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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

実践的愛され研究その2

「見返りを求めていない(ように見える)好意のほうが、見返りを求めていることがまるわかりな好意より返報される可能性が高いんじゃない」と私は昨日書きましたが、さてさて、それではひとは一体どのへんで「これは見返りを求めている好意だ」などと判断するんでしょうかね?


これはまあ、個人差が大きいでしょうね。鈍感なひとと鋭いひとでは、全然違うはずだもの。
そしてまた、「あることに関しては鋭いひとが、別のことには鈍感」というのも、よくある話ですし。鈍感を装う鋭いひとや、鋭いふりをする鈍感なひともいるし。ほんに世の中は難しい。


ただ、それでも多くの人が共通して持っていそうな一つの見返り期待判断基準に、「好意の大きさ」というものがあるように思えます。
出会って間もないのに高価すぎるプレゼントをあげちゃうとひかれることが多いのは、だからですねえ。
「100万円の腕時計をくれたってことは、おれはこれと同程度の金額の何かをお返しとしてプレゼントするか、さもなきゃこの金額に見合う好意を態度で表明しなきゃいけないってことか……って、そんなのやってられるかァァァァァァッ。ああでも相手にここまでさせちゃったら、なにもしない返さないってわけにもいかないし、そんなことしたら後が怖い気がするし……逃げよう」ってやつ。返報率、ダウン。


「見返りは要らないの。ただあなたの腕にあたしのプレゼントが巻かれていたら嬉しいと思う、それだけなの」
とか言われても、そんな言葉、そうそう信じられません。
というか、信じたとしても、やっぱり怖いという気持ちは消えないでしょう。
相手がお金持ちで、100万円も100円も同じくらいのはした金というケースなら、多少気楽にはなりますけどね。
「お金が足りないから、夜のお仕事もして、そうやって貯めた100万円で買った時計なの……ただつけてくれるだけでいいの」
とか言われたら、もうほんとこええ。
そもそも、自分が差し出した好意がどれほどありがたい好意なのか、ここぞとばかりに説明したがるやつには気を付けろ。そこには危険のにおいがする。苦労話をすることで自分の好意がいかに大きいモノか相手に知らしめて、大きな見返りを得ようとする性根が透けて見えるぜ。


それに比べると、「缶ジュース、君の分も買ってきたけど、飲む?」くらいの好意なら、相手がひいちゃう可能性は、ぐっと低くなります。
そのくらいの好意なら、返しても返さなくても、どっちでも平気ですからね。返さなくても心は痛まないし、返しても懐は痛まない。
そして、そういう状況なら「どっちでもいいんだから、んじゃまあ返しておくか。そのほうが今後の関係がスムーズだ」と判断されることも多い。だってそれがオトナの処世術。ものが目に見えぬ好意であっても、受け取りっぱなしよりはまめに返した方が、自分のためにもなるんですよね。そのほうが誠実な人間だと判断されるから。このようにして返報率はアップするわけです。


また、小さい好意なら差し出しても相手が意図を勘繰らないことが多いのも、有り難い点です。
「こいつおれの気を惹きたいのかな……下心があるのかな……」
という疑問を抱かれて拒絶されるのは嫌なものです。ですから、そんな疑問を抱くことすら馬鹿馬鹿しいレベルの小さな好意を差し出すというのは、一つの手なのです。
「こいつ、おれの顔を見て挨拶しやがった……! 惚れてる」
という発想は稀でしょ。つまり、挨拶という小さな好意は素直に受け取って貰えるということです。
あ、もちろんほんとに挨拶イコール惚れてると思う人間も世の中にはいますから、そういうひとに出会ったときは、速やかに逃げましょう。


そしてこのあたりのことを考えていると、「見返りを求めない愛を差し出すことで、見返りを獲得する方法」というのが、ぼんやりと見えてくる気がするのです。


「このくらいの好意なら、見返りがなくても平気だなあ」と思えるレベルの小さな好意を差し出すことが、「見返りを求めない愛」への道なんじゃないでしょうか。
いくら見返りを求めないつもりでも、大きくて高価な好意を差し出せば、返報されなかったときに、がっかりしちゃうのが人情なんじゃないかと思うし、そのがっかり感が相手に伝わってしまえば、
「あ、このひとはおれからこんなに大きな好意を取り立てたかったのだな……危険だ。関係を打ち切ろう」
とか思われちゃう可能性が高いわけで。


