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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第14話~ピンク髪ツインテメイドに変換の刑

 本日7月28日に『むしろウツなので結婚かと』の第14話が無料公開されました。
comic-days.com

 正直に言ってしまいますと、あの頃の私はセキゼキさんに対して始終腹を立てていました。
 セキゼキさんが徹夜して体調を崩す都度、腹を立てました。
 会社のみんなが怒っている俺なんかもうだめだ終わりにしたいどうせシロイにも迷惑をかけているとか、そういう後ろ向きなことを延々というのを聞いてはむかむかしていました。
 全部病気のせいなのだということは、わかっていました。眠れないのもそうだしやたらと後ろ向きなのもそうだし、だからセキゼキさんにはどうしようもないんだってことは、理解しているつもりだったのです。
 社会の接点がたったひとつ私だけになってしまったセキゼキさんは、私の気分の変化や好不調に恐ろしく敏感で、影響を受けやすくなっていました。
 ですから、私が怒ると事態はいつも悪化しました。ただでさえ調子の良くないセキゼキさんがさらに絶望するようなことになるからです。
 だから私はしょっちゅう腹を立てては、それをぐっと押し殺していました。
 怒りをセキゼキさんに向けてはいけないということが、よくわかっていたからです。
 だけど同時に、こんなひたすらな我慢が長持ちしないだろうということも、なんとなくわかっていました。
 押さえつけた怒りや苛立ちが、そのまま消えることはまずないからです。
 知人で以前、普段はとても穏やかなのに、何かの拍子に激烈な怒りを示す人がいました。
 滅多に怒ることがない人なのに時々、おそろしく些細でどうしようもないことで長時間、いくらでも怒り続けるのです。
 この話を聞いてある人が言いました。
「それは怒りのジャックポットだ。その人は日頃のストレスを抑圧して全部一つのポットに溜めていくんだろう。そして、たまたまそれが溢れるタイミングで怒らせてしまった人が、全部の怒りをかぶることになるんだよ」
 怒りのジャックポット
 この表現は、あまりにもしっくりきます。実際そういうことってあるな、という気がします。
 抑圧された負の感情は消えずにくすぶり続け、思わぬところで溢れ出すものなのです。 そう考えていくと、セキゼキさんに対してしょっちゅう腹を立てつつ、それを我慢するという流れが非常に良くないものであることは明らかでした。
 セキゼキさん以外の人に八つ当たりするようなことになったら、理不尽で最悪ですし。
 かといってセキゼキさん本人に怒りをぶつければ、地獄の釜の蓋が開くのです。
 怒りのコントロールが必要でした。

 私が立てた対策は二つでした。
 まず、発生した怒りをアウトプットしてしまう。
 人に話すのでもいいし、紙に書き出すのでもいい。
 胸の中に溜め込んでいるもやもやを、一度言語化するだけでも、だいぶスッキリします。
 言語化するために起きた出来事を整理していくと、自分の勘違いや思い込みに気づいて、それだけで怒りが沈静化することもありますし。
 ただ、アウトプットってそれなりに面倒なんですよね。
 他人に愚痴をこぼすというのも、相手の負担を考えればそれほどしょっちゅうやらないほうがいいわけで。適度な愚痴の量とタイミングを考えなきゃいけない。
 紙に書き出すのだってそれなりに時間と手間を要します。
 それにまあ、私のアウトプットをもしもセキゼキさんが目にするようなことがあったら、怒りを直接ぶつけるのと同じくらい、あるいはそれ以上のダメージになっちゃいますし。

 というわけでこの頃私が取り組んでいた方法がもう一つ、そもそもあまりむかつきを感じないようにしようということでした。
「この現実をゲームとして考えよう。セキゼキさんはゲームのキャラだと思うことにしよう」
 というのも、そのための試みの一つだったのです。
 現実ではなくゲームの中の出来事、キャラクターだと思うことで心理的な距離をとることができれば、怒ることも減るだろうって考えですね。
 まあ実際には当時はそこまで整理して考えていたわけではないですが。

 昔住んでいたアパートで、隣の部屋にすごく怒りっぽくてしょっちゅう怒鳴り声をあげるひとが住んでいたことがありました。
 とにかくいろんなことに怒って部屋の中で足を踏み鳴らしたり壁を叩いたり叫びだしたり厄介な人で、この人について詳しく書くとそれだけでショートホラーみたいになるんですが、今回は割愛します。
 この隣人に一度、私はものすごく意表をつかれたことがあります。
 台風の日の夜のことでした。
 風が吹き雨が降り窓枠はがたがたと揺れて自然現象だけでもたいへんうるさかったのですが、それにプラスして隣人の激怒する声が聞こえてきます。
「あああああ、うっるせえんだよ!」
 などと叫んでいるのが聞き取れてしまう。また音がよく抜けるアパートだったんですよね。隣人のWindowsの起動音が聞こえてしまうくらいでしたから。
 どかどかっと床を踏みつけたかと思うと隣人が、ガラガラと窓を開け、ベランダに出たのがわかりました。
 こんな台風の日にびしょ濡れになるだろうにどうして、と思ったのですがその疑問はすぐに氷解しました。
「うるせえんだよやめろよさっきからガタガタガタガタいい加減にしろよ!」
 と彼が虚空に向かって怒鳴り始めたからです。
 この隣人はとにかく物音というのに敏感で、アパートの廊下の足音やドアを開け閉めする音(どちらも音量は普通程度)が聞こえただけでもドア越しに怒鳴ったりする人でした。
 その、すべての物音に対してダメ絶対許さないという精神を持った彼にとって、台風の音は耐え難いうるささだったのです。
 もちろん私は驚きました。
 台風に対して腹を立てたことは、私にはありませんでした
 大雪や強風長雨、そういった自然現象に対して怒ったこともありません。

