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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

ぼくたちわたしたちのカニバル・カーニバル

人肉食について考えたこと、おありですよね? 少なくとも「人肉って美味しいのかな、それともまずいのかな?」とそのくらいのことをちらっと考えたことは、あるはずです。「いやー、一回も考えたことないね」
とおっしゃる方を、私は以下の理由で信用しません。

  1. 人肉食を題材として取り扱っている作品は、映画・小説・マンガなど、多くの分野に数多く見られ、フィクション、ノンフィクション共に豊富です。そういった作品に接した経験がないという方は、ありとあらゆる作品と呼ばれるものに接した経験が過小であるか、接してもその内容に対して少しも考えをめぐらせたことないか、そのどちらかです。どちらであるにせよ、私はそのような方をあまり信用いたしません。
  2. 多くの作品に接したことがあり、その内容について思いをめぐらしはするけれども、人肉についてのみ盲点のように考えが及ばなかった、と言い張る方。あなたはおそらく嘘つきですので、信ずるに及びません。


というわけで、まっとうな大人であるならば人肉の美味いまずいくらいは考えたことがある、そのような前提で論を進めます。
ですがみなさん、ここで強調しておきますが、だからといって、このブログを参考に実際に人肉食にチャレンジしてみることは、やめてください。仮にチャレンジするとしても、絶対に法に触れないよう気を配ってください。
まず、人が人を食べると病気になりやすいという絶対的な問題点があります。「クールー病」という死に至る不知の難病がありますが、この病にかかる原因はたった一つ、人肉を食べることです。人肉を食べなければクールー病で死なずに済みます。あなたの健康のためにも、人肉食は慎むべきです。
さらに言うならば、人肉の味を知ることはどうあっても生涯ありえない善良な一般市民が、にも関わらずその届かない味について論考をめぐらすからこそ、そこにロマンはあるのです。追いかけて追いかけてもつかめないものを追うことがロマンなのです。
なので、実際に追いかけて追いついちゃったらそれはロマンじゃありません。そもそも、猟奇的な事件が起きた後、「容疑者が愛読していたブログ」などというテロップと共に私のブログのスクリーンショットがテレビ画面に映るような事態を、私は非常に好みません。法治国家の民として、法は遵守する心構えで生きていこうではありませんか。


さて。
フィクションの世界では「人肉美味いよ」派が圧倒的に多数を占めます。これは当然のことですね。そもそもなぜフィクションの世界で人肉食を扱うかといえば、それが現在の世界ではタブーとされているからです。不倫しかり殺人しかり、タブーは禁じられているがゆえに、敢えてそれを冒すことによって、ドラマチックな状況が生まれるのですから。せっかく人肉食を題材として扱っている作品なのに、それがまずくて誰も食べたがらないものであるのならば、タブーは犯されずに済んでしまいますから、物語を進めるのが非常に困難となります。
まずくてまずくて仕方ないからぜんぜん食べたくないのに、どうしても人肉を食べなきゃいけない主人公、などという話があったらちょっと面白そうな気はしますが、その場合食べたくないのに食べなくてはならない苦労、という部分が話の中心になってしまいますから、まずいものなら青汁でもなんでもよくて、敢えて人肉にする必要ないよね、という話になってくる気がします。
とか言いつつ、「近親者が故人の肉体を美味しくいただくことで死者を弔うのが絶対的なモラルとされる世界で、もうすぐ死んでしまう祖父の介護をしながら、『おじいちゃんの肉はいかにもまずそうだな、食べるの嫌だな』と重苦しい気持ちになった一家が、残された日々で祖父の肉を少しでも美味くするために必死に努力する物語」というのをなんとなく思いついてしまいましたすみません。タイトルは『おじいちゃんがフォアグラ』でどうでしょう、安易すぎるでしょうか?


