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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第11話~一番つらかった夏の話

 本日5月19日に、『むしろウツなので結婚かと』第11話が無料公開されました。
comic-days.com

 読んでいると、この夏が一番苦しかったなあと思いますね。
 私にとってもそうでしたけど、セキゼキさん(仮名)にとっても、おそらくそうだったでしょう。
 なんせこの頃のセキゼキさんは、毎日どうなるのか予想がつかなかったのです。
 病院に行く前のほうが未治療なぶん病状はたぶん一番悪くて、それゆえのしんどさがありました。
 ですがセキゼキさんの行動や状態について、予想はついていたのです。
 日中ゾンビのように座り続け、夜になると布団の中でブツブツ呪いみたいな言葉を繰り返す。
 これが毎日繰り返されることがわかっていますから。
 希望なんてものはどこにも感じられない真っ暗な時間でしたが、事態がそこから動かないのですから、それは安定でもあったのです。
 私が帰宅するとセキゼキさんはいつも私の予想通りの場所に、予想通りの格好で座っていました。
 
 ですが復職が失敗して荒れ始めてからのセキゼキさんがどんなふうに自分を出迎えてくれるか、私には想像がつきませんでした。
 穏やかな笑顔で
「おかえり」
 と言い、おいしい夕飯と一緒に待っていてくれるときもある。
 
 沈んだ様子で
「……ごはん何も作れなかった」
 と出てくるときもある。
 
 週末、楽しそうにお菓子とジュースを用意して、
「今日は一緒にモンハンやろう!」
 とはしゃぐときもある。
 
 眠っているときもありました。
 セキゼキさんの調子が悪くなると、睡眠リズムは崩れました。
 眠れないことが多かったですが、ひたすら長時間眠る時もありました。
 昼寝をしているセキゼキさんは、夜眠っていないセキゼキさん同様に不穏であり、私はセキゼキさんの寝顔を見るのが苦しいと思うときがありました。
 
 調子が崩れ始める手前にその兆候に気づきたいと思っていましたが、これは難しかった。
 人間は誰もが演技をします。
 心配して、という演技もあるし、心配しないで、という演技もあります。
 どこからが演技で、どこまでが演技なのかという話もあります。
 こうありたいと願う自分に近づけようとするのは、それも演技と言われてしまうのか?
 手負いの獣が外敵を警戒して、ぎりぎりまでなんでもないフリを貫くように。
 セキゼキさんは自分の調子が、実際よりも良いように見せたがりました。
 穏やかに過ごしているように見えている裏で、少しずつ調子がうつりかわっていく時。
 それでもセキゼキさんは
「まだ大丈夫」
「おれは平気」
「心配しないでいい」
 そんなふうに振る舞いたがりました。
 私自身、セキゼキさんの調子が良い方が嬉しいから、今日は大丈夫だと思いたいから、セキゼキさんのその演技にしばしば乗りました。
 自分の調子が悪くなっていくのが嫌で仕方ないからこそ、調子が良い自分のままでいたいセキゼキさん。
 それは演技であり、信じてはならない嘘だったのでしょうか?
 むしろ祈りや願いに近い、信じるべきものだという気もして。
 私は彼の言葉を、態度を、疑わないでいたかったのです。
 
 結果として、早めの自重、早めの対策は難しくなりました。
 私はしばしば、傘がないのに突然降り出す豪雨に見舞われたような気分になりました。
 さっきまでは晴れていたのに理不尽だ、と感じるように。
 天気予報を見ようともせず、空の遠くに広がる黒雲を無視して、歩いてきたのは自分だったのに。
 
 欺瞞が、事態をより悪くしていました。
 
 こうありたい、こうあってほしいという願いを、現実と混同してはならなかったのです。
 願いをかなえるためにはまず、現状がどれほど願いと隔たった状態にあるのか、理解しなくてはなりませんでした。
 
 振り子のようによくなったり、悪くなったりを繰り返しながら、ウツの回復過程は進みます。
 事態が改善しつつあるのが嘘ではなくても、振り子がうんと悪い方に振れることはあるのです。それもしょちゅう。
 そこにどれほどの危険が潜んでいるのか、良い状態なんてものがいかに短く儚いものなのか、私がそれを本当に理解するまで、ここからしばらくかかったのでした。