wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

実践的愛され研究その3

「愛」と「好意」と「恋愛」を混同してるのが、「愛され研究」でなくて「好かれ研究」になってる原因だと思う。

キモメンが無償の好意を示す→女もキモメンに好意を抱く→キモメン、調子に乗って愛の告白→女、ドン引き。以上、電波男にいう池鶴関係の解説でした。要は好意と恋愛感情の間には高い壁があるのではないかってことで

「“慈愛”ではなく“恋愛”がしたい……!」と声高らかに主張しておこう。


などというブクマコメントを貰いました。なるほどそうか、そうですか。


えーと、私は脳天気というか何というか、景色が綺麗でメシが美味くて、友人と過ごす時間がたのしければ、「今自分は世界に愛されている」とか実感して満たされるめでたい人間なので、「愛されている」とだけ思いたければ、男女の愛、もっと言うなら性愛を使う必要ないじゃん、と思ってしまっているところがあります。何人かのひとのささやかな好意があれば、それで「愛」は感じられるじゃない、と。
あくまで「愛」にこだわるならばの話ですが。ささやかな好意であったって、それはある程度の「愛」じゃないかというのが私の考えです。
ですから「愛」と「好意」を敢えてごちゃまぜにしています。「愛されない」と嘆いている方が、もしも誰かからささやかなものであっても好意を受け取ったことがあるのならば、それが愛であることに気付こうよ、それはとても幸せなことだよ、というのが言いたいことの一つでもあるので。
目指せ、好意のレートの低め設定! ということです。高めに設定してるとそりゃ日々「愛されない……」と実感して、寂しいだろうなあ、ということもわかるので。だって私も、自分の内部の高め設定に苦しめられたことがあるもの。


そしてまた、自分自身は「恋愛」がしたいなら、片思いを今日から始めればよいよね、と思っています。片思いというのは上手に使えば、好意のレートを超低めに設定できますから。
「あのひとがこちらを向いて笑ってくれるだけで嬉しい」
「後ろ姿を見かけることができた。嬉しい」
「そこにいてくれることが嬉しい。元気でいてくれることが」
みたいな超些細なことで、心の中には激しいヨロコビがほとばしりますからねえ、片思い。あれはほんま病気や、世界で一番美しい病気やでえ。兼好法師も確か「恋は片恋が一番」とかおっしゃっていたらしいし(よく知らないけど)、交際中のカップルが些細なことで相手の文句を言い合って喧嘩したりしている状況の方が片思いより素晴らしいなんて、一体誰が言えましょう。
ブラボー片思い、プラトニック万歳。
見返りなんて要らない。好きな人がほほえんでくれれば、それだけで既に欲しいものはぜんぶ貰えた。
とかいう境地が現在私の目指しているものなのですが、ほら吾ただ足るを知るってやつよ。これじゃ駄目なの? とりあえず微笑んで貰えるくらいの好意なら、「相思相好」にいたる道でなんとか獲得できるわけだから、「小さな好意ばらまき作戦」でじゅうぶんなんだしさあ。
とはいえ、駄目なんでしょうな。私にはそれはそれで「恋愛」だと思えるけれど、ツッコミを入れてくださった方々の思う恋愛とは違うんですよきっと。それはもうすごくわかってる。


それでは、皆様のいう「好意」ではない「恋愛」ってどんなものか、ここでちょっと考えてみます。
えーと、恋愛中に出来る楽しい事柄の一つに、好きな相手と、どこかに遊びに行ったりお話ししたりごはん食べたり一緒にごろごろしたりってのがありますね。私もそれはしたい。だってすごく楽しいですからね、そういうの。
でもそれだって、「好意」を積み重ねて友人までたどり着ければ、手に入るものですよね。少なくとも私は友人と遊びに行ったりお話ししたりごはん食べたり一緒にごろごろしたりするもの。それはそれで超楽しいぞ。
そこから先に壁があるのは判りますが、その壁は越えなくちゃいけないものなのか。越えなくても楽しいものなのに、何故そこを越えたいのか。越えた先には何があるというのだ?


と考えていったら、今私の脳内に「愛のあるセックス」という身も蓋もない答えが下りてきました。
ええっシロイさん、その考えは暴走気味じゃありませんか、などと自らを戒めていたら、こんなトラバを貰っていることに気付きましたよ。


「恋人選びは『好意』ではなく『セックス』で決まる。ゆえにすべての恋愛論は、『愛情論』ではなく『欲望論』である。」

男→女の場合に関しては、『愛せよ、されば愛されん』は大嘘!

