『むしろウツなので結婚かと』第7話~前よりマシでも治ってはいない
本日2月24日に『むしろウツなので結婚かと』の第7話が更新されました。
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スーパーラッキーで合う薬がスピーディーに見つかったセキゼキさん(仮名)。じゃあコレで何もかもオッケーで心安らかに過ごせるようになったかというとちょっと違ったんだよね、というのが今回の話です。
薬の力でセキゼキさんの生活は、何とか落ち着きました。
夜はそれなりに眠れるようになり、昼もそこそこ落ち着いて過ごせるようになりました。
この頃セキゼキさんが自分の症状について語った言葉を、私は今でも覚えています。
「毎日ずっと苦しい。腹の中で真っ赤に焼けた鉄のイバラがのたうち回っているみたいなんだ。薬はすごい。効き始めると鉄のイバラがすーっと冷えて、静かになる」
この言葉で印象深いのは、鉄のイバラとやらが消えていないという点です。
セキゼキさん以外の人たちがどんなふうに感じているのかはわかりませんが、少なくともセキゼキさんにとってはこんな感じだったそうなのです。
薬は確かに効きますしありがたいものですが、全ての問題を解決してくれるわけではないのです。
ずっしりと重く鋭い棘を持った鉄のイバラは、冷えて静かになったとはいえ腹の中にあって、消えない。
この時期、私たちの暮らしは少し前に比べればだいぶ落ち着いてきました。
平和で穏やかで満ち足りた、と言えないこともない暮らし。
一方で私たちはこの暮らしが薄氷の上にかろうじて成立しているものであることを、共に理解していました
眠れるようになった、料理もできるようになった。それはすごい。
けれど調子が悪くなってほとんど一歩も動けないような日も依然としてあるし、テレビも見られず、本やマンガは読みたくても読めない。
それはやはり「健康」とか「正常」とか、そういう言葉からは遠い状態なのでした。
不安定で危なっかしくて、一歩踏み外せばかんたんに冷たい深みに落ち込んでしまうであろう、かりそめの平和。
私はこの頃、セキゼキさんの回復をただ喜んでいました。
けれどセキゼキは、回復できていない部分あることに、焦り続けていました。
そう言うとセキゼキさんが悲観的で私が楽観的な人間のようですが、そう単純でもないのです。
セキゼキさんは
「早く治りたい」
とよく言っていました。
ですが「治る」とは一体、どういうことなんでしょうね?
治るというのが元通りになるということだとすればそんなことはもうないんじゃないか。と私はこの時点で思っていました。
私の職場には心を病んで休職する人が、大勢いました。
その中の何人かは数ヶ月や数年の時を経て、また仕事に戻ってきます。
休職する人も復職する人も、私は大勢見ました。
けれどその中に復職してからまた元通り働けるようになった人は、一人もいませんでした。
戻ってきてもしばらくするとまた調子を崩し、いなくなってしまう人ばかりだったのです。
なぜそうなってしまうのかは、私にはわかりませんでした。
単純に労働環境が悪いからかもしれません。別な場所であれば、問題なく働けたのかも。
それもともこの病気になると、一日八時間の労働というのがそもそも無理になってしまう可能性もあるよな。
などと考えていることを、私はセキゼキさんの前では口にすることができずにいました。
セキゼキさんが
「早く治りたい」
と言う都度私は
「精神科の世界では治るって言わないんだよ。病状が穏やかになることをさす『寛解』という言葉を使うんだよ」
と言いました。
そうするとセキゼキさんは納得のいかないような顔をして
「ちょっとした用語の違いなんてどうでもいいよ」
などと返すのでした。
けれどこれは単純な用法の違いではない、と私は考えていました。
病気になってセキゼキさんの人生は変わってしまったのだ。
この変化は不可逆性のもので、だから「元通り」なんてことはありえない。
そもそも人生というのはそういうものだ。「卒業」したり、「就職」したり、「成長」したり、一方通行の変化が起こり続けるものなんだ。
だったらその中には薄氷の上でしか暮らせなくなるような、そんな変化もあるだろう。
その変化を受け入れて、どうすればうまく薄氷の上で暮らしていけるのかを模索する。
それが寛解ということなんじゃないか。
私はそう思っていたのです。それは「諦め」にとても近いものでした。
多くを望まないほうが、楽だったのです。
マンガの中にもありますがこの頃の私は、
「もうこのままでいい」
と思っていました。
そこそこ平和で穏やかな時間であればもうそれでいい、と。
もちろんそれはセキゼキさんを満足させる考えではありませんでした。
だってそれじゃ、結婚は無理だ。子供は絶対に持てないし、生活はカツカツでそれがずっと続いて、上がり目なんてない。
そんなのいいわけがない。
おれはどうしたって元のように働けなくちゃいけない。
それがセキゼキさんの言い分でした。
その気持ちも、私にはよくわかりました。私だってこれからずっと自分たちは薄氷の上で暮らすしかないのかと思うと、痛みを感じずにいられなかったからです。
結論から言えば、私たちはふたりとも間違っていました。
セキゼキさんが期待したように、完全に元通りの自分になる日は来ませんでした。
けれど私の諦めのように、回復があの時点で止まることもなかったからです。
そしてまた、完全に元通りではないということも、それはそれで悪いことでもありませんでした。
自分の希望する通りにいかないことに絶望するのも、そのほうが楽だから簡単に諦めるのも、どちらも違うんですよね。
変化を認めることは、諦めや絶望とは違うのです。
希望を抱くためには、変化を拒絶しなければいけないわけでもないのです。
ところであの頃、日中の孤独が辛い時間の経つのが遅いと訴えるセキゼキさんのために、私は自分の持っているおすすめマンガをピックアップしたのですが、何を考えて山岸凉子の「天人唐草」や「夜叉御前」を勧めてしまったんでしょうか。
天人唐草
明るく無邪気な響子は、保守的で厳格な父親のもと、抑圧されて育つ。その結果、控えめでおとなしく他者の目を異常なまでに気にする女性になってしまう。
真面目ではあるが、誰とも打ち解けることはできず、ひたすら内にこもる弱々しい響子。
自分の人生に向かい合えず、世界から逃げるように生きる彼女を悲劇が襲う。
すべての拠り所をうしなった彼女は、狂気の世界に解放される……
平凡な人間が、どこにでもありそうな出来事の連続で容赦なく追い詰められ、狂気に堕ちていく救いの無さ。後味の悪いサイコホラー。
夜叉御前
引っ越してきた家に鬼が住んでいることに気づく、15歳の少女。鬼に怯えながらも、幼い弟妹や病身の母に負担をかけまいと、気丈に振る舞う。
密やかな苦しみは続き、鬼はあの手この手で少女を攻撃する。
クライマックス。これまでオカルトと思わせてきたこの物語は、現実の苦しみに耐えきれなくなった少女が作り出した幻想であったことが暴かれる。
鬼に襲われながらの暮らしのほうがまだしも救いがある、そう思わせる現実とは一体……!?
