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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

父の親友とその裏面

 昔、私の父シロイ・ネコヒコ(仮名)の職場にはドウドウさん(仮名)という二歳年上の先輩がいました。
 二人はたいそう仲が良く、ドウドウさんの奥さんが出産なさったときは、独身だったネコヒコが名付け親になるよう頼まれたほどでした。
 ネコヒコが母と出会ったときは、
「シロイの家にはティーセットがないだろう。彼女が家に来てくれたとしても、そんなんじゃ振られちまうぜ」
と言ってドウドウさんは高級なティーセットを揃え、ネコヒコのもとに持ってきてくれました。
 私の故郷はたいそうな田舎です。ネット通販もなかった時代に珍しくて高級なティーセットを手に入れるのは、きっと大変なことだったでしょうに。
 ドウドウさんはニコニコ笑いながら当然のように、手を尽くしてくれたのです。

 

 幼い頃の私は、ドウドウさんにたいそう懐いていました。
 私は彼を「じいちゃん」と呼んでおり、その都度両親は慌てて謝り、
「その呼び方はやめなさい」
ときつく言ったものです。
 私はなぜそんな風に止められるのかわからず、きょとんとしていました。
 両親は彼を「ドウドウさん」と呼びなさい、と命じます。
 けれどそれはあまりに他人行儀で遠い呼び方のように思えました。

 

 この人がわたしのおじいちゃんじゃないことはわかっている。
 だけどわたしにとってこの人は、おじいちゃんみたいに近くて安心できる人なんだ。

 

 あの頃の私がぼんやり感じていたのは、大体そんなようなことです。
 だから他の大人と同じように呼ぶのは嫌で。
 近しくて気安くて特別な、そういう呼び方が必要だと思っていたのです。

 そして私のその思いは、ドウドウさんにちゃんと伝わっていたようでした。
「いいよいいよ。じいちゃんて呼べよ、ケイキ。な?」
 そう言ってじいちゃんは屈み込んで優しい目で笑い、私は嬉しくなって彼のスーツに顔をこすりつけたりしました。
 固くてちくちくしてタバコのにおいのする、懐かしいじいちゃんのスーツ。

 

 さて。
 月日が流れるうちに、ドウドウさんと父の関係がかつてのように緊密ではなくなっていくことを、子供である私も感じ取るようになりました。
 母と小声でドウドウさんの話をしながら、何度も首を振る父。
 しょっちゅう我が家にやってきては楽しそうに父と酒を飲んでいたドウドウさんの顔を見る回数はどんどん減り。
 中学生になる頃には仕事で何かあるんだろうなと、私にも見当がつくようになりました。
 久しぶりに顔を合わせた時、
「おう、ケイキ。じいちゃんだぞ」
と笑う彼に、私は頭を下げながら
「ドウドウさん、お久しぶりです」
と挨拶をしました。
 ドウドウさんは驚き、それからちらりと寂しそうな顔をしましたが、すぐ笑顔に戻りました。

 

 やがて私は、父の会社で大規模な人事異動が行われたことを知りました。
 ドウドウさんは順調に出世を重ね、会社のトップにかなり近いところまで登っていたのですが、大幅に降格させられたそうです。
 全社をひっくり返したような騒ぎの中で、父のポジションは変わりませんでした。にも関わらず、父はひどく消耗しきった様子でした。
 その後も父は鬱々とした表情を浮かべるようになり、疲れたように顔をこすることが増え、しばらくして長年勤めたその会社を辞めました。

 

 数年後、ドウドウさんが亡くなりました。
 既に成人して親元を離れていた私は、帰省時に父の口からそのことを知らされました。
 そして父は打ちのめされたような表情を浮かべながら、ドウドウさんの葬儀の話を始めたのです。
 人生の総決算とも言えるその場で、ドウドウさんの身辺のスキャンダルが大量に吹き出したこと。
 生前のドウドウさんが社内の自分の立場をフル活用して、思いつく限りのあらゆる不正な利益を得ていたことが明らかになりました。
 大勢の人がドウドウさんを恨んでいました。
 それはドウドウさんの家族すら例外ではなく、父が名付け親となった息子さんまでもがどこか冷めた表情をしていたそうです。

 冷ややかで涙の少ないお葬式。
 ドウドウさんはなぜかシロイ・ネコヒコとその家族の前でだけ別人のように振る舞っていたのだということを、私はその時知りました。

 

 父はドウドウさんの悪評について、それまで知らずにいたわけではありません。
 何十年も一緒に働きながら、悪しき面を知らずに済ませるのは難しいですから。
 だからこそ父とドウドウさんの距離は、少しずつ開いていったのです。
 決定的となったのは会社のトップ近くにまで出世したドウドウさんがライバルを追い落とそうと、派閥争いを激化させたことでした。
 父はドウドウさんの派閥に加わることを拒み、ライバルの派閥にも与しないことを選びました。
 そして一人こつこつと両派閥の動きを観察し、問題のある行為を記録して証拠を集め続けたのです。
 父はその証拠を、所属会社の親会社に提出しました。
 ドウドウさんとライバルの双方が厳しい処分を受け、結局親会社が外部から連れてきた新しい人材を社長に据えました。
 父は一連の流れに消耗しきってしまい、会社を去ることを決めたのです。