話が逸れました。
私が言いたかったのはフォアグラとは関係なく、フィクションの世界では物語構成の必要上、人肉はとても美味いという設定になりがちであるということなんでした。
ということはですよ。
無数の作品、中には名作と呼ばれるものまでもがいくら「人肉は美味い!」と声高に主張しても、それは信ずるに値しないんじゃないの、ということがここで明らかになってくるわけです。
どうせ人肉の味についてどんなデタラメを書いたって、誰にもばれる恐れはありません。
人肉食の経験がある方ならば
「この作品の中の人肉の描写は嘘だなー。こんな味しねえよ。取材不足」
くらいのことをもしかしたら思うのかも知れませんが、そのことをおおっぴらに口にするのはあまりにも我が身を危うくする行為ですので、結果的に人肉の味については自分だけの小さな秘密として胸の中にしまうこととなるでしょう。
というわけで、人肉の味について人が考えをめぐらせるとき、フィクションの世界の描写は何の参考にもなりゃしない、ということがここに判明いたしました。


次に人肉まずいよ説の検討に入ります。
大抵の食べ物に関しては、食べたことない人間が「でもわかるね、きっとまずいよ」などと言えばフツー「食わず嫌い」と批判されることになります。
これがたとえば「タイの刺身の苺ジャムがけ。コンビーフの餡子和えを添えて」などという料理であれば、食べずにまずいと決め付けても無理はないと思われますが、これは私たちが「タイの刺身」、「苺ジャム」、「コンビーフ」、「餡子」という素材の味を既に知っているため、料理としてそれが出されたときの味の想像が容易につくため、否定が許されているのだと思うのですね。
それに対し、人肉は素材です。我々みんなにとって未知の食材であります。
ただの食材を、食べもせずにまずいって決め付けるのはどうなの、調理法の工夫で素材ってのは生かせも殺せもするんじゃないの、という思いが私にはあります。
そのため、私はまことに心苦しいのですが、グイード・ミスタ氏の「人間は肉を食っているから肉が臭くなってしまい、結論として人肉はまずい」説を、ここでは採択いたしません。説得力はかなり感じるのですが……


あと、「人肉まずいよ説」がそれなりに受け入れられている背景として、人は「その話題についてまったく詳しくないため、根拠や理由を知らないままなんとなく定説を受け入れている」ときに、「定説と正反対のそれらしいディテールがついた話を聞くと、わりとあっさり信じる」傾向があるからだと思っています。
定説の正反対の話を聞いて驚いた心の空白に、自分より詳しそうな人(それは断じて詳しいとイコールではないのですが)のもっともらしい話がするりと滑り込んじゃうというか。だからトンデモ説を信じる人って絶滅しないんだと思いますが。
人肉の味に詳しい人はかなり稀ですので、人肉うまいよ説を我々はなんとなくぼんやりと受け入れている。そのため、
「人肉って実はまずいらしいよ。癖が強くて、なんかすっぱいんだって」
とか言われると、「あ、そうなんだ」と思ってしまうのではないかと。ポイントは「すっぱい」とか「癖が強い」とかの、それっぽいディテールです。


なんとなくなのですが、人肉まずいよ説というのは、「まずいということになっているほうがなんか安心できる」という人間的な心根が作り出したものではないかと、私は感じています。
そのこと自体はある意味心温まることだと思いますので、私はもしも将来我が子が「お母さん、人肉ってまずいんだよ」と言い出したら、人間らしく育った我が子の成長を寿ぎ、優しく微笑みながら「きっとそうなんでしょうね…」と相槌を打ってあげたいと思います。その説を信じるか信じないか、それはともかく。


ここまで来たところで、ごく当たり前の、しかしできれば避けたかった結論が近づいてまいりました。
すなわち「食ったやつの意見を聞くしかない」というものです。
しかしながらこれもなかなか難しい。
なぜなら、カニバリストの言葉イコール真実とは限らないからです。
たとえばパリで白人女性の肉を食べた佐川一政なんかは割合はっきりと「美味かった」と言ってしまっているのですが、私はこの意見はあまり素直に信じる気持ちになりません。
佐川一政は白人女性に対するはっきりとした性的倒錯があって、犯行に及んでいます。
つまり、彼が人肉食をしたのは、食欲を満たすためではなく、性欲を満たすためなのです。その時点で彼は冷静な味の審判者としての資格を欠くように思います。
大体ですねえ、佐川一政は犯行時に
「うまいぞ! 白人娘はやっぱりうまいぞ!」
とか叫んでるんですよ。
これ、よく考えると変でしょ。
どんなに美味いものを食べても人は「うまいぞ! 神戸牛はやっぱりうまいぞ!」とか叫ばないでしょ。三ツ星レストランの店内の人たちだって、そんな風に叫んでないでしょ。
人は食べ物がうまかったというただそれだけの理由で、叫んだりしないんですよ。一部の料理マンガの世界を除いて。
なのに佐川一政は叫んだ。その時点で彼はきっと、美味いものを食した純粋なヨロコビとは別な衝動に突き動かされていたんじゃないかなーと思います。


