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だらだら書きますので、だらだら読んでもらえるとありがたく。

『むしろウツなので結婚かと』第3話~なんでそこが混ざった?

 本日12月30日に『むしろウツなので結婚かと』の第3話が更新されました。
comic-days.com
 今回はマンガの中には描かれていないけれど、あの夜に起きた出来事の話をします。

 さて私はずいぶん昔、ブログに「集団墓参り」というお話を書きました。
white-cake.hatenadiary.com
 このお話は何だかちょっとほのぼの文で書いてあって登場する私も落ち着き払っているんですけれども、実際には全然こんな風ではありませんでした。
 だってここに出てくる出来事は、ウツになったセキゼキさんがぐるぐると歩き続けたこの夜に起きたことだったのです。

 この時、セキゼキさんはとにかく暗くて狭い道を選んで歩き続けました。
 なんでそんなことをしたかっていうと第二話の中にあったように
「シロイの知らない場所に行って、会社の人間を呼び出したりできなくするため」
 です。
(だけどこっちには会社の人間を呼ぶ気なんて全然ないんだから、早く明るい方に帰りたいんだけど!)
 と私は思っていました。
 寒いし暗いし人気はないし、このままイイトシした大人ふたりが土地勘のない場所で迷子になってしまうんじゃないかという危惧も抱いていました。
「会社の人、絶対呼ばないから。天地神明にかけて誓うから」
「春とはいえ夜は冷えうので、とても帰りたいんだけど」
「せめてもうちょっと明るいほうにいかない? 明かりは大事だよ?」
 などと声をかけるのですが、その都度セキゼキさんは意地になったかのように暗い方へ向かっていく始末。
 途方に暮れて私は黙り込み、セキゼキさんはひたすらに歩き。そうやってどんどんどんどん進むうちに、街灯すらまばらになってきました。
 少し前までは住宅地の中を歩いていたというのに、もう人家のたぐいはほとんど見えません。
(これは……怖いな……)
 セキゼキさんをなんとかなだめなくては落ち着かせなくては、という思いでいっぱいだったはずの頭の中にいつしか闇への純粋な恐怖が湧き上がってきました。
 突然、セキゼキさんが立ち止まりました。
「どうしたのセキゼキさん?」
 反応はありません。じわっと不安が広がり、私がもう一度声をかけようとしたその時。
 セキゼキさんは意を決したようにぱっと走り出しました。
 私はその姿を目で追い、なんとセキゼキさんがよりにもよって墓地の中に駆け込んでいくのに気が付きました。
「ええええ、なんじゃいそらああ」
 予想外の展開に虚をつかれた私が呆然としていると、すぐに
「うわああああ」
 という叫び声が聞こえて、セキゼキさんがこちらに走ってきました。なんというお早いお帰りでしょう。
 セキゼキさんはなぜか両手を盛んにパタパタと顔の周りで動かしており、その様子は蜘蛛の巣に突っ込んでしまった人のように見えます。
 そしてセキゼキさんは
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 と言いながらすごい勢いで走り去っていきました。
「え……?」
 私は何が起こったのか掴めずに立ちすくんでいる間にも、セキゼキさんの背中はどんどん遠ざかっていきます。
(これはもしかして……なにかとても……危険な状況なのでは?)
「うっわああああああ」
 そして結局私も、似たような声を出しながらセキゼキさんを追いかけました。
(やめろよおおオオオ! 夜の墓地からごめんなさいとか言いながら駆け戻ってくるのマジ禁止! 恐怖の! イマジネーションを! これ以上ないほど効果的に刺激されてるぞ今ああ!)
 とにかくあのときの私には、パニックに陥る権利がかなりあったと思います。

 私たちはしばらくがむしゃらに走り続け、やがてセキゼキさんが走るのをやめました。
 けれど息を切らし辛そうにしながらも、止まろうとはせず歩き続けます。
「あの、セキゼキ、さん」
 私は息を整えながら尋ねました。
「なにが、あったの、かな? 教えて、欲しいん、だけ、ど」
「は、墓場の、中に、はい、入ったら」
「入ったら?」
「ごじゅ、五十人くらいの人が、墓参りを、してて……その人、みんな。急に入ってきた、おれに腹を立てた。みたいで。す、すごい目つきで睨んできたんだ。こ、怖かった。追いかけられたら、どうしようかと思って。走って逃げた」
 などと切れ切れに話すセキゼキさん。
「それ絶対にありえないんだけど。だって全然人の気配しなかったというか私の見える範囲では人いなかったし!」
「じゃ、じゃあ一斉に撤収したのかな……?」
 とか言い出すセキゼキさん。
「いやいやいや一斉に撤収ってなんだよ? それこそ絶対に気配するでしょ五十人の撤収だよ? と言うかこの話全体的になんなんだよおお! 怖いんだよこの暗くて誰もいないどこともしれぬ場所でさあああ!」
「お、落ち着けシロイ」
「落ち着けって落ち着けって、落ち着けっておま……」
(誰が誰に落ち着けって言うべき夜なんだよ今日は! ちょっとそこ考えろよなああ)
「いいか、すぐオカルトめいた方向に考えてしまうのはシロイの悪い癖だ。やめよう。あの人だってただ単にすごく座高が高いだけだきっと」
「はい? 座高? どういうこと?」
 私が聞き返すとセキゼキさんは視線をそらし、
「今その話はやめよう。急ごう」
 いきなり早足になってどんどん進み始めます。
「え、ちょっと待って、置いてかないでっ」
 必死に追いかけながら、私の頭の中はもうぐちゃぐちゃでした。
(うわああああん、やめろよおおおおお)
(怖さを! 混ぜるな! 頼むから!)
(身近な人間が突然メンタル患って電車に乗れなくなるとか、それだけで既にすごい恐怖じゃん! 私はもうお腹いっぱいなんだよ! なんでそこでジャンル違いの怖さをぶっこんでくるんだよ???)
 ジャンルを統一するためにオカルト的発想をやめてみるのですが、それでも怖さの解決はしません。
(セキゼキさんがそういう幻覚を見てるんだとしたら、それはそれでとてもまずいし! 薬物やってるとかだともうぐちゃぐちゃだなオイ!)
(そんでもってオカルトでも幻覚でもなく、現実に墓場に五十人もの人がいて、そんで誰かに目撃されからって音もなく一斉に撤収したんだとしたら……)
 それこそが最もヤバくて怖いんじゃないか、ということに更に気づいてしまう私。
(は、犯罪絡みのジャンルだったら一番まずいんだけど!)
 思い出すのはマンガ版パトレイバーで、グリフォンの機動実験を偶然目撃したばかりに殺されてしまったカップルのことなど。
(ひゃ、110番は……駄目だあああ、ここがどこだかもよくわからないっ! そもそも警察になんて言えばいいかわからない!)
「五十人ほどで墓参りをしている集団がいたのですが消えました。中には座高の高い人がいました。目撃したのはウツになって電車乗れなくなった私の彼氏です」
(うん意味が分かんない! 警察に電話はやめよう!)
 そうこうするうちに走りやめたセキゼキさんはいつのまにか方針を変え、明るくて広い道のほうに向けて歩くようになっていました。
 おそらくなのですが、あの時怯えきっていたのは私一人ではなかったのでしょう。セキゼキさんも怖くて、この際会社のこととか全部置いといて人家と明かりが恋しくなっていたのではないでしょうか。
 おかげで私たちはやっと駅に戻ってくることができたのです。
「駅だよセキゼキさん! もう帰ろう」
 私の言葉に、セキゼキさんは嘘のように素直になってうなずきました。
 それから私たちは帰宅してカレー食べたわけですが、ほんと美味しかったですよねあのときのイカカレーチーズトッピングは。
 かえってきた、と思いました。
 もちろんセキゼキさんがウツによって社会の枠組みから外れたという問題は未解決でしたし気持ちはわりと暗いままでしたが。
 それでもホラー世界から普通の現代社会に還ってきたってそれだけでも結構尊く感じられましたよねあの時。