 

 多くの悪評を耳にし、愚かな派閥争いを引き起こしたのを目にして。
 それでも父は、ドウドウさんに対して冷ややかになりきれずにいました。
 ドウドウさんは父の前ではずっと優しくて面倒見が良くてにこやかな、頼りになる先輩のままでしたから。
 開いていく距離を感じ、それを詰めようとは決して思わないながらも。
 父はどこかでドウドウさんを信じ続けていたのです。

 

 けれど最後に遺族の家で出された一杯のお茶が、父の心を砕きました。
 目の前に置かれた湯のみに、やけに見覚えがあったのです。
 どうして見覚えがあるんだろう。考えて父は、気づきました。
 当たり前だ、これは会社の備品だったやつじゃないか。
 父は顔を上げ、辺りを見回しました。
 そしてドウドウさんの家の中が、見覚えのある品だらけであることに気づき。
 あんなにしょっちゅうシロイ家を訪れたドウドウさんが、なぜ自分のことを家に呼ぼうとしなかったのかを知ったのです。

 父は理解しました。
 自分の目に映っていた姿ではなく、周囲が悪しざまに言っていた姿こそがドウドウさんの真実だったのだろうと。
 清廉潔白な人でないことはわかっていた。どこか暗い部分があるとは感じていた。
 けれどそれだけではない人だと、良い部分もたくさんあって、信じるに足る人間でもあるのだと
「信じていたのになあ」
と父は言いました。
「悪い噂はたくさん聞いたけど、それでもいくらなんでもあんな……機会があれば盗れるものはぜんぶ盗るような、そんなつまらない人じゃないと思ってたんだよなあ」
 いつも楽しそうに晩酌をする父が、その日は顔をしかめながら酒を飲んでいました。

「おれはドウドウさんを」
一瞬言葉が途切れ、
「し、親友だと思っていたんだよなあ」
そう言った父の声は震えていました。
「そんなこと、一度も言えなかったけどさあ。大の男が、照れくさくって。でも」
 本当にそう思っていたんだ、と呟く声。
「入社したばかりの頃に、ドウドウさんとよく話したんだ。この会社はこのままじゃだめだって。おれたちが変えていこうって。あのときドウドウさんは、いずれおれが社長になって変えるって言ったんだよなあ。現地採用組のおれたちにはすごく難しいことだけどやってやるって。だからおれはそれを手伝うって約束したんだよ。なのになあ……」
 騙されていたのかなあと嘆く父を見ながら、私が考えていたのは別のことでした。

 信じていたのに騙されたと、父は言いました。
 だけどたぶん、それは違って。
 この人は信じていたからこそ騙されなかったのではないかと、私は父の顔を見ながら思いました。
 ドウドウさんの周りにいた大勢の人の中で父だけが、奪われも貶められもせず、お互いに助け合って長い月日を歩くことができたのです。
 実際に騙され謀られたのは父ではなく、ドウドウさんを悪し様に言っていた人たちなのです。

 自分はどうせ悪人だとそんな風に思っている人間でも、自分を素直に信じ評価してくれる人の前では真人間として振る舞う。
 そんなお話は 世の中にありますものね。
 おそらく父は無自覚に、ドウドウさんが本来こうありたいと思う自分になれる場所を提供したのではないでしょうか。
 ドウドウさんだって最初から、自分に可能なあらゆる不正を働くような人間になりたかったわけではないのでしょう。
 本当はもっと違ったこうありたい自分像があって、けれどもどうしてかそこから少しずつずれた生き方をするようになってしまって。
 今更こうなりたいという言葉を、誰も信じなくなってしまって。
 けれどたった一人、信じ続けた人間がいたのでしょう。
 だからこそドウドウさんは、その場所だけは失わないようにしたのではないでしょうか。

 

 信じる者がバカを見るとか言いますし、疑ってかかるほうが利口という考え方があり、人間なんて誰も信じられないとかおっしゃる方がいます。
 私は全て、正しいと思います。
 ドウドウさんの本質に近いのは、父や私が見た姿ではないのでしょう。
 どこまでも自分を守りたいのであれば、誰のことも信じずにいるのが賢いのでしょう。
 けれどやはり、私は人を信じたい。
 ドウドウさんのことを周りのみんなが父と同じように信じていれば、逆に誰も騙されなかったんじゃないかなんて、そんな風に夢見たくなってしまう時があるから。
 信じてうしなうものは数多いけれど、信じたからこそ得られるものも決して少なくないと、私はそう思いたいのです。