 さて私は、セキゼキさんに対してしょっちゅう腹を立てるようになった時、このかつての隣人と、彼が台風に向けた激烈な怒りのことを思い出しました。
 思えばなぜ、私は台風に対して腹を立てなかったのだろうと、考えたのです。
 まず第一に、そんなことをしても意味がないというのはあります。
 ですがそれを言えば、セキゼキさんも同じことです。
 怒っても意味がない。
 それが分かっているのになぜ、セキゼキさんが相手だと腹が立ってしまうのだろう?
 そうやって考えていくとそもそも台風には言葉が通じないしな、とか思い始めます。
 言葉が通じない相手に、何かを言うのが無駄だよな、と。
 つまり私は、台風に対して何も期待していないのです。台風が自分の為を思ってくれるわけ無いと、最初から思っている。
 そんなふうに期待がゼロであるならば、腹というのは立たないものなのだろうと、私は考えました。
 例えば壁に話しかける人間は、壁が相槌を打たなくても怒らないでしょう。
 穴を掘って愚痴をこぼす人間も、穴が慰めてくれないからって悲しんだりしない。
 相手が人間だから、人間である以上言葉が通じてこちらの意を汲んでくれたり、相槌を打ったり慰めてくれたり願いを聞いてくれるかもしれないと思うから。
 それなのにそうしてくれないから、腹が立ってしまう。
 そういうことなんだろうな、と私は結論づけました。
 怒っても仕方がない、ぜんぶ病気のせいだと頭ではわかっているようであっても、
局私はセキゼキさんは人間だと思ってしまいますし、人間が相手である以上、期待をゼロにすることもなかなかできない。
 では、セキゼキさんをゲームのキャラだと思ってみたらよいのでは? というのが私が頭の中でやっていたことです。
 これはそれなりに効果がありました。怒りはある程度抑えることができたのです。
 完全に、ではありません。
 ゲームキャラに対してだって私は腹を立てることがありますから、
 ゲームキャラというのは現実の人間ではないけれど、かなりそれに近い存在ではありますからね。
 けれど現実の人間に対する怒りで体調を崩したりすることはあっても、私自身はゲームキャラに対する怒りでそこまで酷い思いをすることはまずありません。
 セキゼキさんに対する怒りは、明らかに以前よりも目減りしました。
 それでもやはり、時々現実が目をそらすなとばかりにこちらに迫ってきます。
 目の前にいるコイツはキャラじゃなくて人間なんだよ、と。
 そんな時私は、頭の中でセキゼキさんを更に別のキャラクターに置き換えたりしていました。
 漫画の中ではアニメ調のイケメンにしたりしていますが、私の怒りが高まっている時の脳内セキゼキさんはしょっちゅう、
(ああもう貴様なんざこうしてやる!)
 という掛け声と共にピンク髪ツインテールでゴシック風メイド服を着用したロリ顔の巨乳美少女に変換されていました。
 さらに怒りが増すと猫耳としっぽがそこにプラスされ、「にゃん♪」とか「なりぃ♪」とかそういう語尾で喋るようになり、やたらくねくねあざといポーズで上目遣いをして動き回ることにされていました。
 私は一体何をやっているんだろうと、自分に呆れることもありましたが、今ならなぜ自分があんなことをしていたのか、わかります。
 私はより強烈に、セキゼキさんを非人間化したかったのです。
 現実の彼自身から遠ざけて、虚構の中にしか存在しないようなキャラクターに仕立て上げてしまいたかったのだと思います。

『むしろウツなので結婚かと』第13話~豊かであるほど良いわけでもない

 本日7月7日に『むしろウツなので結婚かと』の第13話が無料公開されました。
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 セキゼキさん(仮名)と「一年」という期限を取り決めたことは、私にとってはずいぶん役に立ちました。
 一年という区切りで、私は自分から「選択肢を奪った」のです。
 そのことを私が自覚できるようになったのは、ずいぶん経ってからのことでした。

 ここで、これまでのこととまるで無関係に見える話をします。
 ゲームの話です。
 ゲームとは人生の模倣であり、現実よりも単純化されていることがほとんどです。
 具体的には、ゲームの中でプレイヤーに与えられる選択肢は現実よりもずっと少ないのです。
 もちろん最近では、いわゆる「自由度が高い」と言われるゲームもたくさんあります。
 何処に行って何をして誰に会うのか、従来のゲームよりもずっと豊富に提供された選択肢で楽しめるゲーム。まるでもう一つの世界に住んでいるかのような気分にさせられるゲームです。
 けれどそういったゲームですら、現実の世界に比べるとまだまだ選択肢の少ない、単純なものなのです。少なくとも、現代のテクノロジーではまだそうなのです。
 現実の私たちは明日書店に行って、そこに並ぶ膨大な本のうち、どれを選んでもいいのです。マンガでも小説でも雑誌でも実用書でも図鑑でも旅行ガイドでもいい。
 一軒の書店の中だけでもそれほど膨大な選択肢があって、しかもそういった店が一つの街の中に複数軒あったりするのです。
 ゲームの世界では、そうはいきません。
 にも関わらず、ゲームの世界はプレイヤーにそういった貧しさを感じさせないことがほとんどです。
 それはなぜか?
 私はそれは、人は無数の選択肢の大半を切り捨てて暮らしているからだと思います。
 先ほどの書店の話に戻りましょう。
 書店の中には数千冊、数万冊の本が並んでいるにも関わらず、その中で実際に購入するのは一度に数冊程度におさまることがほとんどです。。
 数十冊になることすらまずありません。
 料理が嫌いな人はレシピ本のコーナーを素通りし、旅行に行く予定もないのにガイドブックを買う人は滅多にいません。資格試験のマニュアルを手にとるのは、実際にその試験を受けるつもりの人に限られるでしょう。
 興味や関心がない、自分の生活には関係ない、好みじゃない。
 そういった本を私たちは、視界に入れることすらしません。
 だからこそゲームの世界の極めて限定的な選択肢しかない状態も、貧しいようには見えないのでしょう。

 そもそも選択肢というのは多ければ多いほど良いわけでもないのです。
 だってその状態は、雑音が多いとも言えるんですから。
 無数の音が響き渡る中で、必要な音だけを聞き取るのは難しいことです。
 単純化されたゲームの世界は、ストレスの少ない場所でもあります。