クリスマス目前! はじめてのマジックグッズはコレだ! 減量ver

 クリスマスが目前に迫ってまいりました。
「子供が『手品を始めたい』って言い出したからプレゼントしたいんだけど何を買っていいか分からないんだよ」
 という方のために。直前過ぎてもしかしたら手遅れかもしれないと思いながらも、私の独断と偏見に基づいたおすすめを紹介いたします。
 子供に初めての手品道具を聖夜にプレゼント。すっごくいいですよねそういうの!

オススメしない部門

 さて、まずは
「はじめてのマジックグッズとして多くの人に買われてはいくが、それに手を出したらアカン」
 と個人的に思っているものを紹介するところから始めます。
「おいおいオススメだけ粛々と紹介すれば済む話だろう」
 とお思いのあなた。それは確かに正論ですが、あなたが何も知らずに売り場に行った場合、これらのアイテムを買って帰ってきてしまう確率が異常に高いんですよ! だからあらかじめ言っておくんです。あくまであなたのために言っている。信じろ。

スポンジボール

スポンジボール
 これはとても良い商品です。実演で見せてもらえることが多いのですが、見るととても欲しくなります。だからみんな買います。そういう魅力に溢れています。
 ですが、おすすめしません。
 理由は簡単、スポンジボールは難しいのです。
 人前で見せてそれなりにウケを取れるようになるのにたぶん半年くらいかかります。
 せっかく買ってもらったプレゼントを披露することもできず、黙々と半年間練習に励むことができる子供って、たぶんかなり稀です。
 あなたのお子さんがそういう希少種でないのであれば、避けるのが無難でしょう。

ダンシングケーン

ダンシングケーン
 ダンシングケーンはとても良い商品です。
 幻想的で夢のある現象。これも実演見ると欲しくなりますね。
 ですがオススメしません。
 必要な練習量が半端じゃ無いんですよこの商品は。
 ダンシングケーンを買います。
 帰宅して開封し、説明書を見ます。
 ふむふむこうやるのね、と思いながらやってみる。
 ここで99%ほどの人が挫折します。誇張ではありません。頭に拳銃を突きつけられて
「挫折は許さねえ……!」
 とか謎の悪漢に脅迫されたら、もしかしたら泣きながら続けるかな?
 ですがそんな悪漢が現れてくれる可能性はとても低いので、
「ねえこの説明簡素すぎない? どうなってんの?」
 と思いながらみんな折れていきます。ダンシングケーンというのは、そういうものなのです。
 例えば自転車を買って説明書を読んで、それで乗れるようになる人がいますかって話なんですよ。
 自転車と同じように
「これいつの日かできるようになるのかよ?」
 という疑問を抱きながら練習を重ね、ある日できるようになるしかないのです。
 しかもダンシングケーンの場合は自転車と違って指導者がいない。たった一人で挑むしかない。
 獅子すら我が子をここまで深い谷に突き落としませんよ。ましてやあなた、ホモサピでしょう?
「…っ! それでもいいおれは……獅子を越えるっ!!」
 という方。東京ディズニーランドのマジックショップで売っているミッキーマウスのダンシングケーンをおすすめします。限定販売だから東京ディズニーランドの中でしか売ってないやつ。
 あれはよくできていて、とても扱いやすい商品です。しかもお手頃価格。これなら挫折率が98.5%くらいに下がるかもしれません。


 上記二つのマジックは、お子さんのお近くにマジックの指導者がいるのであれば、逆にオススメです。
 実演販売を見てつい買っちゃったのであれば、その実演をしてくださったディーラーさんに教えてもらうのが良いでしょう。
 実際、実演販売を見てマジックを始めてその流れでディーラーさんに師事し、長じてプロマジシャンになった方というのはけっこういらっしゃいます。

コレ買っておけば無難じゃないですかね部門

マジックブック

マジックブック
「とにかく簡単にマジックしてえ。安くてお手軽なのに盛り上がるやつ!」
 というワガママな要望をばっちり叶えてくれる商品です。
 簡単だから子供でもすぐに実演できて大満足。それなのに起きる現象は鮮やかでわかりやすくて観客も大喜び! というスグレモノです。

マジックセット

マジックワールド
 主に子供用で、複数のマジックを詰め合わせたセットです。ごめんなさいこれについては全然詳しくありません。
 いろんな商品がありますが、迷ったらtenyoの商品を買えば良いと思います。
 マジックを愛していてよく知っているメーカーが、初心者でも使いやすくお求めやすい商品を開発している。それがtenyoです。マジックをよく知らないメーカーがとりあえず出している商品とは「ちゃんとしている」度が全然違います。
 今後お子さんがプロユースにも耐える高品質商品を求め始めたら物足りなくなるかもしれませんが、それまではtenyoに見守られ育まれていこうではありませんか。

 子供へのプレゼントしてマジックセットはまさに王道ですよね。
 子供でもすぐにできる手品が詰まっていて、ちょっと練習すれば家族や友達の前でショーを見せられるようになります。
 ここから手品の喜びを知っていく人も多いのではないでしょうか。

しかしながら真のオススメはこっちです。

 だけどね。
 マジックブックとかマジックセットとかは、私のオススメではないのですよ。
 マジックセットを買いました。すぐできて楽しいです。友達にも見せました。満足したので押入れにしまい、二度と出しませんでした。
 結局これが一番よくあるシナリオなんですよ
 マジックセットはたいていの場合、子供を一年楽しませることができないんです。せいぜい数日。数週間もったら御の字です。
 それで満足できますか?
 年に一度のクリスマスプレゼントですよ。できればそれは子供の成長とか今後の人生の喜びとか生涯続く趣味とかに繋がってくれたら、嬉しいじゃありませんか。
 マジックというのはなかなか良い趣味なんですよ。自分がやっていたからそう思うわけですけど。
 趣味ってのはなんでもそうですけど、練習と学びを繰り返して達成感を得るという、素晴らしい喜びがあるじゃないですか。
 そしてこの喜びは、人生のあらゆる局面で人を支えるじゃありませんか。
 達成感の乏しい人生を送るってなんか辛いですからね。
 マジックの何が素晴らしいかと言うと、いろんなレベルの達成感を得られるところなんですよ!
 道具さえ揃えれば実演できる、手軽に得られる喜びもあります。
 練習がむちゃくちゃ必要だけどできるようになると凄まじい達成感が得られるものもあって、そういう達成感を得るためのルートがたくさんあるところがいいんですよ。
 この練習と学びと達成感の繰り返しをね、子供にぜひプレゼントしてあげたいんですよ私は!!

