wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

「傷ついた」、「傷つけたくない」、「傷つかずに生きられる人間はいない」、「傷つけることを恐れるな」等の言葉を聞く度に思い出すのは〜その2〜

前回が問題編だとすると、今回は解答編ちゅーことになりましょうか。
私なりに彼がなぜ立ち漕ぎするひとを偽善者にカテゴライズするのか追求したら、大体こんなかんじになりました。

  • 彼は自分の足が短いことを気にしており、そのことに苦しんでいる。
  • だから人前で椅子に座るのが苦痛で仕方ない。座高が高いから座れば一目で短足がばれてしまうというのが、彼の考え。そのくらいならずっと立っていたいと常々思っているし、実際昔はなるべく人前で座らないようにしていた。
  • 「電車の座席」と「自転車のサドル」に腰を下ろすことは、特に彼にとって耐え難い。テーブルなどで隠してごまかすこともできない状態で、公衆の面前に自分の長い胴をさらすことになるから。
  • だけど彼は同時に、そんなことを気にしている自分を『臆病』で『欺瞞的』であると感じ、そのことにも心底嫌気がさしていた。
  • だから彼はがんばって、人前で座るようになった。サドルに腰を下ろして自転車を漕ぐことや、電車の座席に座ることは、彼にとって苦痛に満ちた時間だが、それでも彼はそれに懸命に耐え抜いているのである。「人前で座れない自分」にはもう戻りたくない、戻ってはいけない、と彼は思っている。


自分はこんなにがんばっているのに。苦しいけどがんばっているのに。
なのに世間にはいまだに自転車を立ち漕ぎしたり、電車で空席があっても腰を下ろさないことで自分の座高を隠そうとしている「臆病な嘘つき」どもが大勢いる! あいつらはずるい。ずるいずるいずるい!!
お前らがこの世に存在するだけでおれはおれのコンプレックスを刺激されるんだよ、どうしてお前らはおれのようにがんばらないんだ、お前らばかりズルをするんだ、がんばっているおれを傷つけるんだ、ああもう、いっそ目の前から消えてくれ。


……みたいなことを彼は感じているのだなあ、と私は推測するにいたりました。「猫背の人間は卑怯」というのも同じ理屈です。猫背イコール座高を短く見せる行為なのね、彼にとっては。
電車の中で本を読んでいる人間を彼が憎むのは、「あいつらは本を読むフリをして他人と目を合わせないようにごまかしている」ように思えるから。電車の中で居眠りするという行為も、他人と目を合わせないようにするための対策としか思えない。つまり、彼は他人と目が合ってしまうことが嫌なのですよね。


とにかく彼は座高コンプレックスと対人恐怖にどっぷり首までつかって生きているので、
「ダイエット中だから電車の中でも座らないわあたし」
「自転車で立ち漕ぎをするのは坂道にさしかかったから」
「電車の中で本を読むのは通勤時間の有効活用」
「昨夜寝不足だから電車の中で寝ておこう」
などという考え方が世の中に存在することを知らないのです。あるいは、そういう理由は全部、「建前であり、ごまかし」なのです。そんな建前の理由で行動する人間がいるわけないのが、彼の世界です。
ですから、彼の世界では、電車の中には『本当の意味で』読書をしているひとも、眠っているひともいません。彼にとってそれらの行為は他人と視線を合わせないためだけのものなので、それらの行為はあくまで『本を読むフリ』、『眠っているフリ』、『たまにフリが本当になる』としか考えられないのです。


