のような気持ちになって、主人公を動かすというものでした。
それが、hollow ataraxia では逆なのです。
冒頭からずっと私は、ゲームをどっぷり楽しみつつもほどほどの感情移入をしていました。
自分と同一視、一体感を覚えるほどではなく、親しい友人ほどの距離感で主人公の行動を眺めていたのです。
ところが物語がかなり進行したあるシーンで、突然その前提がひっくり返されたのです。
殺伐とした本編とは違う、平穏で明るくてちょっと退屈な日常シーンを私は「もっと見たい」と思いながらプレイを続けていました。
けれどそのシーンで私よりもずっとずっと強く、その願いをいだいていた人がいることを知ったのです。
穏やかな何気ない些事を、楽しくて明るいやりとりを、ひりつくように欲していた人がいて、その願いこそがこの物語を生み出し、終わらない四日間を回していたのだと知らされたのです。
本当に、あのときの気持ちをどう言えばいいのか。
私はあの瞬間、
「ああ、この人はプレイヤーである私よりもずっと『プレイヤー』だ」
と思ったのです。
私はそれまで、物語を進めるも止めるも自分次第であると、考えていました。当然です。私がプレイヤーなのですから。
だけどそれは違うんだ、と私は愕然としました。
逆だ。
誰よりも苛烈にhollow ataraxia という物語を欲した「この人」が、私を操作してこのゲームをプレイしているんじゃないかと、そんな風に感じたのです。
繰り返される終わらない四日間は、「この人」にとって唯一の救済であり、その救済のために私が動かされているんだと。


そのことに気づいた時、私はこのゲームを「終わらせたくない」と思いました。
この先何度同じことを繰り返すとしても、そうすることで全てが退屈に変わり輝きがうしなわれることになるとしても。
それでもこのゲームを終わらせたくない。「この人」は救済されるべきだ。誰よりもそれを求める権利がある。私よりもずっと、「この人」の思いこそが優先されるべきだ、と。
けれど私がそう思い始めてから物語は、どんどん終盤へと向かっていくのです。
救われ、許され、認められるべき「その人」は、それでも他者のために物語を終わらせようと動き始めるのです。
hollow ataraxia をプレイしていた最後の二十分間ほど、私はずっと泣いていました。
鼻をすすり、ぼろぼろ涙を流し、ティッシュとゴミ箱を抱え込むようにしたみっともない姿で、手を動かし続けました。
終わらせたくないと、私は思っているけれども。
「この人」は終わらせるべきだと、考えたのだ。
ならば終わらせるしかない、「この人」こそがプレイヤーなのだから。
たとえそれが「この人」にとって痛みと喪失を伴う、耐え難い出来事であるとしても。そのような思いをしてほしくないと、私が願っているとしても。


大好きなゲームをプレイして、終わるのが悲しくて、クリアしたあとの達成感を味わいながらもさみしい思いを味わってという経験は、それなりにしています。
主人公と自分を重ね合わせて物語世界に引き込まれたこともあります。
けれど、あんな気持ちになったゲームは「Fate/hollow ataraxia」だけです。


今でも「Fate/hollow ataraxia」のことを思い出すと、胸の奥がかすかに痛みます。
救済されるべきだと感じた、本当はもっと与えられるべきだった「あの人」が、「これでもういい」と決意した尊さ。
物語が大団円となったときの晴れやかな喜びの中に満ちていた悲しさ。
というわけで本当に皆様には、「Fate/hollow ataraxia」をプレイしていただきたいと思うのです。
むしろ「Fate/hollow ataraxia」を楽しむために本編である「Fate/stay night」を押さえてほしいとすら思うのです。


そんな「Fate/hollow ataraxia」はPC版発売が2005年となんと10年以上前のゲームでして、しかもWindows Vista以降のOSですとパッチをダウンロードしないとプレイできないという状態が長らく続いておりましたので、
「名作なんだけどこの状況ではにものすごく薦めづらい……」
と思って全然人に紹介せずにいたわけなんですが、聞きましたか奥様、2014年にPS Vita版が発売になったんですわよ!
もうこれでお気軽に楽しめるようになったわけですわ!
PC版と違って18禁シーンがなくなってしまっているみたいですけれども、「Fate/stay night」の頃からエロシーンはなくても問題ないストーリーですから、もうそれでいいんじゃないですかね、なんかフルボイスになってるっていうし。
FGOからFate始めた方とか、アニメ版一通り押さえてstay night は知っているけれどhollow ataraxia 知らない方、ぜひぜひ「Fate/hollow ataraxia」を騙されたと思ってやってみてほしいんですよお願いしますよ。

ナイターとカブトムシの話

ずいぶん前に、ある人から聞いた話をします。


仕事が終わって帰宅しビールと枝豆を前にナイター観戦という幸福な時間を過ごしている最中、ベランダのほうから「かたん」という音が聞こえました。
見に行くと、びっくりするくらい大きなカブトムシが物干し竿の上のほうに止まっています。
その姿を見た途端、子供時代虫取りに駆け回っていた頃の興奮が蘇りました。
ほろ酔い加減だったせいもあるのでしょうが、
「あのカブトムシを捕まえよう」
と思ってしまったそうです。
その人はそーっと忍び足で窓の外に出るとベランダの手すりにのぼって手を伸ばし……当然のように、足が滑りました。
ぐらりと体が傾き、そこで彼は自分が五階建てのアパートの最上階で一人暮らしをしていることを思い出しました。
転落しそうな自分に気づいて助けてくれる誰かはいないし、このまま落ちれば死ぬだろうと悟ったのです。