非モテを語る者に対し「愛せよ、さらば愛されん」と「愛」について説くことは、論点がズレています。なぜなら彼・彼女等は、「愛」について嘆いているのではなく、「欲望」について嘆いているのですから。


うわっ、そのまんまや。ほんまにセックスの有無が問題となっとるでえ。
「愛されない」とかなんとかいう言葉をそのまま馬鹿正直にとらえて、「愛」について語ってしまったうちがアホやってん。愛の欠如ではなく、セックスの欠如こそが問題なんやあ。(ニセ関西弁。どなたか添削してください)


結局「恋愛」というのは、「性愛」の言い換えだったりするわけか。
みんなセックスしたいっていうか、愛のあるセックスがしたいんですね。愛がなくてもいいならお店で売ってるわけだから、片思いしつつその手の店に行けば、愛もセックスも双方満たせますよ、という回答はきっと駄目なんでしょうな。わかってますよ。同時じゃなきゃいけないし、相手が同じじゃなきゃいけないとか言うんでしょう。ちっ。
みんなそんなに性愛が好きか。正直者め。金の斧をあげましょう。


なるほど、そういう目的を持ってればそりゃあ「見返り」を求めてしまいますよねえ。というか目的達成のための行動をしている時点で見返りは欲しいじゃないか。
そういえば兼好法師も(またかよ)、「恋とは望みであり、それゆえに美しい」みたいなこと言っているというウワサ。だから目的を持つって事は美しいんじゃないのかな。よく知らないけど。『徒然草』とか読んだことないし。でもとにかく吉田兼好さんはそういうことを言ってるらしいよ?


あー、あとは壁を越えるもう一つの目的に、「君は私のナンバーワン、あるいはオンリーワンなんだ」という承認を受けたい、というのもあるかもしれませんね。友人というのは一人一人はオンリーワンでも、やはりあくまでワンオブゼムだもの。「恋愛」というのは確かにその承認をもたらしてくれる。
誰かのスペシャルになりたいという望みは、とても普遍的なものですよねえ。ストーカーになるひとはしばしば、「憎まれるというかたちでいいから、一日中自分のことを考えて欲しかった」と語ったりするらしいし。それもひとつのスペシャルなかたち。愛憎は、同じコインの表と裏。
ということは見方を変えると性愛すら、「自分は誰かのスペシャルになれた」という実感を得るための一つの手段に過ぎないのかもしれません。*1


そんでもって、「ただ好意をばらまくだけじゃ、好かれても愛されないから、『性愛』も『スペシャル承認』も得られないんですけど」と言われたんですよね私、きっと。ふむ。


でもね、たぶんそれは違う。好意のばらまきは性愛にも繋がり得るいうのが、私の実感なんだけど、でもこういうときに
「そう思うのはお前が女だからだろ〜? 女はそれでいいんだよ。男はそれじゃ足りねえの」
と決めつけられると、すごく反論しにくいんですよね。だって私、男になったこと、ないから。そういう反論不可能な論理展開されちゃうときついなあ、というのが実感です。
あ、そうだ。こういうときは、男性の意見を聞けばいいんだ。


というわけで、困ったときのH先生です。私は一昨日の夜、『嫌われ松子の一生』の感想を語るために電話をかけてきたH先生に、そのあたりをお伺いしてみました。
「いや、シロイさん、大丈夫ですよ。ぼくは、あの記事はすごく勉強になると思いました」
「せ、先生に褒めて頂けるとマジ光栄でございます! ですが……あれは女→男の構図では有効であっても、男→女の構図では役に立たないという指摘がありまして。おかげで『実践的愛され研究その3』が書けずに詰まっているのですよ」
「いや、大丈夫、男→女の構図でも、小さな好意は気前よくばらまいたほうがいいです。なぜなら」
ここでH先生はこほんと咳払いしました。
「愛をひっかけるための釘は、数が多いに越したことがないからです」
はい、ここからのH先生はいつものように、すごくいいこと言います。みんなメモして、コピーして、クラスで配りなさい。


「小さな好意をみんなにばらまく。それは小さな釘を数多く打つ行為です。釘が多ければ、そこにタイミングよく誰かが落ちてきたとき、うまいこと引っかかるんですよ。つまりこういうのは、確率論なんです。自分が愛される確率をあげるための『みんなに対して感じよく』です」


