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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その7〜

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2008年7月1日の夕方。
私は帰宅後、久しぶりに自分で食事の用意をしていました。
まだ不安は拭えないものの、それでもとにかく復職までこぎつけたセキゼキさん(仮名)のために夕食を作ってお祝いをしてあげたい、と思ったからです。
今でもあの時のメニューが思い出せます。
ミネストローネとアボガド入りのポテトサラダ、それにハンバーグ。
復職初日なのだから、セキゼキさんもそう遅くならずに帰ってくるだろうと考えながら、とにかく急いで手を動かしていたのですが。
(……それにしても遅いなあ、なにしてるんだろう。グループが違うと勤務場所まで違うってのは、こういうとき不便だね。同じ建物で働いていれば一緒に帰れたのに)
不安になって携帯にかけてみたのですが、セキゼキさんは出ません。
(まさか事故、とか)
セキゼキさんの帰宅までには到底間に合わないだろうと思っていた夕食はとっくに出来上がり、既に冷め始めています。


私は何度も頭の中で計算をしました。
(机を離れてビルの外に出るまでに、普通なら2分もかからないけど、あえて5分かかったことにする。ビルから駅まで10分もかからないけど、ゆっくり歩いて20分かけたことにする。電車の乗り継ぎにかかる時間はほんとは15分くらいで済むけど、今日はものすごくタイミングが悪くて、30分以上かかっちゃったとする……)
通勤時間の全ての過程を普段の2倍以上に見積もっても、セキゼキさんは2時間以上前に帰宅していなければ、おかしいはずでした。
事故で電車が遅れているのかも、と考えて鉄道情報をチェックしても、それらしい情報は見当たりません。


不安で居ても立ってもいられなくなった頃に、とうとう玄関のドアが開き、セキゼキさんがよろよろと入ってきました。
顔色ははっきりと悪く、青いというよりはどす黒いような有様で、目はうつろ、やっとだいぶ人間らしくなってきていたはずのセキゼキさんは一気にゾンビに逆戻り、私の頭の中で「死霊のはらわた」とか「死霊の盆踊り」とか、その手の単語が無意味にぐるぐる回る始末。


私がとにかくセキゼキさんを部屋に通して座らせ、飲み物をすすめながら少しずつ話をきくことにしました。
セキゼキさんの言葉はしょっちゅう途切れ、話はぶつぶつと細切れでしたが、彼の身に何が起こったのかは、だんだんと掴めてきました。


出社したセキゼキさんは、与えられた軽作業をこなそうとしたところで、「自分が驚くほど仕事ができなくなっている」ことに気づいたのだそうです。
元々セキゼキさんはまったく畑違いの仕事をやめてIT業界に飛び込んだ人でして、それゆえに純正のIT人とくらべると知識やスキルの点で多少劣るところがあったのですが、その代わり持って生まれた勘の良さで知らないこと、新しいことにもどんどん挑戦して、要領よく仕事をこなすタイプでした。
そんなセキゼキさんにとって最大の武器は手の早さ。迷いのないスピードで作業を進め、周囲の期待を上回る短時間で仕事を終えることに定評があったのですが。


病気になって職場から遠ざかっている間に、セキゼキさんの手はまるきり動かなくなってしまったのです。
思考はぼんやりとまとまらず、少し前にやっていた作業が何だったのか思い出せないから、次に何をすればいいかもわからない。わかるのはたった一つ、目の前の仕事は以前の自分ならあっという間に片付けた筈のもので、こんな簡単なことも出来なくなってしまった自分は、まるで使い物にならないという、そのことだけ。
何も出来ず呆然とモニタを眺めている間に、時間は刻々と過ぎていく……


それはセキゼキさんが電車に乗れなくなる直前に、職場で味わっていた気分の再現でした。やらなければいけないことがあるのに、それはちっとも難しいことではないのに、自分にはそれが出来ないという絶望。
にも関わらず、社内の人はセキゼキさんがよくなっているという前提で話を進めます。
「8月から本格復帰したら、セキゼキさんに是非やってもらいたい仕事があるんだよ。ちょっと資料に目を通しておいてもらえるかな?」
「7月のリハビリ期間の間に、受けておいてほしい講習会が2つあるから、予定を開けておいてね。あ、その講習会には取引先の人も来ている筈だから、その時ついでに挨拶しておいてね。8月からはその人たちにお世話になる予定だから」


