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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

遠くにありて思うもの

私の故郷はかなりの田舎です。
夜空は澄み切った星の光に満たされて、水は碧くそしてしびれるほどに冷たく、吸い込む空気には木々の緑が溶け込んだ味がします。
美しい場所です。帰るといつもほっとします。


今朝私は妙に早く目が覚めてしまって、中島みゆきさんの「ファイト」を聞きながら、ぼんやりと涙を流していました。朝から暗すぎる。年取ると涙もろくなって嫌ねえ。
さて、「ファイト」は知らない方がいらっしゃるならぜひ知ったほうがいいと思いますので、とりあえずYoutubeへのリンクを貼っておきますが、それはともかく。
YouTube - ファイト 中島みゆき
この歌の歌詞は全体にずっしりと重く、どこを一番重く感じるかは人によって違うのだと思いますが、実は私にとって以下の部分の歌詞は、すんごく重く感じられてしまうのでした。

薄情もんが田舎の町に あと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき


私は周囲の人間関係に恵まれておりましたので、こんなこと言われたことはありませんでしたし、大学進学と共に地元を離れ、その後関東で働き続け、周囲にも似たような境遇の同級生は大勢いて別にそれで私たちは何の問題もなく生活しています。
むしろ地元は景気が悪いので、進学・就職である程度の若者が外に出て行かなければ、彼らの受け入れ先がないのが現実ですし。
それに何より、うちの田舎、九州じゃないし。「ファイト」は時代も少し古いしねえ。


それでもやはり私はこの歌詞を見るとドキリとするのです。
なぜなら私は、今の時代になっても、望んだ人間全てが田舎を出られるわけではないと、知っているので。


しばらく前に、私の田舎で、あるひとがなくなりました。
そのひとは私が子どもの頃、よく買い物に行った雑貨屋さんの一人息子でした。
幼かった私が家に電話をしなければならないのにお金を全部なくし、途方にくれて泣きながら歩いていたとき、おにいさんは私を呼びとめ、お店の電話を貸してくれました。
いつもにこにこして、とても優しい印象のひとで、私はおにいさんが好きでした。
おにいさんはお客みんなに感じよく接していましたし、子どもの面倒もよくみてくれる方でしたので、私と同じように彼を好いていた人は、大勢いたと思います。


別におにいさんと我が家との間に特別な付き合いがあったわけではありませんでしたし、私はなんせ田舎を出て関東で暮らしていますし、そんなわけで私がおにいさんの死を知ったのは、ずいぶん後になってからのことでした。
「自殺?」
私が裏返った声で尋ねると、母は沈んだ顔で頷きました。
「どうして? あの雑貨屋は小さな店だったけど、周りに競争相手も少ないから商売は順調だって聞いていたし、家族仲はとてもよさそうだったし」
「理由はよくわからないみたいねえ……ただ、一つだけ噂があって」
母は悲しそうな目をしました。
「あのおにいさん、ゲイだったって、最近それで相談された人がいたって、そういう話をきいたわねえ」
まさか、と言いかけて、私は口をつぐみました。
私が子どもだった頃、既に働いていたおにいさんは、今いったい幾つになっている?
その歳までおにいさんは独身だったのだ。たった一人の跡取り息子だったおにいさんに、早く結婚しろ、孫の顔を見せるのが親孝行だと、周りの人間が言わなかったはずはない。だって田舎というのは、そういう場所なのですから。
それでもおにいさんは、結婚しなかったのだ。
「それが本当なら、おにいさんは辛かっただろうね……」


当然のことながら、私はおにいさんが何故死を選んだのか、本当の理由は知りません。
今後も知ることはないでしょう。知る必要もありません。
おにいさんがゲイだったという事柄に関しても、それがデタラメなのか本当なのか、わかることはないでしょう。
ただ、おにいさんがもしゲイだったとすれば、私は彼の死への道筋が、理解できるような気はしました。