んで。
やっとそこまで苦労しながら推測した私は、次の瞬間、なんだかえらく感心してしまいました。この世界ってのは本当に、あまりにも広くて多様なんだなあと。
イヤハヤ、本当に、人間というのは『誰のことも傷つけずに生きていくのは無理なのだ』ということを、頭ではなく、心で実感しました。
どれほど思慮深く、思いやりに溢れ、気配り上手で、他人の気持ちを察することに優れた人間であっても無理だよねこれはもう。こんな推測しようのない理由で憎まれることがあるんだもの。避けようがないよこんなの。
マザー・テレサのようなケチのつけようがない人格者すら、きっと誰かを傷つけているでしょう。絶対に。
私は基本的に電車の中では本を読んでしまう派なんですが、私が本を読んでいるせいで苛立ったり傷つくひとがいるなんてこと、彼に会わなければ、一生知らずに終わったことでしょう。
大体、いちいちひとの座高なんて気にしてないし見てないよ私は。座高なんてマジどうでもいい。セロテープの次くらいにどうでもいい。
なのに。
彼にとっては世界を計る第一番目のスケールは座高なのです。すげー世界だ。


以上、解答でした。そしてこっからは蛇足。うだうだ考えたことを書いているだけです。


だからねー、「私は今まで誰かを傷つけたコトなんてない。私は加害者になったことはない。いつも被害者で私ってカワイソウ!」ってのは、ほんと、マジで大嘘なんだと思いますよ。
人間てのは誰しもが結局、『ただ生きてるだけで』誰かしらを傷つけていると考えたほうがよいんじゃないでしょうか。


座高コンプレックス持ちの彼はきっと、足が長いひとが存在すれば、羨ましくて妬ましくてきっと傷ついてしまうでしょう。
だけど短足のひとに会えばそれはそれで、自分と重ね合わせてやはり傷つくでしょう。
自分と同じように座高を気にしているひとに出会えば、「ああっ、このひとおれの座高をめっちゃ見てる。嫌だああ」と思って傷つけられちゃうでしょうし、『座高なんて一度も気にしたことない』というひとはそれはそれで、「座高を気にしない人生を送れるなんてこいつは悩みがなくて羨ましいそれにくらべておれは……」てな具合で傷ついちゃうんだろうなあ、と私は思います。


んで。
彼の場合、座高というマイナーなものにこだわりすぎちゃっているので、思わず「変わった人だ」と周囲に思わせちゃうわけですが、実際には彼のような心理って、わりとポピュラーですよね。


貧乏人と金持ち。美形と不細工。スポーツマンと運動音痴。高学歴と低学歴。
気にしないで生きている人間は別になんとも思わないことでも、コンプレックス持ちになった途端に、世界がいきなり二分化されちゃって、「あちら側は加害者で私を蔑んでバカにして、私を苛めようとしてしているに違いない」、「こちら側は被害者で、私ってカワイソウ」になっちゃうの。
しかも、「あちら側」(と思える)の人間「実は苛める気なんて毛頭なくて、むしろそういう区分を全くしていない」ことがワカルとそれはそれでざっくり傷つくこともあったりして。無関心ってのは憎悪よりきついときがありますんで。


でもきっと人間て、一人の人間が同時に「あちら側」にいたり、「こちら側」にいたりするんじゃないかな、と思ったりして。
たとえば私はニキビしぼり大好きなので、ニキビが多いひとを見ると頭がぼーっとするくらい羨ましいんです。
「あれが全部自分のモノで、好きなだけしぼっていいなんて…………いかん、想像していたらうっとりしてよだれが出た」
ってこともありました。実話ですよ。
しかし、これは自分でも気付いていますがたぶん異常で(たぶん?)、ニキビたくさんのひとは大抵、普通に悩んで居るんですよね。


かつて競走馬生産の職に就いていたけれど、背が大きすぎるせいで(競走馬を育てるためには馬に乗ることが仕事上絶対必要で、サラブレッドに負担をかけないためには体重が軽くなくてはならず、小柄であることが望ましい)断念した友人がひとりいるんですが、彼ははっきりと
「大きくていいことなんてない。もっと小さく産まれたかった。身長160センチ、体重55キロだったらおれはどんなに幸せだったろう。小さいひとが本当に羨ましい。大きい人間てのは哀れだよ」
と言ってました。
だけど世間には身長が低いことを苦にしているひとが大勢いるんですよね。
同じ一つの事柄でも、見る人が違えば、憐れまれたり羨ましがられたりする。


