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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第17話~逃げても怖いなら攻略だ?

 本日10月6日に『むしろウツなので結婚かと』の第17話が無料公開されました。
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 身近な誰かがウツになってしまった時、一番の恐怖は自殺で、二番めは失踪なんじゃないかと私は個人的に思っています。
 単純に、私がその二つをむちゃくちゃ恐れていたというだけなんですけど。
 この恐怖にどう対応するのがよいのか、みたいな話を今回はします。

 まず自殺について言いますと、遠い昔に「完全自殺マニュアル」を読んでいたという事実は、私にとってずいぶん助けになりました。
 出版当時は賛否両論あった本ですし、たとえばウツで具合の悪かった頃のセキゼキさんがあの本をもし読むようなことがあったらと考えるとゾッとしますので、全肯定するにはためらいがあるのですが、私自身はあの本にとても感謝をしています。
完全自殺マニュアル」を読んでまず感じるのは、「自殺って思ったよりもずいぶん難しいんだな」ということです。
 たとえば公序良俗に反しないためにも具体的な名前は出しませんけれど、精神科でよく処方されるある薬の致死量は、体重50kgのひとなら4万3千錠飲んで死亡率50%などと言われています。
 選べるなら痛みのない楽な死に方をしたいとひとは思いがちなわけですけど、それは全然簡単なことではないんだなということを、「完全自殺マニュアル」は教えてくれました。
 たいてい確実に死ねるであろう方法というのは辛かったり痛かったりするし、それでもなお死ねなくて苦しみ損になったりすることもあるし、楽そうな死に方というのは成功率が低かったり実行が困難だったりするのです。
 私はセキゼキさんが自殺したらどうしようと不安になる都度、あの本の内容を思い返して気持ちを落ち着けました。。
 大丈夫、自殺はそんなに簡単じゃない。セキゼキさんが死のうとしても、だからってそれが成功するとは限らない。むしろ未遂に終われば、そこから医療保護入院の道がひらけるかもしれないんだから、あまり後ろ向きに考えるのはやめよう。
 そんな風に。
 まあ、自殺未遂で医療保護入院という道のどこが前向きなんだという気はしますけれど、それでもそう思うことで、気持ちは少し楽になったのでした。

 知識はひとを救います。自殺についての情報をいくらか持っていたということが、私をずいぶん助けてくれました。
 私は学生時代、医学部の先輩に訊いたことがありました。
 薬を飲みすぎてぐったりとした人が目の前にいたら、どうすればいいか。
 救急車を呼ぶのはもちろんとして、それ以外に何が出来るか。
 ミステリで自殺に見せかけるために大量の薬を飲ませるシーンが出てきたけど、こういうのって可能なのかなと思ったから、ふと思いついて訊いたのです。
 まさか好奇心が赴くままにしたあの質問が、十年以上経ってからむっちゃ役立つことになるとは思いもよりませんでしたよね。人生ほんと何があるかわかりません。

 先輩の答えは大体こんなかんじでした。
「じゃあ、救急車を呼んで、その到着を待っている間にできることという前提で答えるよ」
「まず、薬の包装シートが残っていないか確認すること。できればそれを持って救急車に乗るか、救急隊員に渡す。何を飲んで具合が悪くなったのかわかれば、適切な処置ができるから、薬の種類を特定できる情報は重要。包装シートが見つからなければ、お薬手帳でも薬の入っていた袋でもなんでもいいから、特定に繋がりそうなものを探しておく」
「それともう一つ。低下してしまっている意識レベルを少しでも引き上げることを試みるんだ。具体的には刺激を与える。大きな声で名前を呼んで、あとはまあ……痛覚刺激が効果的かな」
 この教えが頭に残っていたからこそ、私はセキゼキさんが薬をのみすぎて眠り込んでいる現場に遭遇した時、まず彼をひっぱたいて起こすことができました。
 その後、からの包装シートを数え、これで死ぬことはないと安心することができました。

 共倒れにならないようにしよう。
 自分まで暗い気持ちにならないで。
 ウツの人が身近にいると、よくそんなことを人に言われます。まったくもって正しい。正しいけれど、じゃあそのためにはどうすればいいのか? という具体的な部分は、あまり教えてもらえません。
 くよくよしないほうがいいとか、気の持ちようだとか、物事を明るくとらえようとか、そういう心がけみたいなことは、けっこう聞くんですけれども。
 だけど人間って、
「はーい、わかりました。だったら今日から明るいことだけ考えようとおもいまーす!」
 と宣言すればその言葉通りに明るいことだけを考えることができる生き物でしょうか?
 私は違うと思います。
 そういう事ができるひともいるかもしれないし、いたらすごいけど、だけどそういうひとばかりだったら、世の中もっと悩みは少ないはずじゃありませんか。
 考えたくないことも考えてしまうし、そこから簡単に逃げられないから、ひとは悩むんじゃないでしょうか。
 セキゼキさんが自殺したらどうしようと考えることを、私はやめることができませんでした。やめてよいとも思いませんでした。だって実際、怖くてたまらないんですから。考えるのは辛くて怖いけど、考えないで無策でいる間に取り返しのつかないことが起きるのもやっぱり、怖かったのです。
 そういう時、思い切ってその恐怖に近づき、取り組んでみるのも一つの方法なのではないでしょうか。
 わからないものをわからないまま怖がるのではなく、事実を知り、知識を蓄えて、対処法を考える。
 そんな知識や対策が実際には使われること無く立てること終わる可能性のほうが、高いとは思います。
 けれど、無駄ではありません。取り組み、学び、考えることで、ひとは闇雲に怖がることをやめ、現実に対処することができるようになるのだと、私は思います。

『むしろウツなので結婚かと』第16話~白飛びした世界

 本日9月15日に『むしろウツなので結婚かと』の第16話が無料公開されました。
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 16話の中に、シロイがアパートに向かって急ぎ、セキゼキさんの幻影を見るシーンが出て来ます。
 そのあたりのことについて、ちょっと話そうと思います。
 と言っても、自分でもアレがなんだったのか、未だにわからないのですが。