 一年という期限を区切り、別れという選択肢を捨てた時、私は一瞬「世界の表面が剥ぎ取られた」ような感覚を味わいました。
 巨大な手を持った誰かが、くるくると絨毯を剥がしていくようなイメージ。
 その直後に世界は、再びそっくりな絨毯に覆われました。一見同じに見えるけれど、確実に違うなにかに。
 現実の世界に比べるとつるりとして、陰影が少なくて、シンプルなテクスチャのなにか。
 私の世界はそのとき、現実の豊かな複雑さを捨てて単純化されたのです。
 その結果、自分自身のそれまでの悩みの多くを、私は雑音として切り捨てられるようになりました。
 たぶんそれは、正しいことではなかったんですけど。

 だって私が切り捨てた「雑音」とやらの中には「自分の結婚」、「自分の将来」について思い悩むことも含まれていたからです。
 私もうアラサーなのに、このままじゃ一生結婚できなくなるんじゃないのかな?
 仮にセキゼキさんと結婚するようなことがあったとしても、無職で病気のセキゼキさんを抱えてずっと生きていくのはたいへんじゃない?
 子供はまず持てないだろうなあ。男の子でも女の子でもいいから、欲しかった……
 結婚とか子供とかそういうのぜんぶ諦めてそのままおばあちゃんになったら、そのときむちゃむちゃ後悔したりするんじゃないかね?

 すべて、ものすごく当たり前の悩みです。この先数十年続くであろう人生のために、きっちり考えておくべきことです。一時の感情に流されて無視するのはよくないことです。
 けれどその必要な悩みを切り捨てたことで、私の気持ちははっきりと楽になりました。
 そもそもこの先の人生のことを考えて、「安定した生活」とか「幸せな日々」とか「可愛らしい子供」とかが欲しいんだったら、もうとっくに答えは出てますからね。「別れる」が正解ですよ。さすがにそのくらいのことは、私にもわかっているんですよかなり早い段階で。
 だけどわかっていてもできないから、悩んでしまうわけです。
 一年という期間限定で、私はその「正解」を選ばなくても良いことになりました。
 私が考えなければならないのは、この一年をどう乗り切ればいいのか、それだけです。シンプルで極めてわかりやすい。

 そもそも「別れる」ことにしたって、単純ではないんです。
 さようならした翌日に冷たくなったセキゼキさんが発見されるとか、そういう末路は望んでいないわけですよこっちは。
 別れってどう切り出せばいいの? 穏やかな話し合いのスタートが切れるかんじが全然しないのは気のせい?
 仮に別れの同意をとりつけたとしても、その先は?
 この先もセキゼキさんには治療を続けてほしい。セキゼキさんの実家の近くに通いやすいクリニックを探したほうがいいのか?
 今のクリニックでうまく治療が進んでいるなら、多少遠くてもそのままのほうがいい気もするし……
 けど遠くなったら通うのやめたりしない?
 傷のない別れなんてあるわけないし、とかいう歌があったし確かにそうかなとは思うけど、致命傷だけは避けたいと思っちゃうのはわがままですか?

 そういうことを考えていると、それだけでへとへとになっちゃうんですよね。
 けどその煩雑さに疲れたからって「別れない」でいると、また心の中で
「将来はどうするのー?」
「結婚とかしたくないのー?」
「老後の生活、考えてるー?」
 ってそういう声が絶妙のハーモニーを響かせてきて、私はまた新たなひとり検討会を始めることになってしまう。

 一年という区切りによって、この終わらない検討会の開催はしばらく延期されることになりました。
 別れ方についても考える必要はありません。既にセキゼキさんと同意がとれているわけですし。
 とりあえず大事なことを棚上げして先に延ばしただけとも言えますが。
 それでもよかった、とても助かった、と今は思っています。

『むしろウツなので結婚かと』第12話~ぶっ殺すと言っても殺していない凡人たち

 6月9日に『むしろウツなので結婚かと』第12話が無料公開されました。
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 正直な話、当時別れることは何回か考えましたよねそりゃあ。
 ただ、考えたから何だって話ではあるんですよ。
 まあーたとえばですけど。
 上司にムカついちゃって
「こいつ死なねーかな」
 と心の中で一瞬でも毒づいたことのある人は、挙手なさいって話でして。

 別に上司じゃなくてもいいですけど、クラスメートでも親戚でも知人でも同僚でも教師でも見知らぬ他人でも。
 とにかく
「こいつ死なねーかな」
 は思っちゃう時があったっていいじゃないか、にんげんだもの
 とりあえず
「死なねーかな」
 と何度上司に対して思っても、実際に実行に移す人は稀ですよね。いたらニュースになりますし。

 この手の空想ってのは、けっこうやってる人多いんじゃないかと思いますね。
 こんな学校やめてやる。
 明日退職願を叩きつけてやるんだ。
 こんな家もう出てく。
 こいつとはもう二度と会わねえ。
 離婚だ離婚、三行半だ!。
 きっぱりすっぱり絶縁したるぜ。
 みたいにね。

