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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第20話~運が良いとか悪いとか

 本日12月8日に『むしろウツなので結婚かと』の第20話が無料公開されました。
comic-days.com


 最終話である21話につきましては、既に本日有料公開されております。
 約一年間にわたる連載を無事終えることができました。
 ありがとうございました。

 エピソード無料公開時に更新してまいりましたこの駄文も、今回と次回で終了となります。ですのでこの二回は、個々のエピソードに対してではなく、私が個人的に思っていることを書かせていただきます。

 現在、セキゼキさん(仮名)の症状は寛解し、IT系の正社員として無事社会復帰できております。2010年には私と結婚し、2015年には娘のノノミさん(仮名)も生まれました。
 まあなんというか「二人で力を合わせて苦境を乗り越えた幸せにたどりついた」物語ってかんじがしますよね。美談ぽく見える気がします。違うのに。
 という言い方すると、「その裏には事情があって実はとっても不幸!」と言いたがっているようですが、そういうわけでもありません。
 現時点での人生、不満も不安も苦労もそれなりにありますが、そういうのが一切ない人生というのはたぶんどこにも存在しないと私は思っていますので、いいのです。現状わりとハッピーなら満足です。
 なのになんで私はこの「美談ぽさ」にひっかかってしまうのかというと、私は自分たちが「単純に運が良かった」だけだと思っているからですね。ラッキーなストーリーではあっても、美談じゃねえよなあと。

 私はインターネットでウツの当事者の方や、その周りの方の書いた文章を目にしています。
 その中に、セキゼキさんとほぼ同時期にウツを発症したパートナーを亡くしてしまった方の文がありました。愛情と悔恨と苦痛と悲嘆のこもったその文を読んだあと、私はしばらく身動きもできなくなりました。
 その方の過去の文も遡って読みました。亡くなったパートナーへの細やかな気配りと愛情が、そこには溢れていました。手強い病について懸命に学び、必死に努力していたことが伝わってくる文でした。その方の愛情と献身がどれほどパートナーを支えていたか、想像するに難くありませんでした。
 けれどその方のパートナーは、死を選びました。
 この人と私の違いはなんだろう、と私は打ちのめされながら考え、答えはすぐに見つかりました。
「セキゼキさんは高所恐怖症だった」
 それだけなのです。セキゼキさんだって、一度は本気で死を選んだのですから。彼が高所を恐れない人間で、あと数階ぶん余計に階段をのぼっていたら、セキゼキさんはもう、この世にはいなかったのです。

 よく言われがちなことですが、人生というのは「運ゲー」としての側面をたぶんに持っているのです。あなたも私もこれまで生き延びてこられたのは、少なからず運に味方されたがゆえなのです。
 鉄骨や雷が私の上に落ちてきたことはありません。私は生涯で何度か飛行機に乗っていますが、一度も墜落しませんでした。落とし穴に足を踏み入れたこともなく、通り魔に出くわしたこともなく、不治の病に悩まされたこともなかった。。
 すべて偶然です。そういった突発的な不幸に出くわさないで済む程度には、これまでの私は運が良かった。そしてこれは、手柄でもなんでもないわけです。
「私の上には鉄骨が一度も落ちてきたことないんだよ。えっへん」
 などと胸を張って誇る人間がいたら、大抵の人は
「何言ってるんだコイツ」
 と思うでしょう。
「すごいでしょ徳が高いでしょ美談でしょ」
 と言い出したら
「はっ? どこが?」
 と呆れるでしょう。

 ですから、『むしろウツなので結婚かと』という物語は、美談ではないのです。ただ運の良かった人間が生き延びる、その過程を描いているだけなのですから。
 あの中に出てくるセキゼキもシロイも、ごく平凡な人間です。優秀でもないし強くもなく心ばえが特段優れているわけでもありません。ちょっと運が良かっただけで。
 ほんの少し何かが違っていれば、もっと不幸になっていたでしょう。

 なので原案者としてすごく思うことは、セキゼキやシロイと似たような状況の方があれを読んだとき
「どうして自分たちはまだ救われていないんだろう?」
「自分は彼らと比べて足りない部分があるのだろうか?」
 と思ったりしないといいな、ということなんです。
「ああ自分がだめだったから、あの人は帰らぬ人になってしまったのだ」
 とか
「あの人が治らないのは、そばにいるあなたが駄目だからなんじゃないか」
 とかそういうことも思わないでくれるとありがたいなあ、と。
 ただちょっと運が悪いんだ、まだ運が向いていないんだと、そう思ってほしいなあと。

 もちろん、運は全てではないです。
 私は極端な悲観と極端な楽観は実はすごく似ているのではないか、と思っています。
 自分は完全無欠の幸運に恵まれるから一切の努力をしなくても必ず願いは叶うと思う人間と、自分は不運にまみれているからどんな努力をしても必ず全ての災厄に襲われるに違いないと考える人間は、たぶん同じ選択をするはずです。
 すなわち、無為。
 結果を左右するのが運しかないのであれば、そもそもすべての努力は無駄なのです。
 だけどそれは違うんですよね。だって100%の幸運も不運も、現実には滅多にないんだから。
 完全無欠では決してない幸運を掴むためには、自分ができることはやっておいたほうがいい。
 人事を尽くして天命を待つって、言いますものね。全部運だから何をしても無駄、何もしなくてもいいってわけじゃない。
 だけどできる限りのことはやり尽くして、自分の全てを振り絞って、それでもうまくいかないことはあるのです。あってしまうのです。あるのだということを、認めましょう。
 だからあなたが、不必要に自分を責めずに済みますように。
 それが私の願いです。