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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

最低な男さんへ

コメント欄に数日前にいらしていた「最低な男」さんへ
ちなみに私自身は「最低な男」さんを別に最低だとは思っていません。世の中にはDVとかモラハラとか多重債務とかギャンブル依存とか、上には上というか下には下というか、とにかくもっといろんな最低要素を持った方がいらっしゃいます。
「最低な男」さんは誠実さも常識もある程度持ち合わせた方であるなと、コメントを読んで感じました。どうかご自身を「最低な男」などと不正確にカテゴライズなさらないでくださいな。


まずご質問に対してお答えいたします。

で、最後に、私が聞きたいことは現在、何か彼氏に偶然会ったら伝えたいことは何ですか?

ん〜と、率直に言って何もナイですね。しばらく考えましたが、ナイです。
私は確かに辛い思いもいたしましたし、恨みに思う気持ちなんかも存在したわけですが、そのくらいのことを元彼が想定していないわけがないと思いますし。
アレは辛かった、悲しかった、と彼に言うのは、「氷って触ると冷たいよ」とか「火に手を突っ込むと火傷するって知ってた?」とか言うのと同じくらい無意味な気がします。
それに大体、何かを伝えるということには、コストがかかります。そのコストを、私は元彼のために費やすのが面倒なのです。
偶然入った食堂のしょうが焼き定食がまずかったとしても、私は黙ってそれを食べて店を出て、二度とその店に入らないだけです。それと同じ。
もしもそれが、友人の開いたばかりの店での出来事だったら、「これはおいしくないよ」と言いますけどね。
私にとっての元彼は、遠い街の辺鄙な場所にある、使いづらくておいしくない食堂みたいな存在です。
そんでこれ以降は、なんとなくコメントを読んで思ったことをだらだらと書きまする。
だらだら長文ですので、読まないが吉。


私が「絶望」という言葉を耳にしたときに思い浮かべる情景は、まぶしい日差しが差し込む、明るい寝室です。
窓の両側には黄色のカーテンがさがり、床はフローリングで、建物はまだ新しい。タンスと小さなクローゼットがあり、ベッドがあり、姿見がおいてある、そういう部屋。
それは実際に私がもう何年も前に、元彼と一緒に住んでいた2LDKのアパートの一室です。平凡で明るい、何の変哲もないその部屋の夢に、かつての私はしばしば悩まされました。
夢の中の私は、その部屋の中にただ突っ立って、風で黄色いカーテンがかすかに揺れるのを見ているだけですが、それは常にこの上ない悪夢でした。

勝手に失礼ですが
その彼氏はWhiteCakeさんとの付き合いを長引かせてしまったのも
きっとWhiteCakeさんといるのが居心地がよく
また同時に自分に対して愛情を注ぎ続けてくれて
いるのにも関らずそれが重圧に感じてる自分が悪いと感じ
またWhiteCakeさんに非が無いのも十分に身にしみながら日々過ごしていたのかも。
で結局ズルズルと。自分を勝手に元カレさんに投影してしまってすみません。

「最低な男」さんのこれは、かなり正確な推察でしょう。
実際、私はそのようなことを元彼自身からも、周囲の人間からも言われました。
元彼は私といるのがラクだったのです。ラクな状態を続けたいのは人間としてとてもアタリマエなことです。

まさに自分にとっては母親のようで癒される

こちらも言われましたね。だから本当に近い心境なのだと思いますよ。


私たちが付き合い始めて短いとは言えない月日が経過した頃から、いろいろなものが変わり始めました。
以前は控えめな優しさと善意しか感じられなかった元彼の態度の中に、時折いらだちと冷ややかさが混じるようになり、そのくせ元彼は自身のそのような態度の埋め合わせのように、過剰な優しさの大判振る舞いをすることが増えていました。
おそらくその頃から、元彼は上記のような心境になっていたのだと思います。今の状態はラクラクだけどこのままではよくないのかもしれない、だけどラクを続けたい、相手の愛情が重くて苛立つ、けれどそのように思うのはよくないことだ。みたいなね。
その頃の私は、ひたすらおろおろしていました。何かおかしいこと、怖いことが始まっているけれど、それがなにかはわからない、と思っていたのです。
それは、もちろん、嘘だったのですけれど。
そして、その嘘を暴いたのが、黄色のカーテンでした。