きっと自殺だと思われる。
彼の脳裏をそんな考えがよぎりました。


駆けつけた誰かがこの部屋を訪れても、自分がベランダの手すりに登った理由はきっとわからない。事故にしてはあまりに不自然な状況だ。
何故死んだ、悩んでいるようには見えなかったのに、とみんなが言うだろう。
話を聞けばよかった、と悔やむ人もいるだろう。
野球とビールと枝豆が大好きな人で、最後のときもナイターを見ながら晩酌をしていたようなのに、それなのに思いとどまれなかったのか。
大好きなものに囲まれてなお、それでも死を選ぶほどに苦しんでいたのか。


人々がそんなふうに悲しみ苦しむ姿が浮かび、彼は「いかん」と思ったそうです。
満身の力を込めてバランスをとり、奇跡的に手すりにしがみつき、九死に一生を得ました。
この話をきいたとき、その場にいた人間はみな笑い、彼が謎の死をとげなかったことを喜びました。
一方で私は、そんな状況で本当に死んでしまう人もいるんだろうなとぞっとしたことを覚えています。
それ以来、理由のわからない唐突な自殺、などと聞くとこの話を思い出すようになりました。
私にとってこの話は今まで、一種の怪談でした。
そんなつもりなんてなかったのに、誰を悲しませたくもないのに、解けぬ謎を残し、親しかった人々の胸にしこりのように残る死。
けれど最近、少し違った考え方をするようになりました。
じゃああの人もそうだったのかもしれないと考えることが、救いになる場合があるのです。


全然死ぬ気なんてなくて、ただちょっとうっかりしただけで、むしろ死ぬ直前はわりとご機嫌だったりしたのかもしれなくて。
案外、悪い死に方ではないような気がしてきます。
もちろん本人は冗談じゃないと怒るでしょう。やりたいことがまだあって、未練もたっぷり残っているでしょうから。
けれど悩んで苦しんで追い詰められて、愛する人たちがいるのに、愛されていることもわかっているのに、それでもたったひとり孤独に死を選ぶことよりも、元気で幸せもあってただうっかりしてしまっただけのほうが、ずっと良いように思うのです。


あの人は私たちを見捨てて一人でいくことを選んだわけじゃなかったんだ。
本当はもっとこの世にいて、一緒にわちゃわちゃやっていくつもりはあったんだ。
だから見捨てられたような気持ちになる必要もないんだ。


欺瞞といえばそれまでだけど、時々そんなふうに考えるようにしています。
裏切られたとかあれは嘘だったのかとか思って、やりきれぬ怒りを抱えて、そのせいであの人を懐かしむことができなくなるのは嫌だから。
ぽっかりと空いてしまった穴をただ悲しみ、寂しいとだけ思いたいのです。



注)Twitterで呟いたものに少しだけ手を入れて投稿いたしました。

家事と感謝のゲーミフィケーション

先日、友人が
「喧嘩になるとパートナーが『あなたは家事をなにもやってない』と言ってくる。実際には分業してるのに、そういうことを言われるとすごく落ち込む」
という話をしていました。友人夫婦は三十代でホワイトカラー共働きです。
話をききながら解決が難しいなあと嘆息するだけだったのですが、その後うだうだ考えているうちに一つ思い付いたことがありましたので、書いておこうと思います。

解決案のごあんない

この手のクレームは夫婦間で家事レベルに差があるから起こってしまうとよく言われています。
「標準的な夕食とは一汁三菜、ただしパスタ、カレーなどの場合をのぞく」という夫と、「ハムエッグ丼と豆腐丼を交互に用意するのがやっと」という妻の分担というのは、「公平」になりづらいのです。
もしも
「うちは家事の負担は平等だから。夕飯の支度も半々ずつやってるし」
みたいなことを簡易丼ローテ丼妻が誰かに話しているのをきいたら、一汁三菜夫は「イラッ」とするんじゃないでしょうか。
「いやいや、確かに先週の君は三回夕食作ってくれたけれども。あれくらい作ってるうちに入らないよ! 全然負担が平等じゃない!」
という気持ちになっても仕方ないでしょう。


でもね。
簡易メニュー繰り返し妻のほうにも、言い分はあるんですよ。元々家事の経験がほとんどなくて、食べることにもあまり興味がないから、料理を作ることが基本的に苦痛で。
それでも夫にばかり作らせるのは申し訳ないから試行錯誤の末に丼ローテーションに行き着いて、最近は味噌汁添えたり、おひたしとかきんぴらとかちょっとした副菜に挑戦してみるときもあって、そうやって自分なりの進歩や思いやりの結果として夕飯を作ってるのに! 「あれくらい」とか否定しないで欲しい! というわけでついつい
「私はもっと簡単なものだけでも全然構わないのに、あなたが自己満足で勝手に一汁三菜作っているだけだよね? そんなこと言うなら、私もう作らない。勝手にすれば」
などと言い返してしまって、悲しい争いが始まるのですよ……


んでもってこういう家事のレベル差が原因の争いは結局、「高いほうが低いほうを慮るしかない」ということになることが多いです。仕方ありません。低レベルの人間が高レベルの人間に合わせることは、ものすごく難しいですから。
妻よ、家事能力の低い夫を叱らないで  :日本経済新聞
一般的には家事をあまりしない夫とそれに苛立つ妻、という構図が多いようですね。