 昔、友人と話していたときに彼女が
「最近、上司の殺害計画を立てていてさ」
 と話し始めたことがありまして。
 叱責されることが重なって、心中密かに
「こいつ死なねーかな」
 を繰り返すうちに、
「どうせなら本当に殺すにはどうしたらいいかを考えてやる」
 と思うようになったのだとか、物騒なことを淡々と語る彼女。
 空想ですからね、理想は高く。完全犯罪を目指したそうなんです。
「いやーそしたらまあ、大変だよね完全犯罪! 職場近辺で死んだら、私が疑われそうじゃん! だから仕事とは無関係な印象をつけるためにも、上司の自宅周辺とかで殺すのがいいかなって思ったわけ。でもすげー遠いのよその家! 会社帰りにあとつけて殺して帰ると、私が終電に間に合わないくらい。そんで、殺人があった日にいつもと違う行動してるやつは怪しいでしょ。定時に帰宅したはずの私が、終電ぎりぎりとか始発で帰宅したらもうおかしいじゃん。そこから詰まっちゃって」
 そうやってああでもないこうでもないと、散々空想を弄んだ彼女は
「完全犯罪はたぶん無理。他の手段もいろいろ考えたけど、かなり無理がある」
 という結論に至ったわけです。
「てことは実際には、『もう我が身がどうなってもいいからこいつだけは殺す』という覚悟を持たないと犯行には踏み切れないんだなあって。そしたらそれはやっぱり嫌なんだよね」
 上司の命と引き換えに自分の人生のこれからをふいにはできないという、当たり前の気づき。
 そこまで上司の存在価値を高める必要はないな、という悟り。
 それからその友人は上司にむかついたときは
「この人がこれ以上私をむかつかせて、死なばもろともというくらい追い詰めてきたら、一か八かで以前の計画を実行してやろう。あの計画はいざというときの備えにしよう」
 と思うようになったそうです。
 そう思い始めた途端、怒り狂った上司を前にしても
「今はまだ我慢できるし、いよいよ我慢できなくなったら、私には例の計画があるから」
 と考えるようになって、なんだかとても穏やかに叱責を受けることができるようになったとか。そういうものなんでしょうか。
 そうこうするうちにうちに気がついたら上司が
「最近すごく素直になったなお前」
 と言い出し、前よりも優しく穏やかになってきたので、いつの間にか殺意自体が消えてしまったそうです。

 まあ、この友人の話はちょっと珍しい例ではあるんですけど、この手の関係性をリセットするような空想って、それ自体が関係継続に役立っていたりもするんじゃないかと、私は思っています。
 心の中で好き勝手にしてると、それだけでちょっと落ち着いてきたりするので。
 そうやって荒れ狂う感情がおさまってしまえば
「とはいえ実際に殺すわけにはいかないしな……」
 というごくまっとうな気付きが、やってきたりする。
 だから、どれほど物騒で残酷でくだらなくて一方的でどうしようもない空想に思えても、むげに否定するもんじゃないよなと思ったりするのです。
 泥の中から蓮が咲くように。
 なんて言い方をすると大仰なんですが、そういうドロドロした空想が心の健康を保って、綺麗な上澄みを生み出してくれたりするんじゃないかと。

 というわけでこの頃の私が
「セキゼキさんと別れてやる!」
 という空想を弄んだことは、一度や二度ではないわけです。
 でもそれが本当に本物の「別れる」という決意につながったことは少なかった。
 怒りと悲しみがぐちゃぐちゃした中でああでもないこうでもないと考えること自体が、関係を続けるための選択なんですよね。

 私がセキゼキさんと本気で「別れよう」と思ったのは、一度だけです。
 そういうときは心が意外と静かなもんなんだって、知りましたよね。
 決意がすーっとおりてくる。
 もうそれしかないと思うし、そのために必要な手順が自然と思い浮かぶ。
 計画は迷いなくすらすらと立てられます。
 夢想ではなく空想ではなく、ただこの先を予想して。
 リセットを夢見ることで継続しようとする逆説の空想の中では私は、嘆き悲しむセキゼキさんの姿を思い描いて溜飲を下げたりするのに。
 そんなものは思い描かず、この先のことはもう知らないと思うだけ。

 いつもなら怖気づいてしまうあたりを通り越しても、頭はなおも働き続けます。
 崖下に落ちないよう必死に伸ばしている人の手を離すことができるだろうかという、いつもの問いが自分に投げかけられた時、私はいつもと違う答えを返しました。
「だって離さないと二人共落ちるし。二人共落ちるなら一人だけでも残ったほうがマシだっていう、ただの算数の問題だよねこれは」
 そんな風に、決意を固めた静けさの中では、全てが別の見え方をします。もっと明確で、冷静に考えられるのです。

 その後結果として私は、このときは「別れる」ことを選ばなかったのですが。
 あの奇妙に静かで平穏な「算数の問題」だという意識は残り続けました。
 どんなことからも、得られる学びはあるものですね。
 友人が上司の殺害計画から、そこまで上司の存在価値を自分の中で高めなくていいという気付きに至って、ぐっと楽になれたように。
 このとき「算数の問題だ」と思えたことは、のちのちまで私の助けになりました。
 人としてどうなんだとか、倫理的に振る舞いたいとか、常識的な人間だと思われたいし自分でも思いたいといった、普段は捨て去ることのできないごちゃごちゃした意識を全て捨て去り、ただの「算数の問題」として目前の状況をシンプルにとらえること。
 この考え方は関係の解消ではなく、継続のためにも役立つものだったからです。


ブルートパーズとシルバーのピアス
『むしろウツなので結婚かと』第一巻、お買い上げくださった方ありがとうございます。妹にお祝いのピアスもらいました。

愚者の決断、愚者の前進

 夫のセキゼキさん(仮名)に以前、こんなことを言われました。
「シロイって決断力があるのに判断力がない、珍しいタイプだよな。フツー判断力がない人間は失敗を繰り返すとどんどん自信を失って、決断自体できなくなっていくもんなんだぜ。それだけ判断ミス繰り返してるのに『えいやっ』と思い切って決断できちゃうの?」
 とっさに反論しようとして私が思いとどまったのには、理由があります。

 私が以前務めていた職場では「シロイさんの傘占い」というイベントがありました。
 降水確率が30~50%くらいの朝に出勤しますと、皆が殺到して
「シロイさん、傘持ってきました?」
 と、私の傘の有無を確認するのです。
「はい、天気予報で降るかもという話だったので」
 あるいは
「いえ、今日は大丈夫そうかなと思って」
 などと答える私。
 するとみんながその答えを聞いてなぜか一喜一憂します。
「よかったー、シロイさんが傘持ってきたってことはやっぱり今日降らないよ」
 とか
「どうしようシロイさんが手ぶらだ。今日降るってことじゃんこれえ」
 とかね。
 そうなのです、あの職場では皆、雨が降るか降らないか判断に迷う日は、私の傘の有無で天気を占っていたのです。
 シロイが傘を持ってくれば降らなくて、傘を持ってこない日は降ってしまう。
 そう考えられていました。
 そして悔しいことにこの傘占いは、実によく当たるのでした。
「シロイさんすごいね、やっぱり降ってきたよ。今朝、手ぶらのシロイさん見た時、傘持ってきて正解だったなと思ったんだよー。さすが当たるわ」
 とか言われたときの複雑な気持ち、皆さんおわかりいただけますか?
 かように私の決断というのは、ことごとく誤るのです。逆方向にいくのです。
 まあ、雨と傘くらいなら別に間違ったっていいんですけど、もっと重大で人生の根幹に関わるような決断も、当然のように誤りますからね。よろしくないですよ。

