wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その4〜

これまでの分

その1 その2 その3

本文

セキゼキさん(仮名)が繰り返し逃避行を続けた2008年3月27日から28日の二日間を、後に私たちは、「魔の二日間」と呼びました。
セキゼキさんにとってはこの「魔の二日間」は暗くて重い渦のようなもので、未だにしっかりと思い出すことができないのだそうです。おそらくこれから先も、きちんと思い出せるようになることはないでしょう。
私の場合は逆に、駅の改札でセキゼキさんに会ってから、最後に家に連れ戻すまでの過程は、焼き付いたように鮮明な記憶となっており、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出せます。
ですが。
セキゼキさんを最後に家に連れ戻した時から、私の記憶は急に曖昧になります。断片的で時系列がはっきりとしないバラバラの思い出があるだけの空白の日々が、それからしばらく続きます。


あの頃のセキゼキさんはとにかくゾンビみたいだった、ということは覚えています。セキゼキさんは口も利かず、身動ぎもせず、ずーっと座っているだけでした。ピンで留められた標本箱の昆虫みたいに、同じ場所から動かず、話しかけてもぼんやりとした顔で曖昧に頷くだけ。
私が帰宅すると、出勤前と同じ場所に、同じ表情を浮かべ、同じ姿勢でセキゼキさんが座っています。
昼食用の食べ物を用意して出かけても、食事をしている様子がない。
そういう時のセキゼキさんは、そもそも話しかけても言葉を理解しているのかどうか怪しく思えました。


そして夜。
あの頃に私にとって、夜は一番怖い時間帯でした。
セキゼキさんの調子は、朝はとにかく悪く、ゾンビのように生気を失っていますが、夕方頃になると徐々に回復して、少しずつ人間らしくなってきます。
ですが、布団に入った後は、もういけません。
セキゼキさんは布団に入っても全然眠れないのです。
どうやら、眠れないまま電気を消して闇の中に横たわっていると、セキゼキさんはとてつもない不安と恐怖に襲われて、居ても立ってもいられない状態になるらしいのでした。


眠りながらも何か不穏なものを感じて私が目を覚ますと、暗闇の向こうから、ブツブツブツブツと、セキゼキさんが独り言を呟いているのが聞こえてきます。
「死にたくない死にたくない死にたくない、誰かおれを殺してくれ、殺して殺して殺して、もう嫌だ辛いんだ辛いんだ怖いんだ、終わらせてくれ、終わらせてくれ、終わらせなきゃ終わらせなきゃ、こんな辛いのは嫌だ、辛いのは嫌だよう、終わらせなきゃ終わらせなきゃ、終わらせる、終わらせる、自分でちゃんと終わらせる……死にたくないよおおおおお。誰か助けてくれよう……誰か殺せよ、おれを殺せようぅ」


私は大抵、慌てて飛び起き、「死なないで」とか、そういうことを言いますが、もう全然意味がありません。
セキゼキさんはぎりぎり歯を食いしばって、
「だって辛くて怖くてどうしていいかわからないんだよ。おれだって死にたくない、怖いから死にたくないよう」
と答えます。
「よしわかった、じゃあセキゼキさん、明日こそ精神科に行こうじゃないか。そうすれば辛いのも怖いのも、ちょっとずつなんとかなっていくわけなのだから。な?」


しかしながらセキゼキさんは、頑として精神科に行くのを拒みました。ワケの分からない医者だのカウンセラーだのに、物知り顔で偉そうに対応されることを思うだけで我慢ならない、と言い張り、私たちの口論は何時間も続きました。
「セキゼキさんが精神科医療に関して拭いがたい不信感を抱いているのはよーくわかった。わかったけど、だったら精神科医の言う事なんて話半分にきいて、お薬だけ貰っておくことにすればいいじゃない。薬を貰えば楽になれるんだから」
「薬を貰えば楽になれるって、なんでわかるんだよ!」
「だって、ウツって今ではもう治らない病気じゃないんだよ。いろんな良い薬がいっぱい出来て、薬を飲んで楽になったって人が、たくさんいるんだから」
「何度言えばわかるんだよ、おれはウツじゃない、心の病気なんかじゃないんだよ!」


ウツの人ではよくあることらしいのですが、セキゼキさんには病識がありませんでした。自分は病気ではない、とあくまで言い張り、精神科受診を勧める私に対して「頭のおかしい人間みたいに扱うな」と怒りをあらわにしました。


「だけどセキゼキさん、『自分はもう人間として完全に壊れてしまった』って言ってるじゃない! だったらそれが病気だってことじゃないのかね?」
「……それは違う」
「私は全然違わないと思うんだけど? そもそもセキゼキさんだって、『体を壊した』んだったら、体の病院に行くじゃない。だったら『心を壊した』んだから心の病院に行けばいいじゃないか」
「おれは『心を壊した』んじゃないんだよ! 『人間として完全に壊れた』の! だから精神科に行っても無意味なんだよ!」