「モテるひとがマメだというのは、そこです。彼らは小さな好意のばらまきを、一般のひとよりしょっちゅう行っている。だからその小さな釘に、ひっかかるひとが増えるんです。彼らがやってるのは、確率をあげるための行為なんです」


「大体、一本だけばかでかい釘を打っておいたらそんなの、みんな警戒して避けますよ。『なにあの大きい釘、大怪我しそうなんだけど』ってことになりますよ。だからいきなりでかい好意を贈るとひかれるのです」


「でかい釘を一本打つのに必要な労力が10で、小さな釘を一本打つのに必要な労力が1なら、10の労力を持った人は、小さい釘を10本打ちなさい」


「十万円のハンドバッグをいきなり一回だけプレゼントして『恋人になってくれ』と言うくらいなら、会うたびに花を一輪、買っていってあげたほうがいいんです。相手もそれなら、負担にならない。花がキザで嫌だっていうひとは、なんか他のブツ。ちなみにぼくの今までの経験だと、甘味が好きな女性のうちに遊びに行くときは、ゴディバのチョコレートアイスクリームを買っていけばいい。あれを嫌がる甘味好きはいません」


「そうやって釘をたくさん打っていれば、ひっかかるひとがいるんですから、そのひとと愛し愛されて生きるのです」


「大事なのは、小さな釘のパターンを増やすことかもしれません。挨拶、笑顔、顔を見て話を聞くこと……それ以外に自分が相手のために何が出来るか。三種類では足りない。それと同程度に負担の小さな、自分にも打てる釘を探すのです。」


「小さい好意のバリエーションが豊かで、それを使いこなせる人は、釘をたくさん打っている人です。つまり、愛される確率が高いんです」


「好意のバリエーションを増やすためには、目の前にいる一人一人の人間のことをきちんと考えることです。そのひとが何を考え、何を望んでいるのかに注意を払うことです。自分のことだけを考えていては、相手の望みは判らないのですから」


H先生の珠玉の名言を脳内にせっせと刻み込んでいた私の脳裏に、ふとある人間の顔が浮かびました。


あー、私には一人、異常にモテてモテてしょうがない友人がいます。ミリキ(仮名)と言います。彼女のモテぶりについて詳細に書くと、本が二冊書けます。上下巻です。
「わかった、外見が良いんでしょ」
と言ったアナタ。違います。ミリキの外見は、力いっぱい普通です。私の友人や知り合いには、ミリキより可愛いひとも綺麗なひとも、一山いくらってくらいたくさんいます。でもその中の誰一人として、ミリキよりモテたりはしない。
つまり、ミリキのモテの秘密には外見以外の要素がそうとう絡んでくるんじゃないの、ということになるわけです。
あと、一応ここで言っておきますと、女性がとにかく大勢の男に求められている実感(あるいは錯覚)を得て、モテモテに近い状態を味わうためには、気前よく簡単に身体を差し出すことが手っ取り早いということを、私は知っています。
そしてミリキはもちろん、その手も使わない。むしろ彼女は交際開始してからそこに至るまで、普通のひとより長くひっぱっているときもあります。


で、まあ、昔はミリキのモテの秘密が本気で判らず、友人たちの間では、「ミリキは魔法使い。魔法を駆使して男たちを魅了、そしてハートを奪い、そのエネルギーでパワーアップする」というどこかの少女漫画みたいな噂が囁かれていたわけですが。
H先生のお言葉を踏まえた上でそのへんを真剣に考えてみますと、「魔法もあるかもしれないけど、人知の及ぶ範囲もあるねえ」ということに気付きました。もっと早く気付けばよかったのに……という悔恨が私の胸を焦がします。


そして、そのことに気付いてから、周囲の「こいつ、ミリキほどではないにせよ、世間の基準からすればあきらかにモテるよな……」と思える友人たちを男女問わず振り返って考えてみたら、彼らにもやはり、ミリキと共通する特色があることが判明致しました。