終盤の大ゴマとそれに続く「お前も死ぬのだよ紀子!」以上に怖いシーンがある漫画が、ちょっと思いつかないレベルに怖い。
「ごめん、読めない」
と言われ、
「あんなにマンガが好きだったセキゼキさんが読めないなんて」
とショックを受けたのですが、あらためてあらすじを振り返るとそりゃ精神状態の悪い人が読めるマンガじゃないだろ、なんでそういうのばかりよりすぐったの、私はバカなの? としか思えません。
とりあえず、「鉄子の旅」を買っててよかったです。
花を見ていた少年
中学生の時、大幅に遅刻して先生に遅刻の理由を尋ねられ
「花を見ていました」
と答えた同級生がいました。
彼のこの返答に教室はざわめき、それまで怒りを浮かべていた先生も
「なにおまえその……風流なの……?」
と一瞬毒気を抜かれたようになったのが印象に残っています。
彼の名前はドウシくん(仮名)。ドウシくんには他にも楽しいエピソードがあります。
やはり中学の時のこと。理科の時間、先生がNHKのドキュメンタリー番組を見せたことがありました。
「驚異の小宇宙・人体 『生命誕生』」
というその番組は、精子と卵子の出会いや胎児の成長を克明に追ったドラマチックなものでした。
中学生たちはみなけっこう真剣に感動しながらその番組をみていました。特に三億という膨大な数の精子が卵子を求めながらもそのうちの99%までは死滅していくというくだりは、なかなか衝撃的なものでした。
番組が終了し教室に少しずつざわめきが戻り始めたそのとき、ドウシくんが自分の胸のあたりをおさえながら
「三億分の一でたどり着いたのか……よくがんばったな、おれ」
とつぶやいたのが聞こえました。
そのしみじみとした実感のこもった口調が妙におかしくて、みなが笑いました。
私はこの二つのエピソードが好きで、よく人に話しました。どちらもなかなかウケがよく、そこそこ笑いのとれる鉄板エピソードとなったのでした。
ドウシくんと私は幼馴染みです。
幼稚園から始まって中学を卒業するまで、ずっと同じクラスでした。
それはドウシくんだけではなくて、私たちの故郷はど田舎だったためにずっと一つのクラスで同じメンツと顔を合わせて育ちましたので、クラスメート全員が幼馴染なわけですけど。
幼稚園の頃、私は落ちこぼれでした。
不器用で工作やお絵かきは下手くそ。
かわいらしいお洋服を着ていたり、素敵な髪型だったりもしない。
足は遅いし、よく転ぶ。
なんの取り柄のないこども。それが私でした。
別にだからといって悩んだり苦しんだりしていたってほどでもなかったんですが、やっぱり少しは悲しかったんですよね。
小学校に入学した私はほどなくして、どうやら自分は勉強はそれなりにできるらしいということに気づきました。
これはとても嬉しかった。自分にも何かひとつぐらいできることがあるのだと、その時初めて感じたのです。
そして小学校一年のある日、私たちは生まれて初めて作文を書くことになりました。
私は本を読むのが好きな子供でした。ですから何かを書くという体験が興味深く感じられ、わくわくしていました。
宿題の作文を夢中になって書き上げ、得意になって母親に見せに行くと、彼女は赤鉛筆を手にとりました。
「これはこのままでいい? それともよくする?」
母は尋ねました。
「この作文をこのまま持っていっても、先生が怒ったりすることはないし、何の問題もないと思う。だけどもし、ケイキがもっと良い作文を書きたいと思うなら、お母さんが少し手伝ってあげる。どうする?」
私はそれまで知らなかったのですが、独身時代の母はフリーの編集者兼ライターだったそうなのです。
「てつだって」
と私は頼みました。
「よくなるなら、よくしたいよ作文。そのほうがたのしいもん」
すると母は赤鉛筆でどんどんと修正を入れ始めました。
「ここ、ただなんとなく改行しているでしょう。そうじゃないの。ほんとはぜんぶ意味があるの」
「この文章は本当に要るかな? さっきと同じことを書いているだけじゃない?」
「こっちは逆にもっと説明しないと読む人はわからないんじゃない?」
私は驚きました。
自分の文章がなんだかうまくまとまっていないことには、薄々気づいていたのです。どうすればいいかわからなかっただけで。
母の手が入ると、みるみるうちに言葉はきちんと並び、生き生きと情景を物語るようになりました。
なんて面白いんだろう。
私は母の言葉に従って作文を直し、それをまた彼女に見せ、更に修正を重ねました。
やっと赤鉛筆が入らない作文を書き上げた時は、確かな達成感がありました。
その作文を提出して数日後、私は職員室に呼ばれました。
「ケイキちゃんの作文とても良かった。がんばったね」
先生はまず褒めました。
私は嬉しくてニコニコしていたのですが、先生がちっとも笑っていないことに気づいて、自分も笑うのをやめました。
「だからこそ先生は、最初にケイキちゃんにお話をしなければいけないと思いました」
と彼女は言いました。
「この間みんなに出してもらった作文は、その中から一本だけ、一番いいのを選んでコンクールに出すことになっています。ケイキちゃんの作文は本当によく書けていた。でもケイキちゃんの作文は、コンクールには出しません。ドウシくんの作文をコンクールに出します」
いつも笑っている先生が、その時は苦しげな表情を浮かべていました。
「二人とも本当にとても良い作文だったから、先生はすごく悩みました。どちらを選べばいいのか、ずっと考えていました。先生は今回ドウシくんの作文を選んだけれど、ケイキちゃんの作文もすばらしかった。先生がそう思っていることを、伝えておかなくてはいけないと思ったんです」
数ヶ月後、クラス全員の作文が冊子にまとめられ、各家庭に配られました。
私は父がその冊子を読みながら楽しそうに笑っているのを見ました。
覗き込むとそこには、ドウシくんの名前がありました。
「お父さん、ドウシくんの作文そんなに面白いの?」
私はそこで初めて父に、自分の作文が先生には選んでもらえなかったという話をしました。
すると父は感心したような顔をしました。
「なるほど、先生は正しいなあ。おれもそうすべきだと思う。ケイキの作文は悪くないけど、どちらかを選ぶならやっぱりドウシくんだよ」
どうして、と私は訊きました。
「テクニックの話だけで言えば、ケイキの方がずっとうまいんだよ」
と父は言いました。
「うまくまとまった、いい作文だ本当に。だけどドウシくんの作文は、そういうんじゃないんだよ」
それから父はドウシくんの作文の中の一箇所を指しました。
「ここを見てごらん」
ドウシくんの作文は友達の誕生会に招かれて、みんなで楽しく遊んだ時のことを書いたものでした。
父が指差した箇所には、こうありました。
たくさんのごちそうがならんでいて、とてもおいしそうでした。ぼくはいやしいので、早く食べたくてもじもじしました。
「ケイキはね、うまく書こうとしてるんだよ。上手で良い作文を書こうとしてる。それは別に悪いことじゃない、当たり前のことだ。
でもね。ドウシくんは良い作文を書こうとか上手に書きたいとか、そういうことは考えていない。
ただお誕生会がどんなに楽しかったか、そのことをありのままに伝えようとしているだけなんだ。
ドウシくんは、自分を良く見せようとしない。だから『ぼくはいやしい』と書ける。それがすばらしい。