そのカーテンを選んだのは私でした。元彼が気前の良さをみせ、好きなカーテンを選んでも良いといったのです。
ある晴れた気持ちのいい朝、私は黄色いカーテンを開けながら、自分が本当に欲しかったのはまったく別のカーテンであったことに気づきました。
そのカーテンは私よりもむしろ元彼の好みにぴったりと合うものでした。
私は元彼の反応をみながら、いかにも彼が気に入りそうなカーテンを選んでいたのです。まあ、あなたもそれがいいと思ったの、私もそうなの、素敵な偶然、私たちは気が合うんだね! そんな風にはしゃいで口にするために。
もしも。
事態がこのように冷たく変わり始める前であれば、私は元彼の「自由に」」という言葉を額面どおりにありがたく受け止め、自分が好きなカーテンを選んだでしょう。
それにそもそも元彼は「自由にカーテンを選んでよい」とは言わなかったでしょう。「ぼくが欲しいのはこれだけど、ケイキは?」と言ったでしょう。二人が使う部屋なのだから、二人で話し合って決めることを選んだでしょう。
元彼の気持ちは既に私から離れつつあり、だからこそ彼は後ろめたさから「自由に選んでよいよ」などと鷹揚な自分を演じて見せた。
そして私は、自分の好みのカーテンを選ぶことで、彼に嫌われること、彼の機嫌を損ねることを恐れたのです。私は彼におもねった。


カーテンはゆらゆらと風に揺れながら、既に終わりは始まっているのだと、そのことを私に告げました。
確かにあんたたち二人は仲が良い、喧嘩もしない、にこにこしながら一緒に居る、けれどそれはそうなるように演じているのだから、アタリマエのことだよ?
異なる人間同士が正直に率直に接していれば、ぶつかることもアタリマエだよ?
あんたたちは嘘つきでごまかしあっている居心地が良いのは衝突がないから、でも昔のあんたたちは衝突を恐れなかった、それはお互いを信頼していたからだ。
率直に話し合うことで多少の衝突が生まれても、乗り越えていけるだけの気持ちがお互いにあると、確信していたからだ。
それがどうだ、今のあんたは、「自由に選んでいい」といったくせに、好みに合わないカーテンを選ばれたら機嫌を損ねる男だと、彼をそのように評価している!
強い風が吹き、カーテンはふわりと大きくふくらみました。私にはそれが、カーテンが身をよじらせながら大声で笑っているように、私をあざ笑っているように見えました。


その後更に月日が流れて元彼に実際に別れを告げられたときよりも、ベランダに出て下を見下ろし飛び降りたらナニがどうなるのか考えていたときよりも、黄色いカーテンがゆれているのを見たあのときのほうが、私は深く絶望していたように思います。
元彼にまつわる様々なことを何も思い出せなくなっても、明るい部屋の黄色いカーテンだけは、何度も心の奥底からひょっこりと飛び出し続けました。


私は元彼と別れたとき、いろいろなことを思いました。様々な感情を味わいました。
そして、一番最後まで残り、私を苦しめたのは、お互いの「嘘」でした。
居心地の良さをうしなわないために、とうに消え去った愛情が残っているフリをしていた、元彼がみせた優しさと誠実さはそのためのものだった、ということが、一番辛かった。
元彼をうしなわないために彼のそのような気持ちにも、自分の本当の気持ちにも気づかないフリを続け、いつも愛想よく愛情いっぱいなシロイ・ケイキ像を作り続けた自分の愚かしさが、一番みじめで許せなかった。