バイシクルの赤と青

バイスクル トランプ ライダーバック 青赤
 というわけで私がお勧めするのはまずトランプ。
 そんでトランプなら何でもいいわけじゃないんです、USプレイング社のバイシクルを買ってください。
「なんでその外国の会社のトランプ買わなきゃいけないの?」
 日本国産で流通しているトランプはたいていプラスチック製です。そんでプラスチックトランプは絶縁体で滑りませんので、カードマジックの重要なテクニックができなくなってしまうことがあるんですよ。
 だから紙製のカードが必要なんですけど国産トランプは二枚貼り合わせ方式のものが中心で、紙の腰が弱いのです。
 バイシクルは三枚貼り合わせ方式で腰が強く、滑りもよく、扱いやすいカードですから、とにかく最初はそれを買いなさい。
 そうやって、カードマジックを始めなさい。

 なぜカードマジックなのか? 答えは簡単、カードマジックというのはものすごく豊かだからです。
 たとえば中から花が出てくる帽子があったとしますよね。
 その帽子は他の事は出来ないんですよ。帽子がハンカチに変わったりはしないし、帽子の色が黒から赤になったりもしないんです。花を出す。ただそれだけ。
 だけどカードはそうじゃないのです。
 カード当てもできる、カードの色を変えることもできる、出現するカード、消えるカード、移動するカード、集まるエース。
 カードマジックを始めてみれば一組のカードが生み出す世界の広がりに、目を見張ることになります。

 だからバイシクルをまず買うのです。
 赤と青を両方買う理由は、二組あることで更に広がる世界があるからなんですけど、そこから先は自分で学んでいこうな!

「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」

新版 ラリー・ジェニングスのカードマジック入門
 さてカードを手に入れたなら、それをどう使うのかということを学ばなくてはなりません。
 入門書が必要です。最初の一冊は重要です。
 手品の入門書は数多くありますが、私が選ぶのはラリー・ジェニングスです。
 なぜならこの本は

  1. 解説イラストが良質
  2. 初心者が身につけるべき技法の解説がわかりやすく順を追って掲載されており、レベルアップに最適
  3. 掲載されているマジックが名作ぞろい

 という入門書としてこのうえなく親切な作りをしているからです。

 まず一番目の美点。手品の解説書というのは、文だけでは駄目なのです。どうしても
「左手はこの角度でカードをこう持って、その上から右手をこうかぶせてそのとき右小指をぎゅっと寄せて」
 みたいな情報を説明するための視覚情報が必要になります。
 そしてそのためには写真よりも圧倒的にイラストの方がわかりやすいのです。
 優れたマジック本は解説イラストが良質でなければなりません。

 わかりやすさで言ったら今の時代動画なんじゃないのという意見もあるかと思います。
 だけど動画じゃなくて本とイラストのほうがすぐれている部分があるってことを説明する文章を昨夜書いたんですけど気持ち悪いくらい長文になったから削りました!
 というか他にもいろいろ削ってますから、減量前の長文が読みたい奇特な方がいらしたらぜひTwitterでご連絡を。気持ちの悪い長文がDMでかえってくることでしょう。
twitter.com



 そして二番目の美点。ここが「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」で一番優れているところだなって思うんですけど技法の解説が良いんです。
 カードマジックをやる上ではやっぱりテクニック、これを技法って呼ぶんですけど、それをたくさん習得していく必要があるわけです。
 カードの切り方、並べ方、配り方、数え方、広げ方、持ち方。
 そういった数々の技法を習得しないとカードマジックはできません。
 この本では、基本的で有用で重要な技法がわかりやすくしっかりと解説されています。
 この本に載っている技法を一章から順々にステップアップしていけば読み終わる頃には、クロースアップマジックの中級者一歩手前くらいにはなっているんじゃないでしょうか。


 そして三番目の美点。掲載されているマジックの選択が優れています。
 この本に載っているマジックのネタ数は決して多くはありません。ですが、どれも粒ぞろいの名作です。演じることができれば観客のウケが良いものばかり。
 掲載されているマジックのネタ数で言えばもっとたくさん載っている本もあるんですけれども、技法に紐づいて厳選された名作が載ってるという点ではラリージェニングスの入門辞典は本当に優れています。
 巻末のカードマジック傑作選の「まぼろしの訪問者」とか「タイクーンエーセス」とか大好きなネタです。

というわけで

 赤と青のバイシクルと「ラリー・ジェニングスのカードマジック入門」は、あなたのお子さんがマジックという世界に興味を持ち、その道を歩き始める時のこの上ないお供となります。
 すぐに見せられるマジックも身につくし、半年くらいみっちり練習すれば一端のクロースアップマジシャンと言えるようになるのではないかと。
 そんでね、半年間ラリー・ジェニングスの世話になった人間は、たぶん一生この本を手放しませんよ。そのくらい愛着が生まれます。
 あなたがプレゼントした本を我が子が一生大事にしてくれるって、むちゃくちゃ嬉しくありませんか。私なら嬉しいです。
 クリスマス目前過ぎて時間がないって? 大丈夫、ネットで買えますから! いける! ラリー・ジェニングスのほうはイブまでにお届けって書いてあったよ今見たら! バイシクルは……Amazonではクリスマス後って書いてあったけど大丈夫! あれはたいていおもちゃ屋で売ってる! 急げ! 走れ! ここが正念場だ!

『むしろウツなので結婚かと』第2話〜訂正できないのが妄想だ

 本日12月16日に『むしろウツなので結婚かと』の第2話が更新されました。
comic-days.com
 今回はその第二話の中でセキゼキさんの身に何が起きているのかという話をします。


 会社に行けなくなってしまったセキゼキさんは
「みんなおれに怒っている」
「もう許されない」
「仕事ができない自分は人としてダメだ」
 などと自分を責める言葉を口にするようになったわけですが、この過剰な罪悪感と自己嫌悪と自罰的な態度はウツの間ずっと続きました。マンガで描かれたこの夜だけではなかったのです。
 別に一日中
「おれはだめだ」
 と呟き続けているわけではありません。それに近くなるときもありますけど、せいぜい長くて数時間程度のことですよ。24時間の大半は、そんなことは言わずにいます。
 ですが行動とか考え方のベースには常に「おれはだめだ」という確固たる信念が、どすっと居座っているように思えました。
 例えばタンスの角に足の小指をしたたかにぶつけるようなことがあれば、セキゼキさんの頭も痛みでいっぱいになります。罪悪感も自己嫌悪も自罰も何もかも忘れてしまうでしょう。
 けれどそれはあくまで表面上のことで、そういう目先の刺激がなくなれば心の底に沈んでいる
「おれはだめだ」
 がまた表面に浮かび上がってくるのです。
 私は何度もセキゼキさんに
「考えすぎだよ」
 と言いました。そんなことないよ大丈夫だよ誰も怒ってないよとか、そんなこと。そういう慰めの言葉が役に立ったことは、一度もありませんでした。
 おれはもうダメとか、物がちゃんと考えられないとか、自分の能力に疑念を呈するようになってるくせに、だったら何でここで私の意見に賛同しないんだこの人は! どうせ自分が信じられないんだったら、とりあえず私の判断を全面採用してみてもいいだろうが!
 というのは結構よく思いました。
 ひたすら後ろ向きなこと考えて何かいいことあるのか? ないだろ! じゃあやめようよ!! ということも思いましたし、口にしました。
 だけどそういうのは最初から無理なことだったのです。私はずっとセキゼキさんに、不可能な選択肢を選ぶよう迫っていたのです。
 なぜならセキゼキさんのその過剰な罪悪感はそもそも、ウツのもたらす「妄想」だったからです。
 私がそのことに気づいたのは、少し経ってからのことでした。