それは結局、「彼らの小さな好意のばらまきぶりは、それにしたって気前が良い」ってことなんです。


わかりやすいから例をあげましょう。たとえばミリキと待ち合わせて遊びに行けば、事態は大体以下のように推移します。

  1. 待ち合わせ場所で私の存在に気付いた瞬間、満面の笑み。実に嬉しそう。
  2. 「久しぶり。会えて嬉しいよ、ホント!」とヨロコビを語る。熱を込めて。
  3. こちらの体調その他をすぐに気遣う。会わない間どうしていたか尋ねる。服や髪型を褒めたりもする。
  4. 会話中、折に触れてこちらの美点を褒める。「ケイキさんのそういうところが好きだな」
  5. 会話中、折に触れて私に対する信頼を表明する。「ケイキさんなら、そうしてくれるって判っていた」
  6. もちろん、感謝の言葉がマメだ。「ありがとう!」とびきりの笑顔で。
  7. 悪いと思えば素直に謝る。きちんとこちらを見て、ちゃんと頭を下げて「ごめんなさい」と言う。ぶすっとふくれた顔で横向いて口先で謝るひとって世の中にはいますけど、ああいうことは絶対にしない。
  8. 一緒にいる時間がいかに楽しく嬉しいか表明する。「楽しいね、嬉しいね、ケイキさんに会えて良かった」そしてよく笑う。
  9. 相対している相手の現在の居心地を常に気にかける。「お腹空いてない?」、「寒くない?」、「疲れてない?」
  10. 別れるときは「さみしい。次に会うのはいつだろう」みたいに素直に口にする
  11. そして「またね。また会おうね。楽しみにしてるからね」


ここまで典型的じゃないにせよ、全ての項目を満たすとは限らないとしても、でも大げさに言うとこんなかんじ。
そしてこういう話を「男→女」みたいな構図で書くと、
「その男は下心が露骨だ」
とか言い出す人が現れますが、「女→女」ですから。念のため。どっちにも下心ナイ構図ですから。マジで。二人とも面白みがないくらいのヘテロセクシャルですし。そこんとこ、よろしく。


笑顔で出迎える、相手のことを褒める、気を遣う、これらすべては小さな好意です。ささやかな親切です。1の労力で打てる釘です。
ですがミリキはその釘の数が半端じゃない。ものすごく多い。乱れ打ちです。


その結果、ミリキと共にいる時間、私は1の好意×100回で、合計100ポイントの好意を受け取ったりしているわけです。塵も積もれば山となる方式。
小さな好意、ささやかな親切を馬鹿にするひとは多いです。とりあえず10や20や50の好意を差し出して、あとはそのことに安堵して、それ以上の気遣いを見せないひとも大勢います。
けれど、実際には1の好意を100回差し出したミリキのほうが、トータルではよほど大きな好意を私にくれているのです。
しかもミリキは、それら一つ一つの好意に対する返報を取り立てようとはしない。だってどれもささやかで、取り立てなんて馬鹿らしくなるくらいのものだから。*2
その結果、私の中には「ミリキは見返りを求めずに100の好意を差し出してくれたのだ」という事実が残るのです。
これはね、なんというか、返報したくなりますよ。
相手が返報を望んでいないからこそ、好意を取り立てようとせずに大きな好意を差し出してくれたからこそ、私は彼女に報いたくなるのです。自分から彼女に好意を贈りたくなってしまう。


で、おそらくミリキは、男性が相手のときも、ここまでの素直さじゃないとしても、これに近いストレートさで、自分の抱いている好意をさらけだすんでしょう。
ていうか、ミリキだけじゃなく、恋愛対象を獲得する能力が高いなと私が敬意を抱いている相手は、多かれ少なかれそうかなというのが私の実感。


彼らは好意の表明を恐れない。
好意を素直に表明する人間というのは、時々他人から「媚びてる」、「下心が露骨」、「抜け駆け」とそしられるときもあるわけですが、そんなものは無視。
大体そういうことを口にする人間の性根がウツクシイということがありますか。そんなやっかみと妬みと僻みで構成された台詞を口にする人間の言葉が正しいはずないじゃん、そんなの気にしてる暇があったら、私は好きなモノを好き、嫌いなモノを嫌いと言ってやるさ、というわけですね。


そして好意を表明される側にしてみれば、これははっきりと嬉しい。
ミリキと一緒に過ごす時間は、明らかに居心地が良くて楽しい。彼女と離れた次の瞬間に、自分の心が彼女を恋しがっているのが判ります。


もちろん、「みんなに対して感じよく」接すれば、万人に好かれるわけではありません。
ミリキもひとに振られたことはあります。ミリキを嫌うひともいます。全ての男性がミリキに恋するわけではありません。