だけどなんとなくこの結論もすっきりしない部分があるというか、一汁三菜夫ならばこう言うでしょう。
「あのさ。ちゃんとやってるのはおれなのに、ちょっとダメ出しされたからっていきなりやる気なくすとかなんなの? 『私もう作らない』って、子供じゃないんだからさ。仕事だったらそんなの許される? 結局甘えだよね。やってもらえるっていう。それなのに歩み寄るのはこっちなわけ? 優しく誉めてやる気出させろって? こっちはずっとちゃんとやってるのに、別に誉めてもらってないよ? 誉めてもらわなきゃやらないとか、そんなこと言わないよ?」
私はこの一汁三菜夫の不満も、無視したくないと思うんですよね。そりゃパートナーの家事レベルが徐々にあがっていけばやがて解決する不満かもしれませんけど、それまでは我慢してろってのもなかなか乱暴な話じゃないですか。
簡易丼ローテ妻も一汁三菜夫も共にそれなりの満足を得られる方法を、ぜひ考えてみたいのです。


そんで思ったんですよ、「家事の評価って基本的に減点法だよなー」って。
基準を満たせないとどんどん減点されて、60点以下だと落第だから0点も同然みたいに扱われるのがよくないんじゃないかなあ、と。
一汁三菜夫は妻に向かって言いました。「あれくらい作ってるうちに入らないよ」と。
つまり簡易丼ローテは合格点とれていないわけです。だから、その家事はゼロとしてカウントされてしまいます。
これはよくないですね。
そりゃあ今は完璧じゃなくて駄目なところもあるかもしれないけど、でも私がやったことはゼロってわけじゃないでしょ? ゼロみたいに扱われるのは辛いよ。というのが簡易丼ローテ妻の言い分ではないでしょうか。
もちろんそのとおりです。簡単ごはんだから評価ゼロというのは、到底正当とは言えません。
簡単だろうと手抜きだろうと、作ったのであればそれなりの評価はすべきです。


ですがここで合格点を引き上げて簡易丼ローテを満点として評価するのは、一汁三菜夫にとっては辛い話です。
だって彼は、妻の三倍ほど手間暇かけて夕食を用意しているのです。なのに彼の家事は妻と同じく「一食分」としてカウントされるだけ。決して「三食分」としてカウントされることはありません。
これもまた、公平とは言えません。このような状態が長引けば不満は少しずつ降り積もっていくでしょう。


というわけで、今必要なのは新しい家事評価システム! 「一食」ずつのカウントじゃない、手抜きごはんでも認められるし、手の込んだごはんならもっと認められるようになれば二人共ハッピーに過ごせるんじゃない? ということで私は「家事」と「感謝」のゲーム化を提案します。

「家事」部分のゲームシステム

家事を細かくリスト化してそれに全部ポイントをつけ、どんどん加点法で評価していこうという、それだけのことなんですけどね。
たとえば夕食関連のポイントであれば、

  • 簡易丼作成…7ポイント
  • 炊飯器セット…3ポイント
  • 汁物作成…5ポイント
  • 主菜の作成…7ポイント
  • 副菜の作成…5ポイント

といった具合に決めます。
簡易丼ローテ妻は、一食用意するごとに7ポイント稼ぎます。これで彼女は自分の業績を「やったうちに入らない」などとゼロカウントされることがなくなりました。
そして一汁三菜夫は一食用意するごとに22ポイントという高得点を叩き出します。妻の三倍はがんばっていると自負する彼にとってポイントも約三倍ですから、満足がいくことでしょう。
このポイントシステムはもちろん、他の家事すべてに応用できます。

  • ハンディモップで棚などの埃をはらう…1区画ごとに2ポイント
  • クイックルワイパーをかける…1区画ごとに3ポイント
  • 掃除機をかける…1区画ごとに3ポイント
  • 洗濯して干す…5ポイント
  • 乾いた洗濯物を取り込む…2ポイント
  • 洗濯物をたたんでしまう…5ポイント
  • アイロンをかける…1枚ごとに4ポイント

などなど。
上記のポイントは私が今適当に思いついてつけたものです。実際には、各家庭の状況に応じて適当につけてください。
ただし「朝食の用意」や「家全体の掃除」などのような大まかな単位ではなく、家事をできるだけ細分化することをおすすめします。


細分化には以下の狙いがあります。

  1. 家事の敷居を下げる。敷居が高くなってしまうと、家事が苦手だったり時間がなかったりする人間のモチベーションが下がってしまいますので。小さくて簡単なことがたくさんあるほうが、手をつけやすいです。
  2. 小さな家事でもきちんと評価するため。これはモチベーションを保つことに繋がります。
  3. タスクの洗い出し。往々にして家事レベルの低い人間は、やるべきタスクがきちんと見えていなかったりします。見えないものはやらないので、結果的にレベルの高い側から見れば「やったうちに入らない」中途半端な家事になってしまうわけです。家事を細分化したリストがあればタスクの可視化が進み、レベル差を埋める助けとなります。属人的に処理されていたタスクの引き渡しも可能となり、家事の平準化が進むんじゃないでしょうか。
  4. 家庭内の連携・連絡の強化。細分化によって家事を手分けすることが容易になります。パートナーのポイント獲得状況を確認すれば家事の進行状況が明らかになりますので、お互いの穴を埋めてフォローしあうのも簡単です。


また、あらまほしき家事にはボーナス加算をつけましょう。
晩ごはんが一汁三菜の条件を満たした時には、コンボボーナスがプラスされて、22+8で計30ポイント獲得できるとか。
野菜が豊富だったり油の使用を控えたメニューのときはヘルシー加算、節約メニューで上手に食費を抑えたときはやりくり上手加算、残り物や余り気味の食材をうまく消費したら在庫一掃加算などなど、プラスポイントをがんがんつけます。
もちろん他の家事にもボーナスを設定します。
アレルギー対策のためにはハンディモップ→床の雑巾がけ(ウェットのクイックルワイパーで代用)→掃除機の順で掃除するのが良いと言われていますので、そのとおりの掃除をした場合にもやはりコンボボーナスが4ポイント発生して1区画ごとに12ポイントになるとか。
やるべきだ、なぜできないと追い込まれるより、目標を達成することによりボーナスポイントで労われる方がストレスになりづらくモチベーションアップに繋がるのではないでしょうか。



