七日目 本断食五日目

いよいよ本断食も、今日と明日で終わりでございます。
ここしばらく、目覚めと同時におのれの空腹に気付くというのがパターンとなっていたのですが、今朝はめずらしく、空腹を自覚しないで起きることができました。
「やっと断食が辛くない段階が来たか……」
事前に仕入れた情報では、断食が一番辛くてお腹が空くのは最初の一、二日の話で、それ以降は辛くなくなるとのことだったのに、私の身体はいつまでも空腹を忘れず、自分でもちょっと驚いていたのです。
胃腸工場の工員たちも、やっと大型休暇に出かけたんだな……馬鹿なやつら。もっと早く出かけていれば、いっぱい休んで、いっぱい遊べたのに、もう残り二日しかないぜ？
などと思いながら、朝食代わりに水を一杯。
「うわあっ、なんだこれ」
どうやら工員たちはバカンスに行ったわけではなかったようです。コップ一杯の水が刺激となったのか、改めて抗議行動を始めました。要するに、すごくお腹が空いたわけです。
「おおおおおおおおお」
私は思わずお腹のあたりを抱えてうずくまりました。強烈すぎる空腹感で、ひとが立っていられなくなるものだなんて、初めて知りました。

静座の時間。
今日も参加者は二人だけ。もう一人の女性と会話します。彼女は既に回復食に突入しているのです。
「あの、私、まだお腹空くんですが」
「ええっ、何日目？」
「五日目です」
「それでまだ空くんだ……健康なんですね」
え、この空腹は健康の証なの？　そう言われればそんな気もするけど……うーん。

静座の時間を終え、自室に戻って読書。新津きよみの『見つめないで』を読みます。（今まで作家の方には全員先生をつけたりしていたのですが、だんだんややこしくなってきたので、以降敬称を略します）
読み始めてからしばらくして、私は自分のもう一つの変化を自覚しました。
集中力が持続しないのです。

これは、実際にはしばらく前から気付いていたことではありました。
本が山ほどあって、いくらでも読める夢のような状況なのに、イマイチ読書がはかどらないのです。仕方がないので、あまり時間をかけなくてもさっと読める軽い本ばかり読んでいました。
「普段はもっと早く読めるし、中断せずに進めるのにおかしいなあ」
その疑問は今朝、静座の時間に交わした会話がきっかけとなって、解けました。
「私はお腹はあまり空かなくなったけど、頭がぼーっとして、物がうまく考えられなくなったよ」
と相手の女性が言ったのです。
私自身は自分の思考力の衰えをそれほど感じてはいませんでしたが、読書に集中できないというのはやはり、衰弱のひとつのかたちなのでしょう。
気付かないうちに、私の身体と心は、確実に変化しているのです。

部屋に掃除機をかけ終わった午前十一時過ぎ、私は散歩にでかけることにしました。
外出の許可をとり、院長先生に「先に下ったらあかんよ」という注意をうけて出発。
療養所のすぐそばのお寺に。
このお寺はかなり大きくて、立派なお寺で、境内の案内図を見ても、あきれるほど広く、あちこちに見たい場所があります。
せっかく奈良まできたのに、こういう観光ぽいところ、全然行ってなかったもんな、嬉しい。
ゆっくりゆっくり歩きながら、周囲を見て回ります。
石段を少しずつ登り、あちこちで手を合わせます。財布を持たずに療養所を出てきたために、お賽銭を入れたり、お線香やロウソクを買うことができないのが、少し残念です。
というか、率直に言うと、お線香も焚かず、賽銭も入れずにただ手だけ合わせている自分は、近くの線香売り場のひとからどう見られて居るんだろうと思うと、なんか落ち着かなくて！
そういう売り場のひとの目が届かないような、目立たない場所のお地蔵様とか、そんな場所でばかり手を合わせていましたよ私は！　小心者です。

石段の傾斜がゆるいせいか、今日の散歩は身体がとても楽です。一昨日の疲れが嘘のよう。
といっても、油断して少しペースをあげると、すぐに息が切れますので、ゆっくり歩くしかないのですが。
そんな私を、お参りに来たご老人たちが抜いていきます。彼らの足取りは、私のそれと比べると、驚くほど軽快です。
私はそのとき、一つの真理を得ました。
「ちゃんと食事している人間は強いよやっぱ」
食事をしないと、力が出ないように出来ているんだ、身体は。