また、事件後、佐川一政は自身の事件をネタに、作家・コメンテーターとして活動しています。
その仕事は人々が人肉という素材に対して抱く幻想があるからこそ、成り立っているわけです。
人肉は美味い、そう言っておいたほうが、「まずい」と断定するよりも、幻想としての価値を減じずに済むでしょう。
さらに言うならば、多くの人は自分の決断や行動が無意味だったとは認めたがらないものです。佐川自身も幻想にとらわれて犯罪者となったわけであり、その自分の行動がとんでもない勘違いにのっとった無益な行動だった、などということは、他人に対しても、自分に対しても、認めがたいものなのではないでしょうか。
というわけで、私は同様の理由でジェフリー・ダーマーの「人肉は美味かった」という言葉も信じておりません。
大体、ダーマーの家って、警察が踏み込んだときすごく臭かったらしいんですが、そんな悪臭の中で平然と暮らしていられる人間の味の評価なんて、まったく信ずるに足りません。味においては味覚だけではなく、嗅覚も大きな要素なんですから。


ここで私は思います。
「自分の食しているのが人肉であると知り、それがタブーであると認識している人間は、果たして正確に味を判定できるのだろうか」
と。
よく言われることですが、食事の印象を決めるのは、純粋に食べ物の味だけではありません。
精神的に打ちのめされ、辛い気持ちでいる人間が、食事を楽しむことは難しいことです。
その一方で、たとえば幼い我が子が拙いながらも懸命に「ぱぱ がんばってね」などと言いながら作ってくれたおにぎりは、とても美味しく感じられたりするものです。
「夢にまで見た人肉だぜフーハハー」
と興奮しながら食べる味と、
「人肉なんて食べたくなかった……こんなことになるなんて死にたい。でも死ねない」
と悲愴な気持ちで食べる味では、印象が大きく異なるに違いありません。
そのどちらでもないごく平静な気持ちで淡々と人肉を食べた方の言葉こそが、人肉の味についての決定的な証言となるはずだと私は考えるのですが、そもそもそんな風に冷静に落ち着き払って人肉食を行うことができる人間が、世の中にいるものでしょうか?


それが、いたのです。
豚肉や牛肉を食するときと変わらない平静な気持ちで人肉を食した人間が、それなりに多数、いたことがあるのです。
第一次大戦後のドイツ。
貧困にあえぎ、食料難に苦しんでいた敗戦国ドイツに、三人の肉屋がいました。
三人はお互いのことをまったく知らない赤の他人で、まるで関わりのない人生を送りましたが、「人肉食経験のある肉屋であり、人肉を偽って市場に流通させた」というとんでもない共通部分を持っておりました。
つまり、彼らの商う肉を買った客たちは、自分たちが人肉を食べていることを知らなかったため、牛や豚を食べるときと同じように平静なごく落ち着いた気持ちでその味を確かめていたことになります。
また、味覚はきわめて主観的です。AさんにとっておいしいものがBさんにとってはまずくて仕方ないというのは、よくあることです。総合的で客観的な立場から人肉の味を判定するには、ある程度の集団の意見を統合していく必要があります。
そのように考えていくと、この客たちは、人肉味判定の上でまず参照すべき、最も信頼できる意見を持った人々であると、そのように言えるのではないでしょうか。
冷静な消費者を一定数集め、彼らの意見を総合的にとらえて商品の質を判定すべし、というのはビジネスの現場でのみ正しい言葉ではありませんでした。
肉屋の犯行発覚後の客たちの気持ちを考えると、このように考えるのが申し訳なくもありますが。