ですがここで、「モテる」という現象について考えてみましょう。


たとえば、ある女性が10人のバラエティ豊かな男性と知り合って、10人全員に好意を持たれたら、すごくモテモテですよね? ですがそういうことはまずあり得ない。10人の男性は全員違った個性と歴史と人格を持った人間なのですから、好みだって当然違います。あれだけ騒がれてるエビちゃんだって、「嫌い、苦手」と評する男性がいるように、全てのひとに好かれる人間というのはありえないのです。
どれほど美しく、賢く、優しく、非の打ち所のない麗人であっても、モテモテで評判の人間であっても、「全員に」モテる、愛されるということはありえません。
100%愛される方法というのは、ないのです。


さて、それでも100%じゃないにせよ、もしも10人中7人や、10人中5人に好意を持たれる人間がいたら、それは相当なモテぶりですよね。10人中3人とかでも、じゅうぶんに多いと思います。
新規に10人知り合いを作ったら、うち3人に好かれて愛されて口説かれた、などという女性は、実際には相当モテていると思う。


しかし、ここで見方を変えれば。
10人中3人には好意を持たれる人間というのは、七割の人間には蹴られているということでもあるのです。
七割の人間に愛されない、好意を持たれないと表現するとすごく絶望的に思えませんか?
ですが、それでよいのです。
だって、基本的に世の中の多くの人間は、恋人なんざ、一人いればいいのです。もちろん、恋愛関係を複数同時進行することが好きなひともいますけどね。でもあれは苦労が多いぞ。まあいいや。


七割に嫌われようが、八割に愛されなかろうが、九割に蹴られようが、たった一人、こちらを向いてくれる人間がいればいいわけですよ。他の人間はカボチャみたいなもんです。


モテる人間、愛されやすい人間というのは、好かれる確率の高い(しかし決して100%でない)人間のことです。
モテない人間というのは、好かれる確率の低い(しかし0%であるかどうかは誰にもわからない)人間のことです。


確率の低い人間が、たった一人を見つけるためにはどうすればいいか。
まず、自分自身を変えて、好かれやすいキャラクタを作り、確率をあげるという方法が思いつきますね。たとえば50人に一人にしか好意を持たれないような人間から、30人に一人、あるいは10人に一人に好意を持たれるようにすること。
そしてもう一つは、とりあえず50人の人間にぶつかっていくことでしょう。たった一人が見つかるまでぶつかり続けること。


小さな釘を数多く打つ。「みんなに対して感じよく」接する。
この手法の優れている点は、「愛され確率を上げる」、「多くの人間にぶつかっていく」の二つを同時に行うことが出来る点です。


みんなに対して感じよく接することができ、好意のバリエーションを数多く持つ人は、そうでないひとに比べると愛されやすい。好意すら得ることのできない人間が、愛情を得ることが出来るわけはないですし。
そして、「みんなに対して感じよく」接することで、多くの人間に対して自己PRを行うことが出来るのです。


Masaoさんのトラバ先の記事を要約すると、「欲望されなければ好意を持たれてもセックスできない」ということになるかと思うのですが、「すべての人間に欲望される方法などない」というのが私の考えです。
そして、たとえばMasaoさんの彼女さんの「好意は持たれているけどMasaoさんの彼女さんには欲望されていない」男友達の方々というのは、はたして全ての女性から欲望されない存在なのでしょうか?
現実的に考えてその可能性は低いよな、と思うのですが。


ある女性の男友達が、同時に他の女性の恋人だったり夫だったりすることは、よくありますよね。
そのひとは、ある女性には好意と欲望を同時に抱かれ、別の女性たちには好意しか抱かれていないわけです。
ですが、それでいいと思いませんか?
全ての女性に欲望される方法はないし、必要もないと思うんですよ。ていうかそんなの、どれほどのドスケベな男性であっても、最終的には面倒になると思います。だって、全ての女性に欲望されるんだよ? よくわかんないけど、それって恐ろしくない?


そして、小さな好意のバリエーションを豊富に持ち、釘を多く打てる人は、誰かに欲望される確率が高くなります。
なぜなら、そういうひとと一緒に過ごす時間は気持ちがいいからです。楽しくて快適だからです。
自分のことを真剣に考えてくれて、きちんと気遣ってくれる人間と過ごす時間なのだから、当然のことですね。
そして、「このひとと一緒に過ごす時間はなんて心地よいのだろう」という実感は、「このひとともっと一緒にいたい。ずっといたい」という欲望に繋がることがままあるものです。
もちろん、100%ではありませんが。それでも、そうなる可能性が高いことは確かです。


「誰かのスペシャルになる」という目的を目指す登頂ルートって実際には複数ありますよね。ですから、今回私が書いた以外のルートも数多く存在しているのは確かです。
ですが同時にそこには「小さな好意を惜しみなくばらまく」が第一歩となるルートが存在しているのも本当です。
それさえやってれば登頂できるってわけじゃないですが、それをやってなければ登り始めることの出来ないルート。千里の道も一歩からだよ! 最初の一歩を「たかが一歩じゃん」と惜しんだら、結局先には進めないよ!!

