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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

蛇の誘惑

知らなければよかった、と思える事柄が、この世の中にはあるものです。
知ってしまったばかりに、その後の人生が変わってしまうような致命的な知識。
知らなかった頃には戻れない。
どれほど切望しようとも、戻れないのです。


以前、ある雑誌で、元ソープ嬢の、このような台詞を目にしました。
「お客様が入ってきて、お風呂にお湯をためるとき、私は最初、そこでお客様がどんなひとか判断するんです。
お湯の加減を見ながら、『この温度でどうですか?』と尋ねて、『ちょうどいいです』とか『大丈夫です』と答えるお客様は受け身なんです。自分がなにかするよりされるほうを好む方。
『少し熱いね』とか『もうちょっとぬるく』とか、そんな風に注文をつけてくるお客様は積極的。何かされるより、自分で何かするのを好む方なんです」


ほほう。
どのようなジャンルであっても、プロの方の発言というのは、実に含蓄に富んでいるものですな。私はこの台詞には大いに感銘を受け、知っていても仕方ないこの豆知識を、しっかりと記憶に刻みつけてしまいました。
もちろんそのときは、この知識が自分の人生に関わってくることなどないのだと、確信していました。


私は甘かった。
ハチミツをたっぷりかけたチョコレートケーキにあんこをトッピングしたように甘かった。


美容室に行きます。
「シャンプーとカットでお願いします。あ、トリートメントもつけてください」
などと受付で言います。
カットをお願いすると自動的にシャンプーも込みになっている店が多いですが、そうではない店でも、私は必ずシャンプーをプラスしてしまいます。
すっきりするし、他人に丁寧にシャンプーをされるのって、なかなか気持ちが良い体験なので。
なによりも、整髪料を完全に落としきった状態で髪を切って欲しいですからね。


「シャンプー入りまーす」
ざああああっ。
美容師さんがシャワーを頭にかけます。
「お湯の温度はよろしいですかー」
「ちょうどいいです」
いつものようにそう答える私。


その瞬間、脳裏をよぎる、元ソープ嬢の一言。
「ももももも、もしかして私、受け身な人間?」


落ち着け、落ち着くんだ。
ものはシャンプーだぞ? 他人に頭を洗って貰うこの局面、受け身になるのは当たり前じゃないか。
それに実際、このシャワーの温度、実は私の好みからするとちょっとぬるいけど、だからっていちいち調節してもらうの、面倒だろ?
この温度でも構わないんだから、今の答えでオッケーなんだよ!


わしゃわしゃわしゃわしゃ。
「お痒いところはございませんかー」
「大丈夫です」
そしてまたしても、元ソープ嬢の一言は、鋭く私の肺腑をえぐります。


私ほんとは今、右耳のちょっと上あたりが痒かった。
なのにそのことを言わなかった。黙っちゃった。我慢しちゃった。
「ややややややっぱり、私は受け身なんだ。するよりもされるほう好きだと思われちゃう!」(誰に?)


落ち着け。落ち着くんだ私。
こんなとき「右耳のちょっと上あたりが痒いです」と言っても、なかなか他人には上手くその場所を察することができないんだと、私は経験から学んだんだろう?
「そこじゃなくて、もうちょっと左、あ、逆です。私から見て左だから、そちらから見て右? あ、それで上というか……北?」
みたいな不毛な会話を繰り返した結果、多少の痒みは我慢するという結論に達したんじゃないか。
だからいいんだよ、これで。これはいわば、知恵ある決断なんだ。無理してどこが痒いか、言わなくていんだ。我慢できるモノは我慢するんだ。


何度も何度も自分にそうやって言い聞かせるんですが、それでも毎回美容室でシャンプーして貰うたびに、私は元ソープ嬢の言葉を思い出さずにいられません。


そもそも私は、自分がこのようなシャンプー局面で積極的な人間である必要はないよなあと思っているのです。
それに、自分がソープに行くようなことがあったとしたら(ないだろうけど)、そのとき積極的でありたいなあ、と思っているわけでもない。
ですから、別に慌てたり動揺したりする必要は全くない。


にも関わらず。
やはり私は、シャンプーの度に美容室でなんとなく動揺するんです。途方に暮れるんです。
そしてそのたびに、元ソープ嬢の一言を記憶に刻みつけてしまった自分を呪うことになるのです。
あんな豆知識、知らなければよかった。
そうすれば私は、いつも無邪気な気持ちで正々堂々と、胸を張ってシャンプーしてもらうことができた。


なのに。なのに私は。
知ってしまった。知ってしまったのです。知らなければよかったことを知ってしまった。
もう、知らない頃には戻れません。
楽園で、善悪を知る木の実を口にしてしまったイブも、私と同じような後悔を抱いたことでしょう。


とすると、私に出来ることはたったひとつです。
自分の記憶を消すことは出来ない。だったらいっそ、周りの人間も巻き込んでやれ。
イブがアダムを陥れたように、私もこの動揺を周りの人間を分け合うんだーっ!


というわけで、今日、私はこういう日記を書いたわけです。


さあ、この日記を読んだ皆さんも、これからは美容室に行ってシャンプーしてもらうたびに、無駄にドキドキしようじゃありませんか。