 精神医学の世界で言う妄想には、一次妄想と二次妄想という分類があります。
 一次妄想は「なんでそんな突拍子もないことを信じ切っているのかわからない」もの。第三者には了解できない妄想のことです。

  • 秘密組織に狙われて盗聴されている
  • 毒電波であやつられている
  • 自分はナポレオンである

 などです。

 そして二次妄想は、第三者からみても「なんでそういう思い込みを持つようになったかなんとなくわかる」妄想です。

  • 仕事でミスをしてしまった→職場の人はみんな自分を嫌っているに違いない
  • 身体がだるくてやる気がわかない→自分は不治の病で死に瀕しているに違いない

 などです。

 この分類はあくまで便宜的なものであり、一次妄想にも本人なりの根拠と理路があったりしますので、実際にはきれいに分かれるものではないのですが、一応こう分けます。
 そして統合失調症では一次妄想が多く見られるのに対し、ウツで見られる妄想は基本的に二次妄想であるというのが特徴となります。


 セキゼキさんが
「おれはもうだめだ」
 と落ち込むとき、その思い込みは私にとって突拍子がなくて理解不能なものではありませんでした。
 三十代の働き盛りの男性が仕事に行けなくなったらそりゃ落ち込むだろうな。
 いきなり仕事に穴をあけたら、会社の人間にどう思われてるか気になってもおかしくないよな。私だって病欠したら職場のこと気になったりするし。
 そういう一定の理解があったからこそ私は、
「それはちょっと考えすぎだよ」
 とセキゼキさんを説得しようとしたわけです。もしも仮にセキゼキさんが、
「外出すると『機関』がおれの命を狙ってくる」
 とか
「盗聴器で頭の中の考えを抜き取られてしまう」
 とか、そういう一次妄想らしいことを言っていたのならば、私は最初から彼を説得しようとはしなかったでしょう。
 もともと私は、妄想というものについての知識を少し持っていました。不熱心な学生ではあったけれど一応心理学を専攻していましたし、知人に精神科医がいたこともありましたし。精神医学をきちんと体系立てて学んだわけではありませんので、それはあくまで素人の半端な聞きかじりに過ぎませんでしたが。
 それでもその聞きかじりの知識も、ないよりはマシだったのです。


「会社だけじゃない、家族だっておれに怒っている」
 とセキゼキさんが言い出したあたりで私は、
(さすがにこれはおかしいな?)
 と気づきました。会社の人間のことを信じられないのはまだわかりますが、家族のことまで疑うのはあまりにも病的に感じられたのです。
 実際、セキゼキさんの家族はこういうことで人を責めるような方たちではありませんでしたし。
(にも関わらずこの人は、家族が激怒していると思い込んでる。無根拠に。いくらなんでも罪悪感がすごすぎる。この病的な罪悪感の凄さはもしかして……)
 罪業妄想、という言葉を私はやっと思い出したのです。


 ウツの妄想は以下の3つに分類されます。

  • 自分が病気であると思い込む「心気妄想」
  • 自分は酷いことをしてしまった罪深い存在であり、罰されるに違いないと信じ込む「罪業妄想
  • 自分にはお金がないと思う「貧困妄想」

 これらはまとめて「微小妄想」と呼ばれ、自身をネガティブに過小評価する妄想です。


 セキゼキさんの
「みんなが怒っている。おれは許されない」
 という思い込みが罪業妄想であると気づいた時点で、さらに私がもう一つ思い出したことがありました。
(妄想は訂正できない……!)


 そう、精神医学の世界では妄想とは「訂正不能な誤った信念である」と定義されているのです。
「あなたはナポレオンの生まれ変わりではないよ、フランス語が話せないでしょう」
 と言われて
「言われてみればそうだね。軍事的才能も特にないしね」
 と思えるのであれば、どんなに突拍子がなかろうがそれは妄想ではないのです。
 どんな証拠を出しても、どれほど完璧に論破され説得されてもなお、その信念を覆すことはできないからこそ、それは「妄想」と呼ばれるのです。
 私はセキゼキさんの思い込みがなんとなく説得できそうな気がしてしまったのですが、それは間違っていたのです。
 自分の言葉が通じない、何の役にも立たないことを辛く感じていましたが、全部当たり前のことでした。だって彼は病気で、それは妄想だったんですから。
 どうして少しは知識があったはずなのに、セキゼキさんが妄想を抱いていることに気づかなかったのか?
 それはやはり私の中にも、セキゼキさんが病気であるという現実を認めたくない思いがあったからです。セキゼキさんが妄想を持っているなどと思いたくはなかったのです。
 言葉が届かない場所に彼が行ってしまったということを、知りたくなかった。
 セキゼキさんとはいろんな話をたくさんしました。
 これまでも話した、これからも話すだろう。話していてこんなに楽しくて、言葉がよく通じる人はいないと、私はそう思っていました。いろんなことが分かり合える人だと。
 だから話していたかった。話し続けて納得しあえるようになりかった。それがもうできないのかもしれないと思うと、かなしくておそろしくて、辛かったのです。
 けどまあ。
 だからって現実を認めないということは、何の救いにもならないんですよね。どんなにしんどくても今の状態をきっちり把握しないと、前に進むことは難しいのです。
 あーこの人は病気なんだ、妄想が出てしまっているんだ、この悲しくて辛くてしんどい思い込みは、私の言葉によって何とかできるものではないんだ。
 考えすぎだよといくら言われたって、そもそもそういう病気だからどうしようもないんだ。
 そう認めたとき私はやっと、少し楽になったのです。
 私の行動指針は変わりました。
 妄想を訂正することができないのならば、そもそも説得を試みることが無駄でした。そんなことをするくらいなら、セキゼキさんの足の小指を掴んでタンスの角にぶつけ続けるほうがマシなくらいです。
 妄想にとらわれないよう、目先の刺激でセキゼキさんの考えをそらし続ける。
 そう決めてしまえば、無益な説得よりもずっとそちらのほうが楽で、やりがいもありました。
 ご飯おいしいね、このゲーム面白いね。
 そういうことで頭が占領されているうちは、セキゼキさんの妄想も心の底の方に沈んでいてさほどの悪さはしないのですから。
 日常の中のささやかな喜びを見過ごすことなく積み重ねること。
 しんどい日々をやり過ごすためには、そんなとても平凡なことがとても重要だったりしたのでした。

公園のベンチの写真です。ベンチの横には木があります。
電車に乗れなくなったセキゼキさんが12時間近く座り続けていた公園のベンチ。

半分の優しさがいつでも通用するわけじゃない~『むしろウツなので結婚かと』第1話について

 さて、本日2018年12月2日より、コミックDAYSで『むしろウツなので結婚かと』の連載が開始いたしました。
comic-days.com

 折角の機会ですので、これからお話が更新される都度、原案者からひとこと的な文章を書かせていただきます。
 当時はわからなかったけれど今になればわかること、学んだことなどありますので。
 マンガを読む際のこぼれ話としてお楽しみいただけると幸いです。