田舎には人情があり、あたたかい助け合いの心がある。それが田舎の素晴らしい点だ。
そのような意見を私は何度も目にしたことがあります。そしてそれは、確かに真実だと思います。
○○さんの家で、家族が倒れて、妊娠中のお嫁さんが苦労している。だから近所の人間が交代で手伝いに出向こう、などという会話は、特に珍しくありません。
この助け合い精神は、田舎の人間関係が濃密で、住人がお互いの事情をよく理解しているからこそ、発揮されるものです。
都会ではこうはいかないでしょう。特にマンションなどでは、隣の住人が倒れようが妊娠してようが、そんなことまるで知らなかった、というのはよくあることなのですから。
知らない相手を、助けることは不可能です。
しかしこの「お互いをよく知り合っている」状態は同時に、おのれの秘密を守り、差し伸べられた救助の手を拒絶することの困難さを、意味しているのです。


誰かを助けたいという気持ちは美しいものですが、「助けたい」と感じるということは、救助の対象となる相手の状態を「望ましくない」「正しくない」と断じているということでもあります。
そのため、「助けたい」という美しい気持ちがねじれて、おのれの正しさを押し付けるものに変じてしまうことも、ままあるのです。
であるが故に、「その助けは要りません」と断ることは難しい。おのれの正しさを否定された人間は、多くの場合傷つき、怒りを覚えるものなのですから。
お互いの事情に通じた濃密な社会で、誰かの不興を買うことは、脅威です。


一般的な「正しさのテンプレート」がどのようなものか見極め、そこから外れないように生きられる人間は、そのような社会では、とても生き易いです。パラダイスですらあるかもしれないと思います。
お互いが共通した正しさテンプレートを用いて、そこから外れそうになったら周囲に修正を手伝って貰う。助け合いは本当に素晴らしい、と日々実感しながら生きることが出来るでしょう。
けれどもちろん、そのテンプレートからはみ出して生きたいひとにとっては、この状況は非常に辛い。
厄介なのは、その正しさテンプレートに沿って生きることが困難でもなんでもないひと、ただ思うように生きているだけでそのテンプレートから外れないひとが、世間では一番の多数派であるという点です。
彼ら善良なるマジョリティが、テンプレートにうまく沿えない少数派の苦しみを理解することは、困難を極めます。だって大抵の場合善良なるマジョリティは、そのような苦しみが世の中に存在することに、気づいていないのですから。たとえそのような苦しみの存在を知識として知っていても、実感することはほとんどないのですから。


悲しいことですが、少なくとも私の田舎の正しさテンプレートは、ゲイであるひとが身近にいることを想定した形にはできていないと、私は感じています。
跡取り息子が適当な年齢になったら、可愛いお嫁さんをつれてきて、子どもを作り、家業を続けていく。これ以外の形を、テンプレートは許容しません。
だから周囲は、テンプレートから外れているおにいさんを心配し、助けてあげようとするでしょう。
おにいさんが仮にゲイでなかったとしても、独身者であるというだけで、助けの手は伸ばされ続けます。


都会には多すぎるほどの人間がいます。それゆえに価値観は多様で、正しさテンプレートを見出すことは困難です。
そのこともあってか、都会の人間はしばしば、お互いに無関心。道で倒れているひとがいても、無視して通り過ぎるような。
誰も助けてくれない。けれどそれは同時に、誰かに正しさを強要される可能性が非常に低い社会であることも意味しています。
道端で人が倒れている状況すら、「正しくない」「望ましくない」と、周囲が考えない社会なのですから、そこは。


おにいさんが、都会のひとであれば。都会に出てくることが出来れば。
彼の命はもっと長かったのではないかと、私はつい思ってしまいます。
正しさテンプレートに沿うことができない自分を、解放することが出来たのではないかと。
文字の滲んだ東京行きの切符を、おにいさんが握り締めて電車に乗ることができれば、事態は全て変わっていたのではないかと。
でもおにいさんは、そうはしなかった。


おにいさんは、優しいひとでした。泣きながら歩く子どもを呼びとめ、助けてくれるようなひとだったのです。
だから彼はきっと、家族を置いていくことができなかったのでしょう。年老いた両親を助けて、家業を続けることを選んだのでしょう。
そして、そんな彼の善良さと優しさを高く評価するひとたちが、正しさテンプレートにしたがって、助けの手を伸ばし続けた。
断れば相手を傷つけてしまうと知っているたくさんの「助けの手」を、優しいおにいさんはどんな気持ちで見ていたのでしょう。


中島みゆきさんの歌声を聴きながら、私は小声で口ずさみました。
「この切符 あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき……」


あのおにいさんは本当に、とても優しいひとだったのです。