 あの日、セキゼキさんのメールを受け取ってからの私は、とにかく平静ではありませんでした。
 階段をのぼって隣のホームに渡り、電車が来るのを待っている時間がやたらに長く感じられたのは覚えています。
 ですが電車が来たときのことは、記憶にありません。
 それは今だから、過去を振り返って思い出せないというのとも、少し違います。
 なぜなら電車の中ではっとして
「いつの間に乗ったんだろう?」
 と訝しく思った記憶があるからです。気がついたら、電車に乗っていた。
 電車の中で携帯を何度も握りしめ、セキゼキさんにかけては
(電車の中からマナー違反だ。どうしよう……。)
(でも非常事態なんだ。今かけないでどうする?)
 と逡巡したのは覚えています。そんなことをしている間にもぼろぼろと涙がこぼれ、傍から見ればさぞみっともないだろうと、ぼんやり考えたことも。
 けれどその後のことは、やはり記憶にないのです。
 気がついたら私は、アパートの近くの道を、歩いていました。
 相変わらずみっともなく泣き続けており、汗もかいていました。夏の日差しに照らされたアスファルトがやたら白っぽく見え、そこに汗と涙と鼻水が落ちて、黒いしみのように見えると思いながら目線を上げた次の瞬間。
 あれが起きたのです。

 私はその時、角を曲がろうとしていました。
 その角の向こうから光が膨れ上がるのが見え、その光が世界中を真っ白に照らし出しました。
 視界全体が白飛びした、見えるのに見えない世界。
 そのどこまでも白い世界の中に、くろぐろとした長い影が地平線まで伸びているのだけが、わかりました。

 私はこれまでの人生、あらゆる神秘とほとんど無縁に生きてきました。
 オカルト話はけっこう好きなのです。コリン・ウィルソンの「世界不思議百科」は中学時代の愛読書の一つで、何度も何度も読み返しました。
 けれど私自身の上を、本物の不思議が訪れることはありませんでした。
 私は常に、味気ないくらい地に足のついた、現実的な現実しか知らずにいたのです。
 けれどあの瞬間の、あの真っ白な世界だけは違いました。

 私はあれが、予知や啓示や預言だとは思いません。
 追い詰められ、疲れた脳の見せた幻覚なのだろうと、そう考えています。
 ですがあの真っ白な世界の中で、自分の心に唐突で絶対的な理解がすとんと下りてきたことは、忘れられません。
 そしてあの理解が間違っているとも思わないのです。

 真っ白な世界は、私のこれからの人生で過ごすであろう、明るく幸福な昼が連なったものでした。
 そしてセキゼキさんがいなくなればこの先、私のすべての明るい昼の上には黒い影が落ちるのだと、私はそう悟ったのです。
 たくさんの私と、セキゼキさんが見えました。
 明るい昼の中、私はすべての曲がり角でセキゼキさんの影を見つけていました。
 道の向こうのバス停でバスを待つ人の中に立っていて。
 対向車線を走る車のハンドルを握っていて。
 見知らぬ人たちの集合写真の端で。
 駅で隣のホームを見れば。
 ショッピングモールで。
 レストランで。
 電車で通り過ぎたオフィスビルの窓際に。
 セキゼキさんの気配に、私は何度も気づくのでしょう。何年経っても何十年経ってもそれは続き、私はその度走ってその影に追いつこうとして。
 絶対に、追いつくことはないのです。
 セキゼキさんは今この瞬間、生と死の危うい瀬戸際をさまよっており、もしも彼がその淵の向こう側に落ちてしまうようなことがあれば、私の生涯には決して消えぬ傷ができるのだと、私は知りました。
 その傷が私を、セキゼキさんの影を求めて何度も走らせることになるのだろうと。

 親しい誰かとの別れというのは、どれもそういうものなのかもしれません。
 消えない傷、続く痛み。ぽっかりとあいた穴を抱えながら、もういない人の面影を見出し続けるのが、残された者の常なのでしょう。

 白い世界は始まったときと同じように唐突に終わりましたが、得てしまった理解だけが残りました。

 そして私は号泣しながら走り出したのです。
 もしも間に合わなければ今後の人生で何十回と繰り返すことになるであろう虚しい疾走の、これが最初の一回目になるのかもしれないと、そう思いながら。

『むしろウツなので結婚かと』第15話~そのひと手間がかけられない

 本日8月18日に『むしろウツなので結婚かと』の第15話が無料公開されました。
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 当時、セキゼキさん(仮名)の調子が崩れ始めていることに気づく朝ほど、最悪なものはありませんでした。
 起きて部屋の様子を見れば、不調の波の訪れがわかるのです。
 寝ようとしても眠れなかった苦闘の跡が、あちこちに残っています。本やゲームが乱雑に散らばり、全く片付けられていない。
 興味深いような気もするし、当たり前のような気もすることですが、セキゼキさんの調子が悪くなると途端に部屋は汚くなります。
 昔読んだ本に「サバイバルで最も重要な心得は、疲れ切らないことだ」という一節がありました。
 疲労困憊するまで活動した人間は、「やったほうがいいひと手間」をかけられなくなるというのです。
 たとえば雨が降りそうな空の下テントを張るならば、水はけの良い場所を選ぶとか、溝を掘るとか、そういうひと手間ですね。
 余力があれば「念の為やっておくか」と思えることをやるのが、疲れ切った人間にはたまらなく億劫になり、
「これくらいやらなくてもいいか」
 となってしまう。あるいは、
「やったほうがいいな」
 ということを思いつくことすらなくなる。
 最低限のことしかできなくなり、その積み重ねが生き延びる可能性を低くしていくと、そういう話です。
 部屋が綺麗じゃなくても死にはしないというのは本当、けれど片付いた部屋のほうが衛生的で健康な生活に繋がりやすいのも本当。
 だからセキゼキさんの調子がある程度よければ、たとえ眠れない時間があったとしても彼は、ざっと片付けてから眠りにつきます。
 けれど。
 調子が崩れ始めたセキゼキさんは、それができなくなります。ただ生きるだけで疲れ切ってしまうのでしょう。
 あとひと手間がかけられなくなり、そのために余計な手間が増え、それがわかっていながらもできない自分に苛立ち、けれどその悪循環を断ち切るだけの気力も当然のように湧かない。そういう日々がやってきていることを「散らかった部屋」が端的に示してくれるのでした。
 片付けをしながら私はしばしば、この先の数日がどうなるかを想像して、重い気持ちになりました。
 本音を言えばそういう時、私はものすごく仕事に行きたくないのでした。不調の波につかまってしまったセキゼキさんは、とても不安定で危うくなるので、できればそばに付き添っていたかったのです。
 だけど不調は、一日で終わるものではないのです。どの程度長引くかはその時によって違いましたが、短くとも数日は続きましたし、大抵は不調初日よりも二日目や三日目のほうがもっと悪くなりました。
 有休というのは枚数の限られたカードですから、ほいほい使うのは躊躇われます。調子がさほど悪くないときに休んで、もっと悪くなったときに休めないということになったら、元も子もない。
(まあたぶん今日セキゼキさんが、たとえば自殺する可能性なんて、1パーセントないくらいだろ……。)
 そう自分に言い聞かせて、これがもっと高い確率になったらその時休もうと決めて。
 けれどそう思う一方で、
(セキゼキさんのうつがよくなるまで、あとどのくらいかかるんだろうね?)
 そんな風に囁く自分がいるのも確かでした。
(1パーセントの確率で死ぬかもしれないチャレンジを、何回繰り返した頃によくなるのかな?)
(百回くらい、すぐなんじゃない? 1パーセントを百回繰り返すと、どうなるの?)
 もちろんわかっています、1パーセントを百回繰り返せば100パーセントになるわけではないってことは。
 だけどそれがなんなんでしょうね? 電卓を弾いて私が導き出したのは、半年後にはセキゼキさんは生きていない確率のほうが高いって、そういう答えなんですから。