だったら最初から「返ってこなくても惜しくない程度の好意」だけを差し出して、自分ががっかりしてしまう事態を回避してしまえばいいのです。


「友人に金を貸して、それでも友人でいたいのなら、その金は返ってこないと思え。あげるんだと思え。そうすれば踏み倒されても惜しくない。それができないときは貸すな」
というのが我が父の教えですが、これはなかなか名言。あげた金なら返ってこなくても平気だし、返ってくることがあれば、とても嬉しいですよねえ。


好意もそれと同じですね。あれは貸し付けるとトラブルを引き起こすことがあるモノ。だって好意って自分が勝手に差し出すモノなんだから。それを返せとか言い出すのは、悪質な金融業者の行う「押し貸し」という行為と何が違うというのか。
好意はあげるもの、後で惜しくなるならあげるのは止せ、そうすれば相手からもしも好意が返ってくれば、純粋に嬉しいじゃないか、「やっと回収できたか」などと思うよりはそのほうがずっと自分もいい気分になれるじゃないか、という話。
そしてここで私が自分なりに考えた、「返ってこなくても惜しくない好意」の例をちょっとあげてみます。


○明るく気持ちの良い挨拶(「挨拶すらしてもらえない」と気分悪くなるし、にっこり笑って挨拶してもらえると嬉しいじゃないですか)
○お礼の言葉をまめに口にする。
○笑顔。スマイルはゼロ円。
○相手の顔をきちんと正面から見る。
○相手の話に注意深く耳を傾ける。ただ黙って聞いてると「こいつほんとにひとの話きいてんのか」と思われるので、頷きや相槌は怠らない。(でもいい加減な相槌が多いと、「やっぱりきいていないな」と思われるかもしれないけどね。気をつけましょう)
○相手の目を見ながら会話する。(ただしこれは相手がかえって落ち着かなくなる場合もあるので、その場合は口元のあたりに視線を移してあげると良い。最初から目ではなく口をみるのでも可)
○相手の美点を正しく評価し、誉める。(思ってるだけじゃ伝わらない)
○悪いと思ったらまめに謝る
○清潔な身だしなみを心がける。お風呂と洗髪と洗濯はまめに。しわくちゃの服やしみのついた服は避ける(相手の前で綺麗でいようと心がけるのは、一種の好意表明だと思います)


大体このくらいですかねえ。ちゃんと考えれば、もっとあるとは思うけど。
そしてどれもある意味、「ごく当たり前のこと」ですね。好きな人に対してだけじゃなく、日常で接する全ての人に対して行ったほうが良いことでもあります。
もちろん、「当たり前のことを実践するのが難しいんだよ」という意見もあるでしょうが、ごめん、その場合どうすればいいのかは、私にはよくわかりません。ちょっとそこは各自で考えてみて貰えます?
ただ、一つ言えることは、「そんなこと異性に対してはこっぱずかしくて出来ないんじゃ。同性にはできるけどな」というひとは案外多いので、同性を練習台として使うのはアリかなと思います。あ、これはヘテロセクシャルの方の場合でものを言ってますね。世界観が狭くてごめんなさい。必要に応じて適宜「異性」という単語と「同性」という単語を入れ替えてください。
あとは、自分の性的対象となりうる性別のかたであっても、年齢その他の要素で懸想の対象外になるひとというのがいるはずですから、そういうひとを練習相手に使うのもよいかと思います。


で、練習を重ねて、とりあえずこれら一連の「ごく当たり前のこと」が出来るようになったら、それは一応、特定の相手に対してだけではなく、なるべく多くの人に対して行ったほうがいいと思いますよ。あのひとって、相手がどんな人間かで、露骨に態度変えるよなあ、と他人に認識されることがいい結果に繋がったケースを、私はほとんど知りません。ここは「みんなに対して感じよく」するのが処世術でございます。


とりあえずそうすれば、周囲があなたが示した好意と同じくらいの好意を返してくれるようになるでしょう。みんなに対して感じよく接すれば、みんなが自分に感じよく接してくれるんだぜ? みんなだぜミンナ! わーお、あたしって人気者じゃんという錯覚に、一日三分くらいは気持ちよく浸っていいと思います。
挨拶に挨拶を返すくらいのこと、別に大したことじゃないから、みんなだって気楽に返せるのです。気楽に返せるものなら返しておいたほうがいいかなと思うのです。それすら返してこない相手がいると思いますが、それは「失礼なヤツだなお前は」と心の中で切ってしまえばよろしいんじゃないかしら。挨拶に挨拶を返すこともできないヤツなんて要らねえぜマジで。少なくともそう思えば、あなたの心は守られます。保身は大事だよ。