「感謝」部分のゲームシステム

毎日ポイントを集計して、その日の勝者には「今日もありがとう」と敗者が声をかけて、労いましょう。
ゲームは何かが賭けられている方が圧倒的に面白いもの。勝者は報いられるべきなのですから。


そんでその「ありがとう」の声をかけるときに、ですね。
たとえば夕食後のゆったりした時間にコーヒーを淹れたり、今の時季なら梨なんか良いですかね、季節の果物を剥いたりして、感謝の言葉を添えながらそっと差し出すといいかんじじゃありませんか?
感謝って難しいですからね実は。照れくさいとか、わざとらしいとか、そういう気持ちが邪魔して、「ありがとう」と思っていても言えなかったりしますからね。
でもこれは、ゲームですから。敗者の義務であり、勝者の権利ですからね。そういうシステム上決められたことならば、やりやすくはありませんか?
そんでまあ、感謝して感謝されてってのが頻繁にされてる状態ってのはいいもんだと思うんです。仲良き事は美しき哉。たとえそれが、ゲーム上のことであってもね。


更にゲームを白熱させるために、週ごと、月ごとの褒賞もあるといいですよね。
憧れのレストランに連れて行ってもらうとか。
相手よりも圧倒的に自分好みの映画を一緒に見に行ってみるとか。
勝者のちょっとしたワガママを、敗者がその都度叶えるのです。ワガママを通したくなったら家事をがんばって、その週や月の勝者を目指せばよい。


そんで、一年を通してチャンピオンになった場合は、褒賞もぐっと派手にしましょう。
自分はすっごく欲しかったりやりたかったりするんだけど、パートナーが決して良い顔をしないだろうな、と予想がつく何かってあったりしませんか。
PS4欲しいとか。
ロードバイクのカーボンホイール新しくしたいとか。
エステ通ってみたいとか。
長編アニメの全49巻のDVDのセットを今更ながら買いたいとか。
そういうものを賞品にするのです。反対を押し切って通った願いというのは後ろめたさが残ったりますが、勝者の正当な権利であれば気持よく楽しむことができます。
「冗談じゃない、49巻のDVDはどこに置くつもりだよ!?」
そう思うのであれば、自分が勝つことを目指しましょう!
そのくらい真剣にプレイしたほうが、ゲームというのは面白いものです。



必殺技システム

勝敗が決まりきって逆転の目がない状態になってしまえばモチベーションも下がるし、ゲームもつまらなくなりますよね。
大丈夫。
そんなときこそ、必殺技の出番です。

  • 換気扇の掃除
  • 窓ガラス磨き
  • 網戸掃除
  • エアコンフィルターの掃除
  • 障子の張替え
  • おせち料理の作成(すべてひとまとめにせず黒豆、昆布巻き、伊達巻、栗きんとんなど何を作るかによって分けるのが吉。年末限定の必殺技)

など、やるのがたいへんで滅多に実行されない家事を必殺技として設定し、たとえば一度に200〜500ポイントほど稼げる設定にしましょう。
こうすれば、休日に差をとりかえすことができます。


ただし、必殺技は連続使用に向きません。。
たとえば換気扇掃除は一回400ポイント稼げますが、その後は掃除をしても一度に10ポイントしか獲得できない状態になり、これが二週間続きます。
その後、二週ごとに30ポイント、50ポイント、70ポイントと徐々に回復し、二ヶ月経過すると再び400ポイント獲得できる状態に戻ります。
なぜ必殺技にこのような縛りをもうけるかといえば、パートナーが「週末になると換気扇を掃除するだけの人」になってしまい他の家事をほとんどやらなくなるというのは、望ましい事態ではないからです。換気扇をそんなにしょっちゅう掃除する必要はありませんし。
だいたい、必殺技というのは安易に連投するとゲームが盛り上がらないんですよ! だからこそ巷のゲームはゲージを貯めないと発動できないようにしてるわけで。
その他の必殺技についても、ポイントとその回復条件は任意に設定してください。
障子の張替えでしたら穴が開かないかぎりはポイント獲得できない設定にしないと無駄が出ますし、窓ガラスは雨が降ったらポイントが一気に回復する設定にしたほうが美観を保ちやすいでしょう。
あとは、換気扇掃除した翌週末にはガラス磨いて、さらに翌週には網戸掃除して、その次はエアコン掃除、更にその次は庭の草むしり……といった具合に必殺技をぐるぐる回していけば、自然とポイントが回復して美味しい稼ぎになるはずです。


また、「キャラクタ固有必殺技」を設定すると、ゲームは盛り上がるかもしれません。
「あなたの作る三時間煮込むロールキャベツ。あれ、絶品よね」
みたいな好評だけれど作るのがたいへんな得意料理を、その人だけが使える必殺技として設定するのです。
手芸やDIYが趣味の方は、家族に頼まれて何かを作ったらそれが必殺技。ただし、頼まれていないのに勝手に作った場合も必殺技認定するかどうかは、それぞれの家庭で話し合ってください。