 そして、そんなことを考えて私が落ち込んでいくというのも、またすごく良くないのでした。
 私の不調をセキゼキさんは敏感に感じ取り、自分の中でそれを増幅させていくようなところがありましたから。
 辛くて泣きたい。
 でもそれを隠さなくちゃいけない。
 私が本当の気持ちを出せる場所はどこにもない。
 セキゼキさんは私の辛さを知らない。
 知らせないために隠しているんだから当たり前だけど、でも知らないんだ!!! セキゼキさんが!! 原因なのにだよ!!!!!
 みたいな気持ちがうわあああーっと膨れ上がったこの朝、
「やだなぁ、もう」
 の一言に繋がってしまったんですよね。
 その結果、私の好不調に対してのアンテナ感度が異常に研ぎ澄まされていたセキゼキさんに、眠っていたのに届いてしまったという……。

 なんかね。
 あの朝、どうするのが正解だったんでしょうね。
 もちろんあの一言が余計だったこと、言わなければよかったってことはわかっているんですよ。
 だけどあの頃の自分が、そういう悲鳴のような一言を、一度も口に出さずに過ごすことが可能だったとは、未だに思えないんですよね。
 セキゼキさんの不調を感じ取る最悪の朝、明るく健全で堅牢な気持ちのままでいられたとは、絶対に思えないんです。
 私は必ず落ち込んだし、そのことをかけらも表に出さないのは無理だっただろうと思います。
 絶対にどこかでぽろりと出てしまっただろうと。
 だから、自分の行動が間違いだったことはわかるのに、タイムマシンでさかのぼっても、あの時間違わずに済んだ道なんてないんじゃないかと、そんな風に思ってしまうのです。
 そういう瞬間が、いくつもあるのです。

『むしろウツなので結婚かと』第14話~ピンク髪ツインテメイドに変換の刑

 本日7月28日に『むしろウツなので結婚かと』の第14話が無料公開されました。
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 正直に言ってしまいますと、あの頃の私はセキゼキさんに対して始終腹を立てていました。
 セキゼキさんが徹夜して体調を崩す都度、腹を立てました。
 会社のみんなが怒っている俺なんかもうだめだ終わりにしたいどうせシロイにも迷惑をかけているとか、そういう後ろ向きなことを延々というのを聞いてはむかむかしていました。
 全部病気のせいなのだということは、わかっていました。眠れないのもそうだしやたらと後ろ向きなのもそうだし、だからセキゼキさんにはどうしようもないんだってことは、理解しているつもりだったのです。
 社会の接点がたったひとつ私だけになってしまったセキゼキさんは、私の気分の変化や好不調に恐ろしく敏感で、影響を受けやすくなっていました。
 ですから、私が怒ると事態はいつも悪化しました。ただでさえ調子の良くないセキゼキさんがさらに絶望するようなことになるからです。
 だから私はしょっちゅう腹を立てては、それをぐっと押し殺していました。
 怒りをセキゼキさんに向けてはいけないということが、よくわかっていたからです。
 だけど同時に、こんなひたすらな我慢が長持ちしないだろうということも、なんとなくわかっていました。
 押さえつけた怒りや苛立ちが、そのまま消えることはまずないからです。
 知人で以前、普段はとても穏やかなのに、何かの拍子に激烈な怒りを示す人がいました。
 滅多に怒ることがない人なのに時々、おそろしく些細でどうしようもないことで長時間、いくらでも怒り続けるのです。
 この話を聞いてある人が言いました。
「それは怒りのジャックポットだ。その人は日頃のストレスを抑圧して全部一つのポットに溜めていくんだろう。そして、たまたまそれが溢れるタイミングで怒らせてしまった人が、全部の怒りをかぶることになるんだよ」
 怒りのジャックポット
 この表現は、あまりにもしっくりきます。実際そういうことってあるな、という気がします。
 抑圧された負の感情は消えずにくすぶり続け、思わぬところで溢れ出すものなのです。 そう考えていくと、セキゼキさんに対してしょっちゅう腹を立てつつ、それを我慢するという流れが非常に良くないものであることは明らかでした。
 セキゼキさん以外の人に八つ当たりするようなことになったら、理不尽で最悪ですし。
 かといってセキゼキさん本人に怒りをぶつければ、地獄の釜の蓋が開くのです。
 怒りのコントロールが必要でした。

 私が立てた対策は二つでした。
 まず、発生した怒りをアウトプットしてしまう。
 人に話すのでもいいし、紙に書き出すのでもいい。
 胸の中に溜め込んでいるもやもやを、一度言語化するだけでも、だいぶスッキリします。
 言語化するために起きた出来事を整理していくと、自分の勘違いや思い込みに気づいて、それだけで怒りが沈静化することもありますし。
 ただ、アウトプットってそれなりに面倒なんですよね。
 他人に愚痴をこぼすというのも、相手の負担を考えればそれほどしょっちゅうやらないほうがいいわけで。適度な愚痴の量とタイミングを考えなきゃいけない。
 紙に書き出すのだってそれなりに時間と手間を要します。
 それにまあ、私のアウトプットをもしもセキゼキさんが目にするようなことがあったら、怒りを直接ぶつけるのと同じくらい、あるいはそれ以上のダメージになっちゃいますし。