チェーホフっていう、外国の偉い人がいるんだけどね。その人は『雨が降ったら雨が降ったとお書きなさい』って言ったんだ。本当にその通りだと思う。だけどそんなふうに書くことは、実はとても難しい。
それがドウシくんには出来ているんだ。すごいことだよ」
小学一年生には父の言葉は難しく、すべてをその場で飲み込むことはできませんでしたが、私の頭の中にずっと残り続けました。
ドウシくんはあしがはやいし、ボールなげもうまいし、できることがいっぱいある。
それなのに作文でもわたしよりずっとすごいなんて、そんなのずるいじゃないか。
わたしはドウシくんよりももっと、良い作文を書けるようにならなきゃ。
そんなふうに考えた私は、それから作文コンクールの入賞作がまとめられた文集を見つけて読みました。難しい漢字が並んだ上級生の作文も、大人に字を教えてもらいながら、懸命に読みました。
読書感想文コンクールの文集も読みました。過去のコンクールの文集も読みました。休み時間、私は教室の本棚に張り付いて、文集をひたすらに読み続けました。
その甲斐があったのでしょうか。
ドウシくんの作文がコンクールに出されたのは、小学校一年生の時ただ一度のことでした。
翌年、コンクールに出す作品として選ばれたのは私の作文でした。その次の年も、その次の次の年も。私の作文は毎年のように、コンクールに送られるようになりました。
大体において他の子供たちにとって、作文などというのは手っ取り早く終わらせたい課題に過ぎなかったのです。少しでも良い作文を書こうなどと思っている人間は、私だけでした。
作文コンクールで私は入賞し、表彰状を貰いました。もっと良い賞が欲しい、と私は渇望しました。
そうして小学校六年生の時にとうとう、特選をもらうことができました。文集のトップに、私の作文が載ったのです。
嬉しいはずなのに、私の心の底はずっと冷えたままでした。
だって私の作文を読んだ父が、ドウシくんの作文を読んだ時のように目を細めながら笑うことはなかったのです。
あんな風に手放しに褒めてもらえることもなかった。
その頃には、自分でもだんだんわかってきていました。
良い作文を書こう、少しでも良い賞を貰おうとする私の努力は、どこかがひどく間違っているのだと。
そして中学生になり、遅刻したドウシくんが
「花を見ていました」
と言ったとき私はみんなと一緒に笑いながら、打ちのめされていました。
「なんだよそれ」
「平安貴族かよ」
「言い訳になってねえ」
みんなそんなことを言っていて、私も同じようなことを言って笑いながらもその裏で、
(あーだからドウシくんはすごいんだ)
と感じていました。
遠い昔の父の言葉の意味を、私はやっとその時理解したのです。
ちょっと気の利いた人間なら遅刻の理由なんて、いくらでも適当にでっち上げるでしょう。
体調が悪かったとか言って、先生の怒りを回避しようとするでしょう。
でもドウシくんはそんなことはしません。
花を見ていたから花を見ていたと、ただありのままに答えるのです。そんなことを言ったらどう思われるだろうとか、よく思ってもらえるようなことを言おうとか、ドウシくんはそんなことを考えないのです。
言葉で取り繕ったり飾ったり、ドウシくんはしない。しようと考えることすら、ない。
私は自分が今までやってきたことがいかに愚かしかったかに気づき、恥ずかしくなりました。
過去の入賞作を読み込んで審査員に受けそうな型を見つけて、それに合わせた作文を書く。私がこれまでしてきた努力というのは、そういうものでした。それはドウシくんの在り方から、なんと遠いのか。
それから私は、作文コンクールで上位入賞をしようとする努力を一切やめました。
大人が好きそうな題材、好きそうな言葉、好きそうな書き方を模索するのではなく、ただ自分が面白いと思うものだけを書くと決めたのです。
それでもやはり、うまく書きたいという気持ちは消えないのですけれど。すべての飾りを捨て去ることも、結局はできないのですけれど。
だけど考えてみれば、虚飾を嫌う姿勢というのもそれ自体が飾りです。
ドウシくんはきっと、飾ることが嫌だということすら思わないはずです。
飾ろうなんて最初から思わない。あるいは
「もちろん自分だって人からよく思われたいよ」
と正直に認めるのがドウシくんだと思います。
なんてね。
所詮、私はドウシくんのような人間には絶対になれないので、本当はちっとも彼のことがわかっていないんでしょうけど。
「花を見ていました」
「よくがんばったなあ、おれ」
「ぼくはいやしいので」
どの言葉も本当の気持ちがあまりにも素直に表現されたものだからこんなにも鮮烈な印象を残すのだと、私は思いました。
私はこれらの言葉を忘れない。
この先何十年か続く人生の最後まで、思い出として持ち続ける。
私はドウシくんに負けている、勝てない。
私は飾らない人間にはなれないし、そのくせそんなそんな自分を見透かされたくないと思い続けるだろう。飾りの多い人間だと思われたくないがために、飾り気のない人間を演じたりするかもしれない。
この敗北は、生涯続く。
だけど私にもわかることはあって、ドウシくんは正直で誠実で心の柔らかい、いいやつなんだってことはわかる。それがどんなにすごいことかも。そういう人間になりたいと思うし、なれなくても憧れることはやめられない。
だから、よかった。負けてよかった。自分が負けていることを知っている限り私は、この憧れを抱え続けることが出来る。
この憧れが胸の中にあるだけで、自分のことがマシに思える。
だってドウシくんに憧れるってことは、いいやつを目指すってことだもの。これは悪くない。全然悪くないよ。
ドウシくんは、私にとっての恩人だ。
中学を卒業して別々の高校に行って、それきり私たちの人生は離れました。
会うこともほとんどなくなりました。元々親しい友人であったわけでもないですし。
それでも十二年間も一緒のクラスだったという繋がりは残ります。
私たち同級生は、全員ドウシくんの結婚式に招待されました。
素晴らしい式でした。
新郎新婦は似合いの美男美女で。
みんながニコニコしていました。
ドウシくんを祝うために駆けつけた人たちが大勢いました。
高校の仲間、大学の仲間、職場の仲間。みんながドウシくんははいいやつだ、幸せになってほしいと、笑っていました。
あたたかくて美しいエネルギーに満ちた、幸せな日でした。
そこからさらに数年、ドウシくんから電話がありました。
「来年同窓会をやろうと思うんだ、おれが幹事で。ケイキちゃんは参加できますか?」
私はすぐに「行く」と返しました。
即答だったので、ドウシくんは少し驚いたようでした。
「そんなにすぐ決めていいの? 用事とか大丈夫?」
「大丈夫だよ。万難排して行きますよ」
と私は言いました。ドウシくんが幹事なんだから、と心の中で付け加えながら。
ドウシくんは
「助かります。じゃあ他のやつらにも電話をかけなきゃ。それじゃあまた」
と言って電話を切りました。
それが最後になりました。
その数ヶ月後にドウシくんは死んでしまったからです。
あまりにも急なことで、何の心当たりもなかった私は、驚きました。
電話で話した時は元気だったし、病気とも怪我とも聞いていなかったのに、どうしてそんなことに?