それでも勝てない場合は

「帰宅時間が全然違うから、勝負にならない」
「年度末になると仕事が立て込んで家事どころじゃない」
そもそもこのゲームは、共働き夫婦で双方にある程度の時間的余裕がある家庭じゃないと向いていないと思うんですが(片方専業だったらワンサイドゲームすぎるし)、拘束時間の偏りがあってもやってみたい場合はハンディを設定してみましょう。
多忙なほうは毎日30ポイントずつ獲得ポイントが上乗せされるとか、獲得ポイントが常に1.5倍になるとか、そういうかんじですね。
あ、ただし「自分のほうが家事レベルが低いから」という理由でハンディを設定するのはおすすめしません。それをやっちゃうと、上達することを避けちゃいますから。


あとは、多忙でも稼ぎやすい細かい家事とボーナスの設定をおすすめします。

  • タオルの交換…1枚ごとに1ポイント
  • 床に落ちてるものの片付け…一部屋ごとに2ポイント
  • ゴミ集め…2ポイント
  • ゴミ出し…1ポイント
  • 惣菜を買って帰る…2ポイント

小さい家事でもある程度こなしてあるとそれだけで部屋がすっきりしたりするものです。
ですから、一つにつき1〜2ポイントしか稼げない家事であっても、それが一定量を越えたら「塵も積もれば山となる」ということで、コンボボーナスをつけるのです。小さな家事で5ポイント以上獲得した場合はそのポイントが1.2倍になり、7ポイント以上獲得したら1.5倍になるとか、そんなかんじで。
また、出勤前に家事を一定量こなしたらプラス10ポイントになるアーリーバードボーナスを設定するなんてのもいいですね。
朝起きて、洗面所と台所とトイレのタオルを交換し、ゴミをまとめて出せばチリツモボーナスとアーリーバードが両方発動して18ポイント獲得! 余裕があったら更に寝室と居間をざざっと片付けて25ポイント! 繁忙期ハンディでポイントが更に1.5倍で37ポイント(小数点以下は切り捨て設定)! といった具合に稼いで、週末に時々必殺技を繰り出せば、それなりに勝負になるんじゃないでしょうか。



ペナルティ

「その日はダンナは休みで、私だけ休日出勤しなくちゃいけなくて。朝食は私が用意して、ダンナがそれ食べてるの横目で見ながら、慌ただしく出勤したの。そんで夜になってやっと帰ったらダンナが『おかえり。早くご飯作って。おなか空いたよ』って。そこまでは平気だったの。でもね、流しの中に朝食の食器がそのまま積まれていてたときに、『もうやめよう』ってすとんと思った。かぴかぴになった食器見ながら『せめて水につけてくれたらいいのに、こんなふうになったら洗うだけで大変なのに。この人は水を出す手間すら惜しんで、私が働いている間何をしてたんだろう』って考えて、離婚を決意したの」
って話をですね、以前きいたことがありまして、その離婚という決断が正しいかどうかは置いといて、気持ちわかるなあとは思ったんですね。
水につけられず放って置かれた食器ってのは、確かにすさまじいイライラのもとになります。


そんでこういうのは、細かくあげていくといろいろあるわけです。
丸まった状態で洗濯機に放り込まれた靴下とか。
脱ぎっぱなしで床に落ちた服とか
トイレットペーパーを交換した後の芯だけが床に置いてあったりとか。
放り出された郵便物。読みかけで伏せられた雑誌。寝る前にホットミルクを飲んだマグカップがそのままテーブルに出しっぱなし。
些細だし「いいじゃんそのくらい」とか言われちゃうんですが、「そのくらいって言うんならお前が片付けろや」という怒りがこみあげてきちゃったりしてね。
だけどまあ、些細な事だからこそいちいち喧嘩するのもバカバカしい。


というわけで、この手の行為はペナルティとして設定し、マイナスポイントがつくようにしましょう。
そしてまた、パートナーのペナルティを発見してリカバーした場合には、こちらにプラスポイントがつくようにするのです。
こうすれば、やらかしてしまった側がソンをして、リカバーする側がトクをしますから、腹を立てる必要がありません。
「愚かだなー、これで家事ひとつ分、ポイントなくなっちゃったよ」
と冷笑して、淡々とポイントを稼げばよいのです。



パートナーがやる気を出してくれません

これはずばり、年間チャンピオンの優勝賞品を工夫して乗り切りましょう。
たとえばパートナーがひと目を気にするシャイなあんちくしょうでしたら、
「私が勝ったら、ディズニーランドに一緒に行きたい。そしてシンデレラ城の前でキスをしながら愛を囁いて、みんなに羨望の眼差しをむけられたいの」
とかなんか言っちゃうわけです。
これ、嫌な人は嫌ですよね。私も真剣に嫌です。回避するために、真剣に頑張ってくれるんじゃないでしょうか。
「でもそれじゃ私が負けちゃう」
ほほう、勝ちたいのですね。それはいいことです。勝利を目指して真剣に取り組むべきですからね、ゲームというのは。
ならばこうしましょう、優勝賞品のグレードがポイント差によって変わるようにすればいいのです。
勝者と敗者が僅差で決まったら、焼き肉を一回奢ってもらう。
僅差とは言えないけど大差とも言えない程度の差で決着がついたときは、、ジミーチュウのパンプスを買ってもらう。
ふざけてんのかてめー途中からやる気なくしたろ的な大差がついたなら、シンデレラ城で羞恥プレイ。
本当に欲しい賞品は敢えて二番目のグレードに設定し、パートナーが真剣に嫌であろう賞品を最高ランクに設定すれば、美味しい思いができるんじゃないでしょうか。



というわけで

友人Sよ、話を聞いているときは何も力になれず本当に申し訳なかったのですが、その後こんなゲームを考案してみました。
実際には、このゲームを生活に取り入れるのは難しいとは思うんですが、ゲームのつもりでやってみることで見える部分もあるんじゃないかと思いまして。
Sの場合は「家事をやっていない」という不満をパートナーがお持ちのようなので、家事をリスト化してタスクを細かく洗い出すことがもしできれば、不満解消の糸口が見えてくるんじゃないかと期待します。
そんでSの脳内だけでこっそり家事のポイント戦を行って、パートナーが勝者のときはルールにしたがってねぎらったりしたら、喜んでもらえるかもしれませんよ?