そろそろ折り返して帰らなきゃ、と思ったとき、雨が降ってきました。
雨に濡れないよう駆けて帰ったりしたら、いくら下りの道でもぱったりいきそうな気がするので、しばらくベンチに腰を下ろして雨宿り。
降り続ける雨を眺めているうちに、前の彼氏と交わした会話が、ふと脳裏に甦りました。
「あのとき二人で、雨を見ながら、同じ言葉を偶然口にしたんだ……それがおかしくて嬉しくて、少し笑って」
とちょっぴりセンチメンタル気分になりかけたのですが、次の瞬間、
「でもそんなことより、あのとき居たラーメン屋の醤油とんこつが美味しかったよなあ」
と思考が自然に転換したことに、自分でもかなり驚きました。「そんなことより」て。
「茶色のスープの上に浮いた油。チャーシューの白い脂の層。麺はかすかに黄色いちぢれ麺で、刻みネギがのっていて、シナチクは柔らかく、煮卵をトッピングしていっそう美味しく頂いたものだったよ」
「ラーメンて美味しいよねマジで。絶対ココ出たらラーメン食べなきゃいかんなあ」
「何味かな、醤油？　塩？　みそ？　とんこつ？」
「とんこつで決まりでしょう。できれば醤油とんこつ」
「ここは贅沢に、醤油とんこつチャーシューメンに、煮卵トッピングでどうでしょう！」
「残念ながらチャーシューメンはなしだ。なぜならリバウンドが怖いからだ」
「くうっ、無念。しかし煮卵は諦めませんよ！」
などと頭の中で一人ラーメン会議が賑やかに行われました。
飢えている人間て、ほんと食べ物以外に関心が薄くなるんですね。自分がちょっと怖くなったよ。

一人ラーメン会議にも飽きた私は、いつまで経っても止まない雨にしびれを切らして、歩いて帰りました。ゆっくりゆっくり、濡れながら。

戻ってからは、再び読書。遠藤周作の『愛情セミナー』を読みました。
やがてシャワーの時間が来たのですが、今日も私は禁断の洗髪を行いました。
だって、今まで洗髪しても何も起こらなかったんだし、もうすぐ断食終わりだし、いいかな、と思って。今回はうっかりではなく、わざと洗ってやりました。私もワルになったもんです。

『愛情セミナー』読了後は、『FBI心理分析官』に移りました。本当はこの本、私は高校時代に買ったし、いまだに実家にあるんですけど、娯楽室でみつけたときに、いい気分転換かな、と思ったのです。もうずっと読んでいなかったし。

『FBI心理分析官』を読み始めて、しばらく経ったときのことです。
腹の底から、つきあげるような空腹感が襲ってきました。
私は今までの経験から、空腹というのが不快な感覚に分類されることに、気付いてはいました。空腹になると苛々するひとは珍しくないし（恥ずかしながら私もそうです）、おなかが減りすぎると気持ちが悪くなることもありますから。
しかし。
空腹感がこれほどまでに強烈で、すさまじい苦しみになることもあるのだとは。
「うううううううう……」
私は低く唸り声をあげながら、本を脇に放り出しました。こんな経験、今までしたことなかった。断食を始めてから空腹にはずいぶん慣れたつもりだったけど、これは未経験だ。
腹の真ん中にはっきりと空間があるのを感じます。まるで小さなブラックホールが身体の中に出現したみたい。
「くるしい、よお……」
どうしていいかわからず、私はとりあえず、自分の手でお腹をきつくおさえつけました。
「すこしだけ、ラクになったかも……」
以前、騎手を目指していた友人が、減量が辛くて枕を腹にあてた話をしてくれたことがありましたし、確か『はじめの一歩』でもそんなシーンがあったと思うのですが、なぜ彼らがそんなことをしたのか、私はその瞬間、頭ではなく、心で理解できました。

18時。静座の時間です。今回の参加者は三人です。
他の参加者の方と話をすると、
「私は三週間の予定で来ました」
「私は28日間。四週間です」
とさらっと答えてくださいました。
ええーっ、長い！　私は自分の二週間すら、けっこう長いと思っていたのに。世の中、上には上がいるものです。
「そ、そんなに長いと、途中で嫌になりませんか？」
「うん、なります。もっと短くてよかったなと思いました」
と二人とも声を合わせて答えてくれたのがよかったです。やっぱりそうかー。

静座を終えてしばらくすると、無性に眠くなってきました。時計を見ると、まだ19時半です。
「八時前に眠くなるって、どんなお子ちゃまだよ」
とも思ったのですが、起きているときにまたあの強烈な空腹感が襲ってくるのも怖いので、私は結局そのまま床につきました。
がんばれ自分、明日一日を乗り越えれば、いよいよ回復食なんだからな！
（八日目へ）