 というわけでこの頃私が取り組んでいた方法がもう一つ、そもそもあまりむかつきを感じないようにしようということでした。
「この現実をゲームとして考えよう。セキゼキさんはゲームのキャラだと思うことにしよう」
 というのも、そのための試みの一つだったのです。
 現実ではなくゲームの中の出来事、キャラクターだと思うことで心理的な距離をとることができれば、怒ることも減るだろうって考えですね。
 まあ実際には当時はそこまで整理して考えていたわけではないですが。

 昔住んでいたアパートで、隣の部屋にすごく怒りっぽくてしょっちゅう怒鳴り声をあげるひとが住んでいたことがありました。
 とにかくいろんなことに怒って部屋の中で足を踏み鳴らしたり壁を叩いたり叫びだしたり厄介な人で、この人について詳しく書くとそれだけでショートホラーみたいになるんですが、今回は割愛します。
 この隣人に一度、私はものすごく意表をつかれたことがあります。
 台風の日の夜のことでした。
 風が吹き雨が降り窓枠はがたがたと揺れて自然現象だけでもたいへんうるさかったのですが、それにプラスして隣人の激怒する声が聞こえてきます。
「あああああ、うっるせえんだよ!」
 などと叫んでいるのが聞き取れてしまう。また音がよく抜けるアパートだったんですよね。隣人のWindowsの起動音が聞こえてしまうくらいでしたから。
 どかどかっと床を踏みつけたかと思うと隣人が、ガラガラと窓を開け、ベランダに出たのがわかりました。
 こんな台風の日にびしょ濡れになるだろうにどうして、と思ったのですがその疑問はすぐに氷解しました。
「うるせえんだよやめろよさっきからガタガタガタガタいい加減にしろよ!」
 と彼が虚空に向かって怒鳴り始めたからです。
 この隣人はとにかく物音というのに敏感で、アパートの廊下の足音やドアを開け閉めする音(どちらも音量は普通程度)が聞こえただけでもドア越しに怒鳴ったりする人でした。
 その、すべての物音に対してダメ絶対許さないという精神を持った彼にとって、台風の音は耐え難いうるささだったのです。
 もちろん私は驚きました。
 台風に対して腹を立てたことは、私にはありませんでした
 大雪や強風長雨、そういった自然現象に対して怒ったこともありません。

 さて私は、セキゼキさんに対してしょっちゅう腹を立てるようになった時、このかつての隣人と、彼が台風に向けた激烈な怒りのことを思い出しました。
 思えばなぜ、私は台風に対して腹を立てなかったのだろうと、考えたのです。
 まず第一に、そんなことをしても意味がないというのはあります。
 ですがそれを言えば、セキゼキさんも同じことです。
 怒っても意味がない。
 それが分かっているのになぜ、セキゼキさんが相手だと腹が立ってしまうのだろう?
 そうやって考えていくとそもそも台風には言葉が通じないしな、とか思い始めます。
 言葉が通じない相手に、何かを言うのが無駄だよな、と。
 つまり私は、台風に対して何も期待していないのです。台風が自分の為を思ってくれるわけ無いと、最初から思っている。
 そんなふうに期待がゼロであるならば、腹というのは立たないものなのだろうと、私は考えました。
 例えば壁に話しかける人間は、壁が相槌を打たなくても怒らないでしょう。
 穴を掘って愚痴をこぼす人間も、穴が慰めてくれないからって悲しんだりしない。
 相手が人間だから、人間である以上言葉が通じてこちらの意を汲んでくれたり、相槌を打ったり慰めてくれたり願いを聞いてくれるかもしれないと思うから。
 それなのにそうしてくれないから、腹が立ってしまう。
 そういうことなんだろうな、と私は結論づけました。
 怒っても仕方がない、ぜんぶ病気のせいだと頭ではわかっているようであっても、
局私はセキゼキさんは人間だと思ってしまいますし、人間が相手である以上、期待をゼロにすることもなかなかできない。
 では、セキゼキさんをゲームのキャラだと思ってみたらよいのでは? というのが私が頭の中でやっていたことです。
 これはそれなりに効果がありました。怒りはある程度抑えることができたのです。
 完全に、ではありません。
 ゲームキャラに対してだって私は腹を立てることがありますから、
 ゲームキャラというのは現実の人間ではないけれど、かなりそれに近い存在ではありますからね。
 けれど現実の人間に対する怒りで体調を崩したりすることはあっても、私自身はゲームキャラに対する怒りでそこまで酷い思いをすることはまずありません。
 セキゼキさんに対する怒りは、明らかに以前よりも目減りしました。
 それでもやはり、時々現実が目をそらすなとばかりにこちらに迫ってきます。
 目の前にいるコイツはキャラじゃなくて人間なんだよ、と。
 そんな時私は、頭の中でセキゼキさんを更に別のキャラクターに置き換えたりしていました。
 漫画の中ではアニメ調のイケメンにしたりしていますが、私の怒りが高まっている時の脳内セキゼキさんはしょっちゅう、
(ああもう貴様なんざこうしてやる!)
 という掛け声と共にピンク髪ツインテールでゴシック風メイド服を着用したロリ顔の巨乳美少女に変換されていました。
 さらに怒りが増すと猫耳としっぽがそこにプラスされ、「にゃん♪」とか「なりぃ♪」とかそういう語尾で喋るようになり、やたらくねくねあざといポーズで上目遣いをして動き回ることにされていました。
 私は一体何をやっているんだろうと、自分に呆れることもありましたが、今ならなぜ自分があんなことをしていたのか、わかります。
 私はより強烈に、セキゼキさんを非人間化したかったのです。
 現実の彼自身から遠ざけて、虚構の中にしか存在しないようなキャラクターに仕立て上げてしまいたかったのだと思います。

『むしろウツなので結婚かと』第13話~豊かであるほど良いわけでもない

 本日7月7日に『むしろウツなので結婚かと』の第13話が無料公開されました。
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 セキゼキさん(仮名)と「一年」という期限を取り決めたことは、私にとってはずいぶん役に立ちました。
 一年という区切りで、私は自分から「選択肢を奪った」のです。
 そのことを私が自覚できるようになったのは、ずいぶん経ってからのことでした。

