wHite_caKe

だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

時折、世界は残酷で


私がまだ、小学生の頃のことでした。
父のもとに、知らない女のひとから、電話がかかってきました。


「私の主人は末期の癌で、もうすぐ死にます」
「主人は、子どもの頃、シロイさん*1に良くして頂いたことを、よく懐かしがっていて」
「死ぬ前に一度、シロイさん*2にお会いしたいと」
父ネコヒコ(仮名)は神妙な顔で電話を切りました。


「お父さん、その友達に会いに行くの?」
「行かないよ。ちょっと遠すぎる」
そう言って父が挙げた地名は、確かに私たちの住まいからひどく遠い場所でした。
「それに……なんというか、それほど親しい友達ではなかったんだ、おれたちは。少なくともおれは、今電話を貰うまで、あいつのことを思い出しもしなかった。そう、思い出しもしなかったんだよ……」


それから父は、ぽつぽつと、思い出話を始めました。
「貧乏なやつだったんだよ。もちろん、おれたちの子どもの頃は日本全体が貧乏で*3、全員似たり寄ったりの酷い暮らしをしていたわけだけど」
「だからこそなのかもしれないな。その中でも目立って貧乏な人間を貶めることで、みんな憂さを晴らしていたんだろう。要するに、あいつは苛められていたんだ。酷くね」
「おれは友達には恵まれていたし、あいつみたいに苛められていたわけじゃない。だけど、おれは足が悪いだろう? それで上級生にからかわれたりしたこともあったし、あいつを苛めようという気にはなれなかった」
「だから、たまにあいつと一緒に遊ぶことはあった。遊んでいて一番楽しい相手ってわけじゃなかったよ、正直に言えばね。おれにはもっと仲の良い友達は他にいたんだ。でも、あいつにはそんな友達はいなくて。おれにとっての『たまに』があいつにとっては、大きなことだったんだ。おれにとっては『たまに』でしかなかったのに」


「あいつが遊びに来て、ホットカルピスを出したことがあって。それは別に、おれの家にとっては特別なことじゃなくて。だけどあいつは喜んでいた。何度も何度も言ったよ、『シロイの家で出されたホットカルピスは本当に美味かったなあ。あんなに美味いものは初めてだったなあ』って。ただのホットカルピスだぞ? ただの、たまに遊ぶだけの相手が出したものだぞ?」


「おれはそれが時々悲しくてやり切れなくて、だけどだからっておれがあいつともっと遊ぶってこともなくて。だって他に友達がいたから、しょうがないんだけど、それがよけい寂しくて」
「あいつがあの後、どんな風に生きたのか知らない。あいつの人生がどんなものだったのか伝わってくるほど、おれはあいつの近くにいなかったから」
「でも今、ある程度わかってしまったよな」
「人生の最後に、あいつはおれのことを思い出したんだぞ?」
「ずっと昔に、たまに遊んだだけの相手のことを思い出して、『会いたい』と言ったんだぞ?」
「おれなんかのことを。おれなんかに会いたいだなんて」
「あいつは死にかけてる。おれと同い年で。この歳で。まだ死ぬには若すぎるのに。絶対に若すぎるのに」
「なんなんだ、これは。どうしてこんなことが起こるんだ? この世界は、時々ほんとうに酷すぎる。そう思ってしまうよ」
「なのにおれは、あいつに会いにいかない。遠すぎるから。それほど親しくはなかったから。そんな理由で」
「ああ、うまく言えない。まとまらない。とにかくお前は、そういうことも起こるんだってことを覚えておけ」


父ネコヒコに言われるまでもなく、私はこの話を決して忘れないだろうと思いながら、父の言葉に耳を傾けていました。
私はその日、風呂の中でひとり、膝を抱えてぶくぶくと湯舟の中に沈み、ほんの少しだけ、泣きました。ナニカが悲しくて。ナニカが苦しくて。


ただそれだけの、思い出話。

*1:このシロイは私のことではなく、私の父ネコヒコ(仮名)のことでございます。判っていらっしゃるとは思いますけど、念のため

*2:しつこいようですがこのシロイ、私の父であるネコヒコのことでございますから。

*3:ネコヒコは既に還暦を越えています。