私の問いに、答えは返ってきませんでした。
ドウシくんの死因は伏せられていたのです。
けれど伏せられるという事実がすでに雄弁です。
ドウシくんの職場はひどいパワハラの横行する場所だったということを、私はしばらくして知りました。
以前彼が働いていた会社は、ドウシくんに合った、働きやすい場所だったようです。
ですが結婚して子宝に恵まれ家を建てたドウシくんは、別の会社からもっと良い収入でこちらに来ないかと誘いを受けた時、その誘いにのったのです。
たぶん家族のためを思ったのでしょう。そういう人でしたから。
ドウシくんの職場でドウシくんと同じように亡くなった人間は、他にもいたのだという話も後から聞きました。
ドウシくんのお葬式にその職場の人は一人も来ていなかったそうです。以前勤めていた会社の人たちは、大勢来ていたというのに。
その頃プライベートで色々なことがあった私も、結局ドウシくんの葬儀には行けませんでした。
そのことがひどく辛くて私は、葬儀の日には風呂場で一人泣きました。
私はいつかドウシくんのお母さんのところにお線香をあげに行きたいのですが、よりによってドウシくんの亡骸を見つけてしまったのはお母さんだったということもあって、別人のようになってしまったのだと聞きました。
私がドウシくんのお母さんに最後に会ったのは、あの結婚式でした。記憶の中の彼女は、輝くような笑顔を浮かべています。
フロックコートを着たドウシくんとその隣の綺麗な奥さんを眺める彼女の目は、うっとりと細められていました。
この美しい幸せな記憶が、どうしようもない悲しい現実に上書きされてしまうのが嫌で、私は今だに線香をあげに行けずにいます。
こんなの言い訳にもなってないって、自分でも思いはするんですけど。
ドウシくんと彼の言葉のことは、この先何十年も抱えて行くだろうと思った通り、未だにしっかりと覚えています。
だけど本当はこの思い出は全部、微笑むためのものだったのです、
悲しかったりやりきれなかったりする時に思い出して、ちょっといい気持ちになるものだったのです。
それらはすべて、今では痛みに変わりました。
生きていて欲しかった。
「よくがんばったなあ、おれ」
そう言ってたじゃないかドウシくん。そのよくがんばって辿り着いた三億分の一に、こんな結末を迎えさせないでくれよ。
生きていて欲しかった。
ドウシくんが真面目ながんばりやだったのを、私は知っている。他人の言葉や気持ちをどこまでもまっすぐに受け止めるタチだったことも。どちらも美点なのに。
パワハラが横行する職場でそんなドウシくんがどれほどつらい思いをしたのか、まともに考えるとおかしくなりそうだ。
生きていて欲しかった。
私はドウシくんに敗北して、これは生涯続くと思って、でもそれが嬉しかったのに。
この憧れはずっと、私は力づけてくれるものだったのに。
これが自分勝手な言い分なのはわかっているから、それは謝る。ごめんなさい。だけど。
生きていて欲しいんだよ。今もそうなんだよ。あの日からずっと、そう思っているんだよ。
私は今もドウシくんに負け続けているのに、ドウシくんはもう、この世にはいないのです。
『むしろウツだから結婚かと』第6話~みんな違って、みんないい。けどそれだけじゃない
本日2月10日に『むしろウツなので結婚かと』の第6話が更新されました。
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今回は多様性に潜む罠のお話をします。ナニソレ関係あるのかよこの話にってかんじですが、関係あるんです。
えー、多様性というのは生き物にとってとても大事なことです。
一つの要因で種が絶滅したりすることを避けるために多様性は必要です。多様性あればこそ環境や社会の変化に適応できる個体が残って、種が生き延びることができるわけで。
みんな違って、みんないい。素敵な言葉です。
いろんな人間がいるからこそ、人類にはいろんな可能性があるのですから。多様性って本当に素晴らしいですね。
とまあ、こうやってひたすら多様性の素晴らしさを讃え続けることはいくらでもできるわけですが、そこに
罠がないわけでもなく、多様性で苦労することってのもあっちゃうんですよねー。
さて、それではここで抗うつ薬による治療の流れを簡単に書きます。
まず抗うつ薬というのは色々な種類があります。その種類についての説明はここでは省きますから、興味ある方はwikiとか見ればいいじゃない。
医学の世界は進歩が目覚ましく、抗うつ薬も様々なものが開発されています。
新しい薬の方が副作用が少ないとかメリットが色々あるわけですが、体質的に古い薬の方が効くという方もいらっしゃいます。
このたっっくさんある抗うつ薬。誰がどれを飲んでも効くというわけではありません。
Aさんにはよく効く薬が、Bさんにはほとんど効かないということもよくあるのです。だからこそいろんな種類の抗うつ薬があるわけですね。
これこそが多様性に潜む罠です。すべての人間の体が完全に同じものではなく、個々人によって様々な体質があるからこそ、薬の効き方も変わってきてしまうのです。
まあこれは抗うつ薬に限った話ではありません。抗がん剤なんかもそうです。既存の薬が効きづらい人がいるからこそ、そういった人たちを治療するために新しい薬の開発が続けられるわけです。
さてこの多種多様な抗うつ薬。どの薬が効くのかというのは飲んでみないとよくわかりません。
ですから、治療が始まった時に処方された薬が効くかどうかは確実な話ではないのです。
更に抗うつ薬というのは飲んですぐ効くものではありません。効果が現れるまで大体2週間ぐらいかかると言われています
というわけで辛くてたまらない中、藁にすがるような思いで真面目に薬を飲み続けて2週間経ってみたら
「この薬効かないじゃん!」
ということがわかったりするわけです。
そんでしょうがないからまた今度は別の薬を試してみる。
2週間。効けばいいなと願いながら。また効かないかもしれないと怯えながら。
合う薬が見つかるまでは、基本的にこの繰り返しになります。
どうですかこの流れ。
ソシャゲのリセマラにすごく似てると思いませんか。
そんな事言われてもよくわかんないリセマラって何? とお思いの方のために説明します。知ってる方はこのあと数行飛ばしてください。
リセマラとはリセットマラソンの略です。ソーシャルゲームはしばしば開始時に、強いキャラやアイテムが当たる「かもしれない」ガチャ(という言葉すら知らない方はクジだと思ってください。似たようなものです)を回すことができるようになっています。
このガチャは何回でも好きなだけ回せるものではなく、多くは有料です。しかも当たりと言えるキャラやアイテムが出てくる確率はかなり低い。
であるがゆえに、ゲーム開始時に無料で回せるガチャで当たりが出るとたいへんありがたいのです。ゲームを始めてからラクが出来るし、次にまたガチャを回せるのはいつになるかわからないし、回せても当たりがでるとは限らないから。
というわけでこの無料ガチャで当たりが出なかったとき、ゲームをスマホから削除してもう一回インストールし直してガチャを回し直す人がけっこういるのです。このゲーム削除再インストールを、納得のいく結果が出るまで繰り返す作業。これをリセットマラソン、略してリセマラと呼ぶわけです。
「ええー、なにそれめんどくさい。何度もやり直すくらいなら、当たりが出なくてもいいからそのまま遊んだほうが楽しくない?」
とお思いの方。実は私もそう考えちゃう派です。めんどくさいですよねえ、そんな繰り返し。いつ出るともしれない当たりを追い求めてどれだけの時間を費やすのか、考えただけでも気が遠くなります。
実際、同じ絵を見て同じことを説明されて同じ作業を繰り返すことに飽きちゃったり、リセマラが辛すぎてプレイを始める前にゲームを止めてしまう人もいるくらいです。
でもね。
自分に効く抗うつ薬にめぐりあうためのリセマラは、もっと過酷なんですよ。
どんなゲームだって、一度リセットするために2週間かかったりはしません。2週間がかりのリセットを繰り返さなくちゃいけなかったりはしません。
というかこれがもしゲームだったら、好んでプレイしようと思う人はまずいないでしょう。なんだよ2週間ワンセットのリセマラって。
それなのに病気の治療だからこれはやらなきゃいけないわけです。現実ってマジ厳しいですね。
セキゼキさん(仮名)もご多分に漏れず、初回から当たりを引くことはできなかった組でした。
病院に行きたがらないセキゼキさんを説得するために、こちらとしては
「とにかく行けばいいから! 薬飲めばラクになれるから! ね! ね!」
とかむちゃくちゃ言いまくっていたわけです。過酷なリセマラが存在することなんて伏せちゃってね。いや伏せて悪かったと思ってますよ? でもただでさえ病院に行きたくなくて仕方ない人に、こんな話をしたらもう病院拒否の姿勢を強めるだけでしょ!? そりゃ言えませんよ、言いたくても。
そんでセキゼキさんは私の言うことを信じると決めたからこそ病院に行ったわけです。それなのに。
「やっぱり精神科はあてにならない!」
「薬を飲めばラクになるって言ったのに、全然ラクにならないぞ嘘つき!」
とかまあ、そりゃ言いたくなるよねー、ということを言われましたねハイ。あれが辛くなかったといえば嘘になりますが、私よりもセキゼキさんのほうがずっと辛かっただろうと思います。
セキゼキさんはそれでも比較的早く、それなりに合う薬が見つかりました。しんどいリセマラも一ヶ月程度で済んだんですから、かなり運が良かったのです。人によっては年単位で合う薬を求めてさまようことになりますからね……
でもね。
運が良くてもなお、なんとかなるまでの一ヶ月はものすごくしんどかったです。
多様性、本当に素晴らしいし必要なものだとは思いますが、物事はなんでもいい面ばかりじゃないんだなって、実感させられたのでした。
『むしろウツなので結婚かと』第5話~あなたのためにという言葉は、いついかなるときもウツクシクナイ
本日1月27日に『むしろウツなので結婚かと』の第5話が更新されました。
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今回は、お話の最後にセキゼキさんが(仮名)
「病院に行く」
と言い出したときに、私が感じたことなどを書きます。
セキゼキさんがどうして病院に行くと言い出したのか、私には心境変化の理由がわかりませんでした。
なんだかわかんないけどこの人行くって言ってるし、ここで下手に「なんで?」とかきいたらやっぱり行かないとか言い出すかもしれないし、じゃあまあ理由なんてどうでもいいからとにかく行こう!