というわけで本文

 ずっと昔、救急箱の整理をしていたら古い鎮痛剤が出てきて、なぜか半分だけ変色して茶色になっていたことがありました。
 もう飲んじゃいけないやつだろうなコレと悟ってその場で捨て、
 「なぜ半分だけ茶色かったんだろう?」
 「もしかしてあれはバファリンだった? じゃあ変色していた半分は優しさ? それとも優しさ以外? ……やっぱり優しさだ。古くなりすぎてもう飲んじゃいけないってことを教えてくれたんだから。ありがとう」
 などといい話風にしめようとしましたが、そういう問題じゃないですよね。古い薬はマメに捨てろ自分。命に関わる話だぞ。
 とまあ、そんなことが起こってしまうくらいシロイは、普段薬をのみません。子供の頃住んでたエリアが洒落にならないど田舎で
「週に一回しか開かない診療所に皆が群がる」
 というすんごい環境だったせいで、もう医者とか薬とかが砂漠の蜃気楼で垣間見るオアシスみたいな感覚なんですよねある意味。そんなわけではちみつ生姜湯だのネギだの、民間療法につい頼ってしまいます。
 対照的にセキゼキさん(仮名)は、よく薬をのみます。もともと頭痛持ちなんだそうで、解熱鎮痛剤のたぐいはいつもしっかりと常備しています。
「眼精疲労で頭痛が酷い。痛み止め飲んでおこう」
 などと言いながら錠剤を出してくるセキゼキさんを見ると私は最初の頃、
「うわー文明人だなあ」
 と思っていました。やっぱり23区育ちは違うなって。眼精疲労が原因とかきくと、
「仕事がんばってるんだなあ」
 と感心したりして。

 以前の職場にリーダーのカサキさん(仮名)という方がいらしたのですが、この人もよく鎮痛剤を飲む人でした。
「カサキさん、お加減わるいんですか? 早めに帰られては?」
「おれ、もともと頭痛持ちだから、疲れるとどうしてもね。これくらいじゃ帰るわけにはいかない。シロイさんは頭痛とかないんだ? 羨ましいなあ」
 などという会話をして、その都度
「カサキさんもお仕事がんばってるからなあ。みんな薬飲んでがんばって偉いなあ。都会育ちなんだなあ」
 とか思っていました。健康体で特に辛さもなく仕事をしている自分に、謎の後ろめたさすら感じていました。
 そんでまあ、カサキさんは当時私の隣の席だったのでしょっちゅう痛み止めを飲んでいるのがわかりまして、辛そうなのにがんばって偉いなあ、それにしても最近ほんとよく薬飲んでるなあなどと思っていましたらある日、メンタルを病んで仕事に来れなくなってしまったんですよね。
 
 セキゼキのかばんから鎮痛剤の空き箱と空のシートがごっそり出てきた時、私は
「疲れた……」
 とため息をつきながら痛み止めを飲んでいたカサキさんの姿をまず思い出しました。
 解熱鎮痛剤の箱を見てみますと、一度服用したら数時間は空けてから次の薬を飲むようにという注意書きがあります。
 この注意書きをきちんと守っていれば、セキゼキさんが短期間でこれほど大量に解熱鎮痛剤を消費することはありえません。
 思い返すとカサキさんもやはり、あるべき間隔をぶっちぎってやたらしょっちゅう薬を飲んでいた気がします。普段自分が薬を飲まないせいで、私はそのことに気づいていませんでした。
 何がどうなっているのか全然わからないけれどやっちゃいけないハイペースでがぶがぶ鎮痛剤を飲んで頭痛に耐えているという二人の共通点は、私をひどく不安にさせました。

 その頃の私はまだ知らなかったんですが、頭痛ってのはウツの初期の兆候の一つなんだそうです。
 薬を飲んでも全然よくならない頭痛に悩まされて内科を受診したらウツだった、などというケースも珍しくないそうで。
 メンタルの不調というと気持ちの落ち込みとか不眠とかそういうものをまず想像しますが、身体と心は密接に繋がっていますから。心の不調が身体に出ることもあるわけです。
 カサキさんもセキゼキさんもしょっちゅう痛み止めを飲んでいた時点で既に、精神状態は悪化していたんですよね。
 思い返すと病気発覚直前の二人の共通点としては、やたらしょっちゅう「疲れた」とか「肩がこった」と口にしていたんですけれども、これもウツの初期の症状だったりします。
 ちなみに、ウツの頭痛には市販の解熱鎮痛剤は効きません。だからこそ彼らは全然よくならない頭痛に苦しんで、薬をやたらとしょっちゅう飲んでいたわけです。
 そこまで薬が効かない時点で自分の異常に気付こうよという気もしますが、ウツの症状の一つに「病識(自分は病気であるという自覚)がない」というのがあるってのが、いっそう事態を厄介にしてるんですよね。

 あの頃の職場で病んでしまった人はカサキさんだけではありませんでした。大体三ヶ月に一人のペースで心を病む人が現れ、空っぽの机がぽこぽこと増えていきました。
 いつもね、なんとなくそうなる前に違和感はあるんです。あれこの人なんか前と違うなって、心配になるんです。
 でも、知識がないとそういう違和感を行動に結びつけることができないんですよね。心配だなーって思っているだけでは事態は何も変わりませんから。結局、壊れるかな壊れるかなやっぱり壊れたって思うことを繰り返すだけ。
 もちろん、
「最近メンタル病んでません? カウンセリングか精神科に行ったほうがいいのでは?」
 なーんてことはフツー、職場の同僚には言えませんけど。すげー失礼だと思われるでしょうし。
 親しい間柄だったセキゼキさんに対しては何度も強めに精神科受診をすすめたんですけど、ただ怒らせて終わりました。
 そういうもんです。言えないし、言っても怒らせるし、だから何も予防することはできず悲劇は予想通り起きてしまうのです。

 でもまあ、
「どうせ言っても嫌がられるんだからウツの初期症状についての知識なんてあっても無駄」
 ってことにはならないんですよね。
 知識があればこそ、相手をうまく気遣えるってことがあるわけですから。当時の私は知識がなかったからこそ、闇雲に精神科受診をすすめることしかできなかったわけです。振り返ればなかなかの悪手でしたね。
 今だったらたとえば頭痛をとっかかりにして総合診療科の受診をすすめるとか、そういう手が思いつきます。
 総合診療科というのはあえて専門を絞らず、診断のついていない患者さんの症状をみて、どの専門科で治療を受けるべきか診断する科です。
 精神科受診を嫌がる人であっても、総合診療科の受診であれば受けてくれる可能性が高いですからね。頭痛外来をすすめるってのもいいと思います。
 総合診療科にせよ頭痛外来にせよ、まだやっている病院が少ないのが難点ですけれども。
 内科のお医者様がウツに気づいてくれるときもあるわけですから、とりあえず病院に行きましょう、とすすめてみるだけでもよいと思うのです。
 薬じゃ効かない頭痛がずっと続いているようだったらとにかく病院に行くのがいいと思うんですよね。精神的な問題じゃなくて脳の器質的な疾患が原因だったりしたら、なおさら危なくて一刻を争うわけですし。
 頭痛が続いたらまず病院! を合言葉にやっていこうではありませんか。