私の知ってるメシマズ話

ネットでメシマズ関連の話を見ていて、思い出した話をします。
なお、このお話はいつものごとく諸般の事情をかんがみて改変されておりますので、フィクションとおもってお読みください。あなたが似ている話を知っているとしても、それは偶然の一致であり、無関係です

いとこのサミレさん(仮名)は私より20歳ほど歳上なのですが、口癖が
「結婚はお姑さんがポイント」
「お姑さんがきついと、なにもかもがきつくなる」
であることからわかるように、嫁姑のどろどろでむちゃくちゃに苦労している人で、昔からいろんな話をきいています。


若かりし頃のサミレさんは、近所でも評判の美人でした。また、当時の女性としてはなかなかの高学歴でもありました。そのためお姑さんからは
「息子を色気でたぶらかした」
「女のくせに頭でっかちで生意気」
などと言われたのでした。
いきなりきなくさいかんじでスタートした嫁姑関係ですが、決定的な亀裂が生じたのは、旦那さんの実家でうどんを出された時のことでした。
旦那さんはうどんを一口啜るなりぶはっと吐き出し、
「マズッ! なんだこのつゆ、お湯に醤油入れただけじゃないか」
と叫んだのです。


そう、サミレさんのお姑さんは現代ネット用語でいうところの「メシマズ嫁」だったのです。
お姑さんはとにかく料理そのものが嫌いなのと家業が忙しいのがあって、調理をしないで済ませたいタイプ。出汁というものは一切とらず、「そもそも出汁など不要」という考えの持ち主でした。市販の顆粒だしやめんつゆを買うこともせず、野菜でも肉でも食材はすべてくたくたになるまで茹でただけのものが食卓にそのまま出され、家族はそれに醤油をかけて食べました。
メシマズというと奇抜な調理で冒険するアレンジャーが思い浮かびますが、さいわいというかなんというかお姑さんの料理はそういう「積極的にまずい」のではなく、「全然美味しくない」だけでしたので(といったってそれが一年365日続いたら苦痛でしょうが)、それなりに食べられるものでした。
そのせいか、子供たちはみな母親の料理がまずいとは知らずに育ったそうです。
たまに外食すればもちろん美味しいものが出てきたのですが、それは「外の食事は贅沢に作られているから美味しくて当然」と説明されていたわけです。
家庭料理というのはそれほど美味しくないのがフツウだと、彼らはそう信じていたわけです。


ところが独り暮らしを始めてあちこちで食事をするようになった息子はだんだんに外の「贅沢な」味に慣れてしまいました。更に結婚後サミレさんの手料理を食べるうちに、彼が家庭料理に求める味の水準も飛躍的に上がってしまったのでした。
そして彼は久しぶりに実家でうどんを食べた時初めて、自分の母親の料理がまずいことに気づいてしまったのです。


そんでまあお姑さんからすれば、今まで自分の作る食事をすんなりと受け入れていた息子からいきなり文句を言われて大ショック。
息子は変わってしまった、あんなに素直だったのに。それもこれも生意気な嫁のせいだ。
と感じてしまったようなのですね。
それから嫁いびりが激化し、サミレさんはいろいろえらい目に遭うのですが本題ではないので置いときます。


このお姑さんメシマズ問題は長い間、サミレさんを苦しめ続けています。

  • 旦那さんが実家の食事を嫌がり、帰省をしたがらなくなる。
  • お舅さんが何かと理由をつけて息子夫婦の家を訪れ、自宅に帰りたがらなくなる
  • 子供が生まれたが、物心が着く頃になると祖父母の家に行くのを嫌がる
  • どうしても避けられず泊まりで行くことになると、夜中に子供たちが「おなかがすいた」と泣く

といった事態が発生する都度、
「ぜんぶあの嫁のせい」
と怒りを買ってしまうのでした。
確かに、サミレさんの料理の腕がお姑さんと同等に酷ければ起こらなかったはずのことばかりですので、ある意味お姑さんの見解も間違っているとは言えないのですが……


メシマズ話でよく出る疑問に「本人は自分の料理をどう思っているのか」というのがありますが、このお姑さんの場合はまずいという自覚はあるようです。
その上で、そのまずさを正当化しているような印象を受けます。料理の知識がそうとう乏しい(出汁のとりかたも知らなかったらしい)そうなので、気恥ずかしくてきまりわるく、正当化せずにいられなかったのかもしれません。
また、食に対する関心が元々薄いようです。うまいまずいはある程度わかっているにも関わらず、美味しいものに対して全くこだわりを見せていません。
美味への欲求がほとんどなくて、他人のそういう気持ちを理解できないのかもしれません。
それはそれで一つの価値観であり、生き方ですよね。食事がわずらわしくてぜんぶサプリメントで済ませたい、なんて意見もたまにききますし。
とはいえ、結婚して家庭をもうけたのであれば、その時点で家族のために生き方の変更をせざるを得ない部分があるのかな、と思います。食欲というのは生物としてかなり根源的な欲求ですから、そこが抑圧された生活が続くというのはそうとうな苦痛です。