 ここで、これまでのこととまるで無関係に見える話をします。
 ゲームの話です。
 ゲームとは人生の模倣であり、現実よりも単純化されていることがほとんどです。
 具体的には、ゲームの中でプレイヤーに与えられる選択肢は現実よりもずっと少ないのです。
 もちろん最近では、いわゆる「自由度が高い」と言われるゲームもたくさんあります。
 何処に行って何をして誰に会うのか、従来のゲームよりもずっと豊富に提供された選択肢で楽しめるゲーム。まるでもう一つの世界に住んでいるかのような気分にさせられるゲームです。
 けれどそういったゲームですら、現実の世界に比べるとまだまだ選択肢の少ない、単純なものなのです。少なくとも、現代のテクノロジーではまだそうなのです。
 現実の私たちは明日書店に行って、そこに並ぶ膨大な本のうち、どれを選んでもいいのです。マンガでも小説でも雑誌でも実用書でも図鑑でも旅行ガイドでもいい。
 一軒の書店の中だけでもそれほど膨大な選択肢があって、しかもそういった店が一つの街の中に複数軒あったりするのです。
 ゲームの世界では、そうはいきません。
 にも関わらず、ゲームの世界はプレイヤーにそういった貧しさを感じさせないことがほとんどです。
 それはなぜか?
 私はそれは、人は無数の選択肢の大半を切り捨てて暮らしているからだと思います。
 先ほどの書店の話に戻りましょう。
 書店の中には数千冊、数万冊の本が並んでいるにも関わらず、その中で実際に購入するのは一度に数冊程度におさまることがほとんどです。。
 数十冊になることすらまずありません。
 料理が嫌いな人はレシピ本のコーナーを素通りし、旅行に行く予定もないのにガイドブックを買う人は滅多にいません。資格試験のマニュアルを手にとるのは、実際にその試験を受けるつもりの人に限られるでしょう。
 興味や関心がない、自分の生活には関係ない、好みじゃない。
 そういった本を私たちは、視界に入れることすらしません。
 だからこそゲームの世界の極めて限定的な選択肢しかない状態も、貧しいようには見えないのでしょう。

 そもそも選択肢というのは多ければ多いほど良いわけでもないのです。
 だってその状態は、雑音が多いとも言えるんですから。
 無数の音が響き渡る中で、必要な音だけを聞き取るのは難しいことです。
 単純化されたゲームの世界は、ストレスの少ない場所でもあります。

 一年という期限を区切り、別れという選択肢を捨てた時、私は一瞬「世界の表面が剥ぎ取られた」ような感覚を味わいました。
 巨大な手を持った誰かが、くるくると絨毯を剥がしていくようなイメージ。
 その直後に世界は、再びそっくりな絨毯に覆われました。一見同じに見えるけれど、確実に違うなにかに。
 現実の世界に比べるとつるりとして、陰影が少なくて、シンプルなテクスチャのなにか。
 私の世界はそのとき、現実の豊かな複雑さを捨てて単純化されたのです。
 その結果、自分自身のそれまでの悩みの多くを、私は雑音として切り捨てられるようになりました。
 たぶんそれは、正しいことではなかったんですけど。

 だって私が切り捨てた「雑音」とやらの中には「自分の結婚」、「自分の将来」について思い悩むことも含まれていたからです。
 私もうアラサーなのに、このままじゃ一生結婚できなくなるんじゃないのかな?
 仮にセキゼキさんと結婚するようなことがあったとしても、無職で病気のセキゼキさんを抱えてずっと生きていくのはたいへんじゃない?
 子供はまず持てないだろうなあ。男の子でも女の子でもいいから、欲しかった……
 結婚とか子供とかそういうのぜんぶ諦めてそのままおばあちゃんになったら、そのときむちゃむちゃ後悔したりするんじゃないかね?

 すべて、ものすごく当たり前の悩みです。この先数十年続くであろう人生のために、きっちり考えておくべきことです。一時の感情に流されて無視するのはよくないことです。
 けれどその必要な悩みを切り捨てたことで、私の気持ちははっきりと楽になりました。
 そもそもこの先の人生のことを考えて、「安定した生活」とか「幸せな日々」とか「可愛らしい子供」とかが欲しいんだったら、もうとっくに答えは出てますからね。「別れる」が正解ですよ。さすがにそのくらいのことは、私にもわかっているんですよかなり早い段階で。
 だけどわかっていてもできないから、悩んでしまうわけです。
 一年という期間限定で、私はその「正解」を選ばなくても良いことになりました。
 私が考えなければならないのは、この一年をどう乗り切ればいいのか、それだけです。シンプルで極めてわかりやすい。

 そもそも「別れる」ことにしたって、単純ではないんです。
 さようならした翌日に冷たくなったセキゼキさんが発見されるとか、そういう末路は望んでいないわけですよこっちは。
 別れってどう切り出せばいいの? 穏やかな話し合いのスタートが切れるかんじが全然しないのは気のせい?
 仮に別れの同意をとりつけたとしても、その先は?
 この先もセキゼキさんには治療を続けてほしい。セキゼキさんの実家の近くに通いやすいクリニックを探したほうがいいのか?
 今のクリニックでうまく治療が進んでいるなら、多少遠くてもそのままのほうがいい気もするし……
 けど遠くなったら通うのやめたりしない?
 傷のない別れなんてあるわけないし、とかいう歌があったし確かにそうかなとは思うけど、致命傷だけは避けたいと思っちゃうのはわがままですか?

 そういうことを考えていると、それだけでへとへとになっちゃうんですよね。
 けどその煩雑さに疲れたからって「別れない」でいると、また心の中で
「将来はどうするのー?」
「結婚とかしたくないのー?」
「老後の生活、考えてるー?」
 ってそういう声が絶妙のハーモニーを響かせてきて、私はまた新たなひとり検討会を始めることになってしまう。

 一年という区切りによって、この終わらない検討会の開催はしばらく延期されることになりました。
 別れ方についても考える必要はありません。既にセキゼキさんと同意がとれているわけですし。
 とりあえず大事なことを棚上げして先に延ばしただけとも言えますが。
 それでもよかった、とても助かった、と今は思っています。

『むしろウツなので結婚かと』第12話~ぶっ殺すと言っても殺していない凡人たち

 6月9日に『むしろウツなので結婚かと』第12話が無料公開されました。
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 正直な話、当時別れることは何回か考えましたよねそりゃあ。
 ただ、考えたから何だって話ではあるんですよ。
 まあーたとえばですけど。
 上司にムカついちゃって
「こいつ死なねーかな」
 と心の中で一瞬でも毒づいたことのある人は、挙手なさいって話でして。