 学生時代、悩みに悩んで就職活動を途中で打ち切り、当時交際していた男性と一緒に暮らすために、彼の仕事にあわせて引っ越しました。
 転勤のある方でしたので、新しい仕事を見つけてはやめ、また仕事を探すことを繰り返す日々。
 そうやって数年経過した後、フラレました。
「どちらかが別れを選べば、続けることはできませんね。わかります。だけど私はこれまでに何度か別れようとしたことがありましたよね。その都度あなたに
『君と別れたら死んでしまう』
 と言われました。私はあなたに、死なれたくないから続けてきました。
 今ここで放り出されると私は家も金もなく、正直かなり死にたいような気持ちです。あなたはそれについてどう思いますか?」
 と真っ暗な気持ちで懸命に言葉を組み立ててきいてみたところ、
「すべては自己責任だから。続けると決めたのはシロイだから、その結果を引き受けるしかないよ。かわいそうだけど仕方ないよね」
 と言われたんですけど、これなんかわかりやすいですよね。
 私の判断はことごとく裏目に出ています。
 就職活動打ち切ったことも、目の前の人の手をとったことも、別れないことを選んだのも、最後にその人の温情を確かめようとしたのも、全て間違い。
 私の二十代の大半は、数多の間違った判断の上にあったのです。

 新しい職場で最初に仲良くなろうと決めた人に、嫌がらせをされたこともありました。
 退職した職場から
「戻ってきてほしい」
 と頼まれて戻ったら、わけのわからない仕事を押し付けられて理不尽に罵られ、挙げ句に給与未払いをくらったこともありました。
 ほんと恥の多い人生ですよ。間違いだらけです。私の決断は私を苦しめてばかりいる気がします。

 人に指摘されずとも私自身、まずい決断を繰り返しているという自覚はあります。
「だんだんわかってきた」
 とセキゼキさんは言います。
「それだけ間違ってもシロイの決断力が全然衰えない理由が、なんなのか。シロイはどう決断しても、どうせ間違うと思ってるんだろう? もうそういう境地だよな」
 私は頷きます。
「だよな。どんだけ迷って慎重にしてもどうせ間違うんだから、迷う時間は無駄と思ってるんだよな。その思いが決断の異常な速さを生んでるのか……確かにさっさと決断しても間違うけど、延々悩んでも間違うもんな。さすがだよ」
 また「さすが」って言われた。なんだこれもう。
「うん、まあ、おっしゃる通りなんですけれども……たださ、自分でも不思議なんだけどどっちに決めても大差がないような小さな決断だと、異常に長時間悩んじゃったりするんだよね。回転寿司でえんがわを食べるかイクラを食べるかとかだと、延々レーンを見つめながら考え続けちゃったりするんだよ」
「それは不思議じゃないだろ。そのくらいの小さな決断だったら、自分の判断力でももしかしたら間違わないで済むかもしれないっていう、淡い期待があるんだろ。ひとえに自分の判断力がまずいと自覚しているがゆえの行動だよ全部」
 セキゼキさんの言葉には納得したのですが、全くもって愉快ではありません。
 つまり私という人間には、ろくな判断力が備わっていないということです。というかそれ、早く言えば「ばか」ってやつじゃない?
 私だって学習能力ゼロというわけでもないですから、この間の失敗を生かして逆を選ぼうとか、と思うときはあります。
 ところがまあ、めぐり合わせなのか何なのか、判断力の低さゆえによくわからないんですが、とにかく逆を選んだって同じように失敗するわけです。
 ですからもう開き直って
「どうせ失敗するさ。下手の考え休みに似たり」
 というのが私の基本姿勢となっております。
 おかげで至るところ傷だらけみたいな人生を歩んでいるとも言えるのですが、利点というものがないわけでもなく、たとえば私は失敗というものに、慣れております。
 ああ、やっちゃった。と思うことが数限りなくありますが、だからといってすごく落ち込んだりはしません。
 ため息を一つついたら、やるべきことをやるだけです。雨が降ったならコンビニを探す。飲み物をこぼしたらタオルを出して拭く。道に迷ったら地図アプリを起動する。店員さんに声をかける。
 謝る。失敗したと打ち明ける。自分にできないことを認める。頭を下げる。助けを求める。隠さない。見栄を張らない。助力に感謝する。
 諦めない。失敗してもまだその先があると知る。再度チャレンジする。繰り返しを避ける。腐らない。自分で勝手に終わらせず、もう一度考えてから一歩踏み出してみる。
 そうするとまあ、ふっとうまくいく瞬間が来たりするわけです。遠回りして、時間がかかっても、なんとかなったりする。必ずではないです。なんともならないときはある。けれど、なんとかなることは案外多いというのが、私の実感です。
 それにね。間違ってもいいってのが、救いになるときもあるんですよ。
 私のそのことを教えてくれた人は、もうそれを覚えてないみたいなんですけど。