と判断したのです。
ですからまあ今回のマンガのためにいろいろ話をしたりすると、
「へえ、ホッカイルソー……わかる由もないな」
で感じになります。
いやまあセキゼキさんの北海道時代の話は知っていましたし、ホッカイルソーのことも聞いていましたけれども。でもだからってわからないですよ。
「小学校時代の校長先生が鍵でしたー」
とか
「高校時代の部活の先輩の名前を出せば、説得できましたー」
とか後から言われたようなこの気持ち。
まあでもこの「セキゼキさんいつのまにか病院に行くって言い出したぞ事件」、いや事件ではないですが、ここには重要な示唆が含まれています。
結局セキゼキさんを治すのはセキゼキさんだということです。
私は当時、頑張っているつもりでいました。
セキゼキさんを支えなくてはと思いつめていました。
そうするとだんだん、自分が主体のような気がしてきちゃうんですよね。
私がちゃんとやれば、しっかり頑張れば、セキゼキさんはよくなるんだ! だからもっと頑張るんだ!
とか思ってしまうんです。
ぜんぶ錯覚なんですけどね。
そのことを忘れちゃうと、いろいろ辛いことになりますセキゼキさんも私も。
私にはセキゼキさんを治すことはできない。
主役はセキゼキさん。
病気をよくするために病院に行くのも、薬を飲むのも、きちんと生活をするのも。
全部セキゼキさん自身の選択。
私はこう選んでほしいんだから、セキゼキさんもそう選ぶべきというのは通らないのです。
もちろん、私はこう選んでほしいとお願いすることはできます。ですが強要することはできません。
仮に私の強要した選択でセキゼキさんの身に何か悪いことが起きた時、私がその責任を取ることはできないのですから。
誰だって、他人の人生や選択にきちんと責任を取ることなんてできないのです。
人生を代わってあげることも、時間を巻き戻してあげることもできないのですから。
そんでそこに気づくと今度は、
「じゃあ私って何なんだろう?」
「私がいなくても変わらないんじゃないの?」
などと考えたりもするわけです。
けれど自分が何なのかということに関して言えば、答えは案外すんなりと出ました。
私はつまり、「観客」なのです。
最前列の客です。
観客だから応援することはできる、拍手をすることも、称賛することもできます。
ですが観客は舞台に介入できない。当たり前のことです
どんなにハラハラしても、明るい未来を願っても、舞台に立っているのはセキゼキさんであり、物語を作るのはセキゼキさんの選択なのです。
では観客の存在は無意味なのか?
それもまた違いますよね。
観客がいるというその事実が、力をもたらすことはあるのです。
一生懸命頑張って、相手のために心を砕いて、それなのに思いが届かないときはあるでしょう。
あなたの願いとは裏腹の物語が、紡がれていくときもあるでしょう。
だけど元々観客というのはそういうものです。
舞台の上の誰かは、決して思い通りにはならない。
すべての演劇、ドラマ、映画、マンガ、小説が、自分の願望通りに進行してくれるわけないですものね。
だけどだからってひとは、物語を鑑賞することをやめたりはしないのです。
スポーツでも同じことが言えます。
どんなに強いチームでも、ファンの期待を裏切って負けるときはあります。
けれどそれでファンを辞めるような人は、滅多にいません。
セキゼキさんは、なかなか私の願い通りには動いてくれませんでした。
だけどそれでよいのです。
観客でしかないってことは時々さみしかったりもどかしかったりもしますけど、それでも大切な役割ではあるのですから。
『むしろウツなので結婚かと』第4話~石油王ならすべては解決
本日1月13日に『むしろウツなので結婚かと』の第4話が更新されました。
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セキゼキさんは、とにかく病院に行きたがりませんでした。
会社はこの時、かなり好意的に処理してくれていました。とはいえ、診断書もない状態で仕事を休み続けるのには限界があります。
今後休職するにしろ辞めるにしろ、とにかく病院に行く必要は絶対にあるんだというのが私の認識でした。
ところがセキゼキさんはそれに猛反発。
病院に行ってもいいことなど絶対にない。
ただ辛くて嫌な思いをするだけ。
それくらいなら病院に行かない。
会社が認めてくれないならこのままクビでいい。の一点張りでした
まあ、私が石油王か何かでしたら、セキゼキさんの要望を優先するのもありでした。
「労働など気が向いた時にすれば良い。そなたは好きなようにせよ」
などと鷹揚に片付けて、セキゼキさんが会社をクビになったら油田の一つもプレゼントすればいいからです。
ですが現実として私はただの一般庶民。それもやや貧しい方でしたので、そういうわけにもいかないのです。
お金、福利厚生、雇用の安定。そういうものを精いっぱい大事にしながら生きていきたいのですよ!