コンプレックス眼鏡で世界をみると、自分のコンプレックスはあまりにも『当然で自明』なものに見えることを私は自分の経験上知っています。
私はかつて男性に「お前みたいな世界一ブスには生きる資格ないよ。笑ってないで早く死ね」と言われたことがありましたので、世界を形作る唯一絶対の価値基準というのは容姿だった時代があります。
しかも、その基準は女性にだけ適用されるものだと思っていたので、一時期男性が全般的に憎くて、美人は妬ましかったのです。
瞼は二重が正義! スリムであればあるほど賞賛の対象! だけど胸は巨乳のみが存在を許される! 脚が長くて綺麗じゃない女は人間失格! ……なんてそんな価値観酷すぎるよ泣くぞ馬鹿、うわあーん。男はみんな勝手だぁっ。とか思ったりして。


だけど実際の世界ってのはもっと多様で、貧乳フェチなんて珍しくないし、一重のさっぱり顔ラブなひとはいるし、ちょっとぽっちゃりが好きなひとは大勢、脚なんて見ていない男性多数、美人は気後れするから美人じゃないほうが好きとかいうひともわりといちゃうし、なにより男性だって自分の容姿には悩むひとたくさん!
自分は勝手に世界の価値観をたった一つに想定して、激しくシャドウボクシングして疲れ果てちゃっていたのだ、と気付いたときは力が抜けました。
しかし頑張っている最中は自分がシャドウボクサーだってことに気付かないんですよねい。私は誰と戦っていたのだろう。


なんかねー、そういうことを、座高コンプレックス持ちの彼は、私にあらためて実感させてくれました。
容姿コンプレックスとか、学歴コンプレックスはメジャーだけど、世の中にはマイナーなコンプレックス眼鏡をかけちゃっているひとがいて、そういうひとを理解できない周囲は驚いたり、電波扱いしちゃったりするけど、実際には人間はみんな、大なり小なりコンプレックス眼鏡をかけていて、そのせいで世界に色がついちゃっていることにも気づかずにシャドウボクシングで悪戦苦闘したりしてるんだよなあ、としみじみ。
そんで自分は被害者だと思っちゃって、世界に憤って、だけど自分も気付かないところで加害者なんだよなあきっと。


だから浮き世は面白いのか、厄介なのか、それともその両方なのか。
とにかく私たちが生きているこの世界は、びっくりするほど多様で豊かです。


あ、ところでちょっと話がずれるんですけど、よく「上から目線」って言葉があるじゃないですか。「俯瞰する」という考え方と繋がるんだと思いますけど。
で、これは確かにむかつく「上から目線」ってものも存在するんですけど、当事者じゃないがゆえにどうしてもメタな視点しかもてないときってのはあっちゃうものなので、そういうのまで「上から目線」と怒るのはなんか違うと思うのです。
小説の登場人物が読者に対して「上から目線になってんなよお前ら」って言ってきても読者は困るのみ。だって私は殺人現場に居合わせたわけじゃないから君たちと同じように怯えることはできないよ!みたいな。
だからメタな視点をすべて「上から目線」って言って怒るんじゃなくて、これからは「外から目線」って言葉も使ってみたらどうかなーとか思ったりして。
「上から目線」って言葉は言われた方もかちんと来ることが多いので。
「お前はほんと、上から目線で他人事だな!」
という台詞も
「お前はほんと、外から目線で他人事だな!」
と言い換えれば、
「いや、だって、実際当事者じゃないから他人事なので外から目線しかできないよマジで」
「……ああ。言われてみればそうか。そうだよなお前、外にいるもんな」
というやりとりでクールダウンできるんじゃないかと思います。「上」じゃなくて、「外」。