 自己責任だから仕方ないよね、とにこやかに宣った方が去って、しばらく経ったある日のこと。
 私はその日、久しぶりに会う友人と飲んでおりました。
 失恋の後ですからね、そりゃあ飲みますよ。古来からお酒と失恋は仲良しではないですか。
「いや、まあ、だからね。ぜんぶわたしがダメなのは、わかってるんですよう。わたしがばかなんだから、わたしがつらいのも、しかたないですよう~」
 お酒の力でますます馬鹿になっていく私。
「でもちょっと、ちょっとは、その。ダメなにんげんでもね。みとめてほしいとおもうんです。ダメだからこそのまちがいも、そこからなんか、ひろってくれないかと」
 自分でも何を言ってるのかわからなくなりながら、ぐだぐだと続けます。
「わかれないでといわれて、わかれなかったこと。しんでほしくない、いきててほしいとおもったことまで。ぜんぶまちがいですか。ダメですか。それってちょっと、しんどくないですか。そうおもうのも、ダメですか」
 それまで黙っていた友人が口を開きました。
「ダメじゃないだろ。ダメじゃない。というか」
 語気を強めて、友人は続けます。
「確かにシロイは間違ったんだろうけど、だからなんだ。いいじゃないか、信じたんだろ。人を信じて間違ったからダメ? 人を信じないで間違わないやつのほうが偉い? おれはそうは思わない」
 私はぽかんと口を開けました。
 まさか。
 まさかこんな風に言ってくれる人がいるとは、思いもよらず。
「シロイと違ってその元カレ? その人は、間違ってないのかもしれないけどさ。自分の人生は、いっこも傷ついてないもんな。うまくやったよ。必要なものを必要なときに得て、いらなくなったらポイって、利口だよ。でもおれは、そんなのがいいとはちっとも思わない」
 そこまで言って友人は横を向きました。
「シロイはそれでいい。ダメだとしてもいいんだ。そんなふうに利口な人間よりは、ずっといい」
 いいんだ、と繰り返した彼の声は、妙にくぐもって聞こえました。
「あれ?」
 私はびっくりして、素っ頓狂な声をあげました。
「えーなんで泣いてるのセキゼキさん。私泣いてないのに。なんでそこでセキゼキさんが涙ぐんじゃってるの?」
「あああああ、ここでそれを口に出すのは、マジでほんとにダメだからな! そこはほんとに、直したほうがいいからな!」
 そうやって私はセキゼキさんまで怒らせてしまったわけですが、そのときとてもほっとしたのです。
 そうか。
 間違ってもいいんだ。間違ったからダメってわけじゃないんだ。自分で選んだことを引き受けるってのは、そういうことでもあるんだ。
 間違っても、辛くても、それを含めてオッケーだと。そう思うこともありなんだ。

 それから更に時間が経って、セキゼキさんと結婚するかもという流れになったとき、彼はウツになって働けなくなりました。
 またしても、決断の時です。続けるべきか、ここでやめるか?
 学習能力が低い私でも、さすがにわかっていました。
 ここで間違わない決断は、利口な選択は「別れる」なのです。ここで間違ってしまえば、私は何をどれだけ失うか見当もつきません。「別れない」のはあまりにしんどく、想像しただけでうんざりしました。
 だけど。
「人を信じて間違ったからダメ? 人を信じないで間違わないやつのほうが偉い? おれはそうは思わない」
 ああそうだ、私もそう思ってしまうんだよセキゼキさん。
 セキゼキさんに言われたからっていうのもあるけど、でもたぶん元々思っていたことなんだよそれは。
 やりたくないことを選んで、嫌いな道を歩んで、それで間違わなければいいのか?
 信じることをやめて、それで傷つかないのが正解なのか?
「そもそも私は、どっちの道を選んだって間違うことが多いんだしな……」
 賢くなろうとして気の進まない方を選んで、それでも間違ったときのやりきれなさも、私は既に知っています。
 だったらもう、やりたい方を選ぶのがいいんじゃないだろうかと、私は決めてしまったのです。我ながら呆れるほどの素早さで。
 この人のそばにいたいなら、信じていたいと思うなら、じゃあそうすればいいじゃないかと。
 結果的に奇跡的に、この決断は間違いではありませんでした。少なくとも私は、そう思っています。
 正確に言えば間違ったと思ったことは、数限りなくありました。昨日は間違った、今日も間違った、明日もまた間違うだろうと思い続けて。
 その間にセキゼキさんは、三回も自殺未遂をしました。ウツってそういう病気なので。
 お先真っ暗だと思いながら、これでいいのかと迷いながら、それでも利口ではない道を選ぶことを繰り返すうちに、セキゼキさんは少しずつ良くなりました。
 気持ちの落ち込みが減り、死のうとすることはなくなり、
「もう薬を飲まなくてもいいです」
 と言われる日がやってきて。
 そこに行き着くまでには長い時間がかかりましたが、今セキゼキさんは私と結婚して、会社員として働いています。
 四年前には、娘も生まれました。
 この子に繋がるための日々だったのなら、私は今まで何も間違っていなかったんじゃないかと、そんな風に錯覚させてくれる娘が。

 だからもう私は
「正しい判断はできなくていいや」
 という感覚で生きています。
 どうせできないんです。私はたぶん、ダチョウとかペンギンとかそういう鳥なので、空は最初から飛べない。だったら飛ぼうとする時間は無駄です。走るとか泳ぐとか、自分でもできることをやったほうがいい。
 私は利口になれない。間違わないことはできない。それでいい。それはそれで受け入れる。
 それにきっと、私よりも判断力があって賢い人だって、一度も間違わずに生きることなんてできないだろうとも思うのです。
 みんな失敗するのです。失敗はありふれている。誰もそれを避けられない。
 だからまあ、今日も私はいろいろさっさと決めてしまいます。どうせ失敗するんですけど。そんなのはわかっているんですけど。
 だけどそれを嫌がって一歩も動けなくことこそが、私の最も恐れるところですので。失敗を繰り返していればたどり着けるかもしれない場所に、失敗を恐れるばかりに歩き出せないなんて、それ以上の大失敗はないだろうと思いますので。
 愚者は悩まず、ただ足を前に出します。
 えいやっ。

#「迷い」と「決断」




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『むしろウツなので結婚かと』第11話~一番つらかった夏の話

 本日5月19日に、『むしろウツなので結婚かと』第11話が無料公開されました。
comic-days.com

 読んでいると、この夏が一番苦しかったなあと思いますね。
 私にとってもそうでしたけど、セキゼキさん(仮名)にとっても、おそらくそうだったでしょう。
 なんせこの頃のセキゼキさんは、毎日どうなるのか予想がつかなかったのです。
 病院に行く前のほうが未治療なぶん病状はたぶん一番悪くて、それゆえのしんどさがありました。
 ですがセキゼキさんの行動や状態について、予想はついていたのです。
 日中ゾンビのように座り続け、夜になると布団の中でブツブツ呪いみたいな言葉を繰り返す。
 これが毎日繰り返されることがわかっていますから。
 希望なんてものはどこにも感じられない真っ暗な時間でしたが、事態がそこから動かないのですから、それは安定でもあったのです。
 私が帰宅するとセキゼキさんはいつも私の予想通りの場所に、予想通りの格好で座っていました。
 