また、このお姑さんの場合、メシマズが世代を越えて連鎖している気配があります。サミレさんの義理のお姉さんの料理は自分の母親とそっくりなのだそうです。全然美味しくないものを食べて育った結果、自然と食への関心が薄くなってしまい、その結果料理に全く興味が持てず前世代と同じことを繰り返しているわけですね。
そのため、

  • 叔父の家に遊びに来た食べ盛りの甥っ子たちがサミレさんの料理を食べて感動し、最後の夜は泣きながら食事中「帰りたくない」と繰り返す
  • 帰宅後もいかにサミレさんのご飯が美味しかったか熱をこめて語る

などの事態が発生したため、サミレさんは姑ばかりか小姑にも盛大に疎まれることになってしまいました。


なんというか、一人のメシマズの影響範囲というのは想像以上に広いのですよね……
家庭という密室の中ではそれなりに成立していた関係も、子の結婚などによってよその家庭と交わることになれば、それまではと同じようにいかなくなります。
子供のこと、孫のこと、更に続く世代のことを考えれば、やはり美味しいものを食べるための方法をしっかり身につけたほうがいいのだと思います。当たり前の結論でスミマセン。

娘とらっぱ

今月、娘は初めての旅行をしました。私の実家に行ったのです。
二日目の夜、セキゼキさん(仮名)が「カミソリがないからコンビニに買いに行きたい」と言いました。
ど田舎ゆえ、実家から最寄りのコンビニまではかなり遠く、車を出す必要があります。その晩は私以外の全員が酒を飲んだ後でしたので、私が運転手になるしかありません。
私たち夫婦は、母と妹に娘を託してコンビニに行きました。
戻ってくると、娘はわんわんと泣いており、その右手にはおもちゃのらっぱが握りしめられていました。


娘は上機嫌に遊んでいたのですが、私たちが出かけてすぐに、ぐずりはじめたのだそうです。
慌てた母が、その場にあったおもちゃを片っ端から与えると、娘は他のおもちゃには見向きもせず、ひたすららっぱを欲しがりました。
涙をぼろぼろとこぼしながら、娘はらっぱを懸命に鳴らし続けたそうで、
「今までこんなに長く、上手にらっぱを鳴らすのは見たことがなかった」
と母は語りました。


娘がなぜらっぱにこだわったのかには、心当たりがあります。
友人に貰った赤ちゃん用のらっぱには「対象月齢8ヶ月以上」と書かれていました。
ですから、生後半年になったばかりの娘がそのらっぱをプップッと吹き始めた時、家族はみんな大喜びして手を叩き、「ノノミちゃん(仮名)はすごいねえ」と大仰に褒め称えたのです。
それからしばらくの間、娘はらっぱを鳴らしては褒められ、得意満面だったのですが、そのうち飽きてしまったようです。最近ではらっぱを与えても取っ手のあたりをべろべろと舐め回す時間のほうが長くなっていました。


両親がいなくなったことに気づいた娘は、知らないおうちで馴染みのない人たちに囲まれて、さぞ不安になったのでしょう。
その状況で不安解消のために赤子なりに考えた結果が、
「両親が今まで一番喜び、褒めてくれたことをしてみる」
だったのかなあ、と思います。
かわいそうなことをしました。


旅行を終えて帰宅後の娘は、家の中の何を見ても大喜びしています。
にこにこしてはしゃいで、こんなに小さな子でも我が家という感覚があるのだなあ、と驚きました。
らっぱを渡してみました。
娘はべろべろと取手のあたりを舐め回し、私が
「ノノミさん、鳴らしてくださいよ」
と何回も頼むとおざなりな様子で吹き口をくわえ、「ピプッ」と音を立てました。
「すごいすごい」
と褒めるとにやにや笑いましたが、
「もう一回」
と頼んでも無視して、ぽいっとらっぱを投げ出しました。
これが正しい、あるべき姿だよなあ、と思いました。
不安で怖くて、それを解消するために親を喜ばせようとするなんて、そんなことしなくていいからね。
ごめんねノノミさん。

父が子育て身代金を減額した話

すげえ腹立つわ|愛情料理研究家 土岐山協子の 『料理はしないんだけど料理研究家のブログ』
この記事を読んで、思い出した話をします。


小学生の頃、母親がテニスサークルに通い始めて、時々家を空けるようになりました。
私は最初、とても驚いて戸惑いました。お母さんというのはいつも家にいる人だと思っていましたし、お母さんが家族と一緒に晩御飯を食べないなんて想像を超えた事態のように思えました。
寂しさがなかったといえば嘘になります。手早く食事を用意して、
「これとこれはちょっとあっためて食べなさい。こっちはそのままで大丈夫」
などと指示をする母親は明らかにうきうきと楽しそうでした。自分たちを置いて出かけることを母親が楽しみにしているんだと感じた時、やっぱり多少のショックはあったのです。
ですがそれは、ほんの短い間だけのこと。


母が出かける最初の日、父親は張り切った様子で帰宅すると、こう宣言しました。
「今日は『北斗の拳』を見るぞ」
妹と私は、驚きのあまりぽかんと口を開けました。
「PTAで言われたんだけど、『北斗の拳』というアニメは暴力的な描写が多くて、子供に見せないほうがいいんですって。うちはもともと見てないから、別に見なくてもいいでしょ?」
以前に母がそう言ったとき、逆に私は『北斗の拳』とやらを見たくてたまらなくなりました。そんなにも残酷なアニメって、すごくすごく面白そう!
ですが「残酷さ故にそのアニメが見たいです」などというのは子供心にどうも言い出しづらく、私は『北斗の拳』に激しく憧れつつも見たことがなかったのです。
その夜、妹と私はひでぶだのあべしだの叫びながら敵キャラが無残に殺されていくアニメを大喜びで見ました。予想通りとても面白くて、母親の前で鑑賞するのはじゃっかん気がとがめるような内容でした。