12月2日からコミックDAYSで「むしろウツなので結婚かと」の連載が開始します

 今年も残りわずかとなりました。年内にやっつけなきゃいけないタスクの多さに日々青ざめる今日この頃ですが、皆様はいかがお過ごしですか?
 さて2018年12月2日正午から、コミックDAYS上で私シロイが原案の『むしろウツなので結婚かと』の連載が開始します。
 隔週日曜の更新となります。
『むしろウツなので結婚かと』連載告知カット画像です。

 コミックDAYSブログでの告知記事はこちらです。
comic-days.com
 この作品は私が当ブログで2010年頃シリーズで書いた「二年間のハジマリとオワリとツヅキ」を原案として、『鉄子の旅』『みんなのあるある吹奏楽部』の菊池直恵さんにコミカライズしていただいたものとなります。
 漫画の内容はブログとイコールではありません。ブログ未掲載の文章も実はけっこうあって、菊池さんにはその内容も盛り込んでもらっているからです。
 というわけで
 「もうその話ブログで読んだしー。同じ話繰り返して読む趣味ないしー」
 などということはおっしゃらずにぜひお読みください。新エピソードもいっぱいですよ。それにまた漫画ってのがいいんですよー。文章とは違った味がありますし、菊池さんの構成と表現は素晴らしいですし!
 ブラックITの企業勤務のアラサー男子セキゼキさん(仮名)がウツになって、交際相手であった私シロイも巻き込まれていくお話です。ほらーこのご時世、心病んでお仕事できなくなることってありますでしょ? 正直すげーしんどいし困るし苦しいですよね。同病相哀れむじゃないですけれど、似たような状況の人間の身に起きたことは何らかの参考になったりすることがあるわけで。
 当時のセキゼキさんや私のような方々が、この作品を読んでちょっとラクになってくれたりすると、嬉しいです。
 心の病とか自分とは無縁だぜ! というあなたにもぜひ。あなたのメンタルが鋼でも、鋼じゃない人と巡り合ったりすることはけっこうありえますから。

父の親友とその裏面

 昔、私の父シロイ・ネコヒコ(仮名)の職場にはドウドウさん(仮名)という二歳年上の先輩がいました。
 二人はたいそう仲が良く、ドウドウさんの奥さんが出産なさったときは、独身だったネコヒコが名付け親になるよう頼まれたほどでした。
 ネコヒコが母と出会ったときは、
「シロイの家にはティーセットがないだろう。彼女が家に来てくれたとしても、そんなんじゃ振られちまうぜ」
と言ってドウドウさんは高級なティーセットを揃え、ネコヒコのもとに持ってきてくれました。
 私の故郷はたいそうな田舎です。ネット通販もなかった時代に珍しくて高級なティーセットを手に入れるのは、きっと大変なことだったでしょうに。
 ドウドウさんはニコニコ笑いながら当然のように、手を尽くしてくれたのです。

 

 幼い頃の私は、ドウドウさんにたいそう懐いていました。
 私は彼を「じいちゃん」と呼んでおり、その都度両親は慌てて謝り、
「その呼び方はやめなさい」
ときつく言ったものです。
 私はなぜそんな風に止められるのかわからず、きょとんとしていました。
 両親は彼を「ドウドウさん」と呼びなさい、と命じます。
 けれどそれはあまりに他人行儀で遠い呼び方のように思えました。

 

 この人がわたしのおじいちゃんじゃないことはわかっている。
 だけどわたしにとってこの人は、おじいちゃんみたいに近くて安心できる人なんだ。

 

 あの頃の私がぼんやり感じていたのは、大体そんなようなことです。
 だから他の大人と同じように呼ぶのは嫌で。
 近しくて気安くて特別な、そういう呼び方が必要だと思っていたのです。

 そして私のその思いは、ドウドウさんにちゃんと伝わっていたようでした。
「いいよいいよ。じいちゃんて呼べよ、ケイキ。な?」
 そう言ってじいちゃんは屈み込んで優しい目で笑い、私は嬉しくなって彼のスーツに顔をこすりつけたりしました。
 固くてちくちくしてタバコのにおいのする、懐かしいじいちゃんのスーツ。

 

 さて。
 月日が流れるうちに、ドウドウさんと父の関係がかつてのように緊密ではなくなっていくことを、子供である私も感じ取るようになりました。
 母と小声でドウドウさんの話をしながら、何度も首を振る父。
 しょっちゅう我が家にやってきては楽しそうに父と酒を飲んでいたドウドウさんの顔を見る回数はどんどん減り。
 中学生になる頃には仕事で何かあるんだろうなと、私にも見当がつくようになりました。
 久しぶりに顔を合わせた時、
「おう、ケイキ。じいちゃんだぞ」
と笑う彼に、私は頭を下げながら
「ドウドウさん、お久しぶりです」
と挨拶をしました。
 ドウドウさんは驚き、それからちらりと寂しそうな顔をしましたが、すぐ笑顔に戻りました。

 

 やがて私は、父の会社で大規模な人事異動が行われたことを知りました。
 ドウドウさんは順調に出世を重ね、会社のトップにかなり近いところまで登っていたのですが、大幅に降格させられたそうです。
 全社をひっくり返したような騒ぎの中で、父のポジションは変わりませんでした。にも関わらず、父はひどく消耗しきった様子でした。
 その後も父は鬱々とした表情を浮かべるようになり、疲れたように顔をこすることが増え、しばらくして長年勤めたその会社を辞めました。

 

 数年後、ドウドウさんが亡くなりました。
 既に成人して親元を離れていた私は、帰省時に父の口からそのことを知らされました。
 そして父は打ちのめされたような表情を浮かべながら、ドウドウさんの葬儀の話を始めたのです。
 人生の総決算とも言えるその場で、ドウドウさんの身辺のスキャンダルが大量に吹き出したこと。
 生前のドウドウさんが社内の自分の立場をフル活用して、思いつく限りのあらゆる不正な利益を得ていたことが明らかになりました。
 大勢の人がドウドウさんを恨んでいました。
 それはドウドウさんの家族すら例外ではなく、父が名付け親となった息子さんまでもがどこか冷めた表情をしていたそうです。

 冷ややかで涙の少ないお葬式。
 ドウドウさんはなぜかシロイ・ネコヒコとその家族の前でだけ別人のように振る舞っていたのだということを、私はその時知りました。

 

 父はドウドウさんの悪評について、それまで知らずにいたわけではありません。
 何十年も一緒に働きながら、悪しき面を知らずに済ませるのは難しいですから。
 だからこそ父とドウドウさんの距離は、少しずつ開いていったのです。
 決定的となったのは会社のトップ近くにまで出世したドウドウさんがライバルを追い落とそうと、派閥争いを激化させたことでした。
 父はドウドウさんの派閥に加わることを拒み、ライバルの派閥にも与しないことを選びました。
 そして一人こつこつと両派閥の動きを観察し、問題のある行為を記録して証拠を集め続けたのです。
 父はその証拠を、所属会社の親会社に提出しました。
 ドウドウさんとライバルの双方が厳しい処分を受け、結局親会社が外部から連れてきた新しい人材を社長に据えました。
 父は一連の流れに消耗しきってしまい、会社を去ることを決めたのです。