無理だ、無理だ。だって自分はこんな簡単な、リハビリ用の軽作業すらこなせないのに。
セキゼキさんは絶望しました。
もうダメだ、8月からちゃんと仕事をしなければならないなんて、そんなのは絶対に無理だ、講習会も無理だ、客先への挨拶も無理だ、何もかも無理だ、無理だ無理だ無理だ!


セキゼキさんがモニタを眺め続けている間に、定時がやってきました。
「まだ残ってるの? 仕事熱心だな〜、焦る気持ちはわかるけど、復帰初日なんだから、無理せず今日はもう帰りな」
そんな言葉に背中を押されて外に出たセキゼキさんは、会社の窓からは見えない場所にあるベンチを見つけるとそこに座り込み、2時間ほどそこで呆然と過ごしたのでした。


(やっぱり復職は無理だったか。あー、喧嘩になってもいいから、引き止めればよかったなあ)
私は悔しさで歯噛みをしたいような気持ちでした。
「セキゼキさん、ホントに今日はお疲れだったねえ。会社には私が連絡入れておくから、明日からまたウチで過ごしな。復職のことはしばらく忘れて、ゆっくりするのがいいよ」
私がそう声をかけると、セキゼキさんの目がしゅっと細くなりました。
「しばらくって、いつまでのこと?」
「それは……私にもよくわからないけど。最低でも半年くらいは休まないといけないんじゃないの? できれば一年くらい休んだ方がいいと思うけど」
「半年? 一年? 冗談じゃない、この業界でそんなに長く休んだら、スキルも知識もあっという間に古びて、使い物にならなくなっちゃうよ! 現におれは、たった数ヶ月休んだだけでこのザマだ、まるで仕事ができなくなってる。これ以上休んだら、完全にダメになるよ!」
「仕事ができなくなったのは、どっちかというと病気のせいだと思うから、気にしないほうがいいんじゃない。ブランクがあったら手が思うように動かないのは当たり前だし、焦ったら病気が悪くなるばっかりだよ」
「病気、病気、病気だから薬をのまなきゃいけない、薬をのめばよくなる、そう思ってきたのに、おれは何もよくなってない、どんどん仕事ができなくなるばっかりだ! 薬がなんの役に立つんだ、おれは一体どうすれば元通りになるんだよ……」


それからセキゼキさんの迷走が始まりました。
それまでのセキゼキさんは、希望と目標を持って病気に取り組んでいました。薬をのめば症状がよくなることを実感し、薬さえあれば元通り仕事ができると信じて、そのために歯を食いしばって頑張っていたのです。
けれど、その期待は裏切られた。


しばらくして私は、セキゼキさんの薬の減りが異常に早いことに気づきました。薬が切れたから病院に行きたい。そう言い出すことが増えたのです。
恐怖と不安の発作に襲われる回数が、爆発的に増えました。そのたびにセキゼキさんは空中をじっと睨みつけるようにしながら、薬を取り出し、飲み下しました。
情緒が目立って不安定になったセキゼキさんは、恐怖と不安を抑えつけるために、薬に依存するようになってしまったのです。


ある日の午前四時、セキゼキさんがこっそりと布団を抜けだして、風呂場に向かいました。
寝ぼけ眼をこすりながら私は風呂場のほうに声をかけました。
「何やってるのセキゼキさん、電気もつけないで」
がたがたっと、慌てたような気配が風呂場から伝わってきました。
私は慌てて飛び起きました。風呂場のドアの曇りガラスの向こうに、セキゼキさんの大きな体が、黒い影になって見えています。
「ちょっとセキゼキさん、なにやってるの、なんのつもりなの、早くココ開けて!」
私はがたがたとドアを揺さぶりました。するとセキゼキさんは180センチを超える胸板厚い巨体で、ドアが開かないように押さえつけてきます。
「大きな体をこういう時だけフル活用するのはやめてくれ!」
私の必死な叫びもきかず、セキゼキさんはドアを押さえたまま、風呂場で何かを探している様子。
やがて「ぐへえっ」という叫び声と同時に、セキゼキさんがそのまま床に崩れ落ちる気配がしました。


