昨夜、テレビで「ターミネーター2」やっていましたね。
あれを見ているうちに、思い出したことがありました。友人との会話です。
「子どもの頃さあ」
「うん?」
「父と母が、アーノルド・シュワルツェネッガーのムキムキぶりについて話し合っていたのね。その頃はまだ、ミスター・シュワルツェネッガーも本当にムキムキだったから」
「あー、確かに昔はムキムキだったね」
「そしたら、脇できいていたあたしが口を挟んだの。『あたしはああいうオトコのヒトとはケッコンしたくない』って」
「なんでー? マッチョだから?」
「親も『何で?』って聞いてきた。それで、あたしは答えたの。『だって、もしもケッコンしたら、ふたりでいっしょにくらすんだよ。そしてあるひ、ふたりっきりのときに、ケンカして、あたしがシュワルツェネッガーさんをおこらせたら、そんでなぐられたりしたら、ゼッタイすごくイタイもん。コロされるかもしれないもん』ま、そんなぐあいに。『だからあたしはおおきくてちからのつよいヒトとケッコンするのはイヤ。ちいさいオトコのヒトとケッコンする』」
「……それシロイがいくつのとき?」
「うーん、幼稚園の年長か、小学低学年?」
「ふーん……その年頃で早くも男性不信?」
「えーっ、男性不信とは違うでしょ、だって小柄な人なら結婚してもいいんだよ?」
「だけど喧嘩したら殴られる前提なんだよね?」
「その頃はね。だけど結局、そのとき両親がこう言ったんだ。『大丈夫。気が優しくて力持ちっていうだろ? 身体が大きくて力の強いひとは決して奥さんを殴ったりしないよ。自分の強さや男らしさにコンプレックスを抱いている小柄な男の方がむしろ危険だ』って」
「その台詞もどうなんだろう? 誤ったステレオタイプ的思い込みを別の誤ったステレオタイプ的思い込みにシフトさせただけって気がするんだけど」
「でもね、あたしもその台詞をきっかけに、色々考えた。確かにね、小柄イコール安全じゃないんだよね。だってほら、力任せに殴り殺されることがなかったとしても、冷静に計画を立てて殺される可能性があるじゃん。アリバイトリックとか、保険金詐欺とか、そういう仕込みをきっちりすると、殺人も別に肉体労働ではなくなるっていうの? たとえば毒殺には腕力は要らないんだし。だから今は、男性にとって大事なのは身体の大小じゃないんだなって、思ってる」
「結論は間違ってないけど、そこに至る過程が気になるなあ」
「それに、考えようによっては、一時の怒りに任せて殴り殺されるほうが、相手にも隙が大きいから逃げられる可能性が高いと思うの。たとえ身体がでかくてもね。それに逃げちゃえば相手も頭が冷えて、殺すのは止めようって思うかもしれない。でも、綿密に殺害計画立てられて、強い意志でそれを実行されたら、結局あたしはいつか殺されると思うのね」
「自分が夫に殺されるかもしれないっていう前提は、基本的に変わらないんだ?」
「だから結局、モラリストで殺人や暴力と縁遠いひとと結婚するのが一番! 男性で一番大事なのは、誠実さなんだよ!!」
「あれ、意外にまともな結論が……」
「それと、自分が他人に殺意を抱かれるような人間になっちゃ駄目なんだよ! ひとには優しく誠実に! 気配りと思いやりが大事!! そうすれば相手の男性もあたしを殺そうと首に手をかけたその瞬間に、優しかったあたしの思い出が甦って、犯行を思いとどまるかもしれないじゃん!!」
「君、誠実な夫と結婚するはずなのに、首に手をかけられる可能性がまだ残ってるのか」
とりあえずまあ。
「情けは他人のためならず」って諺の意味は、こういうことですよね?
私の理解、正しいですよねえ?