 ですが復職が失敗して荒れ始めてからのセキゼキさんがどんなふうに自分を出迎えてくれるか、私には想像がつきませんでした。
 穏やかな笑顔で
「おかえり」
 と言い、おいしい夕飯と一緒に待っていてくれるときもある。
 
 沈んだ様子で
「……ごはん何も作れなかった」
 と出てくるときもある。
 
 週末、楽しそうにお菓子とジュースを用意して、
「今日は一緒にモンハンやろう!」
 とはしゃぐときもある。
 
 眠っているときもありました。
 セキゼキさんの調子が悪くなると、睡眠リズムは崩れました。
 眠れないことが多かったですが、ひたすら長時間眠る時もありました。
 昼寝をしているセキゼキさんは、夜眠っていないセキゼキさん同様に不穏であり、私はセキゼキさんの寝顔を見るのが苦しいと思うときがありました。
 
 調子が崩れ始める手前にその兆候に気づきたいと思っていましたが、これは難しかった。
 人間は誰もが演技をします。
 心配して、という演技もあるし、心配しないで、という演技もあります。
 どこからが演技で、どこまでが演技なのかという話もあります。
 こうありたいと願う自分に近づけようとするのは、それも演技と言われてしまうのか?
 手負いの獣が外敵を警戒して、ぎりぎりまでなんでもないフリを貫くように。
 セキゼキさんは自分の調子が、実際よりも良いように見せたがりました。
 穏やかに過ごしているように見えている裏で、少しずつ調子がうつりかわっていく時。
 それでもセキゼキさんは
「まだ大丈夫」
「おれは平気」
「心配しないでいい」
 そんなふうに振る舞いたがりました。
 私自身、セキゼキさんの調子が良い方が嬉しいから、今日は大丈夫だと思いたいから、セキゼキさんのその演技にしばしば乗りました。
 自分の調子が悪くなっていくのが嫌で仕方ないからこそ、調子が良い自分のままでいたいセキゼキさん。
 それは演技であり、信じてはならない嘘だったのでしょうか?
 むしろ祈りや願いに近い、信じるべきものだという気もして。
 私は彼の言葉を、態度を、疑わないでいたかったのです。
 
 結果として、早めの自重、早めの対策は難しくなりました。
 私はしばしば、傘がないのに突然降り出す豪雨に見舞われたような気分になりました。
 さっきまでは晴れていたのに理不尽だ、と感じるように。
 天気予報を見ようともせず、空の遠くに広がる黒雲を無視して、歩いてきたのは自分だったのに。
 
 欺瞞が、事態をより悪くしていました。
 
 こうありたい、こうあってほしいという願いを、現実と混同してはならなかったのです。
 願いをかなえるためにはまず、現状がどれほど願いと隔たった状態にあるのか、理解しなくてはなりませんでした。
 
 振り子のようによくなったり、悪くなったりを繰り返しながら、ウツの回復過程は進みます。
 事態が改善しつつあるのが嘘ではなくても、振り子がうんと悪い方に振れることはあるのです。それもしょちゅう。
 そこにどれほどの危険が潜んでいるのか、良い状態なんてものがいかに短く儚いものなのか、私がそれを本当に理解するまで、ここからしばらくかかったのでした。

5月25日に「むしろウツなので結婚かと」の第一巻が発売されます

 すがすがしい初夏の季節となりましたがって言いたいんですけど朝夕冷えるわりに日中暑くて、もう何を着たらいいか途方にくれる日々なんですが、皆様はいかにお過ごしですか?
 さて2019年5月25日に、『むしろウツなので結婚かと』の単行本第一巻が発売されます。

むしろウツなので結婚かと 解説付き

むしろウツなので結婚かと 解説付き



 現在コミックDAYSで連載中のこの作品は
「アラサー男女がそろそろ一緒に住んでお互いの両親に挨拶しようとか言ってたら、彼氏がウツになってさあ大変。一寸先は闇ってコトワザを実地で学んでいます!」
 みたいな内容でして、私が当ブログで書いた話を原案として、『鉄子の旅』『みんなのあるある吹奏楽部』の菊池直恵さんにコミカライズしていただいたものです。
 単行本化にあたって、私自身の書いた解説もプラスされています。

 もうこういう文章、どう書けばいいかわからないんですが、とりあえず菊池直恵先生のファンの方は、必読の書だと思います。
 重くなりがちな話をやわらかな絵柄で読みやすく、そのくせ迫るリアリティと緊迫感がしっかりある、卓越した手腕でまとめてくださっていると、一話ごとに感謝しながら読んでおります。
 本当に、菊池先生にコミカライズしてただけてよかった。ありがとうございます。

 えっと、あとは、まあ、こう、元ネタ的な部分についてですけど。
 このお話は、とても平凡なものなんです。
 勇者も英雄も賢人も魔法使いも冒険者も復讐者も魔王も殺人鬼も名探偵もいません。
 平凡な人間の、平凡な記録です。
 けれどだからこそ、読んでみてもよいのではないかと思います。
 ウツというのは誰にとっても遠い話ではない、自分が無事でも周りの人がどうなるかなんてわからない世の中ですから。
 ウツに苦しんだ経験のある方、今も苦しんでいる方は大勢いて、その人たちの大半は、やはり平凡な人間だろうと思うのです。
 平凡な人間が、平凡ゆえに四苦八苦しながらもそれでもなんとかなっていくことがあるのだと、この作品が伝えてくれるといいなあと思います。
 そしてその結果、どこかの誰かがごくわずかなりともラクになってくれたら、とても嬉しいじゃありませんか。
 もしもこの文章を読んで少しでも興味を持ってくれた方がいらっしゃったら、手にとっていただけると幸いです。
 よろしくお願いいたします。