そのうちセキゼキさんは、頭を抱えてブツブツ言うのを止めると、急に起き上がってへらへらと笑いました。
ある意味、延々と続く陰にこもった呟きよりも、ずっと不安にさせられる行動でした。
ちっとも楽しそうじゃない笑い声、目の奥では相変わらず不安そうな光がちらちらと揺れています。
「なーんちゃって。全部嘘、全部嘘なんだよシロイ」
「……いや、ちょっと言っている意味がわからないんですけど」
「いいか、おれは病気じゃない。確かにシロイには迷惑をかけたし、心配もさせたけれども、おれは病気じゃなくて……つまりその……そう、全部『フリ』だったんだよ。仕事がさぼりたいから、おかしくなった『フリ』をしただけで、ホントは全然病気じゃないんだ。仮病みたいなものなんだ」
「じゃあ、毎晩毎晩ほうっておけば何時間でも『殺してくれ殺してくれ死にたくない』とか呟き続けているのは、あれも全部『フリ』だったのかね?」
「そうだよ。全部『フリ』だよ。シロイはまんまと騙されているんだよ」
「『狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり』と言ってな。会社をさぼるためにこんな大掛かりな芝居とかフリを続けている時点で、もうなんかその人の心は壊れているなあ、と私は思うわけなのだよ。だからそう、君がしているのが『フリ』だろうが、なんだろうが、私の結論は変わらん!」
「なんでだよ!」
「なんでもだよ! 大体本当に『フリ』なんだったら、『実はフリでした』って、観客である私に打ち明けたら意味ないだろうが! わかった、もう明日から会社行きなよ、『フリ』なんだからできるでしょ仕事」
「……嫌だ。会社は嫌だ。仕事に行くのは嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」


「休職の手続きだって、ほんとは診断書が必要なんだよ! 診断書をとるためだけでもいいから、とにかく病院に行くしかないの! 『フリ』でもいい、病院に行って、薬と診断書を貰うことが、セキゼキさんには絶対ぜったい、必要なんだよ!!」
「じゃあ、会社なんて辞めるよ、退職するよ、どうせ仕事なんて出来ないんだから! 休職の手続きなんて要らない、おれは明日会社に連絡して、退職する!!」
「じゃあ一体セキゼキさんは何のために『フリ』をしてたわけ? 心が壊れて仕事のできない真面目な人間になるくらいなら、病気の『フリ』をして仕事をサボる小狡い悪党のほうがマシなわけ? 意味わかんない、ほんっと、全然意味わかんない!!」


イヤハヤ。
この頃の自分は、もう完全に長引くパニック状態の真っ只中にあったのだなあ、と思います。全然、何一つ、うまい対応ができていませんでした。
病院に行きたくないというセキゼキさんをとにかく説得しようと、がむしゃらに理屈を並べ立て、そのことがセキゼキさんにとってどれほど苦痛なのかということに、まるで思いが及ばなかった。
そのくせ、セキゼキさんがまた逃げ出したらどうしようという怯えに取り憑かれて、きっぱりとした強い態度をとることもできずにいたのです。


私は何時間もネットサーフィンをして、うつ病患者にどう対応するべきかという情報を集め続けました。
どのサイトを見ても、とにかく病院に連れていくのが第一段階だと、そればかり書いてあります。
「『患者本人に病識がないことが多い病気なので、精神科受診を嫌がることは珍しくありません』って、だったらどうやって連れて行けばいいのか私に教えろよ……」
「『本人がどんなに嫌がっても診断は必要です。耳を引っ張ってでも病院に連れて行きましょう』? ほんとに耳を引っ張って連れていけるんだったらどれだけ楽か!」
その頃の私は、「首筋にスタンガンを押し当てる」、「食事に睡眠薬を混ぜる」、「手近な鈍器で殴りつけて昏倒させる」などの手段でセキゼキさんの意識を奪い、病院に引きずって連れて行く光景を、何度も夢想しました。


(でもなあ、気絶させたとしても、私の力じゃセキゼキさんを引きずって動かすのは無理なんだよね……)
セキゼキさんの身長は180センチを越えます。さらに、長身の人にはよくいるひょろっとした痩身タイプではなく、「筋骨逞しい」とか「むくつけき大男」とかそういう形容がぴったりの、分厚い胸板とぶっとい腕の持ち主で、当然体重も全然軽くはありません。
こんな病気になってしまう前、飲み会帰りのセキゼキさんがウチに遊びに来たとき、よりによってトイレのドアの前で酔い潰れて眠り込んでしまいやがり、トイレの出入が不可能になってしまったことがありました。
その時私は、セキゼキさんをなんとか動かそうとあの手この手を尽くしたのですが、私が満身の力を込めてもセキゼキさんの巨体は一センチも動かなかったのでした。


(くっそー、ウツにかかる人間といったら、なんとなく繊細なイメージがあるし、繊細な人間といったら、華奢でひょろっとしたタイプのような気がするのにい。無駄に頑丈で重厚な体をしやがって! どうせなら格闘家とかになればよかったのに、体格が生かせないITの仕事とかやってるからこんなことになったんじゃないのかああ)
私は何度となくモニタの前で悔しさに歯ぎしりをしました。
(私は一体何のためにセキゼキさんを連れ戻したんだ。これじゃ事態はまるで好転していない、なんちゅー泥仕合だ。ちくしょう。ちくしょう)
しかしまあ。
「継続は力なり」とか「諦めたらそこで試合終了だよ」とか、なんとかそういう言葉が好まれるのはやはり、そこに真実が含まれているからなのでしょう。


連日連夜延々と続く口論に、疲れ切って先に音を上げたのはセキゼキさんでした。
気力を磨り減らし、私のしつこい説得に反論する気力も失せたセキゼキさんは、ついにある晩、とうとう首を縦に振り、病院に行くことを決めたのです。


その5へ