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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その8〜

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本文

セキゼキさん(仮名)が初めて真剣に見た競馬のレースは、1991年の有馬記念でした。
競馬ファンの方ならそれがどんな意味合いを持ったレースだったのか、もうお分かりでしょう。
91年の有馬記念は、スターホースオグリキャップの引退レースだったのですから。


ファンに愛されたオグリキャップは、その年もファン投票では堂々の一位を獲得して、レースに臨みました。
二流の血統しか持たぬ馬と言われながらも数々の名勝負を制し、年上の絶対王者を下し、国際的大レースで世界記録のタイムを叩き出した、『芦毛の怪物』オグリキャップ。ファンの人気が集まるのも、当然のように思えます。
ですが。
馬は人間よりもずっと早く成長し、老化する生き物です。
91年の秋、オグリキャップは勝ち星から遠ざかって久しく、「オグリキャップはもうダメだ」、「衰えた」と評される存在となっていました。
相変わらず人気はあるけれど、とうに盛りを過ぎた馬。
勝って欲しくはあるけれど、勝てるとは思えない馬。
それが周囲のオグリキャップに対する評価だったのです。


けれどオグリキャップは、ファンの予想を裏切り、期待に応えました。
誰もそんなことが起こるとは考えていなかったけれど、心のどこかで夢見た勝利。
オグリキャップは最後に奇跡のような勝利を見せて、競走馬としてのキャリアを終えたのです。


当時、セキゼキさんは高校生。
それまでセキゼキ少年は競馬に対してはまるで興味を持っていませんでした。有名馬の引退レースときいて、ちょっとばかり興味を惹かれ、テレビをつけてみた、ただそれだけのことだったのです。
けれどレースが終わった後、セキゼキ少年はスターホースの見事な勝利に強く惹きつけられ、心を揺さぶられていました。
おれの将来はもう決まった、とその時少年は考えていたのです。


それからセキゼキ少年は、競馬関連の書籍を読み漁り、足繁く競馬場に通い(本当は高校生がそんなことしちゃダメなんだけど)、とにかく競馬の知識を集めました。
そしてついに、彼は北海道のある牧場関係者に直接会いに行くと、
「どんな仕事でもいいから、ぼくを使ってください」
と頭を下げました。


数ヶ月後、入ったばかりの大学を中退したセキゼキ少年は、機上の人となって、北海道に向かっていました。
少年はとうとう、競走馬の生産牧場の職を勝ち取ったのです。
サラブレッドの生産に関わり、次世代のスターホースを自らの手で作りだす。
それがセキゼキ少年が夢見た、己の将来だったのでした。
ですが、少年の夢は、その後あっさりと潰えます。


競走馬生産というのはつまり、幼い子馬を育てる仕事です。
それはただ餌の用意をして、運動をさせて、そうやって面倒を見ていればいいものではありません。
サラブレッドは背中に人を乗せます。そのために、サラブレッドは鞍をはじめとする様々な馬具を体につけています。
馬のことを知らない人間は、それが当たり前のことのように思ってしまいがちですが、実際には違います。


馬は臆病で繊細な動物です。知らない人がいれば怯えます。人間のために用意された馬具などというものはつけたがりません。人を背中に乗せるなんてとんでもないというのが、自然な馬の姿なのです。


ですから、競走馬を育てる人々は、幼い子馬の背中に小さなタオルを一枚だけのせる、そんなところから、馬の教育を始めます。
一枚のタオルすら嫌がる馬を徐々に慣らし、人間の言う事をきくように、そしていつの日か立派にレースで走れるように、根気良く教育するのです。
それが、馬づくりという仕事です。


馬を作る人々は、幼い馬の背に乗ります。人を乗せることを馬に覚えさせなければなりませんし、実際に乗らなければわからない馬の様子というものもをあるからです。
生産牧場にいる馬は、赤ん坊からせいぜい小学生くらいの子どもです。当然体はまだ小さく、骨は成長途上で柔らかく、そのような体に過大な負担をかけることは、馬の将来を奪いかねません。
それゆえ、馬に乗る人々の体重は軽くなければならない。


何回か書きましたが、セキゼキさんは身長は180センチ以上、胸板は厚く、筋骨は逞しく、骨は頑丈で太くて重いという、これでもかというゴツい体をしています。
このことが、彼のハンディとなりました。
「馬に乗る以上は、体重は絶対に69キロを越えてはならない」
そう厳命されたセキゼキさんは、たいへんな苦労をすることとなったのです。