『むしろウツなので結婚かと』第10話~自分を無力と見限らない

 本日4月21日に、『むしろウツなので結婚かと』第10話が無料公開されました。
comic-days.com


 誰かを止めるのは、難しいものです。

 私の知る限り、セキゼキさんが自殺未遂のようなものをしたのは、この10話で描かれたパイプ洗浄剤を飲んだ夜を含め三回です。
 一回目と三回目は、私はその現場になんとか居合わせることができました。
 ですが二回目は、そうではなかったのです。
(二回目と三回目の詳細については、この後のマンガの内容にも関わってきますので、ここでは伏せます)
 私の知らないところで、セキゼキさんは死のうとしました。私はそんな事実があったということを、ずいぶん後になるまで知らずにいました。
 運が悪ければ、本当に死んでいたと思います。その瀬戸際まで、彼は進みました。
 残念ながらウツになって自殺をしてしまったという方の話は、少なくありません。
 そういった悲しいケースと、回復に至ったセキゼキさんの違いが何かと言うと、私は単純に運だと思っています。
 私たちは運に恵まれた。本当にそれだけのことです。
 だからこそ、もしもそんなふうに身近な誰かをなくしてしまった方は、自分の対応が悪かったのかもしれないなどと、悔やまないで欲しいのです。
 もちろん簡単ではないのですけれど。
 どれほど自分に何を言い聞かせようと、悔やむことを止めるのはできないかもしれませんけれど。
 プロフェッショナルである精神科医ですら、患者の自殺を経験している方が大勢います。
 病気のことをよく知るプロが力を尽くして対応してもなお、死んでいく人たちが大勢いるのです。

 そもそも他人の行動を変えたり止めたりすることが、自殺に限らず困難なのです。
「そんな相手とは別れたほうがいい」
「お酒は控えて。タバコはやめよう?」
「ダイエットしたほうがいいね。ちょっと最近太り過ぎ」
 たとえばそんなことを親しい誰かに言って、
「うん、そうだね。言うとおりにする!」
 とあっさりどうにかなることって、滅多にありませんよね?
 真心を尽くしていても、深く思いやっていても、どれほど熱心に説いたとしても、それによって相手が翻意するわけではありません。
 結局、周囲の人間というのは観客でしかないのですから。
 舞台に立ち、これからの道筋を決めるのは本人でしかなく。
 望み通りの物語が紡がれなかったという理由で、観客が自分を責めるのは筋違いとも言えるのです。

 それでも何とかして身近な人間を止めたい、最悪を避けたいと。
 そう思うことは無駄なのか? できることなど何もないのか?
 私はそれも違うと思います。
 正確には、そんなふうに思うべきではないと考えています。
 人は自分が無力であるという実感に、耐えられないものです。自分にできることは何もないという思いは、心を深く傷つけます。
 自分は何かをやっているのだ、無為に過ごしているわけではないのだと、そう思えたほうが精神衛生上、良いのです。

 最悪なのは、病んでしまった方が亡くなることではありません。
 それによって、共に過ごしていた人間までもが傷つき、病み、同じ道を辿ることです。
 二人の人間が二人とも生き延びるのが最善。そして少なくとも一人は生き延びることができれば、それは次善と言えるのです。
 まあ、クソッタレな話ではありますけどね。
 あなたが一番になすべきことは、自分を守ることです。まずは、自分の頭の蝿を追え。それができてこそ、他者に力を貸すことが可能になるのだと思います。
 自分の精神が少しでも楽でいられる方策を探すことを、続けてほしいと思います。

 それでは、その楽でいられる方策とはなにか?
 これは人によって答えがいろいろだと思いますが、私にとっては自殺とその対処法についての知識を集めることでした。
 幸い今の時代はインターネットがあります。
 危険を感じた時に情報を収集し備えることが、昔よりもずっと容易になっているのです。

 セキゼキさんがパイプ洗浄剤を飲んだ夜。

  • 服毒自殺は毒物を摂取してしまえば成功率が高いが、多くの毒物は毒物であるがゆえに味やにおいが強烈で簡単には飲み込めない。
  • 家庭内で使用される洗剤などには大抵催吐作用がある
  • 洗浄剤を飲み込んでしまった時、吐き戻すと酸によって喉が焼ける。吐き戻してはならない。

 という知識が私にはありました。
 あの夜私がパニックに陥らずに済んだのは、そのおかげだと思っています。
 真に悲観すべき状況ではないだろうと判断できたから。

 例えば私は、セキゼキさんが処方されている薬の致死量を調べたりしました。
「致死率50%になる量が、単純に計算して○万○千錠か……そもそも胃がはちきれるからそんなに飲めないな」
 などということが一つわかる都度、どれほど心強かったか。

  • 薬物や毒物を飲んで昏倒している人間を見かけたら、何を飲んだかまず確認すること。薬の空シートなどがあるならばそれを持参して救急車に乗り込もう。

 これは知人の医師に教えてもらったことです。
 情報がない状態で、症状から毒物を特定し対応するのは難しいのだそうで。
 時間との勝負になる現場で、薬物が最初から特定できるだけでも随分の助けになるとのこと。

 同じ医師に、こんなことも教えてもらいました。

  • 睡眠薬を飲み過ぎて危険な眠りに落ちている人間を見つけたら、救急車が来るまでの間、声かけや刺激を与え続けて意識レベルを少しでも引き上げることが、助けになることもある。

 こういった知識を何度も頭の中で振り返って、私は自分に言い聞かせました。
 何もできないわけではない。
 私にもできることがある。
 そう思えることは、救いでした。
 知識は万能ではなく、それによって絶対の安全が保証されるわけでありません。
 私ができることとやらは、決定的な救いに繋がるものではなく、あくまでセキゼキさんの生存率をわずかに上げることができるかもしれない、その程度のものです。
 それでもやはり、知識は私の心を慰めました。
 無明とも思える闇の中、どれほど細く儚くとも、光を見いだせることができれば、私はまだ歩いていけるのだと、そう思うことができました。