その間に、父は炭酸水にガムシロップをまぜレモン汁を絞って、お手製のサイダーを用意してくれました。
私はそれまで、サイダーというのは店や自動販売機で買わないと飲めないものだと思っていました。そんなものが家で作れるなんて考えたこともなく、お父さんはすごい、と大騒ぎしました。
おいしいおいしい、お父さんかっこいい、おかわりちょうだい、と大興奮の私たち姉妹に父は、
「これは内緒のサイダーだから一杯だけだ」
と重々しく告げ、私たちががっかりすると
「その代わり、お母さんが出かけたらまた作ってやる」
と言いました。
そしてまた私たちは、うれしいうれしい、お父さんありがとう、と父にしがみついたのでした。


懐かしの味、というと私はよく父のお手製サイダーのことを思い出します。
その後、娘たちの好評に気をよくした父は大量の炭酸水を買い込んで、いろいろと味付けを工夫していました。
新作のサイダーを飲みながら父と一緒にテレビを見たのは、子供時代の幸福な記憶のひとつです。子供向けの番組にはあまり興味を示さない母と違って、父は子供に近い目線でアニメを一緒に楽しんでくれる人でした。
母がいない間に、みんなで母の日のプレゼントをこっそり用意したこともありました。母に内緒で父がおもちゃ屋さんや本屋さんに連れて行ってくれたこともありました。どれも良い思い出です。


だから私は、母が時折家を空けるようになったことに対して、ちっとも嫌な印象がないのです。母がいなかったからこそいつもと違う親密な時間を父と過ごせて、それはそれでとても楽しく幸せでした。
自分がそうやって楽しく過ごせていたからこそ、テニスサークルに出かけていく母のうきうきした様子を「お母さんも楽しそうでよかった」と素直に思えるようになりました。
父は父で、私たちと過ごす時間を楽しんでくれていたと思います。
あれから二十年以上経ちます。母がテニスをすることはほとんどなくなりましたが、あのサークルで友達になった人たちとは今でも親しく付き合いを続けていますし、そのことを私は「ああお母さんが楽しそうでよいな。あの時サークルに行くようになったのは、本当によいことだったんだな」と思っています。


土岐山さんの話を読むと悲しい気持ちになります。
土岐山さんのおうちでも物事の流れが違っていれば、たとえばお父さんが趣味をやめさせる以外のフォローをしてくれていれば、お母さんの革手芸は幸せな思い出になった可能性があったんじゃないかと思ってしまいます。
自分の才能と適性を発見できることは幸運です。その分野に打ち込むのはすばらしい喜びです。
それを大事な家族のためとはいえ諦めなくてはならなかったのは、やはりお辛いことだったでしょう。わずか数年と他人は思うかもしれませんが、その数年がはてしなく長く感じられることもあるのですから。
気力と体力が充実して周りにも認められる良い流れが、ほんのわずかなズレでうしなわれ取り戻せなくなることもありますしね。


以前に読んだ話。
世の中には誘拐交渉人と呼ばれる、誘拐事件が発生した際に犯人と交渉して事件解決をするプロフェッショナルがいます。
彼らの重要な仕事のひとつは、「身代金の値下げ」なのだとか。
人質の家族は、愛情ゆえに無茶な金額の身代金でもなんとかして払おうとします。
ですが人質が無事に帰り、徐々に気持ちが落ち着き始めたとき彼らは、自分たちの生活が高額の身代金のために破壊されてしまったことを知ります。これまでは考えられなかったような経済的困難が、今後の人生にずっとのしかかってくる。
そうなったとき、ついつい「お前のためにこんなことに」と人質への恨みの気持ちを抱いてしまうことがあってしまう。人間て弱いですからね。そしてまた、そんな気持ちを抱いてしまったことへの罪悪感に苦しんでしまったりもするのです。
帰還した人質にしても、自分のために家族に大きな犠牲を強いてしまったことを知り、申し訳なさでひどく辛い時間を過ごすことになります。
そんなことにならないよう、事件のあとにも続く人生のことを考えて、誘拐交渉人は巨額の身代金を引き下げて少しでも現実的な金額に近づけようとするんだそうです。


親というのはある意味、いつでも子供を人質にとられているようなものです。
「子供のためを思えばそれくらい」
「そんなことじゃ子供が」
「子供がかわいそう」
愛情深い親ほどそんな言葉に怯え、追い立てられてしまいます。
ですが、怯えるままに自分の身を削り続けるというのは、誘拐犯の言いなりになって高額の身代金を払い続けるようなもの。
あまりに大量のものを失えば、ストレスの矛先が子供のほうを向いてしまう人も、きっといるでしょう。それは良いことではありませんが、避けがたい現実です。
どうせ親になった時点で生活は必ず変化し、いくばくかの我慢が必要となるのです。
だったら身代金は可能な範囲で下げたほうがいい。
もちろんそれは、家族を蔑ろにしろとか、そういうことでありません。
ただ、対人関係で相手ばかりを大事にするのは、自分ばかりを大事にするのと同様にバランスを欠いて不健全だと思うのですね。そのバランスを健全に保てば子供だけじゃなく家族全員がけっこう楽に過ごせたりするんじゃないかと、私はそう思っています。