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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第15話~そのひと手間がかけられない

 本日8月18日に『むしろウツなので結婚かと』の第15話が無料公開されました。
comic-days.com

 当時、セキゼキさん(仮名)の調子が崩れ始めていることに気づく朝ほど、最悪なものはありませんでした。
 起きて部屋の様子を見れば、不調の波の訪れがわかるのです。
 寝ようとしても眠れなかった苦闘の跡が、あちこちに残っています。本やゲームが乱雑に散らばり、全く片付けられていない。
 興味深いような気もするし、当たり前のような気もすることですが、セキゼキさんの調子が悪くなると途端に部屋は汚くなります。
 昔読んだ本に「サバイバルで最も重要な心得は、疲れ切らないことだ」という一節がありました。
 疲労困憊するまで活動した人間は、「やったほうがいいひと手間」をかけられなくなるというのです。
 たとえば雨が降りそうな空の下テントを張るならば、水はけの良い場所を選ぶとか、溝を掘るとか、そういうひと手間ですね。
 余力があれば「念の為やっておくか」と思えることをやるのが、疲れ切った人間にはたまらなく億劫になり、
「これくらいやらなくてもいいか」
 となってしまう。あるいは、
「やったほうがいいな」
 ということを思いつくことすらなくなる。
 最低限のことしかできなくなり、その積み重ねが生き延びる可能性を低くしていくと、そういう話です。
 部屋が綺麗じゃなくても死にはしないというのは本当、けれど片付いた部屋のほうが衛生的で健康な生活に繋がりやすいのも本当。
 だからセキゼキさんの調子がある程度よければ、たとえ眠れない時間があったとしても彼は、ざっと片付けてから眠りにつきます。
 けれど。
 調子が崩れ始めたセキゼキさんは、それができなくなります。ただ生きるだけで疲れ切ってしまうのでしょう。
 あとひと手間がかけられなくなり、そのために余計な手間が増え、それがわかっていながらもできない自分に苛立ち、けれどその悪循環を断ち切るだけの気力も当然のように湧かない。そういう日々がやってきていることを「散らかった部屋」が端的に示してくれるのでした。
 片付けをしながら私はしばしば、この先の数日がどうなるかを想像して、重い気持ちになりました。
 本音を言えばそういう時、私はものすごく仕事に行きたくないのでした。不調の波につかまってしまったセキゼキさんは、とても不安定で危うくなるので、できればそばに付き添っていたかったのです。
 だけど不調は、一日で終わるものではないのです。どの程度長引くかはその時によって違いましたが、短くとも数日は続きましたし、大抵は不調初日よりも二日目や三日目のほうがもっと悪くなりました。
 有休というのは枚数の限られたカードですから、ほいほい使うのは躊躇われます。調子がさほど悪くないときに休んで、もっと悪くなったときに休めないということになったら、元も子もない。
(まあたぶん今日セキゼキさんが、たとえば自殺する可能性なんて、1パーセントないくらいだろ……。)
 そう自分に言い聞かせて、これがもっと高い確率になったらその時休もうと決めて。
 けれどそう思う一方で、
(セキゼキさんのうつがよくなるまで、あとどのくらいかかるんだろうね?)
 そんな風に囁く自分がいるのも確かでした。
(1パーセントの確率で死ぬかもしれないチャレンジを、何回繰り返した頃によくなるのかな?)
(百回くらい、すぐなんじゃない? 1パーセントを百回繰り返すと、どうなるの?)
 もちろんわかっています、1パーセントを百回繰り返せば100パーセントになるわけではないってことは。
 だけどそれがなんなんでしょうね? 電卓を弾いて私が導き出したのは、半年後にはセキゼキさんは生きていない確率のほうが高いって、そういう答えなんですから。

 そして、そんなことを考えて私が落ち込んでいくというのも、またすごく良くないのでした。
 私の不調をセキゼキさんは敏感に感じ取り、自分の中でそれを増幅させていくようなところがありましたから。
 辛くて泣きたい。
 でもそれを隠さなくちゃいけない。
 私が本当の気持ちを出せる場所はどこにもない。
 セキゼキさんは私の辛さを知らない。
 知らせないために隠しているんだから当たり前だけど、でも知らないんだ!!! セキゼキさんが!! 原因なのにだよ!!!!!
 みたいな気持ちがうわあああーっと膨れ上がったこの朝、
「やだなぁ、もう」
 の一言に繋がってしまったんですよね。
 その結果、私の好不調に対してのアンテナ感度が異常に研ぎ澄まされていたセキゼキさんに、眠っていたのに届いてしまったという……。

 なんかね。
 あの朝、どうするのが正解だったんでしょうね。
 もちろんあの一言が余計だったこと、言わなければよかったってことはわかっているんですよ。
 だけどあの頃の自分が、そういう悲鳴のような一言を、一度も口に出さずに過ごすことが可能だったとは、未だに思えないんですよね。
 セキゼキさんの不調を感じ取る最悪の朝、明るく健全で堅牢な気持ちのままでいられたとは、絶対に思えないんです。
 私は必ず落ち込んだし、そのことをかけらも表に出さないのは無理だっただろうと思います。
 絶対にどこかでぽろりと出てしまっただろうと。
 だから、自分の行動が間違いだったことはわかるのに、タイムマシンでさかのぼっても、あの時間違わずに済んだ道なんてないんじゃないかと、そんな風に思ってしまうのです。
 そういう瞬間が、いくつもあるのです。