会社からは診断書を取得して、傷病手当金を申請するようすすめられていました。
傷病手当金の申請が通れば、今までの給料の三分の二ほどの金額を最長一年半受け取りながら休職ができます。
そんなお金、貰った方がいいに決まってるじゃありませんか。
というわけで私には、このままクビでいいというセキゼキさんの主張は到底受け入れられませんでした。
そもそもお金だの仕事のことがなかったとしても、病気なんだから治療の必要はあるわけですし。
どうすれば病院に行ってくれるのか、毎日頭を悩ませていました。
どんな本を見てもどのサイトを見ても、ウツの疑い濃厚な人間を病院に連れて行く方法は教えてくれません。
たとえば意識を奪って無理やり連行するとしたら、スタンガンで気絶させるのと鈍器で殴るのだとどちらのほうがオススメなのかとか、そういう具体的で実践的な知識が欲しい! と私は思っていました。
気絶した180cm超の大男の運搬方法も教えてもらえないので、結局どちらの方法も諦めたのですが。
あれから何年も経ちますが未だに、あのときの自分がどうするのが正解だったのかがわかりません。
自分がうまくやれていないのは分かっていたし、反省点は思い浮かぶのですが、じゃあどうすれば良かったのかというのは思いつかないのです。
考えているとやっぱりスタンガンで気絶させるのが手っ取り早かったのでは、という結論が出そうになったりします。まあその場合、かなりの確率で私に前科がついてしまいますが……
これはなかなか絶望的な話です。もしあなたが今、身近な誰かを病院に連れて行けなくて困っているのだとしたら、こんなことを聞かされてもどうしようもないですものね。ただ辛くなってしまうだけ。
しかしながらたった一つ、これだけはやっておいたほうがいいと、おすすめできることがあります。
しっかり食べて、しっかり寝ること。できれば毎日、何かを楽しんで笑える時間を持つこと。
健康で元気な自分で居続けるのです。難しいことだとは思いますが。
少なくとも、私には難しかったです。親しい人間がすぐ傍で眠れなくて食事もとれなくて笑顔なんて忘れて苦しんでいるときに、自分はしっかり食べて眠って笑っていようなんて、なんだかすごく気がとがめました。
ですが、それは必要なことだったのだと思います。そもそも寝ない食べない笑わないで私が献身的に尽くしても、別にセキゼキさんはよくなったりしませんからね。むしろ悪影響ですから。自分のせいで周りを苦しめていると感じてしまう。
一心同体、異体同心。仲良く寄り添って心を一つにするというのは、人類の憧れの一つですし、そういう思いが人を救うことはあると思います。
ですが親しい人間同士であっても心が分かたれていること、どれほど近くにいても二人が他人であるということも、時として人を救うのです。
親しい人が病気になったとしても、あなたは健康でいられたほうがいい。
病院に行きたがらない相手を説得するのは確かに容易ではありません。けれど弱った人間が健康で強固な人間を説得するのは、更に困難なことでしょう。
二人の主張が平行線を辿れば、最終的に音を上げるのは弱っている方だと、私は思います。
もちろんこれは、とても残酷なことです。
相手は必ず苦しみ、辛い思いをするでしょう。
ですがそれを嫌った優しさによって、適切な治療を受けずに病者が放置されることになるならば、それはただの害です。
いつか自分は必ずこの人を病院に連れて行くんだ。
だからそれがいつになってもいいように、自分自身の状態をできるだけ良く保とう。
そう決意することが、まずは第一歩なのではないでしょうか。
『むしろウツなので結婚かと』第3話~なんでそこが混ざった?
本日12月30日に『むしろウツなので結婚かと』の第3話が更新されました。
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今回はマンガの中には描かれていないけれど、あの夜に起きた出来事の話をします。
さて私はずいぶん昔、ブログに「集団墓参り」というお話を書きました。
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このお話は何だかちょっとほのぼの文で書いてあって登場する私も落ち着き払っているんですけれども、実際には全然こんな風ではありませんでした。
だってここに出てくる出来事は、ウツになったセキゼキさんがぐるぐると歩き続けたこの夜に起きたことだったのです。
この時、セキゼキさんはとにかく暗くて狭い道を選んで歩き続けました。
なんでそんなことをしたかっていうと第二話の中にあったように
「シロイの知らない場所に行って、会社の人間を呼び出したりできなくするため」
です。
(だけどこっちには会社の人間を呼ぶ気なんて全然ないんだから、早く明るい方に帰りたいんだけど!)
と私は思っていました。
寒いし暗いし人気はないし、このままイイトシした大人ふたりが土地勘のない場所で迷子になってしまうんじゃないかという危惧も抱いていました。
「会社の人、絶対呼ばないから。天地神明にかけて誓うから」
「春とはいえ夜は冷えうので、とても帰りたいんだけど」
「せめてもうちょっと明るいほうにいかない? 明かりは大事だよ?」
などと声をかけるのですが、その都度セキゼキさんは意地になったかのように暗い方へ向かっていく始末。
途方に暮れて私は黙り込み、セキゼキさんはひたすらに歩き。そうやってどんどんどんどん進むうちに、街灯すらまばらになってきました。
少し前までは住宅地の中を歩いていたというのに、もう人家のたぐいはほとんど見えません。
(これは……怖いな……)
セキゼキさんをなんとかなだめなくては落ち着かせなくては、という思いでいっぱいだったはずの頭の中にいつしか闇への純粋な恐怖が湧き上がってきました。
突然、セキゼキさんが立ち止まりました。
「どうしたのセキゼキさん?」
反応はありません。じわっと不安が広がり、私がもう一度声をかけようとしたその時。
セキゼキさんは意を決したようにぱっと走り出しました。
私はその姿を目で追い、なんとセキゼキさんがよりにもよって墓地の中に駆け込んでいくのに気が付きました。
「ええええ、なんじゃいそらああ」
予想外の展開に虚をつかれた私が呆然としていると、すぐに
「うわああああ」
という叫び声が聞こえて、セキゼキさんがこちらに走ってきました。なんというお早いお帰りでしょう。
セキゼキさんはなぜか両手を盛んにパタパタと顔の周りで動かしており、その様子は蜘蛛の巣に突っ込んでしまった人のように見えます。
そしてセキゼキさんは
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
と言いながらすごい勢いで走り去っていきました。
「え……?」
私は何が起こったのか掴めずに立ちすくんでいる間にも、セキゼキさんの背中はどんどん遠ざかっていきます。
(これはもしかして……なにかとても……危険な状況なのでは?)
「うっわああああああ」
そして結局私も、似たような声を出しながらセキゼキさんを追いかけました。
(やめろよおおオオオ! 夜の墓地からごめんなさいとか言いながら駆け戻ってくるのマジ禁止! 恐怖の! イマジネーションを! これ以上ないほど効果的に刺激されてるぞ今ああ!)
とにかくあのときの私には、パニックに陥る権利がかなりあったと思います。
私たちはしばらくがむしゃらに走り続け、やがてセキゼキさんが走るのをやめました。
けれど息を切らし辛そうにしながらも、止まろうとはせず歩き続けます。
「あの、セキゼキ、さん」
私は息を整えながら尋ねました。
「なにが、あったの、かな? 教えて、欲しいん、だけ、ど」
「は、墓場の、中に、はい、入ったら」
「入ったら?」
「ごじゅ、五十人くらいの人が、墓参りを、してて……その人、みんな。急に入ってきた、おれに腹を立てた。みたいで。す、すごい目つきで睨んできたんだ。こ、怖かった。追いかけられたら、どうしようかと思って。走って逃げた」
などと切れ切れに話すセキゼキさん。
「それ絶対にありえないんだけど。だって全然人の気配しなかったというか私の見える範囲では人いなかったし!」
「じゃ、じゃあ一斉に撤収したのかな……?」
とか言い出すセキゼキさん。
「いやいやいや一斉に撤収ってなんだよ? それこそ絶対に気配するでしょ五十人の撤収だよ? と言うかこの話全体的になんなんだよおお! 怖いんだよこの暗くて誰もいないどこともしれぬ場所でさあああ!」
「お、落ち着けシロイ」
「落ち着けって落ち着けって、落ち着けっておま……」
(誰が誰に落ち着けって言うべき夜なんだよ今日は! ちょっとそこ考えろよなああ)
「いいか、すぐオカルトめいた方向に考えてしまうのはシロイの悪い癖だ。やめよう。あの人だってただ単にすごく座高が高いだけだきっと」
「はい? 座高? どういうこと?」
私が聞き返すとセキゼキさんは視線をそらし、
「今その話はやめよう。急ごう」
いきなり早足になってどんどん進み始めます。
「え、ちょっと待って、置いてかないでっ」
必死に追いかけながら、私の頭の中はもうぐちゃぐちゃでした。
(うわああああん、やめろよおおおおお)
(怖さを! 混ぜるな! 頼むから!)