私は、緊密で良好な人間関係を築くためには、そこに敬意と信頼と好意があるべきなのだと考えています。
そのいずれかが欠けた関係というのは、注意が必要です。扱いを誤れば、ガラスのように砕け散り、お互いを傷つけると信じています。
嘘をつくのは相手を信頼していないから、自分を信頼できないから。
嘘が前提となった居心地の良い関係からは、既に信頼が失われています。そして更に、ひとは本当に敬意を抱く相手に対しては、長く嘘をつき続けることは出来ないはずなのです。
最初は確かにそこにあったはずの敬意と信頼と好意を、私たちは嘘で汚し続け、最後には何も残らない状態にしてしまったのだと、今はそのように感じています。


で、長々と書いてきましたが。ここで再び「最低な男」さんへ。
本当に「最低な男」さんがこの文章を読んでくださっているのか、わからないのですがとにかく、これはかつての自分に対して伝えたいことでもあるので。
「嘘」は、やめましょう。アレはよくない、本当によくないことです。嘘はひとを蝕み、よきもの、美しきものを、取り返しがつかないほどに損ないます。


「最低な男」さんが嘘を吐く限り、彼女も嘘を続けることになります。
だって、そんな状況が続いているのに、彼女さんが何も気づいていないわけはないのですから。もしも彼女は何も気づいていないと「最低な男」さんが思ってらっしゃるようでしたら、それは些か人間というものを舐めた考えであります。
細かく気を配って恋人にとって居心地の良い空間を作れる人間が、相手の気持ちにそれほど鈍である可能性はおそろしく低いのです。


こんな話を聞いたことがあります。
たとえばじゃんけんで目の前にグーを出されて、「これに勝てる手を出してください」と言われれば、人は一瞬でパーを選択できるのだそうです。アタリマエに思えますよね。
グーをチョキに変え、またグーに戻し、今度はパー、みたいに目まぐるしく手を変えられても、人はそのたびに正しく勝つ手を選びます。
しかし、同じように「負ける手を出してください」といわれると、途端にひとは判断に時間を食うようになります。本来と逆の違う方向のことを考えるのは、それだけ負担がかかることなのだそうです。
同じことが「嘘」にも言えるのではないかと私は思っています。
どれほど居心地が良くても、続けるためには嘘が必要な関係は、必ず最後には人に過大な負担をかけるのではないでしょうか。
「最低な男」さんは彼女との関係が居心地がよいとおっしゃる。それは嘘ではないのでしょうが、その関係を続けるためには、とうに失った愛情が未だに存在しているフリを続けなければならない。それは間違いなく、おのれを蝕む負担なのでしょう。
だから、外に目が向くのではないでしょうか。
「最低な男」さんは、ご自身がおっしゃるように「動物的で情けない」本能で生きる人間だから浮気をなさるわけではないのではないと、私は考えます。勝手な推察で申し訳ありませんが。
「嘘」が強いる負担から一時的にでも逃避するために、「最低な男」さんは浮気をなさったのではありませんか。
そもそも私たちよりもずっと本能に忠実に生きている動物も、一夫一婦制のものが決して珍しくはありません。「本能で浮気」などという言葉は、便利ですが、真実をごまかしてしまいがちです。そのような言葉に逃れるのもやはり「嘘」であると私は考えます。

自分の場合は相手の現在の年齢から別れると
傷つけ方が半端じゃないんじゃないかと
ずっと怖がったまま引きずってしまいました。

「最低な男」さんはそのようにおっしゃいます。確かにそれは正しい。彼女は必ず傷つくでしょう。年齢ゆえに、いっそう深く傷つくでしょう。
ですが、今の関係が既に彼女を傷つけている可能性も、じゅうぶんに有り得るのです。


鋸挽(のこぎり引き)という刑罰をご存知でしょうか。
罪人を首だけ出した状態で土に埋め、竹の鋸を用意して、首を少しずつその鋸でひいて死に至らしめる刑罰です。
通行人が通りかかるたびに、一度ずつ鋸が引かれる。
竹の鋸には人を一度に死に至らしめる力がありません……それゆえに、この刑罰は残虐きわまりないのです。
ギロチンが人道的な処刑道具として設計されたというのは納得できますね。同じ首を切る行為であっても、ギロチンは鋸挽よりもずっと思いやりにあふれています。