 

 多くの悪評を耳にし、愚かな派閥争いを引き起こしたのを目にして。
 それでも父は、ドウドウさんに対して冷ややかになりきれずにいました。
 ドウドウさんは父の前ではずっと優しくて面倒見が良くてにこやかな、頼りになる先輩のままでしたから。
 開いていく距離を感じ、それを詰めようとは決して思わないながらも。
 父はどこかでドウドウさんを信じ続けていたのです。

 

 けれど最後に遺族の家で出された一杯のお茶が、父の心を砕きました。
 目の前に置かれた湯のみに、やけに見覚えがあったのです。
 どうして見覚えがあるんだろう。考えて父は、気づきました。
 当たり前だ、これは会社の備品だったやつじゃないか。
 父は顔を上げ、辺りを見回しました。
 そしてドウドウさんの家の中が、見覚えのある品だらけであることに気づき。
 あんなにしょっちゅうシロイ家を訪れたドウドウさんが、なぜ自分のことを家に呼ぼうとしなかったのかを知ったのです。

 父は理解しました。
 自分の目に映っていた姿ではなく、周囲が悪しざまに言っていた姿こそがドウドウさんの真実だったのだろうと。
 清廉潔白な人でないことはわかっていた。どこか暗い部分があるとは感じていた。
 けれどそれだけではない人だと、良い部分もたくさんあって、信じるに足る人間でもあるのだと
「信じていたのになあ」
と父は言いました。
「悪い噂はたくさん聞いたけど、それでもいくらなんでもあんな……機会があれば盗れるものはぜんぶ盗るような、そんなつまらない人じゃないと思ってたんだよなあ」
 いつも楽しそうに晩酌をする父が、その日は顔をしかめながら酒を飲んでいました。

「おれはドウドウさんを」
一瞬言葉が途切れ、
「し、親友だと思っていたんだよなあ」
そう言った父の声は震えていました。
「そんなこと、一度も言えなかったけどさあ。大の男が、照れくさくって。でも」
 本当にそう思っていたんだ、と呟く声。
「入社したばかりの頃に、ドウドウさんとよく話したんだ。この会社はこのままじゃだめだって。おれたちが変えていこうって。あのときドウドウさんは、いずれおれが社長になって変えるって言ったんだよなあ。現地採用組のおれたちにはすごく難しいことだけどやってやるって。だからおれはそれを手伝うって約束したんだよ。なのになあ……」
 騙されていたのかなあと嘆く父を見ながら、私が考えていたのは別のことでした。

 信じていたのに騙されたと、父は言いました。
 だけどたぶん、それは違って。
 この人は信じていたからこそ騙されなかったのではないかと、私は父の顔を見ながら思いました。
 ドウドウさんの周りにいた大勢の人の中で父だけが、奪われも貶められもせず、お互いに助け合って長い月日を歩くことができたのです。
 実際に騙され謀られたのは父ではなく、ドウドウさんを悪し様に言っていた人たちなのです。

 自分はどうせ悪人だとそんな風に思っている人間でも、自分を素直に信じ評価してくれる人の前では真人間として振る舞う。
 そんなお話は 世の中にありますものね。
 おそらく父は無自覚に、ドウドウさんが本来こうありたいと思う自分になれる場所を提供したのではないでしょうか。
 ドウドウさんだって最初から、自分に可能なあらゆる不正を働くような人間になりたかったわけではないのでしょう。
 本当はもっと違ったこうありたい自分像があって、けれどもどうしてかそこから少しずつずれた生き方をするようになってしまって。
 今更こうなりたいという言葉を、誰も信じなくなってしまって。
 けれどたった一人、信じ続けた人間がいたのでしょう。
 だからこそドウドウさんは、その場所だけは失わないようにしたのではないでしょうか。

 

 信じる者がバカを見るとか言いますし、疑ってかかるほうが利口という考え方があり、人間なんて誰も信じられないとかおっしゃる方がいます。
 私は全て、正しいと思います。
 ドウドウさんの本質に近いのは、父や私が見た姿ではないのでしょう。
 どこまでも自分を守りたいのであれば、誰のことも信じずにいるのが賢いのでしょう。
 けれどやはり、私は人を信じたい。
 ドウドウさんのことを周りのみんなが父と同じように信じていれば、逆に誰も騙されなかったんじゃないかなんて、そんな風に夢見たくなってしまう時があるから。
 信じてうしなうものは数多いけれど、信じたからこそ得られるものも決して少なくないと、私はそう思いたいのです。

今更すぎるんですが「Fate/hollow ataraxia」はいいぞ

今年3月に「今更だなあ」と思いつつ「Fate/Grand Order」を始めたところすっかりはまってしまい、先日ついに人理を修復いたしました。
終章のストーリーに深く感動してしまい興奮さめやりませんので、「Fate/hollow ataraxia」の紹介をいたします。
「え、なんで? そこはクリアしたてのFGOの感想とかになるんじゃなくて?」
と思われる方もいらっしゃるかと思いますけれども、全くそのとおりですなあと私も思うのですけれども、しかしながら山ほどあるFateシリーズの中でも私が一番好きなのは「Fate/hollow ataraxia」なので、仕方ないのです。
そしてまた、FGOの終章で得た深い感動は、「Fate/hollow ataraxia」の感動になんだかひどく似ている気がしましたので、ここはぜひFGO大好きだけどhollow ataraxia 未プレイの方に
「だったら! やっとく! べきですよ!」
と声を大にして伝えておきたいと、余計な使命感にとらわれたわけです。
というわけで今回のエントリは、オタクが自分の好きな作品について語るときの声がちょっと甲高くなって早口になるあの感じで書いていきます。


「ところでそのhollow ataraxia ってなによ? stay night は知っているけど」
という方が多いかと思いますのでそこから説明いたします。
Fate/stay night」は本編にして原点でして、Fateシリーズをとりあえず知りたいという方は、stay night をやればいいわけです。それ以外の山ほどあるコンテンツは、そこから派生した外伝だったり並行世界だったりするわけなので、stay night がお気に召してもっと他にもFateが欲しいぞーとなったら手をだせばよろしい。
そしてその「もっとFate欲しいぞー」となったとき、じゃあ次に選ぶべきFateって何よとなったら、そこはあなたhollow ataraxia をやるべきなのですよ、というのが私の主張です。


hollow ataraxia はstay night の続編にしてファンディスクにあたる作品です。
と言ったらこの間友人に「ファンディスクってなに?」と訊かれて、オタクとそうじゃない人間との間の深い溝の存在を痛感したわけですが、皆様はファンディスクとは何かご存知ですよね? ご存知ないならググってください。
stay night プレイ済の方ならわかってもらえるかと思いますけれども、あれは聖杯をめぐって行われる「戦争」の話ですので、登場人物はばんばん死にます。ルートによって生存者の顔ぶれは変わりますけれども、とにかく魅力的なキャラクターが景気良く散っていくお話です。
だからなのでしょうか。どのルートの後日談という設定にしても人気キャラが大勢脱落済みとなり、ファンへのサービス精神に欠けてしまうということなのか、本編の半年後という設定のhollow ataraxia の世界ではほとんどのキャラクターが生存した状態で物語が幕を開けます。
なにそれおかしいじゃんどういうことよ、とここでまず初プレイ時の私は思ったわけですが、シナリオの中でも主人公あたりが同じ疑問を抱いて事態の解明に乗り出していくのです。