(身近な人間が突然メンタル患って電車に乗れなくなるとか、それだけで既にすごい恐怖じゃん! 私はもうお腹いっぱいなんだよ! なんでそこでジャンル違いの怖さをぶっこんでくるんだよ???)
ジャンルを統一するためにオカルト的発想をやめてみるのですが、それでも怖さの解決はしません。
(セキゼキさんがそういう幻覚を見てるんだとしたら、それはそれでとてもまずいし! 薬物やってるとかだともうぐちゃぐちゃだなオイ!)
(そんでもってオカルトでも幻覚でもなく、現実に墓場に五十人もの人がいて、そんで誰かに目撃されからって音もなく一斉に撤収したんだとしたら……)
それこそが最もヤバくて怖いんじゃないか、ということに更に気づいてしまう私。
(は、犯罪絡みのジャンルだったら一番まずいんだけど!)
思い出すのはマンガ版パトレイバーで、グリフォンの機動実験を偶然目撃したばかりに殺されてしまったカップルのことなど。
(ひゃ、110番は……駄目だあああ、ここがどこだかもよくわからないっ! そもそも警察になんて言えばいいかわからない!)
「五十人ほどで墓参りをしている集団がいたのですが消えました。中には座高の高い人がいました。目撃したのはウツになって電車乗れなくなった私の彼氏です」
(うん意味が分かんない! 警察に電話はやめよう!)
そうこうするうちに走りやめたセキゼキさんはいつのまにか方針を変え、明るくて広い道のほうに向けて歩くようになっていました。
おそらくなのですが、あの時怯えきっていたのは私一人ではなかったのでしょう。セキゼキさんも怖くて、この際会社のこととか全部置いといて人家と明かりが恋しくなっていたのではないでしょうか。
おかげで私たちはやっと駅に戻ってくることができたのです。
「駅だよセキゼキさん! もう帰ろう」
私の言葉に、セキゼキさんは嘘のように素直になってうなずきました。
それから私たちは帰宅してカレー食べたわけですが、ほんと美味しかったですよねあのときのイカカレーチーズトッピングは。
かえってきた、と思いました。
もちろんセキゼキさんがウツによって社会の枠組みから外れたという問題は未解決でしたし気持ちはわりと暗いままでしたが。
それでもホラー世界から普通の現代社会に還ってきたってそれだけでも結構尊く感じられましたよねあの時。
クリスマス目前! はじめてのマジックグッズはコレだ! 減量ver
クリスマスが目前に迫ってまいりました。
「子供が『手品を始めたい』って言い出したからプレゼントしたいんだけど何を買っていいか分からないんだよ」
という方のために。直前過ぎてもしかしたら手遅れかもしれないと思いながらも、私の独断と偏見に基づいたおすすめを紹介いたします。
子供に初めての手品道具を聖夜にプレゼント。すっごくいいですよねそういうの!
オススメしない部門
さて、まずは
「はじめてのマジックグッズとして多くの人に買われてはいくが、それに手を出したらアカン」
と個人的に思っているものを紹介するところから始めます。
「おいおいオススメだけ粛々と紹介すれば済む話だろう」
とお思いのあなた。それは確かに正論ですが、あなたが何も知らずに売り場に行った場合、これらのアイテムを買って帰ってきてしまう確率が異常に高いんですよ! だからあらかじめ言っておくんです。あくまであなたのために言っている。信じろ。
スポンジボール
スポンジボール
これはとても良い商品です。実演で見せてもらえることが多いのですが、見るととても欲しくなります。だからみんな買います。そういう魅力に溢れています。
ですが、おすすめしません。
理由は簡単、スポンジボールは難しいのです。
人前で見せてそれなりにウケを取れるようになるのにたぶん半年くらいかかります。
せっかく買ってもらったプレゼントを披露することもできず、黙々と半年間練習に励むことができる子供って、たぶんかなり稀です。
あなたのお子さんがそういう希少種でないのであれば、避けるのが無難でしょう。
ダンシングケーン
ダンシングケーン
ダンシングケーンはとても良い商品です。
幻想的で夢のある現象。これも実演見ると欲しくなりますね。
ですがオススメしません。
必要な練習量が半端じゃ無いんですよこの商品は。
ダンシングケーンを買います。
帰宅して開封し、説明書を見ます。
ふむふむこうやるのね、と思いながらやってみる。
ここで99%ほどの人が挫折します。誇張ではありません。頭に拳銃を突きつけられて
「挫折は許さねえ……!」
とか謎の悪漢に脅迫されたら、もしかしたら泣きながら続けるかな?
ですがそんな悪漢が現れてくれる可能性はとても低いので、
「ねえこの説明簡素すぎない? どうなってんの?」
と思いながらみんな折れていきます。ダンシングケーンというのは、そういうものなのです。
例えば自転車を買って説明書を読んで、それで乗れるようになる人がいますかって話なんですよ。
自転車と同じように
「これいつの日かできるようになるのかよ?」
という疑問を抱きながら練習を重ね、ある日できるようになるしかないのです。
しかもダンシングケーンの場合は自転車と違って指導者がいない。たった一人で挑むしかない。
獅子すら我が子をここまで深い谷に突き落としませんよ。ましてやあなた、ホモサピでしょう?
「…っ! それでもいいおれは……獅子を越えるっ!!」
という方。東京ディズニーランドのマジックショップで売っているミッキーマウスのダンシングケーンをおすすめします。限定販売だから東京ディズニーランドの中でしか売ってないやつ。
あれはよくできていて、とても扱いやすい商品です。しかもお手頃価格。これなら挫折率が98.5%くらいに下がるかもしれません。
上記二つのマジックは、お子さんのお近くにマジックの指導者がいるのであれば、逆にオススメです。
実演販売を見てつい買っちゃったのであれば、その実演をしてくださったディーラーさんに教えてもらうのが良いでしょう。
実際、実演販売を見てマジックを始めてその流れでディーラーさんに師事し、長じてプロマジシャンになった方というのはけっこういらっしゃいます。
コレ買っておけば無難じゃないですかね部門
マジックブック
マジックブック
「とにかく簡単にマジックしてえ。安くてお手軽なのに盛り上がるやつ!」
というワガママな要望をばっちり叶えてくれる商品です。
簡単だから子供でもすぐに実演できて大満足。それなのに起きる現象は鮮やかでわかりやすくて観客も大喜び! というスグレモノです。
マジックセット
マジックワールド
主に子供用で、複数のマジックを詰め合わせたセットです。ごめんなさいこれについては全然詳しくありません。
いろんな商品がありますが、迷ったらtenyoの商品を買えば良いと思います。
マジックを愛していてよく知っているメーカーが、初心者でも使いやすくお求めやすい商品を開発している。それがtenyoです。マジックをよく知らないメーカーがとりあえず出している商品とは「ちゃんとしている」度が全然違います。
今後お子さんがプロユースにも耐える高品質商品を求め始めたら物足りなくなるかもしれませんが、それまではtenyoに見守られ育まれていこうではありませんか。
子供へのプレゼントしてマジックセットはまさに王道ですよね。
子供でもすぐにできる手品が詰まっていて、ちょっと練習すれば家族や友達の前でショーを見せられるようになります。
ここから手品の喜びを知っていく人も多いのではないでしょうか。
しかしながら真のオススメはこっちです。
だけどね。
マジックブックとかマジックセットとかは、私のオススメではないのですよ。
マジックセットを買いました。すぐできて楽しいです。友達にも見せました。満足したので押入れにしまい、二度と出しませんでした。
結局これが一番よくあるシナリオなんですよ
マジックセットはたいていの場合、子供を一年楽しませることができないんです。せいぜい数日。数週間もったら御の字です。
それで満足できますか?