最初のうち、セキゼキさんは体重制限を守るのにそれほどの苦労はしませんでした。
まだ十代の少年にとって食事を我慢するのはたやすいことではありませんでしたが、それでも。
馬作りは早朝から夜まで続く、激しい肉体労働です。馬の寝藁を始末し、餌となる大量の飼葉を用意し、桶代わりのバスタブに水を満たして運ぶ。全身の筋肉を一日中酷使する仕事です。
セキゼキさんの体は労働によって自然と鍛えられ、めきめきと筋肉がついてきました。
そして筋肉は、脂肪よりもずっと重いのです。


やがてセキゼキさんはどれほど苦労しても思うように体重を落とせなくなったことに気づきました。
このままではもう馬の仕事ができなくなってしまう。
そう怯えたセキゼキさんは、死に物狂いで減量に取り組みました。絶食に近いダイエットを繰り返し、水分を摂ることすら控え、空き時間はサウナにこもりました。
飲まず食わずに近い生活をしながら、それでも日中は肉体労働で激しく体を動かす。
いつしかセキゼキさんは、慢性的な立ちくらみと目眩に悩まされるようになりました。


ふらふらになりながら、それでも馬に乗り続けたセキゼキさんはとうとうある日、馬上で気絶してしまいます。
セキゼキさんが意識を取り戻したとき、心配そうな顔でのぞき込んでいた牧場の人々は、気の毒そうな顔をしながらも、きっぱりと断言しました。
「セキゼキ、もうお前に馬乗りの仕事は無理だ。」


こうしてセキゼキ少年は、己の夢を失いました。
既に少年ではなくなったセキゼキさんは故郷に帰り、茫然自失しながら鬱々とした日々を送りました。
彼はそのとき、人生で何かを夢見ることをやめました。
そして、「夢」ではなく「現実」を見ることに決めたセキゼキさんは、「安定した生活」を手にいれるために、「将来性がありそうだから」という理由で、IT業界で生きるようになったのです。


夢見ることをやめたセキゼキさんは、あれほど好きだった競馬を、ほとんど見なくなりました。
競馬が嫌いになったわけではありません。ただ、自分が失った夢のことを思い出すのが嫌だったのです。


2007年5月27日、日曜日。
セキゼキさんと私は、東京競馬場にいました。
その日のメインレースは、日本競馬界最大の祭典である、日本ダービーでした。
当時の私はセキゼキさんのことを、「昔競馬関係の仕事をしていた、競馬にすごく詳しい友人」としか認識していませんでした。
ですから、「せっかくそういう友達が近所に住んでるんだし」という理由で、
「かの有名なダービーってやつに連れてけよー」
と頼み込んでいたのです。


そしてその2007年のダービーは、歴史に残るレースとなりました。
サラブレッドの世界にも、男女の力量差は存在します。基本的に、牡馬のほうが牝馬より強いのです。
それゆえに、一般的に牝馬は牡馬の半分程度の価格でしか売れず、馬作りをする人々は、牝馬が生まれると、がっかりしてしまうことも珍しくありません。
2007年のダービーでは、錚々たる牡馬の顔ぶれに混じって、牝馬が一頭だけ出走しました。
彼女の名前はウオッカ。確かに良い馬とは言われていましたが、競馬に詳しい人間であればあるほど、
牝馬のダービー挑戦は無謀であり、愚行である」
と断言する傾向にありました。
セキゼキさんは私がウオッカの馬券を買うのを、批判的な目で見ていました。
「どうでもいいけどシロイ、その馬券は当たらない。牝馬が最後にダービーで勝ったのがいつか知ってる? 64年前だぞ」
「さすがセキゼキさんは競馬オタクだね詳しいねー。でも私、素人だから。素人は『紅一点の果敢な挑戦』とか、そういうミーハー視点で決断するものなんだよ」
「ふーん。ま、記念みたいなもんてことか」
けれどその日、誰よりも先にゴールラインを駆け抜けたのはウオッカでした。


それから一年後の2008年。
長く苦しい夏、一日中部屋に閉じこもって過ごすセキゼキさんを、救ったのはウオッカでした。
誰もが予想しなかった、けれど心のどこかで夢見ていた勝利を手にした馬が、再びセキゼキさんの人生に、大きな影響を及ぼしたのです。


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