「でもその挨拶に挨拶くらいの段階じゃ、返ってくる好意とやらがささやかすぎるんだけど」
という指摘をなさったアナタ。あなたは正しい。
しかし、リリー・フランキーさんは言いました。
「高いレートで麻雀を打ち続けると、低いレートで打ってもシビれることができなくなる。低いレートで麻雀を打っていれば、いつまでもシビれ続けることができる。人生のレートをどの程度に設定するかは重要」
みたいなことを。


好意のレートを低めに設定、つまり周囲のささやかな好意をありがたく噛みしめるよう心がけると、その時点で人間はある程度幸せになれるのです。「これじゃ足りないもっとモットもっと」と言ってると、既にあるささやかな幸せがゼロに見えちゃうときもあるんだぜ。
まずは獲得したささやかな好意の甘やかな味を楽しみ、ささやかであっても他者の好意を獲得できた自分を誉めてあげましょう。大体他人と自分を比べることよりも、過去の自分と現在の自分を比べて、よりよい自分を目指す方が、実りが多いもんですから。


さて、あなたが周囲に振りまいた好意は、貸し付けたものではなく、あげたものでしたよね。ということは、あなたが今周囲から受け取った好意を、「返済された」と考えるのではなく、「自分は好意を貰ったよ」ととらえてみるのはどうでしょう。
他人から好意を貰う喜びを、そうやって味わうんです。


「貸し付けた」ものならば「返済される」のは当然のことです。
好意を貸し付ける人間は、自分が他人に好意を差し出したとき、好意が返報されても、それを当然のことだと思うだけで、安堵や満足感を覚えることはあっても、喜びや嬉しさは薄いのではないでしょうか。
しかも好意を「貸し付けた」人間は、相手が思ったような質・量の好意を返してくれなければ、利益が回収できないことに苛立ちを覚えます。だからこそ相手に返済を迫り、好意を取り立てようとするわけです。その結果として嫌われてしまうなんて、皮肉な話ですが。


「この好意は貰ったんだ。返されたものではないんだ」
と思えば、相手の示した好意の質や量に不満を覚えることもなくなるでしょう。それに、自分が好意を貰える人間になれたよ、と思うと超嬉しいじゃないすか。
そしてその嬉しさが自分の中にいいかんじにたまると、自分も周囲に好意をあげたくなります。再び好意の返報性。
そうやって好意を貰ってはあげ、あげては貰いを繰り返しているうちに、ささやかだった好意は、ちょっとずつ成長していくわけですねえ。感無量。
このようにしてひとは「相思相愛」ってほどじゃなくても、「相思相好」くらいの関係までなら、ささやかな「見返りを求めぬ好意」によって獲得できてしまうんでした。めでたしめでたし。


というところで話を終わらせることができたらなあ……でもこれじゃ納得してくれないひとがきっと多いだろうなあ。大体それは「実践的好かれ研究であっても、実践的愛され研究じゃねえ」というツッコミが、自分で自分に入ったもの。
単なる好意を恋愛感情にまで持って行かなきゃ「愛」の話とは言いにくいですよねえ。ふむ。

うーん、だけどそんなのを考えるのって面倒。だってそんなの、十人十色だもの、各自がめいめい考えてやっていくしかない事柄なんじゃないのとか思ってしまうもの。
大体そんなものを理解してさっと指南できる恋愛の大家だったら、今の私はこんなじゃねえつーの。その方法をさっさと駆使して、さっさとモテますよ。雰囲気クラッシャー卒業ですよ。結婚相談所に登録とか言い出しませんよ。まあいいや。


自分の状況を変えるためにも、ここを考えた方がいいんでしょうね、たぶん。
幸いなことに私は、友人の数は少ないですが、面白い人材に恵まれております。
その中には「異常にモテてモテて仕方のない人間」がいたりするので、あのへんの人間たちのことを考えると、何かが掴めるかもしれません。むう。
あとは、私には昔、「男だと思いこまれていたチャットルームで、いい男として妙にモテた」経験がありますからねえ……あの頃の経験を思い出してみるか。


というところでまたしても次回。だって長文なんだもん。これ以上いっぺんに書くのだるいっす。そしてろくな結論が出ないまま話を引っ張り続けてごめんなさい。だけどほら、今の私無職だから、時間がいっぱいあるんだ、えへ。*1

*1:じゃあ就職活動しろよというツッコミが予想されますが、実は職は決まりそうなのです。ただ、時間は空いてしまっているという状態なのです