年に一度のクリスマスプレゼントですよ。できればそれは子供の成長とか今後の人生の喜びとか生涯続く趣味とかに繋がってくれたら、嬉しいじゃありませんか。
マジックというのはなかなか良い趣味なんですよ。自分がやっていたからそう思うわけですけど。
趣味ってのはなんでもそうですけど、練習と学びを繰り返して達成感を得るという、素晴らしい喜びがあるじゃないですか。
そしてこの喜びは、人生のあらゆる局面で人を支えるじゃありませんか。
達成感の乏しい人生を送るってなんか辛いですからね。
マジックの何が素晴らしいかと言うと、いろんなレベルの達成感を得られるところなんですよ!
道具さえ揃えれば実演できる、手軽に得られる喜びもあります。
練習がむちゃくちゃ必要だけどできるようになると凄まじい達成感が得られるものもあって、そういう達成感を得るためのルートがたくさんあるところがいいんですよ。
この練習と学びと達成感の繰り返しをね、子供にぜひプレゼントしてあげたいんですよ私は!!
バイシクルの赤と青
バイスクル トランプ ライダーバック 青赤
というわけで私がお勧めするのはまずトランプ。
そんでトランプなら何でもいいわけじゃないんです、USプレイング社のバイシクルを買ってください。
「なんでその外国の会社のトランプ買わなきゃいけないの?」
日本国産で流通しているトランプはたいていプラスチック製です。そんでプラスチックトランプは絶縁体で滑りませんので、カードマジックの重要なテクニックができなくなってしまうことがあるんですよ。
だから紙製のカードが必要なんですけど国産トランプは二枚貼り合わせ方式のものが中心で、紙の腰が弱いのです。
バイシクルは三枚貼り合わせ方式で腰が強く、滑りもよく、扱いやすいカードですから、とにかく最初はそれを買いなさい。
そうやって、カードマジックを始めなさい。
なぜカードマジックなのか? 答えは簡単、カードマジックというのはものすごく豊かだからです。
たとえば中から花が出てくる帽子があったとしますよね。
その帽子は他の事は出来ないんですよ。帽子がハンカチに変わったりはしないし、帽子の色が黒から赤になったりもしないんです。花を出す。ただそれだけ。
だけどカードはそうじゃないのです。
カード当てもできる、カードの色を変えることもできる、出現するカード、消えるカード、移動するカード、集まるエース。
カードマジックを始めてみれば一組のカードが生み出す世界の広がりに、目を見張ることになります。
だからバイシクルをまず買うのです。
赤と青を両方買う理由は、二組あることで更に広がる世界があるからなんですけど、そこから先は自分で学んでいこうな!
「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」
新版 ラリー・ジェニングスのカードマジック入門
さてカードを手に入れたなら、それをどう使うのかということを学ばなくてはなりません。
入門書が必要です。最初の一冊は重要です。
手品の入門書は数多くありますが、私が選ぶのはラリー・ジェニングスです。
なぜならこの本は
- 解説イラストが良質
- 初心者が身につけるべき技法の解説がわかりやすく順を追って掲載されており、レベルアップに最適
- 掲載されているマジックが名作ぞろい
という入門書としてこのうえなく親切な作りをしているからです。
まず一番目の美点。手品の解説書というのは、文だけでは駄目なのです。どうしても
「左手はこの角度でカードをこう持って、その上から右手をこうかぶせてそのとき右小指をぎゅっと寄せて」
みたいな情報を説明するための視覚情報が必要になります。
そしてそのためには写真よりも圧倒的にイラストの方がわかりやすいのです。
優れたマジック本は解説イラストが良質でなければなりません。
わかりやすさで言ったら今の時代動画なんじゃないのという意見もあるかと思います。
だけど動画じゃなくて本とイラストのほうがすぐれている部分があるってことを説明する文章を昨夜書いたんですけど気持ち悪いくらい長文になったから削りました!
というか他にもいろいろ削ってますから、減量前の長文が読みたい奇特な方がいらしたらぜひTwitterでご連絡を。気持ちの悪い長文がDMでかえってくることでしょう。
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そして二番目の美点。ここが「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」で一番優れているところだなって思うんですけど技法の解説が良いんです。
カードマジックをやる上ではやっぱりテクニック、これを技法って呼ぶんですけど、それをたくさん習得していく必要があるわけです。
カードの切り方、並べ方、配り方、数え方、広げ方、持ち方。
そういった数々の技法を習得しないとカードマジックはできません。
この本では、基本的で有用で重要な技法がわかりやすくしっかりと解説されています。
この本に載っている技法を一章から順々にステップアップしていけば読み終わる頃には、クロースアップマジックの中級者一歩手前くらいにはなっているんじゃないでしょうか。
そして三番目の美点。掲載されているマジックの選択が優れています。
この本に載っているマジックのネタ数は決して多くはありません。ですが、どれも粒ぞろいの名作です。演じることができれば観客のウケが良いものばかり。
掲載されているマジックのネタ数で言えばもっとたくさん載っている本もあるんですけれども、技法に紐づいて厳選された名作が載ってるという点ではラリージェニングスの入門辞典は本当に優れています。
巻末のカードマジック傑作選の「まぼろしの訪問者」とか「タイクーンエーセス」とか大好きなネタです。
というわけで
赤と青のバイシクルと「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」は、あなたのお子さんがマジックという世界に興味を持ち、その道を歩き始める時のこの上ないお供となります。
すぐに見せられるマジックも身につくし、半年くらいみっちり練習すれば一端のクロースアップマジシャンと言えるようになるのではないかと。
そんでね、半年間ラリー・ジェニングスの世話になった人間は、たぶん一生この本を手放しませんよ。そのくらい愛着が生まれます。
あなたがプレゼントした本を我が子が一生大事にしてくれるって、むちゃくちゃ嬉しくありませんか。私なら嬉しいです。
クリスマス目前過ぎて時間がないって? 大丈夫、ネットで買えますから! いける! ラリー・ジェニングスのほうはイブまでにお届けって書いてあったよ今見たら! バイシクルは……Amazonではクリスマス後って書いてあったけど大丈夫! あれはたいていおもちゃ屋で売ってる! 急げ! 走れ! ここが正念場だ!