あなたが欲しいものが「性愛」や「スペシャル承認」だとして、それを一発でイキナリ獲得できる大技なんてないのです。あったとしても、それは誰か他のひとのものです(ハリウッドスターとか)。
ボクシングの世界だって、最初に打った必殺パンチ一発でKOなんて無いでしょう。どれほど試合時間が短くても、まずはジャブですよジャブ。ジャブで距離をはかる。ジャブで間合いをとる。ジャブで組み立てる。全てはジャブから始まるのです。
「小僧、小さく細かく速くじゃ!」って鴨川会長もおっしゃったでしょう。ジャブを怠っていては、決め技の大振りパンチが入るわけわけないんですよ!
そんでもって、今の私は、他のルートではなくて、その「まずは小さな好意でジャブルート」を登り始めたい気分なので、そういう文を書きました。このルートはなんだかアタシ好みじゃないわ、という方は、よそのルートをお選びになるのがよろしいかと存じます。


そして、言うまでもないかもしれないことを今言ってしまうと、私が「実践的愛され研究」というこの実践的でも研究的でも恋愛的でもない文章を、誰に向けて書いているかというと、「自分」のためでございます。
勝手に相手に見返りを求めたり期待しては(それは結局「好意の押し貸し」)、「裏切られた」と罵るワガママで自分勝手でどうしようもないシロイ・ケイキへの、戒めと提案と言い聞かせがこの文章の主成分。
なので、この文に万人向けモテマニュアルとしての役割を求めると、たぶん難しいですぜお客さん。少数派には向いてるかもしれませんが。


また、差し出した好意が返報されないという悲しい事態に直面したとき
「平気よ……あたしは見返りを求めていたわけじゃないもの」
と自分に言い聞かせるという保身の手段が残されているのも、このルートの良いところ。保身は大事だよ。そこに欺瞞の香りがあるとしてもな!


だから、もしも常に仏頂面、愛想ゼロ、小さな親切なんてしたことナイけど、とりあえず愛されたいという願いで胸がイッパイ、という方がもしもいらっしゃるのなら、やはり小さな好意ばらまき作戦は、やらないよりはやったほうがいいと思います。



私が確実に言えることは「小さな好意ばらまき作戦が実を結ぶことはある」、「やらないよりはやったほうが返報率は上がる」、「しかし、それでも壁を越えられないときはある」ってことでしょうか。


だけどまあ、ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーにプロポーズしたら鼻で笑われてがっかりしたという噂だし、福山雅治は昔女性にふられて駄目駄目になって何度も電話をかけて嫌がられて泣いたみたいなことをラジオで語っていたし、キアヌ・リーブスは共演者に惚れては相手にされずふられることの繰り返しだって聞いたことあるし、イーサン・ホークは自分の過去話をもとに「売れっ子ハリウッド・スターがどうってことない一般女子にメロメロになったあげくふられる」内容の『痛いほどきみが好きなのに』という小説を書いているし、どれほど格好良くてモテモテのいい男でも、100%愛される方法なんてなくて、ふられるときはふられて、返らない好意に苦しむんだなあ、というのが私の実感でございます。


ですからまあ。
100%の成功率なんて絶対保証できないことを確約した上で言ってみますが。
「小さな好意を見返りを気にせずばらまく」ってことをやってみるのもいいんじゃない?
というか、私は明日からそれをやってみるよ。


というところで「実践的愛され研究」のその3は終了。
長々と続いたわりにすごくちゃちな結論ですみません。おつきあい頂き、どうもありがとうございました。

*1:ああ、でも当たり前のこと、言うまでもないことを言いますが、他人がどう考えようと、あなたは既にとてもスペシャルな存在ですよ。誰よりもあなた自身にとってスペシャルじゃありませんか。あなたはあなたのヒーローだ。とりあえずそう考えることで、多少寂しさを回避できませんか? できませんか。困ったな。でもやるだけやってみようじゃないか。

*2:また、実際彼女は、しょせん同性でしかなく、性的な対象となりえない私にもこれだけ気前よく好意を差し出してくれる時点で、「好意の取り立て」、「見返りがなきゃ愛さない」という思想が薄いのでしょう。