今だ、とばかりに私は強引に風呂場のドアを押し開け、電気をつけました。
セキゼキさんは風呂場のタイルの上に息も絶え絶えに座り込み、しきりに唾を吐いています。
見ると、その巨体の脇には、パイプ詰まり除去用の洗剤の容器が、蓋の開いた状態で転がっていました。
「まさか、これを飲んだとか?」
セキゼキさんは涙を流して咳き込みながら、苦しそうに頷きました。
「でも、のめな、かった……すごく、ひどい、あじで………くちにいれただけで、はいちゃって……」
私は洗剤容器を拾い上げ、裏面の注意書きを読みました。

飲み込んだときは、吐かせず、すぐに口を水ですすがせ、コップ1〜2杯の水か牛乳を飲ませ、薬品を持参して、医師の診察を受けてください。


(吐かせない、というのはたぶん、そんなことをすると洗剤の酸で食道が焼け爛れるからなんだろうな)
私は子どもの頃、近所のおねえさんが拒食症になり、食べ物を吐き出すためにトイレ用の洗剤を飲んでしまったときのことを思い出しました。
強酸性の洗剤は皮膚粘膜を焼きますから、飲み込んだものを吐き戻させると、食道や気管に再びダメージを与えてしまうのです。
(あのおねえさんは確か、飲んだ洗剤を吐き戻したせいで、喉が焼け爛れて、声が出せなくなったと聞いた気がする……)


セキゼキさんの声は涙と咳のせいで聞きとり辛いけれども、喉が焼けてしまった人間のものであるようには思えませんでした。
(つまり、口に含んだけで飲み込めなかったというのは、たぶん本当なんだ。不幸中の幸いだったねこれは)
私は水道の水をコップに汲んでセキゼキさんに手渡し、急いで口をすすぐよう命じました。


「口をよーくすすいで。何回もすすいで、口の中に残っている酸を全部、洗い流して。そう」
それから私は別のコップに牛乳を注ぎました。
「それが終わったら、牛乳をたくさん飲んで。一滴でも洗剤をのみこんでいると大変だから、牛乳で胃の中に膜を作って。水も飲んで、洗剤を薄めて」


セキゼキさんは従順に私の言葉に従いました。それだけ苦しんでいたのでしょう。
「どう、ちょっとは落ち着いた?」
セキゼキさんは涙を流しながら頷きました。
「ほんとに口に入れただけで飲んでない? ちょっとでも飲んでいたら、病院に行った方がいいんだけど」
「飲んでない……飲めなかった。味が酷すぎて、あんなの絶対に飲み込めない。口に入れただけで、反射的に吐いちゃった」
「危険な薬品だから、催吐作用があるのかもしれないね。なんにせよ、飲んでいないなら助かった。もしも具合が悪くなったらすぐに病院に行くから、声かけてね。さ、もう寝て」


セキゼキさんはおとなしく布団に入りました。
「ごめんねシロイ……また迷惑かけちゃって……おれ、別に死のうと思ったわけじゃないんだよ」
「うん、大丈夫だよ、わかってるよ。セキゼキさんは死ぬのが怖いもんね」
「ただ、苦しくて苦しくて、怖くて不安で眠れなくて……どうしたら怖くなくなるのか、ずっと考えてて……もしかしたら、体がものすごく辛くなれば、心が苦しいのは忘れられるかもしれないと思って……」
「そっか。お薬のんでも辛いのが全部なくなるわけじゃないもんね」
「ごめんね……ほんとに、死のうとしたんじゃないだ……シロイにはそれをわかって欲しいんだ……」


2008年7月は苦しい季節でした。
そんな風に眠れぬ夜が、何度も訪れた夏でした。


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