 別に上司じゃなくてもいいですけど、クラスメートでも親戚でも知人でも同僚でも教師でも見知らぬ他人でも。
 とにかく
「こいつ死なねーかな」
 は思っちゃう時があったっていいじゃないか、にんげんだもの
 とりあえず
「死なねーかな」
 と何度上司に対して思っても、実際に実行に移す人は稀ですよね。いたらニュースになりますし。

 この手の空想ってのは、けっこうやってる人多いんじゃないかと思いますね。
 こんな学校やめてやる。
 明日退職願を叩きつけてやるんだ。
 こんな家もう出てく。
 こいつとはもう二度と会わねえ。
 離婚だ離婚、三行半だ!。
 きっぱりすっぱり絶縁したるぜ。
 みたいにね。

 昔、友人と話していたときに彼女が
「最近、上司の殺害計画を立てていてさ」
 と話し始めたことがありまして。
 叱責されることが重なって、心中密かに
「こいつ死なねーかな」
 を繰り返すうちに、
「どうせなら本当に殺すにはどうしたらいいかを考えてやる」
 と思うようになったのだとか、物騒なことを淡々と語る彼女。
 空想ですからね、理想は高く。完全犯罪を目指したそうなんです。
「いやーそしたらまあ、大変だよね完全犯罪! 職場近辺で死んだら、私が疑われそうじゃん! だから仕事とは無関係な印象をつけるためにも、上司の自宅周辺とかで殺すのがいいかなって思ったわけ。でもすげー遠いのよその家! 会社帰りにあとつけて殺して帰ると、私が終電に間に合わないくらい。そんで、殺人があった日にいつもと違う行動してるやつは怪しいでしょ。定時に帰宅したはずの私が、終電ぎりぎりとか始発で帰宅したらもうおかしいじゃん。そこから詰まっちゃって」
 そうやってああでもないこうでもないと、散々空想を弄んだ彼女は
「完全犯罪はたぶん無理。他の手段もいろいろ考えたけど、かなり無理がある」
 という結論に至ったわけです。
「てことは実際には、『もう我が身がどうなってもいいからこいつだけは殺す』という覚悟を持たないと犯行には踏み切れないんだなあって。そしたらそれはやっぱり嫌なんだよね」
 上司の命と引き換えに自分の人生のこれからをふいにはできないという、当たり前の気づき。
 そこまで上司の存在価値を高める必要はないな、という悟り。
 それからその友人は上司にむかついたときは
「この人がこれ以上私をむかつかせて、死なばもろともというくらい追い詰めてきたら、一か八かで以前の計画を実行してやろう。あの計画はいざというときの備えにしよう」
 と思うようになったそうです。
 そう思い始めた途端、怒り狂った上司を前にしても
「今はまだ我慢できるし、いよいよ我慢できなくなったら、私には例の計画があるから」
 と考えるようになって、なんだかとても穏やかに叱責を受けることができるようになったとか。そういうものなんでしょうか。
 そうこうするうちにうちに気がついたら上司が
「最近すごく素直になったなお前」
 と言い出し、前よりも優しく穏やかになってきたので、いつの間にか殺意自体が消えてしまったそうです。

 まあ、この友人の話はちょっと珍しい例ではあるんですけど、この手の関係性をリセットするような空想って、それ自体が関係継続に役立っていたりもするんじゃないかと、私は思っています。
 心の中で好き勝手にしてると、それだけでちょっと落ち着いてきたりするので。
 そうやって荒れ狂う感情がおさまってしまえば
「とはいえ実際に殺すわけにはいかないしな……」
 というごくまっとうな気付きが、やってきたりする。
 だから、どれほど物騒で残酷でくだらなくて一方的でどうしようもない空想に思えても、むげに否定するもんじゃないよなと思ったりするのです。
 泥の中から蓮が咲くように。
 なんて言い方をすると大仰なんですが、そういうドロドロした空想が心の健康を保って、綺麗な上澄みを生み出してくれたりするんじゃないかと。

 というわけでこの頃の私が
「セキゼキさんと別れてやる!」
 という空想を弄んだことは、一度や二度ではないわけです。
 でもそれが本当に本物の「別れる」という決意につながったことは少なかった。
 怒りと悲しみがぐちゃぐちゃした中でああでもないこうでもないと考えること自体が、関係を続けるための選択なんですよね。

 私がセキゼキさんと本気で「別れよう」と思ったのは、一度だけです。
 そういうときは心が意外と静かなもんなんだって、知りましたよね。
 決意がすーっとおりてくる。
 もうそれしかないと思うし、そのために必要な手順が自然と思い浮かぶ。
 計画は迷いなくすらすらと立てられます。
 夢想ではなく空想ではなく、ただこの先を予想して。
 リセットを夢見ることで継続しようとする逆説の空想の中では私は、嘆き悲しむセキゼキさんの姿を思い描いて溜飲を下げたりするのに。
 そんなものは思い描かず、この先のことはもう知らないと思うだけ。

 いつもなら怖気づいてしまうあたりを通り越しても、頭はなおも働き続けます。
 崖下に落ちないよう必死に伸ばしている人の手を離すことができるだろうかという、いつもの問いが自分に投げかけられた時、私はいつもと違う答えを返しました。
「だって離さないと二人共落ちるし。二人共落ちるなら一人だけでも残ったほうがマシだっていう、ただの算数の問題だよねこれは」
 そんな風に、決意を固めた静けさの中では、全てが別の見え方をします。もっと明確で、冷静に考えられるのです。

 その後結果として私は、このときは「別れる」ことを選ばなかったのですが。
 あの奇妙に静かで平穏な「算数の問題」だという意識は残り続けました。
 どんなことからも、得られる学びはあるものですね。
 友人が上司の殺害計画から、そこまで上司の存在価値を自分の中で高めなくていいという気付きに至って、ぐっと楽になれたように。
 このとき「算数の問題だ」と思えたことは、のちのちまで私の助けになりました。
 人としてどうなんだとか、倫理的に振る舞いたいとか、常識的な人間だと思われたいし自分でも思いたいといった、普段は捨て去ることのできないごちゃごちゃした意識を全て捨て去り、ただの「算数の問題」として目前の状況をシンプルにとらえること。
 この考え方は関係の解消ではなく、継続のためにも役立つものだったからです。


ブルートパーズとシルバーのピアス
『むしろウツなので結婚かと』第一巻、お買い上げくださった方ありがとうございます。妹にお祝いのピアスもらいました。

愚者の決断、愚者の前進

 夫のセキゼキさん(仮名)に以前、こんなことを言われました。
「シロイって決断力があるのに判断力がない、珍しいタイプだよな。フツー判断力がない人間は失敗を繰り返すとどんどん自信を失って、決断自体できなくなっていくもんなんだぜ。それだけ判断ミス繰り返してるのに『えいやっ』と思い切って決断できちゃうの?」
 とっさに反論しようとして私が思いとどまったのには、理由があります。