本編であるstay night がぴりぴりと緊迫した死と生の間をぎりぎり綱渡りしていくような話であるのに対し、hollow ataraxia はひたすら穏やかで明るくコミカルな雰囲気で話が進みます。
私はこの本編との落差に最初は戸惑ったのですが、この穏やかで明るい物語が本当に楽しいので、シリアスに死んでいったはずのキャラクターが見せる日常の顔があまりにも魅力的なので、いつしかギャップなど気にせずニコニコとえびす顔でhollow ataraxia 世界を満喫することとなったのでした。
と言いつつもそれはあくまで「昼」のお話で、舞台が「夜」となりますと一転します。
なぜいないはずの人々がいるのか?
そしてなぜ物語は同じ四日間を何度も繰り返し、その四日間に起こり得た可能性をすべて塗りつぶすようにして進んでいくのか?
という謎が不穏な空気を孕みながら迫ってくるのです。


さて、このhollow ataraxia の魅力を語るにあたってですね、昼と夜、コメディとシリアスなパートが双方それぞれの魅力に溢れて面白いですとか、キャラクターの新たな側面が見られるのが楽しく嬉しいですとか、伏線とその回収が見事とか、誉め言葉はいくらでも出てきます。
出てきますけれども、私がこのゲームで衝撃を受けたのはそこではないんです。


あのですね。
ゲームに限らず、「物語」というものは、読み手の感情移入を促すべく、いろいろ仕掛けられているものですけれども。
特にゲームにおいてはプレイヤーが主人公を操作することになりますから、そこの一体感を生むための工夫がキモになったりしますよね。
有名どころですと、ドラクエの主人公がしゃべらないってのがそうだったりしますよね。
あとは、主人公が記憶喪失とか、突然わけのわからない世界に飛ばされてとか、そういう設定も感情移入に効果的ですよね。プレイヤーと主人公、双方が世界や設定に無知だからこそ、共に学習していくことで一体感が生まれる。
私もこれまで、いろんなゲームの工夫に助けられて、たくさんの主人公に感情移入してきました。
hollow ataraxia にも、同じような仕掛けがあります。主人公とプレイヤーの一体感を生む仕掛けが。
けれどこの仕掛けは、私にとっては生まれて初めての衝撃を伴うものでした。


ネタバレを避けるためなんだか曖昧な語り口になってしまって申し訳ないんですけれども。
私が今までしてきた感情移入というのは、自分が主人公のような気持ちになって、主人公を動かすというものでした。
それが、hollow ataraxia では逆なのです。
冒頭からずっと私は、ゲームをどっぷり楽しみつつもほどほどの感情移入をしていました。
自分と同一視、一体感を覚えるほどではなく、親しい友人ほどの距離感で主人公の行動を眺めていたのです。
ところが物語がかなり進行したあるシーンで、突然その前提がひっくり返されたのです。
殺伐とした本編とは違う、平穏で明るくてちょっと退屈な日常シーンを私は「もっと見たい」と思いながらプレイを続けていました。
けれどそのシーンで私よりもずっとずっと強く、その願いをいだいていた人がいることを知ったのです。
穏やかな何気ない些事を、楽しくて明るいやりとりを、ひりつくように欲していた人がいて、その願いこそがこの物語を生み出し、終わらない四日間を回していたのだと知らされたのです。
本当に、あのときの気持ちをどう言えばいいのか。
私はあの瞬間、
「ああ、この人はプレイヤーである私よりもずっと『プレイヤー』だ」
と思ったのです。
私はそれまで、物語を進めるも止めるも自分次第であると、考えていました。当然です。私がプレイヤーなのですから。
だけどそれは違うんだ、と私は愕然としました。
逆だ。
誰よりも苛烈にhollow ataraxia という物語を欲した「この人」が、私を操作してこのゲームをプレイしているんじゃないかと、そんな風に感じたのです。
繰り返される終わらない四日間は、「この人」にとって唯一の救済であり、その救済のために私が動かされているんだと。


そのことに気づいた時、私はこのゲームを「終わらせたくない」と思いました。
この先何度同じことを繰り返すとしても、そうすることで全てが退屈に変わり輝きがうしなわれることになるとしても。
それでもこのゲームを終わらせたくない。「この人」は救済されるべきだ。誰よりもそれを求める権利がある。私よりもずっと、「この人」の思いこそが優先されるべきだ、と。
けれど私がそう思い始めてから物語は、どんどん終盤へと向かっていくのです。
救われ、許され、認められるべき「その人」は、それでも他者のために物語を終わらせようと動き始めるのです。
hollow ataraxia をプレイしていた最後の二十分間ほど、私はずっと泣いていました。
鼻をすすり、ぼろぼろ涙を流し、ティッシュとゴミ箱を抱え込むようにしたみっともない姿で、手を動かし続けました。
終わらせたくないと、私は思っているけれども。
「この人」は終わらせるべきだと、考えたのだ。
ならば終わらせるしかない、「この人」こそがプレイヤーなのだから。
たとえそれが「この人」にとって痛みと喪失を伴う、耐え難い出来事であるとしても。そのような思いをしてほしくないと、私が願っているとしても。


大好きなゲームをプレイして、終わるのが悲しくて、クリアしたあとの達成感を味わいながらもさみしい思いを味わってという経験は、それなりにしています。
主人公と自分を重ね合わせて物語世界に引き込まれたこともあります。
けれど、あんな気持ちになったゲームは「Fate/hollow ataraxia」だけです。


今でも「Fate/hollow ataraxia」のことを思い出すと、胸の奥がかすかに痛みます。
救済されるべきだと感じた、本当はもっと与えられるべきだった「あの人」が、「これでもういい」と決意した尊さ。
物語が大団円となったときの晴れやかな喜びの中に満ちていた悲しさ。
というわけで本当に皆様には、「Fate/hollow ataraxia」をプレイしていただきたいと思うのです。
むしろ「Fate/hollow ataraxia」を楽しむために本編である「Fate/stay night」を押さえてほしいとすら思うのです。


そんな「Fate/hollow ataraxia」はPC版発売が2005年となんと10年以上前のゲームでして、しかもWindows Vista以降のOSですとパッチをダウンロードしないとプレイできないという状態が長らく続いておりましたので、
「名作なんだけどこの状況ではにものすごく薦めづらい……」
と思って全然人に紹介せずにいたわけなんですが、聞きましたか奥様、2014年にPS Vita版が発売になったんですわよ!
もうこれでお気軽に楽しめるようになったわけですわ!
PC版と違って18禁シーンがなくなってしまっているみたいですけれども、「Fate/stay night」の頃からエロシーンはなくても問題ないストーリーですから、もうそれでいいんじゃないですかね、なんかフルボイスになってるっていうし。
FGOからFate始めた方とか、アニメ版一通り押さえてstay night は知っているけれどhollow ataraxia 知らない方、ぜひぜひ「Fate/hollow ataraxia」を騙されたと思ってやってみてほしいんですよお願いしますよ。