さて、おかしな肉屋たちの犯行の詳細について触れるのは本稿の目的ではありませんので、駆け足で進んでまいりますが、まずい肉を売ったせいで客から苦情がきて肉屋の悪行がばれたとか、そういうことはありません。
むしろ、「安くて新鮮な肉を扱っているので評判は良かった」とすら言われています。
ということは。
人肉はすごくまずいよ説は、おそらくここで否定されます。そこまでまずければ、たぶん客は彼らの肉を買わなかった。
しかしながら、妙なる天上的な味わいが口中いっぱいに広がる的な美味を人肉が有していたわけでもなさそうだな、ということも、なんとなく感じ取れます。だって評価が「安くて新鮮」というだけだもんなあ。ナニこの新しい味覚、とかじゃないんだものなあ。
まことに味気なく、面白みのない結論に近づいてきた気がいたしますが、人肉ってきっとすごくまずくも美味くもないんだろうな、と私はここで結論付けるのでした。
そんでたぶん、豚肉に似た味なんだろうな。どうも肉屋たち、人肉をソーセージやホットドッグにして売っていたらしいからな。ソーセージって、大抵豚肉だもんな。


ところでここで話は変わるのですが、「最近は抗生物質のせいで人肉がまずくなったのか、鳥葬の際に鳥がなかなかひとの肉を食べてくれない」という話を聞いたことがあります。
てことはですよ。もしかしてつまり、人肉って結局はまずいんじゃないの、という気がしてくるのですね。
もともとの素材としての人肉は、すごくまずくも美味くもなくて豚肉みたいな味がするものだったとしても。
現代日本人の肉はやっぱり、まずくなっているのかもしれません。抗生物質を摂取したことのない人間は、現代日本では稀であると思われます。
でも考えてみれば、現在食肉用の家畜として飼われている豚とか、普通に抗生物質使われていますよね。
そして私はそんな豚の味に慣れきって特に何も考えず食べています。チベットの鳥からすると私の舌の貧しさたるや、軽蔑すべき体たらくだったりするんでしょうね。
ということは、やっぱり人肉っていろんな意味で豚肉みたいな味なんでしょうね。


抗生物質が肉をまずくするとか、肉を食べる動物の肉は臭みが酷いとか、そういった意見も合わせて考えますと、やっぱりオーガニックで健康的な生活を送ることって、大事な気がしてきますね。
私たちが日々送っている生活は、肉をまずくする方向に一直線。そう考えるとなにか悲しくなってきます。
老人のために食べ物を探したけど何一つ見つからず「ではせめて私の肉を食べてください」と焚き火に飛び込むウサギの話がありましたが、飛び込んだのはいいけど、肝心の肉がまずいねこりゃ食えたもんじゃないよ、という結論になったらそれはあまりにむなしくありませんか。
あるいは、漂流して無人島にたどり着き、食料がないので仕方なく自分の足を切り落として食べて飢えをしのぐことにしたら、すごく痛くて辛かったのに肉がまずいんだけど、となったら悔しくはありませんか。
やはりそういうときのために、自分の骨にまとうこの肉は少しでも美味しくあってほしい、などと思ったりするわけです。


ここで唐突に『おじいちゃんはフォアグラ』の続編として、おじいちゃんが不健康な生活を送っていたがゆえに、葬儀の際、まずい肉を大量に食さなくてはならなくて苦しんだ家族が数年後おばあちゃんの死を迎えた際に、その肉のあまりの美味さに驚愕し、
「おばあちゃんが日頃から無農薬有機栽培の野菜を中心としたベジタリアンに近い食生活を送っていたのは自分が亡くなった後、遺される家族のことを考えていたからだったんだ!」
とおばあちゃんの深い愛にそこで初めて気づいてむせび泣く、という話を思いついてしまいました。
タイトルは『たとえるなら黒毛豚』。
家族の絆と愛情、そして健康的な食生活の大切さを切々と訴えかける、感動の人間ドラマとしてヒットしたりは……しないですかね、やっぱり。