 私が以前務めていた職場では「シロイさんの傘占い」というイベントがありました。
 降水確率が30~50%くらいの朝に出勤しますと、皆が殺到して
「シロイさん、傘持ってきました?」
 と、私の傘の有無を確認するのです。
「はい、天気予報で降るかもという話だったので」
 あるいは
「いえ、今日は大丈夫そうかなと思って」
 などと答える私。
 するとみんながその答えを聞いてなぜか一喜一憂します。
「よかったー、シロイさんが傘持ってきたってことはやっぱり今日降らないよ」
 とか
「どうしようシロイさんが手ぶらだ。今日降るってことじゃんこれえ」
 とかね。
 そうなのです、あの職場では皆、雨が降るか降らないか判断に迷う日は、私の傘の有無で天気を占っていたのです。
 シロイが傘を持ってくれば降らなくて、傘を持ってこない日は降ってしまう。
 そう考えられていました。
 そして悔しいことにこの傘占いは、実によく当たるのでした。
「シロイさんすごいね、やっぱり降ってきたよ。今朝、手ぶらのシロイさん見た時、傘持ってきて正解だったなと思ったんだよー。さすが当たるわ」
 とか言われたときの複雑な気持ち、皆さんおわかりいただけますか?
 かように私の決断というのは、ことごとく誤るのです。逆方向にいくのです。
 まあ、雨と傘くらいなら別に間違ったっていいんですけど、もっと重大で人生の根幹に関わるような決断も、当然のように誤りますからね。よろしくないですよ。

 学生時代、悩みに悩んで就職活動を途中で打ち切り、当時交際していた男性と一緒に暮らすために、彼の仕事にあわせて引っ越しました。
 転勤のある方でしたので、新しい仕事を見つけてはやめ、また仕事を探すことを繰り返す日々。
 そうやって数年経過した後、フラレました。
「どちらかが別れを選べば、続けることはできませんね。わかります。だけど私はこれまでに何度か別れようとしたことがありましたよね。その都度あなたに
『君と別れたら死んでしまう』
 と言われました。私はあなたに、死なれたくないから続けてきました。
 今ここで放り出されると私は家も金もなく、正直かなり死にたいような気持ちです。あなたはそれについてどう思いますか?」
 と真っ暗な気持ちで懸命に言葉を組み立ててきいてみたところ、
「すべては自己責任だから。続けると決めたのはシロイだから、その結果を引き受けるしかないよ。かわいそうだけど仕方ないよね」
 と言われたんですけど、これなんかわかりやすいですよね。
 私の判断はことごとく裏目に出ています。
 就職活動打ち切ったことも、目の前の人の手をとったことも、別れないことを選んだのも、最後にその人の温情を確かめようとしたのも、全て間違い。
 私の二十代の大半は、数多の間違った判断の上にあったのです。

 新しい職場で最初に仲良くなろうと決めた人に、嫌がらせをされたこともありました。
 退職した職場から
「戻ってきてほしい」
 と頼まれて戻ったら、わけのわからない仕事を押し付けられて理不尽に罵られ、挙げ句に給与未払いをくらったこともありました。
 ほんと恥の多い人生ですよ。間違いだらけです。私の決断は私を苦しめてばかりいる気がします。

 人に指摘されずとも私自身、まずい決断を繰り返しているという自覚はあります。
「だんだんわかってきた」
 とセキゼキさんは言います。
「それだけ間違ってもシロイの決断力が全然衰えない理由が、なんなのか。シロイはどう決断しても、どうせ間違うと思ってるんだろう? もうそういう境地だよな」
 私は頷きます。
「だよな。どんだけ迷って慎重にしてもどうせ間違うんだから、迷う時間は無駄と思ってるんだよな。その思いが決断の異常な速さを生んでるのか……確かにさっさと決断しても間違うけど、延々悩んでも間違うもんな。さすがだよ」
 また「さすが」って言われた。なんだこれもう。
「うん、まあ、おっしゃる通りなんですけれども……たださ、自分でも不思議なんだけどどっちに決めても大差がないような小さな決断だと、異常に長時間悩んじゃったりするんだよね。回転寿司でえんがわを食べるかイクラを食べるかとかだと、延々レーンを見つめながら考え続けちゃったりするんだよ」
「それは不思議じゃないだろ。そのくらいの小さな決断だったら、自分の判断力でももしかしたら間違わないで済むかもしれないっていう、淡い期待があるんだろ。ひとえに自分の判断力がまずいと自覚しているがゆえの行動だよ全部」
 セキゼキさんの言葉には納得したのですが、全くもって愉快ではありません。
 つまり私という人間には、ろくな判断力が備わっていないということです。というかそれ、早く言えば「ばか」ってやつじゃない?
 私だって学習能力ゼロというわけでもないですから、この間の失敗を生かして逆を選ぼうとか、と思うときはあります。
 ところがまあ、めぐり合わせなのか何なのか、判断力の低さゆえによくわからないんですが、とにかく逆を選んだって同じように失敗するわけです。
 ですからもう開き直って
「どうせ失敗するさ。下手の考え休みに似たり」
 というのが私の基本姿勢となっております。
 おかげで至るところ傷だらけみたいな人生を歩んでいるとも言えるのですが、利点というものがないわけでもなく、たとえば私は失敗というものに、慣れております。
 ああ、やっちゃった。と思うことが数限りなくありますが、だからといってすごく落ち込んだりはしません。
 ため息を一つついたら、やるべきことをやるだけです。雨が降ったならコンビニを探す。飲み物をこぼしたらタオルを出して拭く。道に迷ったら地図アプリを起動する。店員さんに声をかける。
 謝る。失敗したと打ち明ける。自分にできないことを認める。頭を下げる。助けを求める。隠さない。見栄を張らない。助力に感謝する。
 諦めない。失敗してもまだその先があると知る。再度チャレンジする。繰り返しを避ける。腐らない。自分で勝手に終わらせず、もう一度考えてから一歩踏み出してみる。
 そうするとまあ、ふっとうまくいく瞬間が来たりするわけです。遠回りして、時間がかかっても、なんとかなったりする。必ずではないです。なんともならないときはある。けれど、なんとかなることは案外多いというのが、私の実感です。
 それにね。間違ってもいいってのが、救いになるときもあるんですよ。
 私のそのことを教えてくれた人は、もうそれを覚えてないみたいなんですけど。