私は、元彼と付き合い始めたことも、別れたことも後悔はしておりません。
ただし、嘘で関係を長引かせたこと、そのことを深く悔やみます。
終わりが始まったとき、私たちはギロチンを用いるべきでした。そうなれば確かに私は、すっぱりと断ち切られた関係に深く傷つき、苦しんだでしょう。しかし、そのような苦しみは永く続くものではありません。
痛がりで怖がりの私は、その場ですぐに傷つくのが嫌だった私は、ギロチンで首をはねるのではなく、竹の鋸で少しずつ首を引いてくれるように頼んだのです。
そして、私を傷つけることによって返り血を浴びることを恐れた元彼は、竹の鋸を手にして、「傷つけたくない、傷つけたくない」と言いながら、鋸を少しずつ動かしたのです。

傷つけたくないという思いは優しさから生まれるものなのでしょう。きっと。
ですが、それゆえに事実から目を背け、竹の鋸を手にするのは?
優しさと弱さはよく似て見えます。
強さというのはしばしば、優しさの対極に思えます。
けれど、真実優しさと思いやりを貫くためには、ひとは強く厳しい決断を下す必要があるのです。
そんなことには耐えられない、耐えたくないという弱さから、一見優しく見えるけれど実はそうではない行為を選ぶというのは、実は優しさから最も遠い行為です。


自分の愛する男性の気持ちはとうの昔に自分から離れている、自分がどれほど愛情を注いでも事態が変わることはないという、この上なく苦しく辛いその事実は、既に存在しているのです。
存在する以上は「最低な男」さんがどのように振舞っても、彼女は傷つくことから逃れられないのです。
ならば、かつてそこに存在していて、おそらくは今も完全に消え去ったわけではない、敬意と信頼と好意の為に、嘘を止めてみてもよいのではないでしょうか。
少なくとも、私はそうして欲しかったのです。嘘をやめたかったし、やめてほしかった。

最後に。
私が元彼と別れたのは2006年の3月のことでした。
ですから2006年、私はいっぱい泣きましたし、辛い思いもたくさんしました。
死んでしまいたいし、死ぬかもしれない、そもそも何故生きているのか、とも思いました。自分で言ってて激しく馬鹿みたいでやだなーってかんじですが。
しかしその一方で、2006年は私にとって解放と安らぎの年でもありました。
「嘘」を続けなくてよい、誰にもおもねらずに自分の気持ちを率直に表明してもよい、私は私の好きなものを好きなように選び取り、好きに楽しんでよい。そうすることで誰かの気持ちを損なうこと、関係が壊れること、愛情がうしなわれることを恐れないでよい。
そのことを少しずつ理解した私は、ほとばしるような喜びを感じるようになったのです。2006年の秋から冬にかけて、私は弾むような足取りで歩く事が増え、よく笑うようになりました。
自分が解放されたことを知り、それはこの上ない幸せでもありました。
嘘をつかなくてよい、嘘に気づかないふりをしなくてよいというのは、それほどに素晴らしいことであったのです。


ですから、「最低な男」さん。
彼女を傷つけることを恐れて、嘘を続けるとは、どんなことなのか、一度考えてみてください。
それは言い換えれば「彼女のせいでおれは嘘をつかされてるんだ」ということにもなってしまうのです。
心を尽くして愛情を注いだ結果、そのようなことになるのはあまりにも悲しいと、私は思います。


「嘘」ではなく、率直に自分の思いを相手に伝えること。
それはたやすいことではありません。けれどお二人の関係が未だ続いているのであれば、その程度のコストを彼女の為に費やしてもよいのではないでしょうか。
その結果、別れることになるかもしれません。あるいは、予想も付かない新たな進展が生まれることも有り得ます。
いずれにせよ、嘘をやめて得られる結果は、どれほど残酷で厳しいものであったとしても、ふわふわした居心地の良い嘘よりも、ずっと素晴らしいものであると、私は信じます。

長文乱文、失礼いたしました。