 自己責任だから仕方ないよね、とにこやかに宣った方が去って、しばらく経ったある日のこと。
 私はその日、久しぶりに会う友人と飲んでおりました。
 失恋の後ですからね、そりゃあ飲みますよ。古来からお酒と失恋は仲良しではないですか。
「いや、まあ、だからね。ぜんぶわたしがダメなのは、わかってるんですよう。わたしがばかなんだから、わたしがつらいのも、しかたないですよう~」
 お酒の力でますます馬鹿になっていく私。
「でもちょっと、ちょっとは、その。ダメなにんげんでもね。みとめてほしいとおもうんです。ダメだからこそのまちがいも、そこからなんか、ひろってくれないかと」
 自分でも何を言ってるのかわからなくなりながら、ぐだぐだと続けます。
「わかれないでといわれて、わかれなかったこと。しんでほしくない、いきててほしいとおもったことまで。ぜんぶまちがいですか。ダメですか。それってちょっと、しんどくないですか。そうおもうのも、ダメですか」
 それまで黙っていた友人が口を開きました。
「ダメじゃないだろ。ダメじゃない。というか」
 語気を強めて、友人は続けます。
「確かにシロイは間違ったんだろうけど、だからなんだ。いいじゃないか、信じたんだろ。人を信じて間違ったからダメ? 人を信じないで間違わないやつのほうが偉い? おれはそうは思わない」
 私はぽかんと口を開けました。
 まさか。
 まさかこんな風に言ってくれる人がいるとは、思いもよらず。
「シロイと違ってその元カレ? その人は、間違ってないのかもしれないけどさ。自分の人生は、いっこも傷ついてないもんな。うまくやったよ。必要なものを必要なときに得て、いらなくなったらポイって、利口だよ。でもおれは、そんなのがいいとはちっとも思わない」
 そこまで言って友人は横を向きました。
「シロイはそれでいい。ダメだとしてもいいんだ。そんなふうに利口な人間よりは、ずっといい」
 いいんだ、と繰り返した彼の声は、妙にくぐもって聞こえました。
「あれ?」
 私はびっくりして、素っ頓狂な声をあげました。
「えーなんで泣いてるのセキゼキさん。私泣いてないのに。なんでそこでセキゼキさんが涙ぐんじゃってるの?」
「あああああ、ここでそれを口に出すのは、マジでほんとにダメだからな! そこはほんとに、直したほうがいいからな!」
 そうやって私はセキゼキさんまで怒らせてしまったわけですが、そのときとてもほっとしたのです。
 そうか。
 間違ってもいいんだ。間違ったからダメってわけじゃないんだ。自分で選んだことを引き受けるってのは、そういうことでもあるんだ。
 間違っても、辛くても、それを含めてオッケーだと。そう思うこともありなんだ。

 それから更に時間が経って、セキゼキさんと結婚するかもという流れになったとき、彼はウツになって働けなくなりました。
 またしても、決断の時です。続けるべきか、ここでやめるか?
 学習能力が低い私でも、さすがにわかっていました。
 ここで間違わない決断は、利口な選択は「別れる」なのです。ここで間違ってしまえば、私は何をどれだけ失うか見当もつきません。「別れない」のはあまりにしんどく、想像しただけでうんざりしました。
 だけど。
「人を信じて間違ったからダメ? 人を信じないで間違わないやつのほうが偉い? おれはそうは思わない」
 ああそうだ、私もそう思ってしまうんだよセキゼキさん。
 セキゼキさんに言われたからっていうのもあるけど、でもたぶん元々思っていたことなんだよそれは。
 やりたくないことを選んで、嫌いな道を歩んで、それで間違わなければいいのか?
 信じることをやめて、それで傷つかないのが正解なのか?
「そもそも私は、どっちの道を選んだって間違うことが多いんだしな……」
 賢くなろうとして気の進まない方を選んで、それでも間違ったときのやりきれなさも、私は既に知っています。
 だったらもう、やりたい方を選ぶのがいいんじゃないだろうかと、私は決めてしまったのです。我ながら呆れるほどの素早さで。
 この人のそばにいたいなら、信じていたいと思うなら、じゃあそうすればいいじゃないかと。
 結果的に奇跡的に、この決断は間違いではありませんでした。少なくとも私は、そう思っています。
 正確に言えば間違ったと思ったことは、数限りなくありました。昨日は間違った、今日も間違った、明日もまた間違うだろうと思い続けて。
 その間にセキゼキさんは、三回も自殺未遂をしました。ウツってそういう病気なので。
 お先真っ暗だと思いながら、これでいいのかと迷いながら、それでも利口ではない道を選ぶことを繰り返すうちに、セキゼキさんは少しずつ良くなりました。
 気持ちの落ち込みが減り、死のうとすることはなくなり、
「もう薬を飲まなくてもいいです」
 と言われる日がやってきて。
 そこに行き着くまでには長い時間がかかりましたが、今セキゼキさんは私と結婚して、会社員として働いています。
 四年前には、娘も生まれました。
 この子に繋がるための日々だったのなら、私は今まで何も間違っていなかったんじゃないかと、そんな風に錯覚させてくれる娘が。

 だからもう私は
「正しい判断はできなくていいや」
 という感覚で生きています。
 どうせできないんです。私はたぶん、ダチョウとかペンギンとかそういう鳥なので、空は最初から飛べない。だったら飛ぼうとする時間は無駄です。走るとか泳ぐとか、自分でもできることをやったほうがいい。
 私は利口になれない。間違わないことはできない。それでいい。それはそれで受け入れる。
 それにきっと、私よりも判断力があって賢い人だって、一度も間違わずに生きることなんてできないだろうとも思うのです。
 みんな失敗するのです。失敗はありふれている。誰もそれを避けられない。
 だからまあ、今日も私はいろいろさっさと決めてしまいます。どうせ失敗するんですけど。そんなのはわかっているんですけど。
 だけどそれを嫌がって一歩も動けなくことこそが、私の最も恐れるところですので。失敗を繰り返していればたどり着けるかもしれない場所に、失敗を恐れるばかりに歩き出せないなんて、それ以上の大失敗はないだろうと思いますので。
 愚者は悩まず、ただ足を前に出します。
 えいやっ。

#「迷い」と「決断」




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